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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −瓊玉の巻−
120/192

二年季夏 大雨時行 3



「陛下。これは一大事です」


 宗正卿が壮哲の執務机の前で神妙な顔をして立ち、手にした手巾でしきりに額の汗を拭いている。

 壮哲が黙って見返すと、宗正卿がもどかしげに聞いた。


「どうされるおつもりですか」


 手にしていた書類を、ぱさ、と机に下ろして壮哲が言う。


「どうするも何も……。妃は決まったのではないのか」

「幸か不幸か、決まっているのはあくまでも"候補"であって、まだ王妃殿下ではないどころか、ご婚約もされておりません」


 宗正卿が鼻息を荒くして言うのに対して、壮哲が溜息で以って応える。


 この宗正卿の鼻息は、昼過ぎにやって来た紅国の使者のせいだった。使者は紅国王からの親書を携えていた。

 親書の内容は、紅国公主の輿入れ先として蒼国を考えているが如何(どう)思うか、というものだった。第三者に意見を求めるような聞き方だが、要は縁談の打診だ。

 先日の蓮池での妃候補の女性たちとの面会の後、青公と六省の長による会議を経て、五人いた候補の中から杜文莉に絞られて内定したのが一昨日のことだ。文莉にはまだ正式な通知は行っていないが、内定したことを誰かが耳に入れてしまったらしい。そして今日になってこの親書だ。


 絶妙な間の悪さだ。


 壮哲が椅子の背にもたれて長い指で眉間を揉む。

 この輿入れの打診のあった紅国の公主とは、もちろん月季のことだ。

 その本人に先日、申し入れがあったら断ってくれと言われたが、紅国からの申し出を断るのは難しいから自分でどうにかしろと壮哲は突っぱねた。

 結局月季はどうにもできなかったということか、と壮哲が再び溜息を吐く。


「紅国からの申し入れをお断りになるのは如何(いかが)なものかと」


 宗正卿が壮哲の溜息を拾う勢いで近寄って来て迫る。


「まだ打診だろう」


 逆に壮哲が落ち着いて返す。

 とは言ったものの、まだ正式なものではないとはいえ、唯一人の公主を小国の王に娶せよう、という大国の意向を断るのはあまり得策ではない。妃の最終候補に文莉と決めた青公と六省の会議に再度諮れば、間違いなく紅国からの打診を受けるべきであるという修正結果になるだろう。

 しかし、月季が蒼国に嫁ぐことを望んでいないことも壮哲は知っている。


 月季には、申し入れがあったら受けることになるだろう、とは告げてあるが……。

 どうしたものかな。


 壮哲は、額に汗を浮かべながら迫ってくる叔父の宗正卿を片手を上げて制すると、静かに言った。


「宗正卿の意見は承知した」


 そして、眉を下げて宗正卿を見返す。


「……だから、叔父上、少し考えさせてほしい」


 久しぶりに叔父上と呼ばれて宗正卿が目を丸くする。甥として語りかけてきた壮哲を見て瞬きを何度かすると、ふと力を抜いて前のめりだった姿勢を戻した。


「……分かりました」


 宗正卿はそう言って、鼻から大きな息を一つ吐くと続けた。


「蒼国の官吏として考えるのならば、これは断るべきではないと思っています。それは陛下もお解りだと存じます」


 手に握っていた手巾を仕舞う。


「……ただ……正直なところを言えば、紅国の公主がどんな方なのかよく存じませんので何とも言えませんが……杜氏の息女なら甥を幸せにしてくれそうだと安心していたのに……という心情です」


 宗正卿は困ったように笑い、「ですから、私は陛下のなさるご決断を支持します」と執務室を出て行った。




 



