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異聞蒼国青史  作者: おがた史
宗鳳の記 −瓊玉の巻−
129/192

二年孟秋 白露降 6



 先ほどの黄翁たちの会話の意味を考えながら西へ進んでいると、月季は異様な臭いに思わず立ち止まった。

 その臭いの正体に対する心当たりに月季の鼓動が早くなる。

 場所を確認すると王の私室のある永賀殿だ。

 宮城が占拠されたというのに、今まで争った跡をほとんど目にしなかったが、ここにはあるようだ。


 武恵殿はどうなったのだろうか。


 警戒しながら月季は半分開いていた門から前庭を覗き、月季は思わず口元を押さえた。


「う……」 


 喉の奥が引きつり吐きそうになる。

 そこには兵士たちの遺体が折り重なるように放置されていた。その遺体の幾つかは腹から(はらわた)が引きずり出され、既に腐敗しているようだ。

 そしてそれらにはどれも頭部が無かった。


「これは……」


 月季の後ろから覗く忠全も声を失う。

 月季は必死で吐き気を(こら)えた。頭の奥が凍ったようにじんじんと痺れてくる。

 痺れた頭の中でこの光景の原因を確信した。


 この遺体の状態。

 間違いない。


 黯禺がいる。


 頭部を持たない黯禺は狩った獲物の頭を蒐集するという。どこかにこれらの遺体の頭が集められているのだろう。

 想像して胃液が逆流しそうになるのを耐えると、月季は声を絞り出すように言った。


「……行くわよ」

「ですが……」


 忠全が躊躇う。

 月季は首に掛けた紐の先をぎゅっと握った。

 月季自身は大雅が文始先生と玄海で焼いてきた玄亀の石を持たされている。しかし忠全は持っていない。だから本当ならここには、万が一を考えて一人で来るつもりたったのだ。

 もし襲われた場合、自分一人で黯禺から他人を守ってやれる自信がない。

 無惨な姿で放置されている兵士たちに心が痛むが、この状態ではここに武恵が無事でいる可能性もないだろう。早くここから離れよう。

 月季が門の中から見える光景に背を向けた時、ふと忠全が何かに気づいたように身構えた。


「月季様、何か聞こえませんか?」


 忠全が声を潜めた。

 ぎくりとして月季も振り返って辺りを確認する。


「……子どもの泣き声のような……」


 忠全が眉を顰めて呟く。

 耳を澄ませてみると微かだが確かに何か聞こえる。言われてみれば子どもの声のようだ。

 だがそれは途切れ途切れで余りにも細く息絶えそうだ。


「あそこに……!」


 忠全が正殿の脇の建物の方向を指差した。

 目を凝らすと格子の隙間から人の顔が見えた。小さな子どものようだ。


「どうしてこんなところに……」


 忠全は呟くと、見てきます、と服の下に隠し持った剣を取り出しながら脇殿へ向かった。


 子ども? 


 微かに届く子どもの泣き声に、月季は首筋をざらりと撫でられるような感覚に陥る。月季の背筋がぞくりと怖気立った。


 武恵殿にお子はいなかったはず。


 月季の中で警鐘が鳴る。

 忠全が扉に手をかけた。


「……忠全! 開けては駄目!」


 月季が叫んだ。しかし、忠全の動きを止めるのには間に合わなかった。少し開いた隙間を押し広げるようにして扉が開いた。


「うわっ!!」


 忠全に向かって何かが飛び出してきた。

 それはどう見ても異質なものだった。

 羊のような体だが、頭は人の子どもの顔のように見える。しかし血走った眼が前脚の付け根あたりにある。そして虎のような牙を持つ口からは、子どもの泣き声のような音が漏れていた。


 恐らく狍鴞(ほうきょう)だ。


 月季が舌打ちをする。


 どうしてこんなところに。


 格子窓の隙間から子どもの顔のように見えたのは狍鴞の頭だったのだ。


「くそっ!!」


 忠全が狍鴞の下で呻く。

 飛び出してきた狍鴞にのし掛かかられ、腕が狍鴞の脚に押さえ込まれて手にした剣が使えないようだ。

 狍鴞が大きく口を開き、涎が滴った。

 月季は躊躇する間もなく剣を引き抜きながら駆け、狍鴞の首を横から渾身の力を込めて剣を突き刺した。狍鴞が子どもの叫び声のような咆哮をあげながら横によろけた隙に忠全が剣を持ち直し、狍鴞を下から刺すと緑色の血が吹き出した。

