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異聞蒼国青史  作者: 緒方史
宗鳳の記 −綠條の巻−
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二年仲夏 蝉始鳴 3



 範玲が部屋へ入ると、英賢が床に片膝をついて片手で顔を覆っていた。


「兄上!」


 駆け寄って倒れそうな英賢を支える。


「……ああ、ごめん。ちょっと、立ったら目眩がしてしまって」


 目元に手を当てて英賢が苦しげに息を吐く。


「……お休みになっていないのではないですか」


 範玲が英賢の顔を覗き込む。酷い顔色だ。


「……いや、うん……」


 英賢が曖昧に頷いた。


 理淑が斬られてから五日が経った。

 目覚めない理淑に付きっきりでいた範玲も、先日倒れた。その時、昊尚は泣き続ける範玲の右の耳飾りを外すと、手を握って眠るように誘導した。眠りから覚めると、範玲の絶望していた気持ちが少し前向きになった。理淑は大丈夫。そう信じることができるようになっていた。

 対して英賢は、相変わらず碌に眠ってもいない様子だ。身体も気持ちも消耗し続けている。

 溜息をつくと、英賢は自嘲するように言った。


「……眠れないんだ」


 英賢が初めて弱音を吐いた。


 こんな英賢を範玲は見たことがなかった。

 両親とも亡くした範玲と理淑にとって、英賢は親代わりだ。どんな時も頼りになる兄として、揺らぐことのない存在だ。

 若くして碧公を継ぎ、青家の義務をそつなくこなす英賢は、柔らかい物腰ながら(したた)かな切れ者としてとおっている。そんな英賢の唯一の弱点が二人の妹だというのは、周りの共通の認識だ。

