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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −瓊玉の巻−
132/192

二年孟秋 寒蟬鳴 3



 落ちるように眠ってしまった月季がちゃんと息をしているか念のため確かめると、医官に後を任せて壮哲は昊尚と執務室に戻った。

 もう夜も遅いが縹公を呼びに行かせた。ことは急を要する。

 と言うのも、朱国の武恵からの派兵要請は既に蒼国に届いており、もう援軍は出発した後だからだ。葛将軍を主軸とした特別編成の軍は朝には紅国と合流して朱国寧豊付近に着くだろう。


「この時間に急な呼び出しとは何事ですかな」


 やって来た縹公が聞いた。


「葛将軍は今どの辺りだろうか。伝令を出して欲しい」


 そう言って壮哲は、執務机の前に立った縹公に書状を差し出した。


「これを急ぎ葛将軍へ」


 縹公を待つ間に壮哲自ら(したた)めたものだ。


「内容は何でしょう」


 書状を受け取りながら縹公が聞く。


「確認を」


 壮哲が促すと、縹公が書状を広げて文字を目で追う。縹公の顔が徐々に厳しいものになる。

 それには、黄翁の正体は辛受叔という道士だということと、敵側には土螻(どろう)などの怪物や黯禺がいるから安易に攻めることは避け、紅国と連携の上、対策が決まるまでは積極的な動きはしないようにという旨が書かれていた。

 縹公は書状から険しい顔を上げた。


「この情報は確かですか?」


 壮哲が頷く。


「芳公主自身が朱国へ行って確認したことだ。そのことは紅国にも知らせているはずだ」


 それを聞いて縹公は更に眉間に深い皺を刻むと、書状を畳んだ。そして、


「承知いたしました。急ぎ葛将軍に渡るように手配いたします」


 そう言って一礼すると壮哲の執務室を後にした。

 縹公が出ていくのを見届けると、壮哲は大きく息を吐きながら椅子の背にもたれた。


「取り急ぎ動きは止められそうだが、全く根本的な解決にはなっていないな……。さあ……どうすべきか」


 壮哲は机に両肘をついて手を組んだ。昊尚も難しい顔をして頷く。

 すると、退勤したばかりだったところを呼び戻された英賢が入って来た。


「お待たせしました」

「いや。帰ったばかりのところをすまない」


 壮哲が英賢の背後にちらりと視線を送ると、英賢がそれに気付いて言った。


「理淑は直接太医署に行きました。月季殿についているはずです」

「そうか。申し訳ない」


 壮哲がほっと息を吐く。

 壮哲は英賢に遣いを出した際に、理淑にも怪我をした月季の世話をしてくれるよう伝言をしていた。理淑についていてもらえば月季も安心するだろうと考えたからだ。


「それで、何があったんですか?」


 英賢が壮哲の執務机の前にある卓に着くと、伝令の手配のため一旦退出した縹公が戻って来た。

「手配はできました。寧豊に着く前に葛将軍に追いつけるはずです」


 そう言うと、英賢に倣って縹公も卓に着く。


「碧公も揃ったところでちょうど良かった。さて、何があったのか聞かせていただけますか」


 最優先して行うべきことを済ませた縹公が、送り出したばかりの朱国への援軍に伝令を送るに至った経緯の説明を要求する。

 昊尚は壮哲が頷くのを確認すると話し始めた。


「芳公主からまだ詳しいことを聞き取っていないのですが」


 そう前置きをして、月季が昨日蒼国に来たあと護衛一人だけを連れて朱国に行き、土螻に襲われて怪我をしたらしいこと、どうやらその過程で黯禺もいる事を知り、その情報を持って紅国へ帰る途中で体調を崩したため、その護衛が壮哲へ助けを求めて来たことを話した。

 それを聞いて縹公が感嘆とも唖然ともつかない溜息を吐く。


「何と無茶をされる公主君(ひめぎみ)ですな」

「流石お血筋、と言うべきなのかな……」


 理淑という平気で無茶をする妹を持つ英賢も困惑の余り唸る。なお、血筋云々は慧喬ではなく父方のことを言っているらしい。


「……で、芳公主は大丈夫なのですか」


 縹公が改めて壮哲に聞く。


「恐らくは。傷自体はそれほど大きなものではないようだった。毒に侵されていた可能性もあったが、文始先生の解毒剤を飲んだようなのでそれ自体は心配ないと思う。まあ、あの行動を考えると眠っていないようだったから、相当体力は消耗しているようだが」


