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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −瓊玉の巻−
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二年季夏 鷹乃学習 2



 英賢が壮哲の執務室に入ると、部屋の主が溜息をついたところだった。


「どうされました?」


 英賢が壮哲の執務机に歩み寄る。


「碧公のお陰で……」


 いつもは凛々しく迷いのない縹色の瞳に、珍しく若干の戸惑いの色を映したまま、壮哲が言いかけた言葉を飲み込む。


「え? 何ですか?」


 英賢が美しい眉を顰める。


「……いや、すまない。何でもない。目出度いことなんだからな」


 気を取り直したように壮哲が顔を上げる。


「柳副使はいつ頃こちらに来ることに?」


 壮哲が尋ねると、英賢が状況を察して「その件でしたか。申し訳ありません。私の(とばっち)りですね」と満面の笑みを浮かべて口先だけで謝った後に答える。


「私としては今すぐにでも来て欲しいのですが、彼女の母上の喪が明けてからになるでしょうから、まだもう少し先になると思います」


 妹以外のことでこんなに緩んだ表情をする英賢を見たことがない、と壮哲がつい笑みを漏らす。


「何か?」


 それを英賢が咎める。


「いや。碧公も苦労が多かったが、良かったと思って」


 壮哲の言葉に、英賢が感慨深げに頷く。


「そうなんです。柳副使に出会えたことには本当に感謝しています。正に存在自体が私にとって奇跡です。こんなに大切にしたいと思う人が妹達以外にできるなんて、正直なところ想像していませんでしたから」


 そう言って微笑む英賢を前にして、壮哲は祝福する気持ちとは別に、僅かに複雑な想いを抱いた。


 英賢は、範玲達への態度を見ても、もともと愛情深い(たち)なのだろう。そんな英賢に望まれた奏薫は、幸せになるに違いない。

 一方、自分はというと、王の義務として婚姻を"承諾"しようとしている。無論、自分の伴侶となる女性は大切にするつもりだが、このような心得でいる自分が、英賢のような愛情をもって接することができるのか分からない。

 女性に対して、好ましいとか可愛いと思うことはある。しかし、それは恋い慕うという程の感情ではない。

 王と王妃という役割を担うことにおいては、その感情はさして重要なものではないのかもしれない。少なくとも、つい最近までは大して気に留めていなかった。相手を決める過程は面倒だとは思うが、王として求められる婚姻を結ぶことに抵抗はなかった。


 しかし。好きな人と結婚したい、好きになって欲しい、と(こだわ)って足掻(あが)く月季の姿は、今までの態度を考えさせられた。

 伴侶となることになった相手が、月季と同じようなことを自分に求めたら、それに応えられるのだろうか。せめて、誠実に向き合おうとは思っているが……。


 先ほど宗正卿が、妃候補との面会の日取りが決まったと嬉々として報告に来た。自分の気持ちとは関わりなく、順調にことは進められている。


 このまま進んで良いのか。


 そんなことを思う壮哲の縹色が憂鬱な色味を帯びたのには気付かず、英賢は嬉しそうに微笑んで言った。


「柳副使をどう甘やかそうか、今からとても楽しみです」




**




 翠国の王妃宮の謁見室では、頭を垂れる柳奏薫の前に、王妃の林菖景(りんしょうけい)と養妃の柳菫香(りゅうきんきょう)が揃っていた。養妃は王妃の脇の一段下がった位置にいる。


此度(こたび)は随分と大変だったようですね」


 王妃の言葉に奏薫が頭を深く下げる。


「申し訳ありません。これも全ては私の不徳の致すところです。どうお詫びを申し上げればよいか……」


 翠国と蒼国を巻き込んだ、言わば柳家のお家騒動以来、初めて王妃や養妃と言葉を交わす。

 蒼国から帰って、溜まっていた業務に忙殺されていたところへ、王妃から直々に声がかかった。

 騒動の叱責を受けるものと覚悟をして入った部屋に養妃まで揃っていたことから、それは間違いなかろう、と更に頭を下げる。


「養妃様にも多大なご迷惑をおかけいたし……」

「相変わらずお前は硬いわね」


 奏薫の言葉が、きっぱりとした気の強そうな声で遮られた。養妃の菫香だ。


「私はいいのよ。お前は本当に大変だったと思うけど、統来の失脚は私にとっては朗報だから」


 奏薫が顔を上げると、菫香が口元を手で隠して、ほほほ、と愉快そうに笑って続けた。


「お前も知っているでしょう? 私が統来のことを嫌いなのは」


 菫香は統来の妹だが、元から仲が良くない。柳家の家長だった長兄が亡くなった時に、皇太子を生んだ養妃への恩恵で得た役職を統来が継ぐことにも不快を示した程で、実質、ほぼ絶縁状態だった。


