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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −瓊玉の巻−
123/192

二年季夏 大雨時行 6



「芳公主」


 宮城の門を出て、皇城へ入ろうとしたところで呼ばれて月季が振り返ると、黒ずくめの背の高い男が大股で歩いて来るのが見えた。


「秀太子……」


 無愛想な顔を見て、一瞬、月季の眉根が寄る。

 月季は騎駿の切れ長の冷たい目が苦手だった。一見冷たく見える昊尚の目とは違う。


「ご無沙汰しております」


 立ち止まった月季の前まで来ると、騎駿が言った。


「……こちらこそ。ご無沙汰をしております」


 今まで騎駿に、こんな風に呼び止めてまで話しかけられたことはない。警戒しながら、月季も言葉を返す。


「お急ぎでしたか?」


 そう言いつつも、それを気にする様子は騎駿に見られない。


「ええ。そうですね。何かご用件でも?」


 月季がにこりともせずに言うと、挑むように騎駿が月季を真っ直ぐに見た。


「はい。実は芳公主にお願いがあって参りました」

「何でしょうか」


 月季の眉間が緊張する。眉間に皺が寄らないように注意が必要だ。


「私の妃になっていただけないでしょうか」


 騎駿の口から出た言葉に月季が固まる。

 字面は頭の中に残っているが、その意味が入ってこない。


 聞き間違い?


 我慢していた月季の眉間に、つい溝ができる。それを見て騎駿が言う。


「聞こえませんでしたか。私の妃になっていただけないでしょうか、と申し上げたのです」


 月季は過去に騎駿と何度か顔を合わせたことがあるが、親しく話をしたことはない。その不機嫌そうな目で観察するように見られていた記憶のみだ。何か言いたいことでもあるのか、と騎駿を睨み返したことはある。

 文句を言われることはあっても、求婚されるような覚えはない。


 騎駿が口にした台詞には何か別の意味があるのだろうか。


 まじまじと騎駿の顔を見て月季が口を開く。


「……おっしゃっている意味がよくわからないのですが」


 無意識に低くなった冷たい月季の声にも騎駿は全く動じない。


「そのままの意味ですが」


 溜息混じりの騎駿の返答に、月季の琥珀色の瞳の温度がすうっと下がる。

 騎駿は自分がいつも不機嫌な顔をしているせいか、相手の機嫌を損ねた顔にも無頓着のようだ。

 気にせずに騎駿が話を続ける。


「武神である玄天上帝の加護を受ける我が墨国の王妃には、武芸に優れた芳公主が相応しい。是非、私の妃となる事をご承諾いただけないでしょうか」


 騎駿がゆっくりと噛んで含めるように言った。

 言い方が癇に障るが、三度目にして漸く月季は、騎駿が本当に自分へ婚姻を申し込んでいることを理解した。

 理解はしたが、月季が騎駿に向ける眼差しに熱が宿ることはない。

 求婚の場面であるはずなのに、対峙するその二人の間には全く温度がない。月季も月季だが、騎駿も求婚しているとは思えない熱量の少なさだ。氷点の黒太子という渾名は伊達ではない。

 通りがかった皇城の職員たちが、何事かと遠巻きに見ている。

 心の中で舌打ちをしながら、声の温度と音量を下げて月季が言う。


「今のは聞かなかったことにします」


 騎駿が僅かに首を傾げて聞く。


「何故ですか」

「そもそもこんな風に突然直接申し入れること自体、礼儀に反しています」

「では手順を踏めばお受けいただけるということですね?」


 腕を組んで騎駿が揚げ足をとるように言う。

 どう見ても求婚している態度ではない。


「そういう意味ではありません。私の気持ちを言ってもよろしければお答えします。貴方の妃になる気は全くありません」


 負けていない月季が苛立ちを抑えながら低い声で切り捨てると、騎駿が淡々と説教でもするような口調で言う。


「貴女が私に好意を持っていないのは承知しています。しかし、国を治める立場の人間としては、そのような感情はさして重要ではありません」


 怪訝な顔をする月季に目を細めながら騎駿が続ける。


「婚姻は国を治め、存続させるための手段の一つです。貴女も公主ならばお分かりでしょう」


 婚姻に抵抗してはいるが、月季とてそのこと自体は分かっている。

 しかし、今、その手段を用いようとしているのは墨国の方だ。紅国ではない。


「それは墨国(そちら)の都合でしょう。我が国がその手段をとるかどうかを判断するのは、我が国の(あるじ)です」


 月季が言うと、騎駿が頷く。


「先ほど芳太子に、貴女にその気がなければ紅国の陛下も承知しないだろうと言われました」

「ならば結論は明らかです。先ほども申し上げましたが、私にその気はありません」

「そう結論を急がないでください。だから私は貴女に交渉をしに来たのです」


 騎駿が交渉という言葉を使ったことに、月季の瞳に困惑の色が混じる。


「貴女は他からの婚姻の申し入れも全て断り続けていると聞いています。男がお嫌いなのでしょう」


 絶世の美貌を持ちながら、常に慧喬の脇に護衛として控え、公主として着飾ることも好まず、目が合ってもにこりともしない月季は、騎駿にはそう見えたようだ。

 月季としてはそういうつもりではないが、親切に訂正してやることはない。月季は黙って聞き流すことにする。

 少なくとも貴方のことは嫌いだし、と心の中で呟く。


「私は気にしません。要は紅国の公主が我が国に嫁いだという事実が重要なのです。公の場で妃の役割を果たしてくれさえすれば、好きなようにしてくれて結構です。貴女の望むことはできる限り叶えましょう。(ねや)を共にしたくないのであればそれでもかまいません。子は他で成します」