 その日の夜、執務を終えた昊尚が壮哲の自室に来ていた。先日の宣言どおり、友人として壮哲の縁談話をしにきたと言う。

 紅国からの親書が来たせいで、忙しい合間を縫って時間を作ったようだ。

 卓を挟んで昊尚と壮哲が座ったところに、佑崔がなみなみと酒を満たした大きめの酒器と杯を持ってきた。

 すまない、と昊尚が受け取る。


「佑崔は呑まないのか?」


 杯が二つしかないのを見て昊尚が聞くと、佑崔は首を振って下がる。


「何だ。相変わらずだな。たまには佑崔とも呑みたいのに」


 昊尚が言うと、佑崔が「また今度」と笑う。


「そうか」


 そう言いつつ、壮哲の護衛をしている限りなかなか付き合ってもらえなさそうだな、と苦笑しながら杯に酒を注ぐ。


「しかし、驚いたな」


 昊尚が壮哲に黄酒を満たした杯を渡しながら、敬語なしに言う。


「ん?」

「紅国からの打診の件だよ」


 言いながら昊尚が自分の分を注ぐ。


「……ああ」


 壮哲は渡された杯から一口飲む。喉を通っていった褐色の液体が疲れた身体にじわりと沁み込んで行く。

 一息ついたところで、壮哲は月季から言われていたことを昊尚に話すことにした。勿論、月季の昊尚への気持ちは伏せる。


「実はこの間月季殿が来た時に言われたんだ。もしかしたら、紅国から輿入れの申し入れがあるかもしれないって」


 昊尚の杯を口に運ぶ手が止まる。


「どういうことだ?」

「いや、以前、翠国の恭仁殿と月季殿が鉢合わせしたことがあっただろう? あの時、恭仁殿の猛烈な求婚を断るために、私をダシにしたじゃないか。それを信じた恭仁殿からの文を紅国の宗正卿に見られたとかで、月季殿が私のことを慕っていると思われたと言っていた。それで、月季殿の輿入れ先に蒼国が候補に上がったから、もし申し入れがあったら断って欲しい、と言われたんだ」


 壮哲の説明を聞きながら昊尚の眉間に溝が刻まれていく。


「何だそれは。だったら月季が自分で訂正して()めればいいじゃないか」

「その通りだ。だから、自分で何とかしろと断ったんだが、あんな親書が来たということは、何とかできなかったんだろう」

「何やってるんだ、あいつ」


 杯を持つ手を止めたまま呆れて呟く。


「まさか本当に、この小国に、紅国が唯一の公主に輿入れをさせる気になるとは思わなかった」


 そう言って壮哲は大きく溜息を吐くと、一気に杯を空けて聞いた。


「この縁組による紅国の利点は何だ」


 昊尚もようやく杯に口をつけると、一口飲んで壮哲を真っ直ぐ見返した。


「紅国側の実質的な利点はそれほどは多くはないだろうな。慧喬様がうちの工業技術に一目置いていて、技術輸入に意欲的という一点からだろう。蒼国を紅国が支持していることを対外的に示して間接的に保護するから、優先的に技術情報をよこせということかもしれない。しかし、そうは言っても技術面のことを言えば、紅国はうちよりも進んでる分野の方が多いしな」

「他には」

「あとは、そうだな。……月季の子を王にするよう画策して、後々蒼国を乗っ取るとか?」

「本気か?」


 壮哲が疑わしそうに昊尚を見る。


「すまん。冗談だ。言っておいて何だが、こんなことを慧喬様が考えるとは思えん」


 昊尚が苦笑すると、だよな、と壮哲も笑う。


「そもそも慧喬様ご自身は、澄季妃のこともあって……まあ、月季が澄季妃のようになるとは思っておられんだろうが……元々、公主の政略結婚にはあまり乗り気ではなかったはずだ」


 言いながら、昊尚が壮哲の空になっていた杯に酒を注ぐ。


「それに今の紅国は、他国から利を得るための政略結婚は特に必要ないしな。それほど国力が高く安定してる。だから翠国からの打診にも、月季の意志のとおり断ったんだと思う。国のために嫁がせるのであれば、翠国の方が蒼国よりも利はあるだろう」

「まあ、そうだな」


 壮哲が椅子の肘掛けにもたれて相槌を打つと、昊尚が頷き返す。


「月季の蒼国(うち)への輿入れに政略的な目的は薄いと思う」

「政略的な結婚でなくて良いのならば、月季殿の好きなようにさせてやればいいじゃないか」

「その好きなようにさせる先、というのが蒼国(うち)なんだろ。お前の話を聞いて合点がいった」

「……ああ……」


 そういうことか、と壮哲が呟く。

 月季の話から察するに、これまでも婚姻の申し込みはいくつもあったがどれも断ってきたのだろう。そこへきて月季が好意を寄せる相手が現れたとなれば、こういう展開になるのもわからなくはない。

 恭仁にあんな事を言わなければ良かったのに、と壮哲はつくづく月季の作戦の甘さを思った。



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