「あいつ、私が子どもの頃からいつも、"お前は器量も十人並みで、体が丈夫なだけが取り柄"と言って私を見下していたのよ。だから、そもそもあんな奴に恭仁様の恩恵を与えたくなかったの。奏薫には悪いけど」


 菫香が、ふん、と鼻を鳴らす。


 元々権力にさして興味がなく、野望を持って後宮に入って来たわけではない菫香は、自分の生んだ皇子の掌に梧桐の紋章が現れたのも、たまたまその時期だっただけだと思っていた。だから菫香は、皇太子誕生のために何をしたわけでもない柳家に対して、恩恵を施す必要もないと考えていた。しかし、養妃の実家の地位が低くては皇太子の威信に関わるということで、柳家の家長の官位を上げるのを受け入れていただけだった。


「統来って、顔がいいだけでそもそも仕事なんか出来ないんだから、あるべき地位に戻っただけよね」


 菫香の舌鋒は収まることなく振るわれる。


「出世したかったら、実力で何とかしろというものよ。敬元や……延士もね。本当に柳家の男どもは情けない。恥ずかしくて恭仁様に顔向けできないわ」


 奏薫は、統来達への怒りを口にする菫香の心中を思い、胸が痛んだ。疎遠であるとはいえ、身内が起こした不始末に傷ついていないはずがない。原因の一端を作ってしまった自分を責め、奏薫はひたすら頭を下げた。


 ひとしきり統来達への雑言を吐き終えると、菫香は大きく息をついて言った。


「……だから、お前が気にすることは何もないのよ」


 思わず奏薫が顔を上げると、そこには菫香の強く念を押すような瞳があった。

 これを言うために、菫香は、敢えて統来達を殊更悪し様に言ったのだ。

 奏薫はそれに気付くと、菫香の気遣いに、感じていた胸の痛みが震えるような感覚に変わり、再び深く頭を下げていた。

 王妃は、菫香の思いが奏薫に伝わったのを見届けると、さて、と扇を鳴らして本題に入る空気を作った。


「……奏薫、其方(そなた)を呼んだのは他でもありません。恭仁殿から官吏を辞めると聞いたが、(まこと)ですか」


 奏薫は、はっと顔を上げた。自分を見ている王妃と視線が合うと、再び頭を下げた。


「……はい。申し訳ありません。これまでお世話になっておきながら」

「恭仁殿が何とかしてくれと泣きついて来たのです」


 手に持つ扇で、とんとんともう一方の手のひらを打ちながら王妃が聞く。


「……申し訳ありません……」

「決意は変わらぬということですね」

「はい」


 静かに、しかし決然と応える奏薫に、王妃は「そう」と言っただけであっさりと引いた。


「お前も辛い目にあったのですもの。仕方ないわ」


 菫香も引き留めることはしなかった。

 頭を下げ続ける奏薫の耳に、物憂げな色を帯びた菫香の声が届いた。


「お前を助けることができなくて、申し訳なかったと思っているのよ」


 予期していなかった言葉に、奏薫が菫香を見ると、菫香は苦いものを口にしたような顔で言った。


「……実を言うとね、お前が最初に私のところに来た時、統来の娘だというから、きっと何か企んでると思ってたのよ。だけど、お前は本当によく尽くしてくれたわ。……こうやって私が菖景様に仲良くしていただけているのも、まだ幼かったお前が、毎日何度も菖景様との間を行き来して、恭仁様を通した橋渡しをしてくれたからよ。なのに、お前が大変な時に、何の力にもなれなかった」