 淡々と話すが、その内容はなかなかに歪んでいる。

 黙って聞いている月季の眉間に益々深い溝ができる。


「その方が私も気が楽ですし」


 そう付け足した騎駿を冷たく見ながら、やはりこの男は嫌いだ、と月季が改めて思う。


「お断りします」


 月季から辺りの温度が下がるほどの声が出たが、騎駿は気にしない。


「貴女にとって悪い条件ではないと思いますよ。貴女は他人を好きにはならないのでしょう。私もそうですから気持ちはよくわかります」

「貴方と一緒にしないでください」


 月季が騎駿を睨むと、切れ長の目を尚も細めて諭すように騎駿が言った。


「何、大丈夫です。そういった感情を持てなくても恥じることはないですよ」


 聞く耳を持たずに(なだ)めてくる騎駿に、月季の苛立ちが募る。

 この男に同類だなどと思われていることが我慢ならなかった。


「好きな人くらいいます」


 つい口から出た言葉は、気が立っていたせいで若干音量が大きくなった。

 二人を遠巻きに見ていた職員がざわめく。

 月季は我に返った。


 いやいや違う。彰高のことは諦めたのだ。

 誰のことを言っているのだ。


 言ったそばから後悔する。


「嘘ですよね」


 しかし騎駿が口の片端をあげて言ったのを見て、月季はこのまま押し通すことにした。


「本当です」

「ではそれは誰ですか?」

「貴方に言う必要はありませんよね」

「やっぱりそんな相手はいないんじゃないですか。貴女は私と同じです。他人を好きになるような人ではない」


 どうしてそこまで騎駿が確信を持っているのかわからない。


「貴方と一緒にしないでください」


 心の底からそう思いながら月季が再度言う。


「意固地にならないで、私の提示した条件を検討してみてください」


 騎駿が腕を組んで言い聞かせるように言うのが、更に月季の神経を逆撫でする。


「その必要はありません」


 これ以上騎駿と話をするのは無理だ。

 月季は半ば投げやりな気分で言った。


「私は好きな方以外と結婚する気はありません」


 そう口にした時、月季は遠巻きに見ている者たちの中に宗正卿の部下がいるのを見つけた。

 その瞬間、この一連の自分の発言が壮哲のことを言っているように聞こえることに気づく。

 月季は自分の失言を覚ったが、もう後に引くことはできなかった。


「ですからどのみち貴方のお申し出を受けることはできません」


 きっぱりと言うと、騎駿がこれ以上何かを言う前に「失礼します」とこの会談に終止符を打った。

 月季が歩き始めると、立ち止まって遠巻きに見ていた職員たちが慌てて動き出した。

 月季は先ほど見かけた宗正寺の職員を探したが、既にその姿はなかった。


 まずいことにならないといいけど。


 月季はうんざりしながら重い足取りでその場を後にした。



 去っていく月季の背中を腕組みしたまま見送り、騎駿が大きく息を吐いた。


「秀太子」


 そこへ騎駿を追って来ていた大雅が、取り残された騎駿に声を掛けた。


「ああ。芳太子。交渉は失敗しました。私にはさっぱり女性の気持ちはわかりません」


 振り返った騎駿が少し腑に落ちなさそうな顔で言う。

 大雅は困ったように騎駿を見た。


「あの言い方では絶対に無理ですよ」

「芳公主にとって良い条件だと思ったのですが」


 月季のことを全く分かっていないな、と大雅が苦笑する。


「月季の件はなかったことにしていいですね」

「……そうですね」


 大雅の確認に、今度は騎駿があっさりと頷いた。そして大雅に切れ長の目を向けて、僅かに笑った。


「……何ですか?」


 大雅が本能的に危機を察知する。

 嫌な予感が背筋を撫でる。

 騎駿が目を細めて言った。


「……芳公主のことは諦めますので、代わりに芳太子に萌華(ほうか)をもらっていただきたい」

「な……」


 大雅の口が開いたまま固まる。

 萌華というのは、騎駿の腹違いの妹の公主だ。


「今年十七になりました。王妃が萌華の縁談話を渋っておいでだったが、紅国の皇太子殿であれば文句はあるまい」

「いやいやいや」


 大雅からは、呆れてそれ以上の反論の言葉が出てこない。

 冗談かとじっくり見てみるが、やはり騎駿の表情は変わらない。

 どうしても紅国と縁を結びたいということなのだろう。


「萌華の件は改めて申し入れをさせていただきます」


 騎駿はそう言うと、では、と礼をして大股で去っていった。




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