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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −綠條の巻−
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二年仲夏 蝉始鳴 4



 範玲が右の耳飾りを外して理淑に触れ、微かに理淑の意識を読み取った。

 目覚めた英賢にそのことを伝えると、これまでの全く回復の兆しを見出せなかった状況に比べると、格段に明るい希望を抱いた。範玲や英賢だけでなく、壮哲、縹公や昊尚たちも理淑の目を覚まさせようと、枕元にやって来て呼びかけた。

 しかし、いくら呼びかけても、理淑の手を握る範玲が微かにその意識を感じるだけで、見かけ上は何も変化がなく、やはり理淑の生命の維持に限界が近づいて来ていることには何ら変わりがなかった。


 この日も理淑は目覚めず、またこうして時間が過ぎてしまうのか、と誰もが焦りを感じていた。

 佑崔は英賢を訪ねてきたが、扉の前で立ち止まった。

 溜息を飲み込み、声をかけて部屋に入ると、英賢が一人、理淑の枕元に座っていた。薬で眠った英賢を隣室に運んでから二日経っている。

 英賢は理淑の手を持って祈るように額に当てていた。佑崔が入って来たのに気づくと、虚ろになりかけていた碧色の目を向けた。


「ああ。佑崔か」

「英賢様……申し訳ありませんが、壮哲様の執務室へ少しだけおいでいただくことはできますか……?」


 遠慮がちに佑崔が言うと、英賢が立ち上がった。


「……うん。大丈夫だよ」


 またあれから眠っていないのだろう。一時(いっとき)良くなった顔色は、佑崔が見るたびに悪くなっている。

 佑崔はまだ目覚めない理淑を見る。その視線を英賢が追って言った。


「悪いけど、今、範玲が史館に行ってるから、帰って来るまでいてくれないかな」


 英賢は理淑の頭を撫で、一瞬眉を寄せて辛そうな顔をしたが、じゃあ頼むね、と言って部屋を後にした。


 佑崔はこんな時にも平静を心がけようとする英賢を複雑な思いで見送ると、理淑の枕元へ進んだ。

 寝台の上の姿は、小さな子が寝こけているようにも見えた。

 理淑が斬られた時のことを思い出すと、佑崔は心臓が掴まれたように痛みを感じる。

 あの時、気付いた時には既に理淑が飛び出していた。


 自分が先に気づいていたら。自分が奴の剣を受けていれば。


 たら、れば、など考えてみても仕方のないことだが、それは佑崔の頭から消えなかった。


 英賢から、無茶をしないように気をつけていてくれ、と言われていたのに。面倒を見てやっているようなつもりでいたのに。こんな怪我をさせてしまった。


 英賢は佑崔を詰ることはしなかった。詫びても、佑崔のせいではない、と首を振った。


 いつものように英賢に詰ってもらった方が、いくらかは楽かもしれない。


「理淑様」


 呼んでみたが、やはり返事はない。理淑が意識を失ってから、佑崔も幾度となく呼びかけている。全く王族の県主(ひめ)らしくなく、鬱陶しいほど元気だった理淑のこんな姿は、未だに現実のことではないように思えた。


「羽林の皆も心配してますよ」


 同僚の兵士たちも、目を覚まさない理淑を案じて火が消えたように静かだ。

 理淑が羽林軍に入ることになった時、兵士たちの中には複雑な顔をする者もいた。それまでも、時々訓練に混じっていたので、理淑の腕が立つのは皆が知っていたし、親しく会話を交わすこともあった。しかし、あくまでも彼らにとって理淑は客であって同朋ではなかった。


「結局、県主(ひめ)の道楽だろう。我らとは違う」


 そう思う者がいたのは確かだ。

 しかし、曹将軍の方針でもあったのだが、羽林軍に入った理淑は、他の兵士たちと全く同じように過ごした。初めのうち、県主(ひめ)君だから、と理淑に気を遣っていた者も、直ぐにそんなことはしなくなった。

 それは佑崔も同じだった。

 すぐに扱いが雑になったな、と佑崔が苦笑いする。

 月の女神に例えられる程に美しいと誉れ高い範玲と、ほぼ同じ容貌でありながら、その美貌を気にさせない。

 相手の懐に入る才能は天才的だ。


 佑崔は溜息をついた。


 初めの頃は、理淑につき(まと)われることが鬱陶しかった。しかし、面倒を見ているうちに、弟というのはこんな感じだろうか、と思うようになった。今やいないと物足りないと思う自分に、すっかり懐に入られてしまったことを実感する。

 寝台の上で眠るように目を閉じている理淑を改めて見る。


「……理淑様。いつまで寝ているんですか。いい加減に起きてください」


 いつもの説教をする口調で言った。しかしやはりなんの反応もない。


「まさか、このまま目を覚まさないつもりじゃないでしょうね」


 口にしてみて、佑崔は後悔した。鳩尾のあたりが鉛でも飲まされたように重くなる。


 もしもこのまま理淑の目が覚めなかったら、などとは考えたくなかった。あの周りを照らすような明るさは、失っていいものではない。



 ここへ来る前に、佑崔は羽林軍の先輩兵士に呼び止められた。いつぞや佑崔を酒で負かそうとした男だ。

 理淑の容体を聞いたあと、その厳つい顔を歪めて溜息をついた。


「本当に信じられないな。理淑殿が寝たきりなんて」


 佑崔が頷くと、その兵士はそういえば、と話し出した。


「お前を倒す会があるんだが、知ってるか?」

「何ですか、その物騒な会は」


 佑崔が聞くと、その兵士は微かに思い出し笑いをした。

 理淑がまだ佑崔に不意打ちを仕掛けていた頃のことだ。数人の兵士が理淑に、複数で襲いかかったら勝てるだろうから手助けしよう、と提案した。すると理淑は、「貴方達も佑崔殿に勝ちたいんだ? じゃあ、打倒佑崔殿を一緒に目指しましょう!」と、話を持ちかけて来た兵士たちを鍛錬に誘った。言った兵士たちは、単に佑崔が理淑に負ける姿が見たかっただけなのだが、そんなことはとても言い出せなくなった。それで理淑に連れられて、執務時間外に自主的に訓練をするようになった。