 壮哲が話すのをじっと見ながら、そうですか、と縹公が心配そうに顔をしかめる。

 長い指を口元に当てて考えていた英賢が呟く。


「月季殿は武恵様がご無事だということは知らなかったんだね」


 それには昊尚が答える。


「恐らくそうでしょう。派兵の要請があったことを知らなかったからこそ、急ぎ戻って黯禺のことを知らせようとしたのではないかと」


 単独行動によるツケが回ったとも言える。

 一旦話が途切れたところで昊尚が本題へと入る。


「では芳公主が持ってきた情報を踏まえて、ここまでの状況を確認します」


 昊尚が、同意を求めるように一同を見回すと、それぞれが頷く。


二月(ふたつき)程前になりますが、玄海の中にある集落が、何者かに操られているかのような土螻に襲われたということがありました」


 謐の郷についての詳しい情報は英賢と縹公には伏せており、単に玄海の中にある集落と言うに留めてある。


「土螻をけしかけた人物として、長古利に人を操る術を教えた辛受叔が疑われました。しかし、受叔の行方は知れず、本当に土螻を操っていたという証拠もありませんでした。また一方で、最近玄海では大型動物や怪物が減っており、一体確認されていた黯禺も消息がわからなくなっていました」


 昊尚が淡々と言葉を並べる。


「そして先日、朱国の宮城が黄翁という道士らに占拠されました。芳公主により、その黄翁は受叔で、更に土螻などの怪物や黯禺までもいる、ということがわかりました。それを受けて、つい先程、縹公に葛将軍へ攻撃を始めないで待機するようにという伝令を送っていただいたところです」


 そこで昊尚は一旦言葉を切って大きく息を吐くと言った。


「そして問題は、送り出した援軍にどのような対処を指示するかということですが……」


 眉を顰めて聞いていた英賢が長い指をこめかみに当てて聞く。


「その朱国にいた土螻や黯禺は玄海からいなくなっていたものたちなんだよね?」

「そういう事だと思われます」


 昊尚が答える。


「じゃあ、黄翁は黯禺も操ることができるという事なのか?」


 縹公が厳しい顔をして聞く。


「そうですね……。そう考えて然るべきかと。黄翁は黄朋……人の軍勢を率いながら黯禺も連れている。ということは、少なくとも黯禺がそれらの人を襲わないように制御ができているということでしょう」

「信じられん……」


 縹公が首を振り長く息を吐く。


「どうやって玄海から朱国へそんなものを連れて行ったのだろう……」


 英賢がこめかみを指で押しながら呟く。


「黄翁が広北県を拠点に勢力を広めていったというのも必然だったのでしょうね。朱国で玄海に一番近い地域ですから」


 室内に重い沈黙が下りる。


「実際問題として、勝算はあると思うか?」


 壮哲が言うと縹公も頷いて玄海に詳しい知識を持つ昊尚を見る。


「一般的に玄海の動物や怪物は、聴覚はほとんどありません。その代わり夜目が非常によく利くので暗闇での戦闘となると、こちらには不利でしょう。しかし逆に光には弱いはずなので、明るい場所ならばこちらに利が生まれることもあるはずです」

「なるほど。私も玄海でではないが土螻なら以前退治したことがあるぞ。土螻なら暗闇でなければ仕留められるだろう。……しかし黯禺となると、実物も見たことがないな……」


 縹公が険しい顔で腕を組む。


「ご承知の通り、黯禺は厄介です。奴にはそもそも聴覚も視覚もありません。しかし人の心を読みますので隠れてもそれを察知すると即座に襲って来ます。非常に動きが早く、鋭い爪に傷つけられると毒に侵されます。黯禺を仕留めたとしても、その血にも猛毒が含まれていますので、返り血を浴びれば甚だ危険です」


