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異聞蒼国青史  作者: おがた史
宗鳳の記 −綠條の巻−
105/192

二年季夏 温風至 1



 理淑が意識を取り戻したのを確認すると、佑崔は医官を呼んだ。そして英賢が向かった壮哲の執務室と範玲のいる史館へ、急ぎ知らせてもらった。

 知らせを聞き部屋へ飛び込んで来た英賢は、理淑の碧色の瞳を見て、その寝台の脇に跪いた。そして震える手で理淑の手をとると、言葉を発することもできず、ただその顔を見つめた。

 息を切らしてやってきた範玲は、目を覚ました理淑を見て泣き崩れた。


「……理淑……」


 何度も名前を呼んだ。絶対に理淑は大丈夫、と自分に言い聞かしてはいたが、不安で仕方がなかったのだ。

 意識が戻ったものの、理淑の身体は酷く衰弱していた。しかし、重そうに開いた瞼から覗く瞳にはちゃんと生命力が感じられた。

 理淑は、英賢と範玲を見て何かを言おうとしていたが、声を上手く出すことができないようだった。


「いい。喋らなくていいから」


 英賢が頭を撫でると、理淑がじっと見返した。

 どれほどこの碧色の瞳を見たかったことか。

 自分の声に反応してくれるだけで、英賢は胸にじわじわと喜びが溢れるのを感じた。

 壮哲や縹公、昊尚も、理淑の意識が戻ったのを聞いてやってきた。縹公はその厳つい顔を歪め、泣くのを誤魔化すように大きな手で理淑の頭をわしわしと撫でた。




 意識を取り戻した理淑は、少しずつ慣らすように薄い粥の上澄みから口にした。

 英賢は自ら理淑に給仕したがった。粥や羹湯(しるもの)などが運ばれてくる時刻になると、英賢もやってきた。

 自分の差し出す匙から理淑が食べるのを見ては、満足そうに目を細めた。




 話すことができるまでに回復した理淑が、粥を理淑に食べさせようとしている英賢に言った。


「……兄上、ごめんなさい……。怪我しないって約束したのに……」


 英賢が手を止める。


「……ほんとだよ……」


 文句を言いながらも、愛しそうに理淑を見ると続けた。


「でも……ありがとう。今ここにこうして居られるのは理淑のお陰だよ」


 そう言うと、理淑の顔がほころんだ。


「よかった……。柳副使も無事?」

「……うん。無事だよ」


 英賢は胸がちくりと痛むのを感じた。それを理淑に悟られないように、止めていた手を動かす。


 奏薫は元気だろうか。きっと理淑の身を案じているに違いない。理淑が目を覚ましたことを知らせる文を出したが、まだ届いてはいないだろう。

 それに、延士の件は解決したのだろうか。


 理淑が回復したことによる嬉しい気持ちの一方で、最後に見た奏薫の顔を思い出すと胸の奥が疼いた。


「兄上?」


 突然に憂いを帯びた英賢の顔を、首を傾げて理淑が見る。英賢は理淑に微笑むと、何でもない、と首を振った。





 食事を自分で摂ることができるようになると、理淑の回復の速度は速くなっていった。

 英賢は溜まっていた執務をこなしながら、日に何度も理淑の顔を見に行った。訪れるたびに回復していく理淑を見るのが嬉しくて仕方がなかった。

 この日も理淑を見舞った後、目覚めてからまだ五日か、と日を数えながら執務室に戻ると、来客があることを碧公付きの事務官に告げられた。


 応接室の扉を開けると、そこには奏薫の姿があった。


 まだ十日少ししか経っていないのに、奏薫にはもう随分会っていない気がした。

 英賢が部屋に入ると、奏薫が立ち上がった。灰色がかった裙がふわりと翻る。地味な色合いの襦裙でも、すらりとしたその姿は一目で英賢を惹きつけた。

 一瞬、英賢が焦がれた青灰色の瞳と出会うが、すぐにその視線は逸らされた。

 奏薫に会えた喜びと同時に、心にはずしりと重石を落とされたように感じた。


「……先日は、本当に申し訳ありませんでした……」


 強張った顔で奏薫が頭を下げた。相変わらず隙のない礼だった。

 しかし、満足に眠ることができていないのは一目でわかった。目の下には(くま)がはっきりと分かるほどに現れていた。それに、元々柳の枝のように嫋やかだった姿は、更に折れてしまいそうに見えた。

