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異聞蒼国青史  作者: おがた史
宗鳳の記 −綠條の巻−
102/192

二年仲夏 蝉始鳴 2



 恭仁一行は、この延士の件について調査をするために、急ぎ翠国へと引き上げることになった。


 発つ前に、奏薫がほんの少しでいいから理淑を見舞わせて欲しいとやってきた。髪や衣服は整え直していたが、明らかに憔悴しているのが目に見えた。

 意識のない理淑を見て、衝撃を受けたように青灰色の瞳を揺らし、ぎゅっと目を瞑ると深々と頭を下げた。

 次に奏薫は、目を伏せたまま英賢に向き直ると、きゅっと唇を引き結び、再び頭を下げた。

 顔を上げても目を合わせないままで、部屋を出て行った奏薫を英賢が追いかけた。


 先ほど廊下で会った時の様子も気にかかる。不意に何かを思いついたようだった。必死で泣くのを堪えているような目が頭から離れない。一体何があったのだろうか。


 あの後、雨に濡れた衣服を着替えるため別れると、話す機会もないまま、奏薫達は直ぐに翠国へ発つことになっていた。


 そして、奏薫は英賢と目を合わせなくなっていた。


「柳副使」


 呼び止められて、奏薫は硬い表情で振り返ったが、やはり英賢の目を見ようとしなかった。


「大丈夫ですか?」


 近寄ると奏薫は少し怯えたように後退りした。

 英賢は足を止めた。近くなったと思った奏薫との距離が、また離れてしまったのを知った。

 伏せた長い睫毛が、美しいと英賢が見惚(みと)れた青灰色の瞳を隠す。


「すみません……。大丈夫です。……本当に……何とお詫びを申し上げればよいか……。理淑様のご回復を心から……祈っています……」


 奏薫はそう言うと、まるで見えない壁を作るかのように、美しく頭を下げた。深緑色の裙の前で重ねた細い指は少し震えていた。


「……道中気をつけて……」


 その時英賢が言うことができたのは、それだけだった。







 奏薫らが翠国へ発ってから三日経った。疾うに傷の縫合の際に使用した阿片は切れているはずなのに、理淑はまだ一度も目を開けていない。

 傷の縫い目から滲む血も少なくなり、昊尚が持っていた文始先生の軟膏のお陰もあってか、傷は化膿する様子はない。傷自体の経過は順調のようだ。

 英賢と範玲は理淑のそばを離れようとしなかった。英賢は呼ばれた時だけ執務室に戻った。




 珠李が食事を持って部屋を訪れると、英賢だけが理淑の枕元に置いた椅子に座っていた。膝に肘をついて、拳にした手で額を押さえていた。

 声を掛けて部屋に入ったが、それには気づいていないようだった。


「英賢様……」


 珠李が呼びかけるが動かない。もう一度名前を呼ぶと、はっと顔を上げた。


「ああ。珠李」


 笑顔を見せるが、明らかに顔色が悪い。碌に眠っていないのだろう。寝台に横たわる理淑よりも酷い顔色だ。


「英賢様……。少しはお休みにならないと倒れてしまいます」


 気遣う珠李に、眉を下げて笑いかける。


「……大丈夫だよ」


 珠李には少しも大丈夫のように見えない。


「では、せめて何かお召し上がりになってください」


 持ってきた食事を脇机に置く。しかし、そこには昼に運んだ食事が手付かずで残っていた。


「ありがとう」


 食事を持って来ても、英賢はそう言うのみで、いつも口をつける様子がなかった。恐らくこの食事もそうなるのだろう、と珠李は半ば諦める。


 寝台の理淑に目を移す。

 無鉄砲で真っ直ぐで、生命力に溢れていた理淑が意識なく横たわっている姿は、自分の目で見るまで珠李には想像もつかなかった。それは珠李だけでなく、理淑を知る者は皆そうだろう。


 珠李も理淑に命を救われたことがある。朱国の広然に、逃亡するための人質として連れて行かれた時だ。

 華奢で可憐な姿に似合わず大胆な攻撃を仕掛け、たとえ丸腰でも怯まず広然に対峙して珠李を守ってくれた。そして、帰れないと泣く珠李の顔を拭いて、「帰るよ」と言ってくれた理淑を思い出し、珠李の目の奥がじわりと痛くなった。

