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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −綠條の巻−
108/192

二年季夏 温風至 4



「結局、英賢様と柳副使はうまくまとまったんですか。良かったですね」


 佑崔が理淑の熱弁に感想を述べる。


「そうなの! 本当に良かった!」


 機嫌よく理淑が言った。


 理淑の怪我は順調な経過をたどり、夏邸での療養により、今では出歩ける程に回復した。ただし、怪我が治りきっていないのと、寝込んでいたため筋力と体力が落ちてしまったのとで、まだ元のとおりとはいかない。

 理淑が久しぶりに羽林軍の鍛錬場を覗いてみると、同僚兵士達は理淑を囲んで無事を喜んだ。

 鍛錬に戻った同僚達を、理淑はしばらく大人しく見学していた。しかし、我慢できなくなって飛び入りしそうになったのを、遅れて鍛錬にやって来た佑崔に見つかってつい先ほどまで説教されていたところだ。

 恨めしそうな顔をしていたが、英賢の話になって機嫌を直した。


「それにしても柳副使とは。また想定外の方と」

「でしょお? もー、兄上かっこいい!」


 理淑が満面の笑みで言う。


「柳副使がねえ、素敵なのよ! ばりばり仕事をこなす切れ者なのに控えめで物静か! 涼しげな目が美しくて、立ち姿はその名のとおり柳の枝のようにすらりと嫋やか! 兄上とお似合いだと思うの。そんな方が義姉上に!」

