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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −綠條の巻−
110/192

余話9 順貴と珠李

「二年季夏 温風至 3」直後です。



「そうか。そうなのか」


 周順貴は大股に歩きながら呟いた。


「恋とかじゃありません」


 先ほど珠李の口から聞いた言葉を頭の中で反芻する。

 てっきり珠李にとって英賢はそういった存在だと思っていた。

 順貴は珠李から見えない位置まで来ると立ち止まり、顔を手で覆うと、はぁ、と大きく息をついた。




**




 この日の朝、門下省の本部へ行った帰りの回廊で、順貴の少し後ろを歩いていた範玲が、あ、と声をあげた。

 順貴が範玲を振り返ると、立ち止まってある方向を見ている。


「どうしたんです?」


 順貴が聞くと、範玲は嬉しそうに言った。


「柳副使がいらしたみたいです」


 順貴も範玲の見ている方向を望むと、灰色がかった緑色の地味な襦裙に身を包んだ、すらりとした姿が建物の入口に見えた。


「あの方が柳副使ですか」


 柳副使といえば、暴漢に襲われたのを英賢が庇い、それを助けて理淑が怪我をしたということを順貴も聞いていた。

 目を覚ました理淑の見舞いだろうか、と考えていると、範玲が思わずといった風に言う。


「……素敵な方ですよね……」


 範玲に視線を戻すと、ほわっとした顔で奏薫の方を見たまま呟く。


「後でお会いできるかしら」

「見舞いに来たのなら会えるんじゃないですか?」

「そういう意味ではなくて、兄上の……」


 そこまで言って範玲が口を噤んだ。


「碧公の何ですか?」


 順貴が範玲を見ると、視線を逸らして、いえ、とか何とかもごもごと言っている。

 「碧公が自らの危険を顧みずに守ろうとしたのは、柳副使が意中の人だからなのではないか」と言っている者がいたのを順貴は思い出した。それを聞いた時は、無責任なただの想像だろう、と気に留めなかったが、それを思い直す。


「柳副使が碧公の想い人というのは本当なんですか?」


 順貴の問いに範玲は、それは、ええと、と言葉を濁した。しかし、否定しないのは、そうだと言っているようなものだった。

 順貴の頭に珠李の顔が浮かんだ。


 珠李はどうなるのだ。珠李だって以前、英賢を庇おうとして命の危険を冒したというのに。


 喜んでいる範玲には悪いと思いながらも、順貴は英賢に内心で舌打ちをした。



 珠李と初めて会った時のことを、順貴はよく覚えている。

 執務時間を終えて帰ろうとすると、皇城の入口に見慣れない若い女性が疲れ切った表情をして、ぼんやりとして立っていた。胸にそう大きくない包みを抱えている。

 その女性を見て隣を歩いていた志敬が駆け寄った。


「珠李かい?」


 呼びかけに顔を上げて声の主を確認すると、彼女はぎゅっと口を引き結んで志敬を睨んだ。そして、目の前に立った志敬の腕を掴んで、声もなく大粒の涙を溢した。

 その顔を順貴は今も鮮明に思い出せる。




 順貴と志敬は、志敬が史館の職員に着任して以来の友人だ。志敬ののんびりとして人懐こい雰囲気は順貴と正反対だったが、何故か馬があった。志敬の方が年上なのに、どちらかと言うと順貴が世話を焼く感じだ。

 会って間もなく、志敬が朱国に両親と妹を置いて出て来たことを聞いた。あちこち放浪したが、結果的に自国の隣の国である蒼国で職を得て落ち着いたのだ、と言う。

 家出同然で出てきて、もう長いこと両親と連絡を取っていないと言う志敬に順貴が酷く呆れると、志敬は慌てて言い訳をした。


「両親も年を取ってそろそろ仕事も辞める頃のはずなんだ。こうして安定した職についたことだし、呼び寄せて親孝行でもしようかと思ってる」


 そう言った志敬に、「ならば即刻文でも送れ」と急かしたのは順貴だった。

 珠李が訪ねてきたのは、志敬が文を送ったと順貴に報告した数日後のことだった。訪ねてきたのが若い娘一人だけなのはどういうことだろうか、と気にかかった。

 翌日志敬から、既に両親は亡く、一人になってしまった珠李が朱国を出てきたのだと聞いた。

 志敬は両親が亡くなっていたことに衝撃を受けていた。親の死に目に会えなかったことと、知らなかったとは言え、珠李に全て押し付けてのうのうと一人放蕩していたことに、初めて罪悪感と後悔を感じたようだった。