 あの時も、理淑は珠李を助けるために、危険へ飛び込むことに全く迷いがなかった。今回も英賢が危ないと見るや、当然のように凶刃の前に飛び出したのだろう、と容易に想像ができた。


 太医署の医官たちも手を尽くしているが、理淑の状況は変わらない。意識は疾うに戻っていてよいはずなのに、理由がわからないと首を振る。

 目を覚まさない理淑のために、昊尚が文始先生に連絡を取ろうとしている。しかし、文始先生は紫紅峰の庵にはいなかったらしい。

 範玲も先ほどまでこの部屋にいたが、心労により倒れてしまった。昊尚が別室へ運び、無理やり休ませている。

 良くないことばかりだが、だからこそ、珠李は英賢に少しでもいいから休んで欲しかった。この状況が続くようであれば、英賢もいずれ身体を壊してしまう。

 しかし、溺愛する妹がこの状態では、いくら言っても英賢は理淑のそばを離れるつもりはないだろう。


「……ご用がありましたら、いつでも呼んでください」


 そう珠李が言うと、英賢はやはり微笑んだ。


「すまないね。珠李。君にも世話をかけて申し訳ない。いつもありがとう」


 英賢の変わらない態度に胸が痛む。


 こんな時に気を遣わなくても良いのに。


 珠李は何も言うことができず、一礼して部屋を出た。




 珠李が部屋から出るのを見送ると、英賢はこめかみを指で押さえて長く息を吐いた。

 静かに横たわる理淑を見つめる。

 不意に顔を強張らせ、英賢は理淑の口元に手をかざした。手に理淑の呼吸を感じ取ると、ほっと息をつく。

 あまりに静かな理淑に、息をしていないのではないかと不安になる時がある。だから時折こうして確認してしまう。

 英賢は理淑の頭を撫でた。


「理淑。皆心配してるよ」


 ぽつりと言う。

 理淑が斬られて意識がないと聞いた者たちが、心配して太医署に様子を尋ねに来るらしい。理淑と同じ羽林軍の者だけではなく、珠李の同僚など宮城にいる女官や、下働きの女童、どこで知り合ったのだろうと思うような部署の女官たちもやってきたと聞いた。

 小さな頃からの、ふらふらとあちこちに顔を出す癖は変わらないんだな、と理淑の屈託のない笑顔を思い出す。


「……怪我をしないと約束したじゃないか……」


 文句を呟いてみる。


 羽林軍へ入るのを許した時、「強くなって兄上たちを守るね」そう言って笑顔で抱きついてきた。しかし、こんな風に理淑が傷つくのなら自分が斬られた方がどれだけ良かったか。

 やはり軍に入るのを許したのは間違いだったのだろうか。


 何度も何度も繰り返し英賢は自問する。

 しかし、理淑がいなかったら、自分だけならまだしも、奏薫も命を落としていたかもしれない。珠李だってそうだ。

 そう考えると答えは出なかった。


 奏薫といえば。


 床に額を押しつけて謝る姿を思い出し、英賢の胸が痛む。


 奏薫は、理淑が斬られたのは自分のせいだと言ったが、あの時、見送りにさえ行かなかったら、奏薫が馬車から降りてくることはなかっただろう。奏薫の姿が見えなければ、延士が斬りかかってくることもなかったのではないか。


 だとしたら、むしろあれは私のせいではないか。


 英賢は溜息をついた。

 少し怯えたように後ずさる奏薫の姿が、英賢の心を更に沈ませる。


 自分を頼ってくれるのではないか。奏薫を覆う硬い殻を自分が剥がすことができるのではないか。そう感じたのはただの思い上がりだったのかもしれない。


 眉間を拳で押さえ、再び溜息をついた。


 自分といることで奏薫が辛く感じるのであれば、もう関わるべきではないのかもしれない。


 英賢はそう思ってみて、その考えに胸の奥がぎりぎりと痛めつけられるのを感じた。

 どうしようもなく奏薫に惹かれている自分を自覚する。

 英賢はそれを断ち切るように首を振った。

 今一番重要なのは、理淑が目覚めることだ。

 英賢は奏薫への思慕の念を無理やり胸の奥深くに仕舞った。



 

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