「もうそこまで話が進んでいるんですか」


 佑崔が驚いて聞く。


「ううん。まだ正式には」


 けろっと言う。


「しっかり決まってないなら、まだいい加減なことを言いふらさない方がいいですよ。女官の皆さんが混乱するから」


 佑崔が顔をしかめて釘を刺す。

 何せ妹達にしか目が向いていなかった、あの碧公に想い人ができたのだ。それを知ったらきっと、数いる英賢贔屓の女官や貴族の息女たちは衝撃を受けるに違いない。

 昨年、形ばかりだった婚約が解消されて、希望を抱いた者も多かっただろうに。

 一貫した妹君への溺愛ぶりで完全に油断していた、しかも他国の女性に持って行かれた、と一部の女性達は歯噛みするだろう。

 しばらくは荒れるだろうな……と佑崔が苦笑いした。

 すると、上機嫌だった理淑が、んん? と口をへの字にしてもぞもぞし始める。


「あれ、まずい。包帯が解けてきちゃったみたい」


 直そうとするが、服の上からでは上手くいくはずがない。


「今朝、姉上に巻いてもらったんだけど……」


 理淑が、うーん、と呻きながら身をよじらせる。見かけによらず不器用な範玲が巻いた包帯は、きっと始末が甘かったのだろう。


「考えなしに動き回るからです。ほら、直してもらいに行きましょう」


 佑崔は溜息をつくと、理淑を太医署へ連れていくことにした。

 夕方近くなっているが、日の長い季節なのでまだ明るい。気温もまだ高いが風が吹くと心地よい。少し歩くが問題ない距離だろう。そう判断する。

 鍛錬場を出る時に、打ち合いをしている同僚達に理淑が手を振ると、「早く戻ってこいよー」と幾つも声が掛かった。理淑が嬉しそうに、「わかったー」と返事をする。

 それを見て、ゆっくり歩きながら佑崔が言う。


「しばらくは大人しく療養に専念してくださいね」

「もう大丈夫だってば。包帯だってもういらないよ。傷はふさがってるんだから」


 理淑が佑崔の後に大人しくついていきながらも、口を尖らせる。


「ふさがっているだけです。まだ治っていません。医師からの許可も出ていないでしょう」

「だって、このままじゃ身体がなまって、ますます佑崔殿に勝てなくなる」


 理淑が不満そうに言う。


「文始先生に特製の薬を作ってもらったんでしょう? 普通よりも治りは早くなるんですから、それくらいの間は我慢してください」

「……だって……」

「ひどい怪我なんです。治すべき時にちゃんとしておかないと後々()けが来ますよ」

「うーん……。だけどさぁ……」


 まだごたごたと言う理淑を佑崔がじろりと見る。


「ちゃんと治してない人とは手合わせなぞしませんからね」


 それを聞いて理淑が、うう、と言葉に詰まる。


「ずるいよ。手合わせしないとか言うの……。そういえば、あの時もそうやって脅した」


 意識がなかなか戻らなかった理淑に、「起きないと二度と手合わせをしない」と佑崔が言ったことを持ち出し、恨めしそうな目で見る。


「起きたんだから手合わせして」

「ちゃんと治せばします」


 譲らない佑崔に理淑が、むう、とむくれる。


「何て顔してるんですか」


 ちらりと理淑を見て佑崔が苦笑する。


 意識がなかった時のことを思うと、"大人しくしていろ"などと言えるようになったのが嘘みたいだった。


 ……あんなのはもう勘弁してほしい。


 意識なく横たわる理淑を思い出し、佑崔の鳩尾が重くなる。


「……あの時、ちゃんと聞こえてたんですね」


 佑崔が聞くと、理淑が、ひょこ、と跳ねるように顔を上げて答えた。


「うん。兄上や姉上達の声も聞こえたよ。でも、戻りたくてもどうしたらいいか分かんなくて。手も足も動かないし。おっきな声で叫んでたつもりだったんだけど、全然駄目だったんだね」


 その時のことを思い出すように理淑が眉間に皺を寄せる。


「で、途方に暮れていたら、佑崔殿が意地悪言うのが聞こえたんだよね。悔しくて無茶苦茶に暴れてたら、気がつくと目の前に佑崔殿がいたの」

「何ですかそれは」


 ぶっ、と佑崔が吹き出し、声を出して笑った。

 爆笑する珍しい佑崔の姿に、理淑もつられて一緒に笑う。

 ひとしきり笑うと、機嫌を直して佑崔と並んで歩いていた理淑だが、歩く度にどんどん解けていく包帯に我慢ならなくなった。


「あーもう包帯とっちゃいたい」


 理淑がその不快さに頬を膨らませて言うと、佑崔がもう少しだから、と(なだ)める。


「包帯巻いてるとほんとに動きにくいんだってば」


 不満そうに言う理淑を佑崔が横目で見る。


「文始先生の薬を塗った傷を保護するために包帯を巻いてるんですよね。ちゃんとしておかないと傷跡が酷く残ると聞きましたよ」


 先日、えらく沈んだ様子の英賢を見かけて佑崔が声をかけると、理淑の傷跡のことを思い悩んでいた。肩から脇、腰にかけての大きな傷跡だ。

 理淑の意識が戻るまでは、傷跡を気にするどころではなかったし、意識が戻ってからも、とにかく回復することが最優先だった。だからあまり英賢の頭に傷跡のことはなかったようだ。

 そんな時に医師に言われて傷跡のことに気づいた英賢の動揺ぶりは、相当なものだった。溺愛する未婚の妹に、自分を守るために大きな傷をつけさせてしまったことに、英賢は酷く狼狽していた。

 玄海の暗闇よりも深い溜息をついた挙句、佑崔に「理淑と結婚しない?」などと言い出す始末だった。呆気にとられる佑崔に、「……ごめん。そういう問題じゃないね」と我に返ったものの、相当迷走しているのはよく分かった。

 結局、昊尚に頼んで文始先生に薬を作ってもらうことで、どうにか英賢は自分に折り合いをつけていた。


「どのみち、もう結構な傷になってるよ」


 理淑が言う。


「……だからです……」


 佑崔が顔をしかめる。


「見る? ちょうど包帯もずれてるし」


 理淑が胡服の襟元を開きかける。


「うわ、馬鹿ですか!」


 佑崔が飛び退った。


「そう? 肩ならちょうど見えるのに」


 面白いものを見つけて持って来たのに褒めてもらえなかった子どものような顔をして、残念そうに理淑は言う。そして、自分で襟元から傷を覗いて、おお、と小さく声をあげた後、元に戻す。