 弱点の一つである理淑が、よりによって自分を庇ったためにこんなことになってしまった。それが英賢には耐え難いことだというのは、範玲にもよくわかっていた。

 そんな状況でも、範玲の前では英賢は冷静だった。


 でもそれは、自分に不安を与えないようにするためだったのだ。だからこんな風に自分に弱音を吐くというのは、もう限界が近いのだ。


 そう思うと、申し訳なくて範玲は泣きそうになった。しかし。


 今まで心配をかけてばかりだったのだ。こんな時こそ、自分がしっかりして、兄上を支えなくては。


 範玲は英賢を支える手に力を込めた。


「ちょっと待っててください」


 範玲は肩を貸して英賢を椅子に座らせると、部屋を出た。


 英賢はその背中をぼんやりと見送り、ゆっくりと理淑に目を移した。

 つい先ほどのことだ。未だ目を覚まさない理淑の脈をとって、医師が険しい顔をして言った。


「……傷は……良くなっています。しかし……傷とは別に、このまま意識が戻らなければ……お命自体が……」


 意識がないものの、呼吸だけは正常に行われている。しかし、水分や栄養が補給できていない状態だ。この状態があと数日続けば、生命の継続は難しいだろうと言う。

 英賢は頭を殴られたような気がした。

 全く思考が停止してしまった。その時は、そうですか、と口が動いたような覚えがあるが、医師が出て行くと急に目の前が暗くなった。気がつくと範玲に支えられていた。

 理淑の顔をまじまじと見る。何度見ても、英賢が溺愛する愛らしい顔は目を閉じたままだ。

 このまま、もう理淑のあの笑顔を見られないかもしれないというのか。そんなことを耐えられるはずがない。

 英賢の心臓がきりきりと捻れるように痛んだ。


「理淑……。頼むから目を覚まして」


 理淑の手を握り、呟く。

 英賢が理淑の手を両手で包んで目を閉じていると、範玲が茶碗を手にして戻って来た。


「兄上、温かいお茶です。飲むと少し落ち着きますよ」


 そう言って、茶碗を英賢に手渡した。


「……ありがとう……」


 英賢が茶を受け取ると、茶碗は手に心地よい熱を伝えた。暖をとるように茶碗を両手で包むと、冷たくなっていた指先がじんじんとして血が通ったのを感じた。


「兄上、飲んでくださいね」


 範玲に言われて英賢が茶に口をつける。

 茶はちょうど良い熱さで、少し甘かった。美味いのかどうかは良くわからなかったが、自分を気遣う妹に心配をかけてはいけないという気持ちで、何口かに分けて飲んだ。

 範玲は英賢が茶を飲み干したのを確認すると、茶碗を受け取ってその横に座った。


「ありがとう。少し落ち着いたよ」


 英賢が微笑むと、範玲は英賢の手に自分の手を重ねた。


「理淑は絶対に大丈夫です」


 力強く碧色の瞳が真っ直ぐに英賢を見た。


「……そうだね。うん。理淑は大丈夫だ」


 英賢が頷く。


 守ってやらないといけないと思っていた範玲に励まされてしまった。自分がしっかりしないといけないのに。


 そう思いながら、英賢が理淑と似た碧色の瞳を見る。すると、何だか急に瞼が重くなって来たように感じた。


「……だから、兄上、少し休んでください」


 どうしたんだろう、と思っていると、英賢を覗き込んで言う範玲の声が、遠くに聞こえた。

 更に、目の前の範玲の顔も段々と輪郭があやふやになってきた。下りようとする瞼を懸命に開けようとしたが、ついにはその重さに逆らえなくなった。


 英賢は諦めて目を閉じた。


 範玲は英賢が自分に寄りかかって眠りに落ちたのを確認すると、扉に向かって声をかけた。


「佑崔殿、すみません。お願いします」


 英賢に渡した茶には、医師に眠り薬をもらって入れた。少しでも休息をとることが英賢には必要だと思ったからだ。

 薬をもらうために部屋から出たところで、ちょうど理淑の様子を見に来た佑崔に出会った。佑崔には事情を話して、眠った英賢を運ぶために待機していてもらった。

 範玲に呼ばれて部屋へ入った佑崔は、ぐったりと眠った英賢を抱えて隣室へと運んでいった。


 それを見送ると、範玲は寝台の脇に戻り、目を覚まさない理淑を改めて見た。


 傷は順調に良くなっている。なのに意識が戻らない。


 理淑の頬を指でなぞりながら考える。


 どうして目を覚まさないのだろうか。理淑が戻って来たがらないはずがない。意識だけどこかに行ってしまったのだろうか。

 ここにいる理淑は、入れ物の身体だけなのだろうか。ここに中身はいないのだろうか。


 範玲は右の耳飾りをとって理淑の手に触れた。以前より少し痩せてしまっている手に少し動揺する。

 涙が勝手に滲みそうになるが、泣いている場合ではない、と握った手に集中する。しかし、相変わらず理淑の思考や感情は流れてこない。

 範玲は溜息をついて、外した耳飾りを戻そうと理淑の手を離した。


 しかし、その時、ふと微かに違和感を感じた。


 慌てて今度は両手で理淑の手を握った。意識を更に集中させて、理淑の手から流れてくるほんの微かなものを受け取ろうと目を瞑る。


「理淑」


 声をかけると、ほんの僅かに変化があった、ような気がした。この前に試した時とは感触が違う。


「理淑。いるの?」


 もう一度、声をかけた。すると、やはり微かに理淑の気配がする。

 範玲は息を大きく吸った。空気と一緒に希望が範玲の胸を満たした。

 瞼の裏をじわじわと涙が浸食していく。


 ちゃんと理淑はここにいる。


 そう確信した。

 理淑は絶対に帰って来たがっている。きっと帰り道がわからないだけなのだ。


「理淑。こっち。こっちに来て。早く理淑が帰ってこないと、兄上が病気になってしまうの」


 呼びかけながら、範玲の碧色の目から、ようやく見えた明るい兆しに涙が(こぼ)れた。

 理淑の手をぎゅっと握る。


「皆、理淑を待ってるのよ」


 範玲は何度も何度も理淑を呼んだ。




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