 初めのうちは付き合いで参加していた兵士たちも、打倒佑崔を目標に訓練しているうちに本当に楽しくなってしまった。それを見て、その自主的な会に参加する者も増えたと言う。

 話してくれた兵士は、少しバツが悪そうに頭を掻いた。


「実は俺もその話を持ちかけた一人だ。今だから言うが、新人のくせに、お前があんまり強いんでやっかんでたんだ。けど、理淑殿は、俺らの負の感情を逆手に取って、お前を倒すことを鍛錬の動機付けにしちまったんだ。……狙ってそうしたのかは分からんがな……。今や参加者は皆、お前に勝ってみたくて腕を上げてる。お前に手合わせを申し込む者が多いだろ。それはこのせいだ」


 普段、佑崔は壮哲の側に控えているため、羽林軍の同僚たちと過ごす時間はあまり多くない。だからそんなことになっているとは知らなかった。しかし言われてみれば、羽林軍の訓練に行くと、佑崔と手合わせをしたいと言う者が引きも切らないのを不思議には思っていた。


「まあ、当分お前には勝てないけどな。この前、酒でなら勝てると思ったのに、それも失敗したのは悔しかったな」と笑うと、「理淑殿に早く帰って来るように伝えてくれ。理淑殿がいないと会が盛り上がらん」と去って行った。



 佑崔は理淑を見つめる。


「全く、何をやってるんでしょうね」


 小さく呟く。


 勝手に人をだしに使って。文句の一つも言ってやらないと。


 範玲の言っていたとおりだとすると、話しかけたことを理淑は聞いているはずだ。


「私を倒す会を作ったそうじゃないですか」


 声を不機嫌にして言ってみる。


「その会の一員とやらが早く帰って来てくれと言っていましたよ」


 反応は相変わらず無いが、話を続ける。


「おかしな会を作ったんなら、最後まで責任を持って面倒を見てください」


 少しの変化も見逃さないように、じっと理淑を観察する。


「それに、もう随分訓練を休んでいますよ」


 毎日楽しそうに鍛錬していた理淑が浮かぶ。


「そんなに鍛錬を休んだら、身体も鈍ってますね」


 本人としては不本意だろう。


「理淑様はまだ私に一度も勝っていないのに」


 そうだ。


「また私との力の差が開いてしまいますね」


 黙って聞いていられなくなるように。


「そうそう。今日も羽林軍の鍛錬があったんですけどね」


 うずうずしてじっとしていられないような。


「皆、本当に強くなっていて」


 地団駄を踏んで悔しがる挑発を。


「この調子だと、私を倒す会とやらの他の奴が、きっと理淑様より先に私を負かしてしまいますね」


 ほら。

 戻ってください。


 そう願った。

 すると。理淑の長い睫毛がぴくりと動いたような気がした。

 佑崔の心臓が大きく脈打つ。


「……理淑様?」


 先ほどまで英賢が握っていた理淑の手を取る。

 佑崔よりも小さい手には硬い剣だこがあった。その手をぎゅっと握ってみたが、理淑からの反応はない。

 睫毛が動いて見えたのは気のせいだったのだろうか。

 佑崔はもう一度理淑に呼びかけた。


「剣だこも柔らかくなり始めてますよ。いつまでもこんな風にさぼっていたら、一生私には勝てませんね」


 ぴくりと理淑の指が動いたような気がした。

 佑崔は自分の鼓動が早くなるのを感じる。


「理淑様、起きてください」


 理淑の頬をぴたぴたと軽くたたく。


「今起きないと、もう二度と貴女とは手合わせしません」


 そう言って佑崔は待った。

 見つめる先の長い睫毛がぴくぴくと動くのが目に見えてわかった。

 理淑の手を握る佑崔の手に力がこもる。


「理淑様」


 頼むから。


 佑崔が凝視する睫毛が、ふるふると振れた。そして、震える睫毛の下から碧色の瞳がほんの少し覗いた。


 こんなにこの碧色が懐かしいと思ったことはなかった。


「理淑様」


 もう一度佑崔が呼ぶ。

 瞼が酷く重そうで、ちゃんと目を開けることはできないようだ。


「……だ……」


 理淑の(わず)かに開いた口から、掠れた音が微かに(こぼ)れた。

 佑崔は喉の奥が詰まるのをこらえて聞いた。


「何です?」


 理淑の口元に顔を寄せると、再び微かに声が聞こえた。


「……や、だ……」


 佑崔は思わず笑った。


 紛れもなく理淑だ。

 理淑が戻ってきた。


「……じゃあ……早く良くなってください……」


 佑崔が理淑の碧色の瞳を覗き込んで言うと、理淑は頷くように睫毛を伏せた。




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