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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −瓊玉の巻−
119/192

二年季夏 大雨時行 2



 壮哲と妃候補の話をしてから数日後、昊尚が英賢を訪ねて遅くに夏邸を訪れた。英賢との話を終え、部屋から回廊に出て夜空を見上げると、細い月の輪郭が綺麗に見えた。


 月が美しいこんな夜は範玲が夜更かししていそうだな。


 そう思いつくと、昊尚は門へ向かう前に中庭の池へと足を向けた。他人(よそ)の屋敷ではあるが、訪れることの多い昊尚には夏邸は勝手知ったるものとなっていた。

 池の辺りまで来ると、案の定、いつもの範玲の定位置に仄かに人影が見えた。


「また夜更かししてるな」


 庭石に腰掛ける影に向かって昊尚が声をかける。

 手燭をかざして影へ近づくと、こちらへ振り向いた範玲の顔が見えた。その瞬間、月の明かりが増したような錯覚を覚える。


「だって。眠れなかったんです」


 範玲が立ち上がって昊尚へと近寄る。


「それに、月がとても綺麗だったから」


 思った通りだったと笑みをこぼして昊尚が範玲の手をとると、範玲が、ふにゃ、と嬉しそうに笑った。

 この顔を見られたのはきっと休みの日なのに遅くまで仕事をした報酬だな、と昊尚が目を細める。


「久しぶりだな」


 昊尚が言うと、範玲が少しだけ拗ねたように俯き、昊尚の手にもう一方の手を包むように重ねる。


「いつもお忙しそうですよね」


 もっと会いたいのに、と言外ににじませて範玲が言うと、昊尚が苦笑する。


「そうだな。忙しいのは構わないが、なかなか君に会えないのが辛い」


 さらっと口にした昊尚の言葉は、範玲のささやかな苦情をあっさりと消し去った。頬を染めた範玲に、昊尚は、座ろうか、と手を引いて範玲が元いた場所に戻る。


 並んで庭石に腰掛けると、手燭を横に置いて昊尚が聞いた。


「君は何してた?」


 繋いでいる昊尚の手をにぎにぎとしながら範玲が答える。


「今日は杜家の書庫を見せていただいたんです。凄いんですよ。夏家(うち)の蔵書にはないものが沢山あるんです」

「正宗殿に案内してもらったのか」


 昊尚の手で遊ぶ範玲の姿に笑みを零しつつ、史館の物静かな同僚を思い浮かべて昊尚が聞くと、


「文莉殿にお誘いいただいたんです」


 と範玲が嬉しそうに文莉とのことを話した。


「私、お友達が少ないので嬉しくて」

「それは良かったな。君は文莉殿と気が合うのかな」


 文莉が妃候補となっていることは知っているんだろうか、と気にしつつも口には出さない。


「とても良い方なんです。お話ししてみて好きになってしまいました」


 ここでも文莉の評判が良いことに昊尚が感心する。


「……でも、今日は何だか様子がいつもと違っていて……」


 範玲が心配そうに言う。


「どんな風に?」

「何というか……時々、心ここに在らずといった感じでぼんやりされていました。……そうかと思うと、ふとした拍子にお顔を赤らめてそわそわされたり」


 昊尚が内心で、なるほどと当たりをつける。


「体調がよろしくないのかと思ったのですが、そうでもなさそうで」

「そうか」


 文莉のその落ち着かない様子の原因は、十中八九、妃候補選定の結果についてだろう。そう思いながら昊尚が相槌を打つ。


 どこか浮かない顔をしているように見える壮哲に、昊尚は何度も妃選びは急がなくてもいいと言ってみた。しかし、壮哲は中断する気はないようで、選定は極めて順調に進んでいる。