 その姿に英賢の胸が痛む。理淑のことでも心配をかけたに違いない。


「……理淑様は……いかがでしょうか……」


 奏薫が俯きがちに緊張した面持ちで尋ねた。

 理淑が意識を取り戻したことを、奏薫がまだ知らないことに気づく。奏薫宛てに送った文をまだ読んでいないのだ。入れ違いになってしまったのだろう。


「心配をかけてしまいましたが、理淑の意識は戻りました」


 英賢が安心させるように言うと、奏薫が顔を上げて英賢を見た。青灰色の瞳が小刻みに揺れた。


「……よかっ……」


 口元を両手で覆い、奏薫はその場に崩れ落ちた。


「柳副使……」


 英賢が思わず近寄り手を伸ばそうとするが、それを自制する。

 しかし、顔を両手で覆い(うずくま)る奏薫が、肩を震わせて嗚咽しているのに気付き、息を呑んだ。目の前の奏薫の姿に酷く動揺する。


 感情を出すことをしなかった、あの奏薫が泣いている。

 奏薫を覆っていた硬い殻が破れた。


 躊躇いなどは瞬時に消え去った。堪らず英賢は奏薫の肩に触れた。

 奏薫は逃げなかった。

 顔を隠す奏薫の細い手は震えていた。


「……よかった……」


 指の間からとめどない涙と掠れた声が(こぼ)れた。

 英賢は肩に置いた手で、そのまま奏薫を抱き寄せてしまいたかった。しかし、自分を押しとどめ、奏薫の肩をさすった。


「ええ。もう大丈夫です」


 そう言って床にしゃがみ込んだままの奏薫を立たせ、椅子に座らせた。

 英賢は奏薫の前に跪くと、ぼろぼろと涙を(こぼ)す奏薫を見つめた。


「もう理淑は大丈夫ですから。心配をかけましたね」


 そう言って手巾を手渡した。

 表情を崩さなかった奏薫が、これ程までに取り乱していることに、英賢の胸は痛んだ。

 奏薫の石の殻を割ってしまいたいと思ったが、こんな風に心配をさせたいと思ったわけではなかった。

 石の覆いを剥がして最初に見たかったのは笑顔なのだ。

 やり切れない思いで見つめていると、奏薫が声を絞り出すように言った。


「……延士を(そそのか)したのは……敬元叔父……でした……」


 一瞬、英賢は何のことを言っているのかわからなかった。しかし、それは延士が奏薫を襲った件だと気づく。


「どういうことですか……?」


 叔父の敬元は奏薫の味方ではなかったのか。父親の統来の腹違いの弟で、そのために同じ庶子という境遇の奏薫のことを気にかけていたのではなかったのか。

 奏薫が統来に監禁された時も、助け出して逃したのは敬元だったはずだ。その後も奏薫のために恭仁を動かし、奏薫の無実を証明するのに一役買ったと聞いている。


「……私があの時……延士が襲ってきた時……恭仁様に従って蒼国に来ていることを知っていたのは、叔父だけだったのです」


 奏薫が震える声で言った。


「あの時、私は謹慎中の身でした。恭仁様が蒼国へ発つ日に、急遽内密に私を連れにいらっしゃいました。私はそれを急ぎ叔父にだけ、知らせたのです。私の蒼国行きを知っていたのは、実際に恭仁様に随行した者以外には、叔父だけだったのです……」


 奏薫が大きく息を吸って、呼吸を整える。


「……叔父は、私の知らせを受けた後、延士を逃して蒼国へ送り込み、私を襲うように仕向けたのです……」


 理淑が斬られた日、あの廊下で奏薫の様子が急に変わったのは、延士を送り込んだのが、味方だと思っていた敬元だと気づいてしまったからだったのだ。


「そんな……」


 何故。


 それのみが英賢の頭を占める。

 奏薫は眉を寄せて唇を噛んだ。そして再び大きく息を吸って震える声を封じ、努めて冷静に話し始めた。


「……元々叔父と計相……統来とは仲が良くはありませんでした。統来は庶子である叔父を軽んじていました。叔父もそんな統来を嫌い、高い地位にいることを忌々しく思っていたようでした。……叔父は、私が統来の出世の道具となっていたことも知っていました……」