「自分だったらそんな兄は許し難いな」


 順貴のにべもない感想に、志敬は更に落ち込んだ。


「だけど、妹君は訪ねてきてくれたんだろう? 挽回の機会を与えてもらったと思って、せめてこれからは妹孝行することだな」


 順貴がそう言って肩を叩くと、志敬は大きな体を丸くして頷いていた。

 次に順貴が珠李を見かけたのは、皇城の回廊だった。かしましい一団がいるな、と眉を顰めて見ると、尚食の若い女官たちだった。その中にころころと笑いこける珠李がいた。

 それ以来、たまに城内で出会う珠李は、少し頼りないが朗らかで気安い、どこにでもいる若い女性を演じていた。


 そう。演じている。


 順貴は直感的にそう感じた。最初に見た珠李の印象とその姿が重ならなかったからだろう。

 その直感が間違っていなかったことは間もなくわかった。

 ある日、仕事終わりに、順貴は誘われて志敬の家で呑むことになった。

 家に上がってしばらく呑んだ頃、酒のつまみを追加してくる、と言って志敬が席を外した。一人杯を空けながら待っていると、不意に扉が開いた。


「兄上、置きっ放しにしないでくださいって、何度言えばわかるの」


 低めの冷たい声が戸口から流れてきた。突然の非難に振り返ると、手に昼間志敬が着ていたものと思われる袍を手にした珠李が立っていた。

 部屋にいたのが志敬ではなく、順貴だと気づいて、珠李が、あ、と声を上げた。

 杯を口につけたまま固まっている順貴と目が合い、珠李の顔が気まずいものになった。


「……いらしてたんですね……」

「……邪魔をしております」


 順貴がつい、いつも珠李には使わない敬語で応えると、二人の間に沈黙が降りた。


「ええと」


 素になったまま元に戻せなくなった珠李が、手のひらで額を押さえて固まったところに志敬が戻って来た。


「あれ? 珠李。どうしたんだい?」


 穏やかで能天気な声をきっかけに珠李は持ち直したようで、皇城で見る笑顔を作った。


「何でもないです。……ごゆっくりどうぞ」


 珠李は微妙に順貴から逸らした目線のまま言うと、素早く出て行った。

 順貴はその背中を見送ると言った。


「……珠李殿は外と家では、何というか……雰囲気が違うな」

「そう?」


 志敬は、つまみの入った器を手に持ったまま、珠李のいなくなった方を見た。


「まあ、色々あるんだろうね」


 志敬は曖昧に言った。



 その日以降、順貴は何となく珠李を目で追うようになった。

 珠李は少し頼りなげな(てい)を装っていたが、よく見ていると仕事は手際よく効率重視で確実にこなす。しかしやりすぎないように、敢えて調節しているように見えた。

 珠李は珠李で、警戒するような目で順貴を観察しているようだった。しかし、特に珠李の態度に言及してこないと見極めると、順貴に対して徐々に外でのような明るく天真爛漫な姿を装うことをしなくなった。

 素の珠李は、年齢よりも落ち着いていて聡かった。

 何故、外ではあのような姿を演じるのか、順貴には理由がわからなかった。しかし、誰しも少なからず表向きの顔を作るものだ、それも珠李の選んだ処世術なのだろう、とそれ以上の詮索はしなかった。

 それよりも。素で接してくるようになった珠李に、順貴は一体誰に対してなのか、僅かに優越感を感じるようになった。



 いつぞや、珠李が実は自分は朱国の手の者だったと告白し、珠李が御史台に身柄を拘束された。

 志敬が、そんなことは絶対にない、と何度も御史台に抗議に行った。順貴も珠李が何故そんな告白をしたのかさっぱりわからず困惑した。

 順貴は、蒼国へやって来た時の珠李の顔を思い出すにつけて、朱国の間者であることなど信じられなかった。あの時の珠李は疲れ切っていて、ただ何もかもから逃げてきたように見えた。そんな大層な目的を胸の奥に持っているようには思えなかった。

 だから、その後、実は珠李が恋い慕う英賢の立場を守るために、自らを犠牲にする嘘をついたのだ、という噂が流れると、それならばわからないこともない、と思った。

 以前、英賢の元婚約者というのが、早朝に会っている珠李と英賢を見た、と言っていた。偶然だと珠李は言っていたが、二人には何か繋がりがあったのだろう。


 なるほど。碧公のためだったのか。であれば、珠李だったらあのくらいの機転を利かせることはできるだろう。


 そう納得し感心はしたが、順貴の胸の奥には、もやもやとしたものが残った。



 珠李は厄介ごとに巻き込まれやすい(たち)なのか、その後また攫われた。

 その時は、志敬の元に珠李を拉致したことを知らせる文が届いた。文から落ちた一房の濃い茶色の髪の毛を見たときは、順貴は全身から血の気が引くような感覚を味わった。

 髪を切って送りつけるなど、普通の神経の持ち主ではないだろう。何故珠李ばかりがこんな目に合わなくてはならないのかと胃のあたりが痛くなった。 

 志敬と一緒に非番の珠李がいるはずの家へ行ったが、その姿が見当たらなかった時は、文字どおり目の前が暗くなった。禁軍が珠李を見つけたと聞いた時は、安堵のあまり腰が砕けそうになった。