 狍鴞がどさりと倒れると、忠全が緑色の血を拭いながら、立ち上がりざま青い顔で月季を振り返った。


「……申し訳ありません……! お怪我は……!」

「ないわ。それより早くその扉を……!」


 月季は剣についた緑色の血をを払いながら戸口に向かう。


 中にいるかもしれない何かが飛び出してくる前に扉を閉めなくては。


 剣を構えながら戸口に近づくと、入り口から僅かに差し込む光で室内が見えた。中は静かなまま、動くものは見当たらない。

 扉に手をかけたまま中を覗く。そこには虎や熊のような大型の獣らしきものが何頭も倒れたように転がっていた。動かないそれらは死体のようにも見える。

 眉を顰める月季の背後で忠全の抑えた声が上がった。


「月季様……!」


 扉を閉めて振り向くと、剣を構えた忠全の背中が見えた。

 忠全の視線の先に見慣れない獣がいた。

 四本の大きな角を持つ山羊のような獣。土螻(どろう)だ。

 月季がごくりと息を呑む。

 四本の長く鋭い角は見るからに凶器だ。人を喰らうという耳まで裂けた口からは涎がだらしなく垂れている。

 月季たちがいる脇殿の向かい側の対の建物から出てきたようで、鼻をひくひくさせながら無惨に折り重なる兵士たちの遺体の方へと向かっている。

 遺体の腑が出ていたのは土螻のせいだったか、と月季の顔が嫌悪で歪む。

 月季を庇うように前に立つと、忠全が前を向いたまま抑えた声で言った。


「月季様。私があれを引きつけますので、その間にお逃げください」

「馬鹿なの?」


 月季が吐き捨てる。

 そんなことできるわけがない。

 うろうろとする土螻の頭が月季たちの方へ向いた。忠全の肩が緊張でびくりと動く。しかし、土螻はふいと向きを変えてそのまま鼻づらを突っ込んで遺体を漁っている。

 月季は吐き気を覚えながらも土螻から目を離さず考えを整理した。

 謐の郷が土螻に襲われた。物証はないが襲わせたのは辛受叔だろうと考えている。

 その受叔が黄翁だとういうことがわかった。そして玄海では怪物たちの数が減っていた。

 これらを合わせて推測すると、先ほどの狍鴞や目の前の土螻も、受叔が玄海から連れ出した怪物なのではないか。


 月季は注意深く土螻を観察した。


 音のない玄海に棲む獣たちの耳は退化していて、ほとんど聴覚はないと聞いた。しかし目は暗闇でもものが見えるようになっているらしい。その代わり光には弱い。ということは、この陽の光の下では、あの土螻はよく見えていないのではないか。

 先ほどの狍鴞も、脚の付け根についていた眼は、この昼間の明るさのせいでよく見えていなかったのではないだろうか。お陰で月季が横から攻撃したのにも気づき辛かった可能性がある。


 月季は少し考えて深呼吸をすると、手を打って音を鳴らした。


 忠全がびくりとする。

 しかしその音に土螻は反応しなかった。

 月季は息を吐くと忠全に言った。


「……あいつ、多分玄海にいた土螻だわ。耳は聞こえてないみたいだから。そうなると目は昼間は眩しくてあまり見えていないはずよ」


 忠全が、なるほど、と前を向きながら呟く。


 このまま門まで気付かれずにたどり着けないだろうか。


 この状況からしていつ黯禺が出てきてもおかしくない。だからできれば戦わずに速やかにここから離れたい。


「このまま行くわよ」


 月季は門へ向かってそろりと移動を試みた。

 しかしそう甘くはなかった。

 土螻は不意に遺体を漁っていた鼻先を上げて月季たちの方にひくつかせると、突然勢いよく向かって来た。

 忠全が月季の前に飛び出し、間近に迫った土螻に向かって剣を振り下ろす。しかし、土螻は眩しさで狙いが定まらないせいなのか、動きが大きく闇雲に四本の角を振り回しているように見えた。振り下ろした忠全の剣が角に跳ね返される。 