 王妃は唇を噛む菫香にちらりと目をやると、静かに言った。


「我らは政治(まつりごと)には口を出せない」


 翠国では王妃や養妃は尊重されてはいるが、政治への関与は一切許されていない。後宮の中で絶大な力を持っても、外の世界では役に立たない。

 奏薫もそのことは十分に承知している。


「そのように思っていただいているだけでも、勿体無いことです……」


 そう奏薫が畏ると、王妃が菫香に目配せをし、ぱし、と扇を鳴らした。


「政治には口を出せぬが、其方の輿入れには口を出すことにします」


 突然変わった話の方向に、奏薫が顔を上げると、普段あまり笑わない王妃がにこりと微笑んだ。王妃の横に目線を移すと菫香と目が合う。


「あの……」


 奏薫が戸惑いで言葉を継げないでいると、菫香がじろりと奏薫を睨んだ。


「……奏薫、お前、何か大事なことを言っていないのじゃない?」

「……え……何でしょうか……」


 突然菫香に詰問され、奏薫の顔が僅かに強張る。


「ああもう。(しら)を切るつもり? お前、蒼国の碧公に婚姻を申し込まれたのでしょう?」


 奏薫が、あ、と声を漏らし、反射的に目を伏せる。


「まずそれを報告なさいよ」


 菫香に言われて、目を伏せたまま奏薫が小さな声で、申し訳ありません、と謝る。


「恭仁様が、奏薫が辞めるのを止めてくれと言って来たけど、そのことを聞いて驚いたわ。それなら話は別だもの」


 先ほどの辞意の確認は、恭仁に泣きつかれたからとりあえず聞いただけの、形ばかりの慰留であったのだと菫香が笑う。


「ねえ、奏薫。碧公はどんな方なの?」


 状況をまだ飲み込みきれていない奏薫に、菫香が前のめりになって聞くと、奏薫が床を見つめたままためらいがちに口を開く。


「碧公は…… 青公のうち夏氏の家長が担う……」

「ああ、もう。そうじゃなくて! お前は碧公をどう思ってるのか聞いているの」


 奏薫の説明が菫香に遮られる。

 奏薫が上座に恐る恐る視線を移すと、菫香どころか王妃にもじっと見つめられ、青灰色の瞳が逃げ場をなくし彷徨う。

 白い頬が桃色にほんのりと染まり、沈黙の後、奏薫の薄い唇から消え入りそうな声が出された。


「碧公は……とても……その、お優しくて……頼りになって、お美しくて……温かい方、です……」


 しどろもどろに語る奏薫を見て、菫香が両手で口を覆った。


「……菖景様……ご覧になりました……? あの奏薫が恥じらっております……!」


 王妃も身体を菫香の方へ傾け、扇で口元を隠し、うむ、と頷く。


「……まさか我らの目の黒いうちに、こんな姿が見られるとは……」

「ほんに……」


 王妃と養妃が顔を見合わせて言う。

 二人に揶揄(からか)われた奏薫の耳が赤く染まるのを見て、菫香が目を細めた。


「お前がそんな顔をするなんてね。……碧公にはうんと大切にしてもらいなさい」


 しみじみとした菫香の温かい声に、奏薫が、はい、とかろうじて応えると、


「さて、じゃあ、準備をしないといけませんね」


と、菫香がきらりと目を光らせて王妃に言った。


「何の準備、でしょうか?」


 奏薫が不思議そうに聞くのを、王妃が咎める。


「まさか、其方、輿入れを犬の仔をやるようなものと思っているのではないでしょうね」

「しかし、私が辞めた後のことになりますし……、碧公も身一つで来ればいいと……」

「何を申しているのですか。碧公と言えば蒼国の王族です。そして其方は仮にも皇太子の血縁。その縁組みとなれば国と国との結びつきになるのですよ」

「しかし……」


 奏薫はひっそりと翆国を離れるつもりでいた。何より統来とはもう関わりたくない。蒼国の王族と聞いて、あの統来が大人しくしているとは思えなかった。

 兎に角英賢に迷惑をかけたくない。

 どう対処しようかと考えていると、菫香が言った。


「奏薫、統来とは縁を切りなさい。お前の大叔父の養女に入るのです」

「え……」


 露ほども考えていなかった成り行きに、奏薫の思考が止まる。


「其方の母親が亡くなってもうすぐ一年経とう。さすれば喪も明けます。それと同時に縁組をすれば良ろしい」


 王妃が言う。予めそのことは菫香と相談済みだったようだ。


「統来の娘としてではない方が、お前も気兼ねないでしょう。大叔父夫婦は承諾してくれているわ」

「政治に関与できぬ我らのぎりぎりの願いを、陛下も聞いてくださいました」


 あまりに急な展開に戸惑う奏薫へ、菫香が微笑んだ。


「一人で闘ってきたお前に何もしてやれていないのを後悔してるの。せめてお前を翠国最高の花嫁として送り出させてちょうだい。……最後にこの位はさせなさい」


 奏薫は菫香と王妃を交互に見た。


「……勿体無いお言葉……」


 言葉に詰まり、奏薫の視界の中で王妃達の姿がじわりと滲む。そして青灰色の瞳からはらりと涙が落ちた。

 それを見て菫香が泣きそうな顔で微笑んだ。


「……そんな風に感情を出せるようになったのも、碧公のお陰なのかしらね」


 菫香の言葉は、奏薫の胸の奥に優しく染み込んでいった。


 


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