 しかし、無事だったとはいえ、髪を切って送りつけるような奴に攫われたのだ。どれ程酷い目に遭わされて傷ついているだろうかと、志敬と二人で待つ間も順貴は気が気でなかった。ところが、兵士に付き添われて帰ってきた珠李は思いの外、落ち着いていた。

 迎えた志敬たちを安心させるつもりだったのか、珠李が言った。


「私を捕まえた男は蹴飛ばしてやったから」


 その言葉を聞いて、順貴は珠李の肩を無意識に掴んでいた。


「馬鹿か! 何て無茶するんだ! 逆上されたらどうするつもりだったんだ!」


 順貴は柄にもなく出した自分の大きな声で我に返ると、目の前にはぽかんとして見上げる珠李の顔があった。


「……ごめんなさい」


 珠李が気圧されたようにぽつりと言った。


「……いや、こっちこそ……怒鳴ってすまない……」


 慌てて珠李の肩から手を離して謝ったものの、その場には気まずい空気が満ちた。

 親でもないのに、兄の志敬より感情的になってしまったことで居たたまれなくなり、順貴はその場をそそくさと離れた。そのあと暫くは珠李の顔を見られなかった。

 なのにそれに反して珠李は、これがきっかけで順貴に対する壁を取り払ったようだった。残っていた他所行きの態度がなくなり、兄の志敬と同じ扱いをするようになった。

 しかしそのことで順貴は自分の気持ちに気づいてしまった。

 自分は珠李のことを妹としてなど見ていないことに。







 順貴は片手で顔を覆ったまま、固まっていた。

 つい先ほど聞いた、「恋とかじゃありません」という珠李の発言のせいだ。

 順貴は自分が珠李のことを好きだと自覚してからも、自分の想いを打ち明ける気はなかった。珠李は英賢のことを慕っているのだから、と珠李への気持ちに蓋をした。

 珠李が命を懸けるほどに英賢のことを想っているのならば、是非とも報われて欲しいと思っていた。英賢との仲を静かに見守るつもりであった。

 ところが、それが勘違いだったと知って、重しだった蓋が外れてしまったようだ。

 順貴はようやくもう一度大きく息を吐くと、顔を上げて元来た道を青龍門へと足を向けた。歩くと、吹く風が向かい風になった。

 足早に歩きながら、順貴はこれからしようとすることを思い、自分がこんなに衝動的なことをする人間だったとは、と呆れていた。

 そう行かないうちに、先ほど別れた珠李がこちらへ歩いて来る姿が見えた。


「珠李殿」


 順貴が声をかけると、珠李は驚いたように近寄ってきた。


「どうしたんですか?」


 順貴は珠李の声を聞いて、顔の温度が少し高くなったのを感じる。珍しく緊張していた。


 この自分の行動は全く理性的でない。しかし、蓋が外れたこの勢いに乗らないと、恐らくきっともうこんな気にならないだろう。外れた蓋を元に戻してしまう自分が想像できる。

 英賢を恋愛対象として見ていないからといって、珠李が自分のことを好きになるわけではない。それはわかっている。むしろ、自分の気持ちなど珠李にとって迷惑なことかもしれない。


 そう思いながらも、順貴は伝えようと決めた。

 珠李の前に立つと、風が立木の葉を揺らす音が、ざわざわと順貴の耳についた。

 珠李が訝しげに順貴を見返す。

 順貴は珠李の目を真っ直ぐに見て言った。


「突然申し訳ない。実は、私は珠李殿が好きだ」


 衝動的に行動を起こした割に、順貴の想いを伝える告白は、まるで業務連絡のようになった。

 あまりにも事務的な口調に、珠李は何か難しい仕事を言いつけられたように身構える。しかし、瞬きを数回すると、順貴の言葉を理解したらしく目を見開いた。

 珠李は黙ったまま、瞬きを忘れたのかと思うほど順貴をじっと見た。

 そろそろ順貴が沈黙に耐えられなくなってきた頃、珠李が口を開いた。


 順貴の耳に届く風が葉を揺らす音が、一段と大きくなった。

 



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