 先日、青公と六省の長の会議で五人いた妃候補が一人に絞られた。その会議の結果を壮哲が了承し、最終的な妃候補が内定したのが昨日のことだ。

 最終的な妃候補は文莉に決まった。まだ正式な通知をしていないはずだが、誰かが本人の耳に入れたのかもしれない。


「心配はしなくて大丈夫だと思う」


 昊尚の応えに、範玲が首を傾げる。


「何かご存じなのですか?」


 不思議そうに見てくる範玲に、つい教えてやりたくなったが、言葉を飲み込んで笑顔に(とど)める。すると、益々不思議そうな顔で昊尚を見る。


「文莉殿とはお知り合いでしたか?」

「まあ、会ったことはある。でも個人的な話をしたことはないな」

「では、どうして?」

「……そのうちわかるよ」


 文莉と個人的な付き合いはないが何か事情を承知している様子に、自分には話せない政治的な事案なのだろうと範玲が察する。

 文学者である文莉が政治にどう関わっているのか、範玲には想像ができなかったが、ねだったところで範玲に関係がなければ昊尚は教えてくれないだろう。昊尚の表情からも、文莉が何か物騒なことに巻き込まれたようなことではなさそうだと判断し、範玲はこれ以上詮索することはやめた。


「悪いことではないのですよね?」

「ああ」


 昊尚に念を押すと、範玲はこの話をお仕舞いにして話題を変えた。


「そういえば、柳副使はしばらくはこちらにはいらっしゃらないようで、兄上がとても残念がっていました」


 英賢としては奏薫にできるだけ早く、身一つででも来てもらうつもりでいたようだが、そうはいかなくなった。奏薫の母親の喪が明けたら、実父の統来とは縁を切って大叔父との養子縁組を行い、その上で改めて正式に婚姻の申し込みをするという手順を踏むことになった。


 奏薫からの文で、王妃と養妃の計らいを知った英賢は、奏薫が来るのはしばらく先になりそうなことにがっかりと肩を落とした。しかしそれと同時に、翠国にもあれこれと奏薫の世話を焼いてくれる人がいることを知って、嬉しそうに目元を緩めた。

 その英賢が文をじっくり眺めながら「……ああ、でも世話を焼かれる奏薫殿を見てみたいな……」と考え込み、「……こっそりと見に行こうかな」とぼそりと呟いていたという範玲の話に、昊尚が苦笑する。


「英賢殿らしいな。本気で行きそうだ。翠国の首都の采陽へは五日はかかるから往復十日以上か……。どうしてもと言うのなら、執務に支障がないようにしてくれれば良いんじゃないか?」

「そんなことを昊尚殿が言ってたって聞いたら、きっと物凄い勢いでお仕事を片付けだしそう」


 英賢の様子を想像して、ふふ、と笑うと、範玲がしみじみと言った。


「兄上がすごく幸せそうなんです。以前ご婚約されていた時と全く様子違うんですよ。やっぱり、ご自身がどうしてもと望んだ方とのご婚約だからですね」

「そうだな」


 相槌を打ちながら、昊尚はその英賢とは対照的な壮哲の淡白な様子を思い出した。

 あくまでも王妃としてふさわしい伴侶を、という考えは王の姿勢としては正しいと思う。しかし友人としては、壮哲の中にどこか迷いが感じられたのが気にかかった。もう一度話をしてみよう、と静かに溜息をついた。


 それはそうと。


 昊尚が範玲を覗き込む。


「……ところで、覚えてるかな。君と私も婚約してるはずなんだが」


 昊尚からの思いがけない確認に、範玲は一瞬言葉を詰まらせると、「……覚えてます……」と小さな声で答えて戸惑ったように顔を伏せた。


 範玲と昊尚の婚約は、朱国の范雲起からの範玲への婚姻の申し入れを断る口実のために急遽決まったことだった。突然のことに困惑しているだろうからと、あの時の昊尚は婚約については気にしないように範玲に言った。しかも、昊尚が父と兄の服喪中でもありそれ以上進展することもなかった。だから、それきり婚約についての話をしていない。