 奏薫は統来のことを決して父とは呼ばなかった。


「……叔父は、統来が更迭されると、その後任は自分だと思ったようでした。現在の柳家の当主は延士の兄ですが、まだ若く、延士のこともあるので計相の地位に就くには適当ではありません。叔父は、当主より年長でもあるし、先の件の解決に一役買っていました。だから、自分こそが柳家の代表として、計相の後任にふさわしいと思ったのでしょう」


 奏薫の声が感情の糸を切ったような淡々としたものになり、静かな室内に響く。


「でも、結局、計相の後任は別の方となりました。……あのような不始末を起こした柳家の者が高い地位を継ぐのは、却って養妃様や恭仁様の為にはなりません。だから、妥当な結果だと思いました。……でも、叔父はそれを不服としたのです」


 そこまで話すと、奏薫の瞳が再び揺れた。


「翠国に帰って、叔父のところに行きました」


 伏せた目はその時の事を思い出していた。



 敬元は奏薫を見ると驚いた顔をした。奏薫が「延士を逃して蒼国へ行かせたのは貴方か」と聞くと、初めは何のことかとしらを切った。しかし、奏薫が蒼国へ行ったことを知っていたのは敬元だけだという事実を突きつけると、態度が一変した。

 「お前が悪いんだ。ずっと気にかけて助けてやったのに、恩知らずの裏切り者め! 統来に尽くしたように私にも尽くすべきじゃないのか。何のためにお前を助けたと思ってるんだ。お前などいる価値はない!」と、敬元は奏薫を罵った。



「……叔父は、当然私が計相の後任として叔父を推薦するものと思っていたのです。計相になって、今まで自分を軽んじていた統来を、今度は自分が見下すつもりだったのです」


 奏薫は膝の上の指先を、視線が縫い付けられたように見つめる。


「……初めから……」


 奏薫の言葉が震えて途切れた。


「……母のためと思い、計相……統来を分不相応な地位に出世させる手助けをした私が間違っていたのです」


 使うことなく持ったままの手巾を、ぎゅっと握りしめる。


「だから、叔父があんなことを……」


 奏薫の目には再び涙が盛り上がった。


「私のせいです……。取り返しのつかないことをしました……。理淑様には本当に……」


 はたはたと涙が膝の上に握りしめた細い指の上に落ちる。

 英賢は奏薫の話を聞いて、統来と敬元への言い得ない嫌悪と軽蔑が身体の中に渦巻くのを感じた。


 どうしてこうも奏薫は身内に搾取されなくてはならないのか。


 怒りを抑え、できる限り穏やかな声で、奏薫の心に届くようにと祈りながら言った。


「違いますよ。悪いのは統来と敬元です。絶対に、貴女のせいじゃない。貴女は被害者だ」


 英賢は手巾を握りしめている奏薫の手に触れた。そして、奏薫から手巾をそっと取ると、(こぼ)れるままの奏薫の涙を拭った。

 奏薫は小さな子がそうするように、目を瞑って涙を拭かれるままに任せた。

 英賢はそんな奏薫を目の前にして、打ちひしがれる姿に胸が締め付けられるのと同時に、場違いにも愛おしいと思う気持ちが湧き出てくるのを(とど)めることができなかった。


「奏薫殿」


 しかし、英賢が名を呼ぶと、奏薫は我に返ったように目を見開いた。涙を湛えた青灰色の瞳には緊張の色が広がる。


「……申し訳ありません。取り乱しました……」


 そう言って英賢の手から逃れると、椅子から立ち上がって一歩下がった。


「叔父は、一緒に行っていただいた恭仁様の衛兵に捕らえられました……」


 奏薫が英賢から目を逸らしたまま静かに言った。


「……私の不徳から起こったことで、碧公の妹君に大変な怪我を負わせてしまいました。何とお詫びを申し上げたら良いかわかりません……。……本当に申し訳ありませんでした……」


 奏薫は深く頭を下げた。


「奏薫殿……」


 英賢の呼びかけを途中で遮るように、奏薫が頭を下げたまま続けた。


「この責任は私にあります。賠償については、私にお申し付け下さい。誠心誠意、償うよう努めさせていただきます」


 硬い声で言う奏薫が、英賢との間に再び高い壁を作ったのを知った。


「貴女からの賠償なんて……そんな必要はないですよ……」


 賠償、というよそよそしい言い方に、英賢は胸をえぐられるのを感じた。えぐられた箇所は、どくどくと血が流れるように痛む。


「もう、二度と……ご迷惑をかけないように……いたします」


 奏薫はそう言うと、やはり美しく完璧な礼をして部屋を後にした。




 

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