 実際に昊尚は黯禺の爪で掻かれて死にかけたことがある。


「ならば矢で仕留めれば良いのではないか」


 縹公の提案に昊尚が残念そうに言った。


「……通常の矢ではあの剛い毛を通さないでしょう」


 全身を覆う針のような毛は頑丈な鎧の役割をする。


「何と。厄介だな」


 縹公が卓に肘をついて唸り、そうだ、と手を叩く。


「大砲を使ったらどうだ」

「……黯禺の息の根を止めることはできるかもしれませんが、その体や血が飛び散る様を考えると恐ろしいですね……。前例を知らないのでどう汚染が広がるのか、賭けですね……」


 昊尚が首を振る。


「となると、接近して返り血を浴びないように始末するしかないということか……」


 壮哲が呟く。

 室内に沈黙が降りる。

 その沈黙を破ったのは昊尚の静かな声だった。


「……黯禺に近づくには、どうしても思考を遮断しておく必要があるわけです。紅国は黯禺の玄海の外での出現の可能性を憂慮していた程でしたから、その対策は立てているはずです。恐らく、思考を遮断するための玄亀の石も用意しているのではないかと。しかし、玄亀の石はそう多く用意できるようなものではありません。……ですから、玄亀の石がなくても黯禺に思考を読まれることのない私を朱国へ行かせていただけませんか」


 昊尚の発言に壮哲は苦いものを噛んだような表情で見返した。


 確かに昊尚の言う事はもっともではある。だが。


「しかし藍公は軍の人間ではないだろう」


 縹公も難しい顔をする。英賢は心配そうに成り行きを見守る。


「縹公でも黯禺を見たことがないというのでしたら、恐らく蒼国の軍では誰も黯禺とは出会ったことがないでしょう。紅国からは大雅……皇太子も出てくると思います。ならば私が行かないわけにはいきません」

「しかしな……」

「いざとなれば万一の場合は文始先生の黯禺の解毒剤もあります」


 昊尚が被せるように言う。


「黯禺を相手にするならば、黯禺に対抗できる人間が一人でも多くいるべきです」


 壮哲が昊尚を申し訳ないようなもどかしいような複雑な顔で見返す。


「本音を言えば討伐には私が行きたいんだが……」


 禁軍では一騎当千と言われた根っからの武人である壮哲としてみれば、自身が何もできないこの状況は歯痒いのだ。


「……まあ陛下は大人しく蒼国に居てください。蒼国を守るのが陛下のお役目です。……冷たい言いようですが、これは今のところあくまでも朱国の問題です。累が他に及ばないよう、問題が朱国に留まっているうちに決着をつけなくてはなりません」


 昊尚が言った。







「入るぞ」


 会議を一旦終えた後、壮哲が声を掛けて太医署の月季のいる部屋へ入る。


「壮哲様」


 理淑が立ち上がった。


「どうだ?」


 声を掛けて、壮哲が寝台に近づく。月季の瞼は依然として閉じたままだ。


「時々目を辛そうに開けるんですけど、直ぐまた眠ってしまいます。……あと、さっきまでは凄く寒そうにしてたのに、今は暑そう」


 そう言って理淑は、濡らした手巾で眉間に皺を寄せたまま眠る月季の額を拭いた。

 確かに、太医署へ連れて来たときには真っ白で血の気のなかった頰が、今は上気している。


「そうか。……すまないな。こんな事を頼んで」


 理淑に言うと、ふるふる、と首を振った。


「いえ。知らせてくださってありがとうございます」


 理淑が手巾を持っていない手で月季の手を握り、その顔を見ながら言う。


「月季殿ったら、私には周りが心配するから怪我するなって言ったんですよ」

「……そうか」


 月季の顔を見ながら壮哲が呟く。そんな壮哲を理淑はちらりと窺うと、そうだ、と思いついたように立ち上がった。


「壮哲様、申し訳ないんですけど、ちょっとだけ見ててもらっていいですか? お水代えてきたいので」


 理淑は水の入った手桶を見せながら言うと、部屋を出て行った。


 理淑を見送ると、残された壮哲は寝台の上の月季に視線を戻した。

 いつもの美しい顔は、眉間に溝が刻まれて苦しげに見えた。壮哲は思わず親指で眉間に触れた。すると、眉間が緩んで少しだけ穏やかな顔になった。

 そのまま指の背で秀でた額に触れる。指に伝わる熱はまだ高い。

 壮哲は触れた指を離すと、月季の顔を見つめながら大きく溜息を吐いた。




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