 今夜も、昊尚はこの話をしようと思って来たわけではない。しかし英賢たちの話の流れから、この機を捉えることにした。


「そうか。良かった」


 範玲の返事を聞いて昊尚は静かに言った。


「……あの時は、君に何の承諾も得ずに決めてしまってすまなかった」


 気遣うように穏やかな口調は、不意に始まった婚約の話に緊張した範玲の心を(ほぐ)した。しかし、どう言葉を返して良いか判らず、範玲は俯いたまま、ただふるふると首を振る。


「あれは……雲起の要求を退けるためだけにそうすることにしたわけじゃない。そのことを、一度ちゃんと話そうと思ってた」


 昊尚のこの上なく優しい声に、範玲がそろりと顔を上げると、青味がかった黒い瞳と目が合う。範玲の鼓動が大きく跳ねた。

 昊尚は範玲の手をそっと握り直すと、ゆっくりと噛みしめるように言った。


「どんなに忙しくても疲れていても、君の顔を見ると心が安まるんだ」


 緩い風が池の水面に映った細い月を微かに揺らした。手燭の炎もゆらりと揺れる。同時に範玲の胸の中もさわさわと波立ち、鼓動が早くなる。

 昊尚は自分を映している碧色の瞳を真っ直ぐに見ながら、伝えようと思いつつ、まだきちんと伝えきれていなかった正直な気持ちを言葉にした。


「君を愛してる。……一日の始まりと終わりに毎日君の顔を見たい」


 その言葉は、玄亀の耳飾りを着けていないかのように、直接範玲の中に入り込んでその胸の奥を震わせた。

 範玲は目の前の昊尚の顔がゆらゆらと滲んでくるのを、瞬きもできないで見つめる。


「だから、私と結婚してほしいんだ」


 昊尚のその言葉と同時に、碧色の瞳から雫が溢れ落ちた。

 婚約が決まった時、範玲はそれを英賢から聞いた。自分を守るため決まったことだ。昊尚が望んでいることではないかもしれないと思ったこともあった。

 でも、昊尚が自分のことを想ってくれていることは十二分に知っている。不安に思うことなどあるはずがなかった。しかし、範玲は今初めて、自分が昊尚の口からこう言ってほしいと心の何処かで思っていたことに気づいた。


 範玲は心の中が、昊尚を愛しいと思う嬉しさで満たされていくのを感じた。


「……はい……」


 応えた範玲の声は震えていた。頭の奥が痺れて、それだけを言うのが精一杯だった。


「ありがとう」


 昊尚が範玲を抱き寄せ、範玲の髪に唇をつけて言った。 

 耳のすぐそばで聞こえた昊尚の深い声に、範玲の鼓動は痛く感じるほどに早くなる。


「……私も……同じ……です……」


 自分の声がよく聞き取れないほどの心臓の音に邪魔されながらも、途切れ途切れに範玲が言うと、昊尚が範玲をぎゅっと抱きしめ直した。

 それから腕を緩めると、昊尚は範玲を見つめた。

 普段は冷たい印象を与える瞳が愛おしそうに自分に向けられているのを見て、範玲の頬に再び涙が(こぼ)れた。

 昊尚は指でそれを拭うと、範玲の唇にそっと口付けた。

 思考が止まってしまった範玲が唇を離した昊尚を放心したように見つめる。潤んだ碧色の瞳に、昊尚は少し困ったように微かに笑うと、もう一度なぞるように範玲の唇に触れた。

 二度目の口付けで、完全に身体に力が入らなくなってくたりとした範玲を昊尚が抱き寄せて言った。


「大丈夫か? 息が止まってる」


 苦笑いが混じる。

 昊尚に背中をとんとんと優しく叩かれ、漸く範玲は息をついた。

 腕の中で大人しくしている範玲の頭を軽く撫でると、昊尚が言った。


「婚約の件は気にしなくて良い、と言ったのは撤回する。しっかりと覚えておいて」


 範玲はふわふわと宙に浮くような心地の中、今起こったことは夢かもしれない、とぼんやりと思いながらその声を聞いていた。



 

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