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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −綠條の巻−
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二年季夏 温風至 3



 英賢は青龍門を発って青鶯門から城外へ出ると、奏薫の乗った馬車を追いかけた。

 馬車を見つけると、追い越して前に立ちふさがった。馬車は止まり、随行の兵士が緊張した面持ちで英賢の前に進み出たが、その正体を認めると驚いた顔を向けた。

 戸惑う兵士と御者に手を上げて謝り、英賢は馬から降りると馬車の横に立った。


「柳副使」


 呼びかけに困惑した声が返ってきた。


「……碧公……ですか?」

「そうです。突然すみません。お話があるので出て来ていただけますか」


 英賢が言うと、馬車の中から「出られません」と声がした。


「では、私がそちらに行っていいですか」


 そう英賢が返すと「お待ちください」と声がして、少しすると俯いた奏薫が馬車から降りてきた。


「申し訳ない。柳副使をお借りしますね」


 戸惑う随行の兵士に断ると、馬車から少し離れた欅の木の元へと移動した。


「……何のご用でしょうか」


 英賢が向き合うと、奏薫が目線を合わせないまま、抑揚をおさえた声で聞いた。

 俯く奏薫の長い睫毛は濡れていた。鼻の先も赤い。


「泣いていらしたんですか?」

「……違います。砂が舞って目に入っただけです……」


 奏薫が目元に手をやろうとする。


(こす)っては駄目ですよ」


 そう言って英賢が奏薫の手首を握ると、奏薫は視線を避けるように顔を横に向けた。


「……離してください……」


 奏薫が小さく言う。英賢が顔を傾けて見ると奏薫の目元は泣き腫らしたそれだった。今砂が入って涙が出たようなものではない。


「奏薫殿」


 びくりと奏薫の肩が震えた。

 やはり名前を呼ぶことに反応する。


「……もう何も悪いことは起こりませんよ」


 英賢が穏やかな声で言う。しかし奏薫は肩をすくめたまま動かない。


 本当に自分のしていることは正解なのか。


 怯える奏薫の様子を見て英賢は迷った。


 しかし、このまま帰してしまうことはできない。もしかしたら、これで会えなくなるかもしれないのだから。それはごめんだ。


 英賢は賭けに出ることにした。


「貴女が好きです。この間は、知っていて欲しいだけだと言いましたが、訂正します。貴女の気持ちが知りたい。私はどうしても貴女の笑った顔が見たい」


 英賢の視線の先で、まだ濡れたままの長い睫毛が震えた。青灰色の瞳に涙が溜まるのが見えた。


「……駄目です……」


 奏薫が手を引こうとする。しかし英賢は離さなかった。


「何が駄目なのです?」


 覗き込まれるのを避けようとして動かした青灰色の瞳から、はらりと涙が(こぼ)れた。


「私のことが嫌いならば、そう言ってください」


 英賢の静かな声に、奏薫の柳の葉のような眉が歪んだ。


「……駄目です……」


 声は冷静さを装うが、奏薫の長い睫毛の下から涙が幾つも落ちていくのが見えた。

 英賢は掴んでいる手を引いてそのまま奏薫を抱きしめた。今度は自制しなかった。

 奏薫は英賢を押し返そうと抵抗した。

 腕の中の奏薫は折れそうに細かった。英賢は壊してしまわないように、しかし逃さないように腕に閉じ込めた。


「……駄目です。私の従兄弟は理淑様を傷つけたのですよ」

「それを言うなら、理淑も貴女の従兄弟を斬りました」

「……駄目なんです……。本当に……」

「何故?」


 駄目だとしか言わなかった奏薫が、ついにほろりとこぼした。


「私などに関わったら、不幸になります……」


 その言葉に、糸口が見えた、と英賢は思った。

 英賢が奏薫を抱きしめ直す。


「どうしてそんなことを」


 抵抗する力が弱くなった。


「……叔父が……」


 奏薫の声が詰まって言葉が途切れた。


 ”お前に関わると皆不幸になるな”。


 敬元が恭仁の衛兵に捕縛される際に、嘲笑って言った言葉が奏薫の耳にずっと残っていた。


「馬鹿なことを」

「……でも……」


 英賢の手の下で薄い肩が震えた。


「実際に、私に情をかけてくださったばかりに、理淑様があんなことに……。……碧公が私を助けようとしたせいであんな目にあったのです……。……怖いのです。……私のせいで……碧公に何かあったら……これ以上碧公に災いがふりかかるのは……嫌なんです……」