 理淑が襟元を直している間に先へ行った佑崔が、振り向いて待っていた。

 佑崔の端正な顔には愁いが浮かんでいた。口調はいつものとおりだが、時々こんな顔をすることに理淑は気づいていた。

 理淑は、心配をかけたんだろうな、と鼻を擦った。


 そこに緩い風が吹いてきて鼻先を撫でた。植え込みの梔子(くちなし)を揺らしてきたのだろう。風は甘い香りがした。


「行きますよ」


 声を掛けて佑崔が再びゆっくりと歩き出した。

 理淑はいつも追いかける姿勢の良い後ろ姿を改めて見た。


 もしあのまま意識が戻らなかったら、梔子の甘い香りを嗅ぐことも、目標にしているあの細身の背中を二度と見ることもなかったのか。


 そう思うと、理淑の足は自然と佑崔の後を追っていた。

 佑崔に追いついて並ぶと、理淑は今まで言いそびれていた言葉を口にした。


「……あの時はありがとう。佑崔殿のお陰で戻ってこられたよ」


 佑崔は、いいえ、と素っ気なく返すと、前を向いたまま言った。


「……無茶はしないでほしいですね」


 そう言う佑崔の整った横顔はやはり物憂げに見えた。


「……ええと……」


 理淑は迷った後、どう言おうかと考えながら話し始めた。


「……兄上がね、傷の話になるともの凄く落ち込むんだ」


 佑崔がちらりと理淑に視線を送る。


「でも、兄上達を守れたんだから、私は傷なんて気にしてないんだよ。兄上を守れない方が断然、嫌だから」


 理淑は当たり前のことのように言った。心配する佑崔を気遣って言ったものではなかった。


「……私の母上は、私を産んですぐに亡くなったの。……皆、私には言わないようにしてたみたいだけど、お産が原因だったらしいんだ」


 話の方向が変わったことに一瞬戸惑い、佑崔が理淑を見る。


「あ、母上が亡くなったのは私のせいで、って話になるわけじゃないよ。……第一、そんなふうに考えたりしたら、頑張って産んでくれた母上が悲しむし」


 理淑は少し焦ったように早口で言うと、額を掻きながら話を戻す。


「ええとね、何を言いたいかというと、大切な人を、自分が何もしないままで失うのは嫌だ、ってことなの」


 佑崔はゆっくりと歩きながら、理淑の言葉を聞く。


「母上の時は、まあ、当たり前だけど、私、何にもできなかった。そんなふうに、自分が何もできずに大切な人を亡くすのはもう絶対に嫌なんだ」


 理淑が足を止めた。


「だからね、大切な人達が危険だったら、私は迷わず助けに行くよ。こんな傷一つで助けられるなら何てことない」


 佑崔も足を止めて理淑を振り向く。ちょうど傾きかけた陽の光が、いつもより大人びた顔の理淑を縁取っていた。

 佑崔は眩しさに目を細めた。


「でも、私が怪我をしても心配かけちゃうのはよく分かったから、怪我しないようには頑張るよ」


 理淑は佑崔に誓うように言った。

 真っ直ぐな決意のこもった瞳は、碧玉のように美しかった。

 あ、と理淑が思い出したように付け足す。


「……母上のことが元で、ってことは兄上達には言わないでね。余計な心配するといけないから。特に兄上が」


 そう言って笑う理淑を見て、短く息をつき、佑崔が困ったような顔で言った。


「理淑様は……男前ですね」

「え? そう?」


 キョトンとした理淑の顔が途端に幼くなる。

 佑崔が今度は大きく息をついて静かに言った。


「……私の負けです」

「え? 何?」


 理淑が佑崔に近寄って下から覗き込む。


「寄って来なくていいですよ」


 佑崔が顔をしかめながら、理淑の額を、ぺし、とはたいた。


「痛っ! 怪我人なのに!」

「うるさいですよ。こんな時だけ怪我人にならないでください」


 佑崔は面倒臭そうに言った後、膨れる理淑に目元を緩めて続けた。


「本当にその怪我はちゃんと治してください。そうしたら、理淑様の気が済むまで稽古に付き合いますから。……もっと鍛えて、もう二度と怪我をしないように皆を助けてください」

「やった。約束だからね」


 喜ぶ理淑に佑崔が頷く。

 すると、ふと理淑が真顔になり、佑崔を見上げて言った。


「もちろん佑崔殿が危ない時も、真っ先に助けに行くからね」


 思っていなかった言葉に、佑崔は理淑を驚いて見返す。

 そして笑みを(こぼ)した。


「じゃあ、お返しに理淑様が危ない時は助けてあげます」


 佑崔がそう言うと、理淑は、へへ、と嬉しそうに笑った。





**






 宗鳳二年、興国二百年に向けて着工した建国の祖の宗廟に、翠国の木材が一部用いられた。これ以後、翠国との貿易が盛んとなる。




(綠條の巻 了)

ここまで読んでくださってありがとうございました。


次の巻は、「鹿角解」で月季たちが持って来た件がメインの筋になります。

でもまだ話を詰めていないので、形になるまでまたしばらく本編の更新はお休みします。


またよかったら覗いてください。

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