「うっ!!」


 再び振り下ろした忠全の剣が土螻の四本の角の間に嵌まり込む。密集して生える金属のように硬い角に剣が絡め取られ、動きが取れなくなった。

 そこへもう一頭、建物の陰からのそりと土螻が現れた。そしてゆっくりと近づいてきた。

 月季は舌打ちをすると、落ちていた瓦礫を掴み、土螻へと近づき投げつけた。投げつけた瓦礫が土螻の角に当たると、土螻が怒ったように後脚で立ち上がった。月季はすかさずその下に転がり込むと、その勢いのまま急所である喉元に向けて剣を突き刺した。土螻が断末魔の叫びをあげて月季の方へと倒れこんでくる。月季は深く刺さった剣をそのままにして飛び退いた。

 振り返ると、忠全は剣を四本の角で絡め取った土螻と対峙し、引くも押すもできない状態のままだった。

 加勢しようと、月季が倒した土螻から刺した剣を抜こうとするが、がっちりとはまり込んで抜けない。

 月季は近くにあった遺体の腰の剣を鞘から引き抜き、忠全と格闘していた土螻に向かった。そして土螻の横に回り込むと首に剣を突き刺した。しかし、刺されて暴れた拍子に忠全の剣から解放された土螻が大きく首を振り、その勢いで月季の刺した剣がばきりと折れた。

 狂ったように暴れる土螻の長い角が月季を振り飛ばす。

 剣が角から外れ、自由に動けるようになった忠全がもがく土螻の首を一太刀で落とした。


「月季様!」


 土螻が動かなくなったのを確認すると、土螻の角で弾き飛ばされた月季に忠全が駆け寄った。

 月季が左側を庇いながら起き上がるのを見て、忠全が顔色を変える。


「血が……!」


 月季が押さえた左腕は布地が裂けて赤い血が流れていた。


「これくらい大丈夫よ」


 月季が言う。土螻に振り飛ばされるときにその角が当たったのだろう。


「……それよりあっちに刺さったままの剣を抜いてきてくれる?」


 土螻の喉元に刺して抜けなかった剣の回収を忠全に指示した。

 やはり自分の剣でないと思うようには動けない、と月季が傷口を見て顔を歪める。

 忠全は倒れている土螻に足をかけて刺さったままの月季の剣を引き抜くと、慌てて青い顔で戻ってきた。

 月季は差し出された剣を鞘に収めると、鞘につけている慧喬の瞳の色に似た琥珀の飾りを見た。苛立った心を落ち着けるように大きく息を吐く。


 早く陛下に報告しないと。


 そしてきゅっと唇を結ぶと立ち上がり、おろおろとしている忠全に言った。


「行くわよ」


 月季は腕を押さえながら足を早める。


「……申し訳ありません。お守りするなどと言っておきながら……。子どもの声だなんて私が余計なことをしようとしたばかりに……」


 忠全が泣きそうな顔で月季を追いながら言う。


「済んだことは仕方ないわ。だから静かにしてて」


 月季が低い声で言った。その声が忠全を益々落ち込ませたのに気付いたが、今の月季にはそれを気遣う余裕はなかった。

 月季は自分の不甲斐なさに腹を立てていた。


 狍鴞は赤ん坊が泣くような声を出すと聞いていたが、あの狍鴞は赤ん坊というよりも子どもの声で、勢いもなく小さかった。だから狍鴞だと始め気づかなかった。

 黄翁が受叔だと分かった時点で、玄海から姿を消した怪物たちもここにいることは予想できたのに。


 月季は唇を噛んだ。


 やはり受叔は玄海の怪物たちに言うことをきかせるができるのだろう。それらを使って宮城を落としたのだ。

 恐れていたとおり黯禺までいる。黯禺まで操ることができるということなのか。

 先ほどのあの土螻たちも、もしかしたら受叔に操られていたのかもしれない。

 そうでないとしても、どのみち侵入者があったことは土螻たちの死骸を見れば気付く。ぐずぐずしていたら追っ手が来るだろう。

 黄翁……受叔は、決して陽豊門の演説で民にそう思わせたような慈悲深い人物などではないだろう。

 とにかく早くここから出よう。そして帰らなくては。


 歩幅が大きくなる。


 ”コウコク”


 不意に先刻聞いた黄翁の声が耳に蘇る。

 月季は焦る気持ちに苛まれながら門へと向かった。



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