 すっかり殻の剥がれた奏薫が涙声で言う。

 潮が満ちるように愛しさが英賢の胸に寄せてくる。

 奏薫が距離を置こうとした理由はわかった。自惚れても良かったのだ。

 もう迷う理由はなくなった。と英賢は思った。


「私を不幸にしたくないと思うのならば、私から離れて行かないでください。貴女に会えないのは私にとって不幸なのです。貴女が必要です」

「……駄目です」

「私では嫌ですか?」

「……駄目です……。離してください……」


 自分の気持ちを言わないまま、同じ言葉だけで拒絶する奏薫を離してやるつもりはなかった。


「……では、嫌だと言ってください。そうしたら、離してあげます」

「……」


 奏薫が黙り込む。


「……嫌だと言ってください」


 英賢が優しく言った。

 涙声の奏薫がぽつりと呟く。


「……碧公は……意地悪です……」


 英賢は嫌だと言えない奏薫がたまらなく愛しかった。


「たまに言われます」


 そう言って笑うと、大人しくなった奏薫の背中をあやすように叩いた。


「もう諦めなさい。諦めて私のことが好きだと認めてください」

「……」


 奏薫の緊張が英賢に伝わる。迷っているのもわかった。

 英賢は急かすことはしないで奏薫を待った。

 沈黙の後、奏薫が英賢の袍をおずおずと掴んだ。


「……」


 小さく何かを言った。


「ん? もう一度お願いします」


 英賢が頭を下げて奏薫に耳を寄せる。


「……好き……だと、思います……」


 顔を上げないまま、自信なげに奏薫が言った。


「随分頼りない言い方ですね」


 英賢が小さく笑いを漏らすと、奏薫が肩をすくめた。


「……本当にそうなのか、自信がない……のです。……碧公のことになると感情が……乱れます……。……碧公に名前を呼ばれると鼓動が早くなります……。でも、また恐ろしいことが碧公に起こるのではないかと……怖くもなるのです。……碧公に迷惑をおかけするのは嫌で……どうしても嫌で……でも……もうお会いできないのだと思ったら……苦しくて……悲しくて……涙が止まりませんでした……」


