「行きつけのバーにて」①
なんとも特徴のない集合住宅、その隅にある小さな階段を下り、左手にあるドアを開ける。
「おう、いらっしゃい」
タバコをふかし、椅子に座りながら端末をいじっていたマスターが出迎えてくれた。
「・・・せめて開店準備してから、タバコ吸えば?」
マスターが座る椅子以外は、まだ全てに埃避けの布がかけてある。
ロックバーというコンセプトに必要不可欠なBGMは、ついてすらいなかった。
「随分と早いご来店だな。いつもは後二時間は暇なことくらい、お前さんも知ってんだろ」
ぶつくさ言いながら、カウンターに潜っていったマスターにため息で返事をしつつ、椅子に被っている布をまとめる。
「調子はどうだい」
プレイリストをいじるマスター。
「なんとも。息が詰まりそうなことが多くって」
「そうか」
飛び切り有名なグランジロック・ナンバーが大音量で流れ始める。
「王道で攻めるのね、今日は」
「150年以上たって王道と称されちゃあ、カートも立つ瀬がないぜ、全く」
首をすくめた。そもそもこの国で旧世紀のロックサウンドを数曲知ってるだけで、もはや物好き扱いだと言うのに。
「ああ、そうだ。あの事件、お前さんの大学だったんだな」
何も答えずに、渡されたおしぼりで手をぬぐう。
あの事件の報道は、ざっとこんな感じだ。当日、大学を私用で訪問中だった軍務省高官が狙われた拉致未遂事件。素早く投入された軍の活躍でテロリストは死亡、もしくは逃亡。惜しくも数人の学生の命が失われた。事件背景については依然調査中。
軍務省関係者が襲われたことで、管轄は一般警察ではなく軍務省調査部になった。ここまでが国民に知らされている内容で、真衣のことは伏せられたままだ。
マスターに声をかける。
「ジンジャーハイ、一つ」
「おう」
店内の雰囲気と似た、誇りを被ったように歪んだギターソロが響き渡る。
なるほど、息が詰まりそうな時にはぴったりかも知れない。
「とりあえず、これ」
渡されたコースターには、サーフボードを携えるビキニの女性が彫りこまれていた。
「で、ほい」
いつも通り、尋常ではない量の生姜が効いているジンジャーハイを受け取る。
そのグラスを受け取り、あることを思い出した。
「あ、そうだ。これお土産」
バッグに入っていたものを手渡す。
「おう、あんがと」
「外務省流れの本物だよ。みんなで分けてくれ」
「韓国のり、ね。本物っつても、もうあそこにも誰も住んでないだろうに」
「それ言ったら僕達の祖国だって水の中さ。今でも帰りたいって叫んでる奴らは、一体どこに帰るつもりなんだか」
もう一口、ジンジャーハイを口に含む。
マスターはやれやれといった顔で包装を開けて海苔を頬張った。
「ん、美味いね。ビールが進んじまう」
「じゃあ、マスターが酔っ払っちまう前に何か頼まないと」
苦笑しながらメニューを開く。
そんな僕の様子を見たマスターから、すかさずクレームが飛んできた。
「おい、野暮なことするなよ。お前の海苔があるのに、なんで俺がつまみ作らなきゃいけなねえんだ!?」
「そんな文句言うバーのマスター、存在していいのか・・・?」
ちなみに、前に一度どうしても腹が減っていた僕は、酔いつぶれたマスターを床に放置して、勝手にカウンターに入り込み、一人で炒飯を作って食べたことがある。
「俺がここの支配者よ。ぶつぶつ言うなら、帰んな」
そう言って、マスターはニヤリと笑った。
僕は観念した。
「参った。ま、どうせ出てくるのは焼うどんか卵焼きだし、他で腹は満たすか」
「賢くなったじゃねえか。そうだ、そうやって生きていけ」
マスターが豪快に笑った。
僕もひとしきり笑って、もう一度グラスを手に取った。
突然扉が開いたのはその時だった。
こんな時間に二人目の客だ。どんな知り合いかと思い、入口の方に身体を向けながら、マスターに声をかける。
「ん、マスター、お客さ・・・」
扉の前に立っていたのは、艶やかな黒髪をうなじで丁寧に纏めた少女だった。
この場には不釣り合いな、やんごとなき雰囲気を纏わせている。
ちなみに、これが初対面ではない。
五年前まではほぼ一緒に暮らしていたし、なんなら数日前には命を救ってやった。
「お邪魔します」
そう言うと、宮司真衣はマスターへ丁寧にお辞儀をした。