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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −瓊玉の巻−
112/192

二年季夏 蟋蟀居壁 1



 (つぼみ)をつけはじめた梔子(くちなし)が風に揺れる。まだ日差しが眩しい盛りに、蒼国王族の一つ、夏家の客間へ理淑がゆっくりした足取りで向かっていた。

 理淑が久しぶりに羽林軍へ出かけて行った日から遡ること数日の午後のこと。

 客間の扉を開けると、腕を組んで窓辺と卓の間を行ったり来たりする鉄紺色の胡服姿があった。

 きびきびとした動きは武人らしいものだが、しかめていてもその横顔は優雅で美しい。

 紅国公主の芳月季だ。


「すみません。月季殿。お待たせしました」


 月季は戸口に現れた理淑を認めると、駆け寄って少し躊躇した後、右手をそっと取った。


「もう大丈夫なの?」


 挨拶の代わりに月季が性急に聞くと、理淑が安心させるように笑顔を見せた。


「はい。大丈夫です。ご心配をおかけしました」

「本当でしょうね」


 (ひそ)めた眉の下の琥珀色の瞳が理淑をじっと見つめ、疑わしげに言った。


 理淑は先日、暴漢に襲われた兄の英賢を助けようとして斬られ、酷い怪我を負った。つい数日前に夏邸へ戻ることができ、自邸で療養しているところだ。まだ以前と同じようにとはいかず、動きは少しぎこちない。

 いつもは月季を見つけると嬉しそうに駆けて来る理淑が、ゆっくりとした動作になっていることからも、やはりまだ痛むのだということが伝わってくる。それに、理淑の桃のような頬は少し丸みが減り、色も白すぎる。取った手も剣を握るには心許ない気がする。

 月季は理淑の顔を覗き込んで、その明るめの碧色の瞳は以前と変わらず曇りないことを確認すると、今度は全身を点検するように視線を移動させた。そして、斬られたと聞いていた肩や脇あたりで眉を顰めると、再び理淑の目を見た。


「重傷って聞いたわよ」


 そう言いながら、手を貸して理淑を椅子に座らせ、月季もその隣に座る。


「ええと、そうですね。肩から腰の辺りまで斬られちゃいました。あと、肋骨も折れたみたいです」


 けろっとして何でもないことのように言うが、聞いた月季が痛そうに顔をしかめる。それを見てとって理淑が慌てて付け足す。


「でも、こうして(とこ)から出られるようになったし、肋骨もだいぶん痛みが引きました。傷も塞がってますし、引き攣る感じがしてちょっとやな感触だけど、随分良くなりました。だから少しずつ動くようにしてるんですよ」


 何なら傷見ます? と言いながら、理淑が斬られた左肩をゆっくりと動かして見せて笑うと、ようやく月季は少し安心したように息を吐いた。


「もの凄く驚いたわ。暫く不在にしてて城に戻ったら貴女が怪我をしたって聞いて。本当に……本当に心臓が止まるかと思ったんだから。しかもしばらく意識がなかったっていうじゃない」


 詰る月季に、理淑が申し訳なさそうに頭を下げる。


「心配かけてごめんなさい」


 しかし顔を上げると理淑は嬉しそうに言った。


「でも、来てくださってありがとうございます。月季殿がお見舞いに来てくださるなんて思ってなかったから、ちょっと得した気分です」

「貴女って、本当に……」


 月季は肩の力が抜け、長く溜息をついた。


「会いたいならいつでも……は無理だけど、来てあげるわよ」


 眉を下げて月季が言う。そして、改めて理淑を真っ直ぐに見た。


「貴女のそういう楽天的なところ、好きよ。でもね、武人だから怪我はすることは勿論あるけれど、貴女に何かあったらどれ程の人が心配するか、そのことはちゃんと覚えておきなさいね」


 真剣な眼差しで月季が言うと、理淑は神妙な面持ちになって「はい」と俯いた。

 月季はそれを確認して頷くと、「そうそう」と言いながら持って来ていた袋から大きめな(こぶし)ほどの包みを取り出した。


「これ、文始先生から預かって来たわ」

「何ですか?」

「聞いてない?」


 理淑が受け取って包みを解き、現れた入れ物の蓋を開けてみると、それは軟膏だった。


「碧公が依頼した貴女の傷の薬よ」


 英賢は理淑につけてしまった傷跡を酷く気に病んでいる。何とかしようと、昊尚を通して文始先生に傷が綺麗に治る薬を作ってくれるよう頼んでもらっていた。月季はその薬を届けてくれたのだ。


「あ、そうか。わ、すみません。ありがとうございます」


 恐縮しながら軟膏を少し指で取って匂いを嗅いでみたりしている理淑に、月季が文始先生から聞いてきた使用方法を伝える。


「それを傷に塗ったら、包帯か何かでその部分はきちんと保護するように、ですって。薬を塗ったら傷は陽の光にあててはいけないそうよ。取りあえず急ぎで作ったから量が少ないけれど、追加をまた送ってくださるって。文始先生の薬はすごくよく効くから、きっと直ぐに良くなるわ」

「ありがとうございます」


 軟膏の蓋を元に戻しながら理淑が再び礼を言うと、月季が琥珀色の瞳に憂いをのせて何度目かの溜息をついた。


「……今回は本当に間が悪かったわ。文始先生に診てもらえてたら、もっと早く良くなっていたでしょうに……。貴女が斬られた頃、文始先生は私たちと一緒だったのだけどね、ちょうど連絡がつきづらいところにいたのよ……」


 だから、理淑の意識が戻らなかった時、昊尚が文始先生の庵へ使いを出しても連絡がつかなかったのだと言う。


「どちらへ行かれてたんですか?」


 理淑が何気なく聞くと、月季が答えを躊躇う。


「ちょっと地方の警備にね……」


 言葉を濁す月季に、理淑が口外できない案件であることを察する。


「いつも直ぐに帰っちゃうけど、今回はゆっくりしていけるんですか?」


 理淑が話を変えて聞くと、月季の目がほんの一瞬泳いだ。


「……そうゆっくりもしてられないのよ。……兄上から言付かった用事を済ませたら帰るわ」

「そうなんですか……。随分お忙しいんですね」


 しょんぼりとする理淑の姿に月季の目が和む。


「そうね。でもこれからもっと忙しくなるかも。だから直接貴女の顔を見て、無事を確認しておきたかったのよ」


 そう言った月季の右手を理淑がぎゅっと握る。


「じゃあ、尚更、一晩くらい泊まっていって欲しいです」


 無理をして来てくれた月季に、是非ともお礼をしたい理淑がねだる。しかし、月季は困ったように眉を下げた。


「……ごめんなさい」


 月季が謝ると、理淑が、むう、と口を尖らせた。

 理淑の不満げな顔に笑いを漏らしながら、月季は理淑に似た範玲の可憐な顔を思い出していた。暫く寝たきりでいる間に以前に比べて少し儚げになった理淑は、より範玲に似て見える。

 夏家に世話になるということは、そのうち仕事から帰って来た範玲とも顔を合わせるということだ。

 月季は昊尚のことがずっと好きだった。しかし先日、範玲と一緒にいる昊尚を見て月季には可能性が全くないことを思い知らされ、昊尚のことは諦めると決めたばかりだ。頭では切り替えたつもりだが、現実で自分が範玲にわだかまり無く接することができるのか、まだ月季には自信がなかった。

 だから今回も、あえてその日のうちに蒼国を発つつもりで来たのだ。


「……今日は駄目なの。もう少し……また今度ね」


 声に少し罪悪感を残して、月季は自分の手を握る理淑の手を優しくたたいた。



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