 訥々と口にするその言葉を一つ残らず、奏薫と一緒に抱き締めなおす。


 ああ。この人を諦めた方がいいかもしれないなんて、馬鹿なことを考えたものだ。


 英賢は心の中で自分に言った。

 賭けに出てよかった、と心から思った。


「大丈夫です。合ってますよ。私も同じです。貴女のことになると冷静な判断ができなかった。貴女と会えなくなるのは我慢できなかった」


 英賢は穏やかに言い聞かせるように続けた。


「……貴女の気持ちは確かに聞きましたからね。取り下げは認めません」


 えぐられた英賢の胸は奏薫への愛しさで埋まる。


「名前を呼んでも?」


 英賢が聞くと、腕の中の肩が少し緊張するのが分かった。


「奏薫殿」


 言いながら固くなった肩を安心させるように撫でる。


「慣れてください」


 英賢が笑うと、腕の中で奏薫は肩の力を抜いて英賢に身を預けた。

 腕の中ですっかり大人しくなった奏薫との距離を、英賢はもう一歩詰めるつもりだった。


「仕事は辞めると聞きました」

「……はい……。後任が決まって、引き継ぎをしてから」

「辞めたら、蒼国に来ませんか?」


 奏薫が少し考えて言った。


「……そう、ですね。……また今度……」


 英賢が苦笑する。


「言い方が悪かったようです。……貴女にはずっと蒼国にいてほしいんです」


 奏薫が顔を上げた。

 英賢が青灰色の瞳を見るために腕を緩めると、奏薫が身を離して英賢を見上げた。英賢はようやく正面から顔を見ることができて微笑む。


「それはどういう……」

「貴女とずっと一緒にいたいんです」


 奏薫は英賢の言葉をどう処理して良いのかわからず眉を顰める。

 英賢は見上げてくる奏薫の腫れた目元を指で優しく撫でた。


「……本音を言えば、私は今すぐにでも貴女を連れて帰りたいのですけどね」


 英賢は呟くと、奏薫の手を取り、真っ直ぐに目を見て言った。


「私の妻になってほしいのです」


 奏薫の顔が強張る。


「……それは……いけません」

「どうして?」


 英賢が聞くと、奏薫は目を逸らした。


「人には(ぶん)というものがあります。……私では碧公に相応しくありません」


 青い顔で英賢を見ないまま言った。


「私のことを好きだと言ってくれたじゃないですか」

「……婚姻は、家の問題です……」

「何の問題もありません。私は貴女がいいと言っているんですよ?」

「……」


 奏薫は唇をぎゅっと結んだまま俯く。


「強情ですね」


 英賢は眉を下げると、奏薫の頬を両手で包んだ。顔をそっと上げさせて、痛みに堪えているような目を覗き込んだ。


「私は貴女がいいんです。貴女じゃないならいらない」


 英賢を見つめ返す青灰色の瞳が揺れる。


「貴女がわかってくれるまで、何度でも言います。貴女じゃないと嫌です」


 奏薫の長い睫毛と唇が震える。掠れた声も震えていた。


「……本当に……私でいいのですか……?」


 英賢は目を細めると、奏薫を包み込むように言った。


「貴女以外には考えられないな」


 再び奏薫の目からは幾粒も涙が溢れた。


「……すっかり泣き虫になってしまいましたね」


 英賢は優しく言うと、奏薫をそっと抱きしめた。









「珠李殿? どうした?」


 英賢を見送った珠李に背後から声がかかった。

 珠李が振り向くと、兄の志敬の同僚の周順貴がいた。


「英賢様が柳副使を追いかけて行ったんですよ。そのお見送りです」


 言って、ふふ、と笑う。


 つい先ほど、理淑に食事を届けに行くと、昊尚が扉の前にいた。声をかけようとすると、昊尚は唇に指を当てて珠李のところに来た。そして声を潜めて言った。


「英賢殿のために、馬を青龍門に用意しておいてほしい」


 珠李はその理由を聞いて快諾すると、理淑の食事を昊尚に預けて、急いで厩から馬を借りて青龍門にやって来た。

 ちょうど引き返そうとしていた英賢に、無事に馬を渡すことができた。


 間に合って良かった。


 珠李は自分の働きに満足していた。

 そんな珠李を見て、順貴の眉間に皺がよる。


「それって、良かったのか?」

「どういう意味ですか?」

「いや、だって、珠李殿は碧公のことが……」


 順貴が言いにくそうにすると、珠李が、ああ、と溜息をついた。


「その噂、まだ残ってるんですか」


 以前、長古利を逃がすために朱国の広然に利用されそうになった時に、自分が英賢の足手まといにならないように、自分が裏切り者だと思わせる発言をした。その時の”珠李は裏切り者だ”という誤解を打ち消すために、あれは実は、珠李が恋い慕う英賢を庇うために、我が身を顧みず芝居を打ったのだ、という噂が故意に流された。


「違うのか」


 順貴が驚いた顔をする。


「違いますよ。英賢様のことはお慕いしていますが、そういうのじゃありません」


 珠李は何度も同僚に言った台詞を、少々煩わしく思いながら口にする。


「英賢様にはお幸せになっていただきたいだけです。恋とかじゃありません」

「本当に?」


 なおも疑う眼差しの順貴にうんざりとして言う。


「しつこいですよ」


 珠李がじろりと睨むと、順貴は何かを言いたげに口を開けたまま固まっていた。


「順貴殿?」


 珠李が声をかけると、順貴が大きく息をついた。


「何だ、そうなのか……」


 順貴は視線を泳がせて、そうかそうか、と何度も呟いた。それを、珠李が不審なものを見るような目で見ているのに気づくと、慌てて口を噤んだ。

 そして何か言葉を探すように再び口を開いたが、一瞬静止した後、じゃあまた、とぎこちなく手を上げて去っていった。

 珠李はそれを首を傾げて怪訝な顔で見送った。




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