「スラム」
車道が満足に舗装されていないため、先ほどから何回身体が浮き上がったことか。
時折、バシャという音と共に水を跳ね、車が一段と跳ねる。
疲れ切って、帰りではぐっすりと眠りながら帰れると聞いていたが、道路がこんな調子では多分無理だろう。
自分の将来のためとは言えど、こんな所に来てインターンに参加する必要があるのか。なんとなく腑に落ちない。
快くクレアは送り出してくれたが、伊吹が軍部に復帰した以上、俺がこなすはずだった仕事も全て彼女とエラが負担することになる。
それもあって、やはり気分は乗らなかった。
「ヤン君、初めてのスラムはどうだい?直接見ると、随分と衝撃があるだろう」
隣に座っている国土開発省の若手の職員が声をかけてきた。
「そうですね、正直ここでの生活は想像できません」
実際、窓の外に広がっているのは壊れかけた雑居ビルとバラック建ての小屋が交互に並ぶ、非常に奇妙な光景だ。
クレアや伊吹、エラとは違い中流階級の出身だが、カシハラの郊外で何一つ不自由なく暮らしてきた自分の暮らしは、やはりここスラムのそれとは大きな開きがある。
最初、省庁勤めの知り合いからこの国土開発省のインターンの話をされた時、正直に言えばそこまで乗り気では無かった。
一定の若手までなら、このヤシマでは省庁間の異動は不可能ではない。そこまで倍率の高くない国土開発省に一旦入り、ある程度世間を知った上で他の省庁に異動するという流れはしばしば見られる。
とはいえ、官僚を志しているとは言えど、あまり自分の興味のない省庁に入る時間は、少なくとも俺にとっては無駄に思えたのだった。
一応申し込み、その選考を通過したものの、大学であんな事件が起こったことで委員会の仕事も増えた。ちょうど追悼式の準備期間にも重なったので、断りを入れようとしたのだ。
だが、クレアがそれを止めた。
『人手が少なくなのは痛いけど、なんとかするわ。それより、私はヤンにスラムの実状を知ってもらいたい。きっと、貴方の今後の人生に大きく影響すると思う。官僚なんて目指して国を引っ張ろうとしているなら、なおさらよ』
そっけなくだが、その言葉には誠意が満ちていた。
クレアと知り合ってからはや数年、彼女の半生の全てを聞いてきたわけではない。ただ、今の彼女に数年間のスラムでの生活が大きな影響を与えていることは薄々と感じていた。
あの女帝を、こうも変化させた世界は一体どんなものなのか。
そう思い、最終的にこうして参加をしている。
突然、人通りが多くなった。
向こうに大きな屋根があり、その下で沢山の人々が集まっている。
「・・・市場ですか?」
「正解。下りるぞ」
隣の先輩が慣れた仕草で荷物をまとめ、車を下りる。
それに続いて車を下りると、生臭さと刺激臭が鼻に刺さる。
思わず鼻を抑えようとすると、先輩がそれを見て笑った。
「おいおい、気持ちは分かるがこれは慣れないと厳しいぞ。周りの人にも感じが悪い。やめてくれ」
しぶしぶ頷いて手をおろしたが、やはり臭いがキツイ。
砂埃にまみれたバイクと大きな荷物を持った人々の間を縫いながら、先輩を追いかける。
「どこに向かってるんですか?」
「あの市場だ。ここからだと見えないけどな、あれは手前と奥で別れてるんだ。俺たちは奥に向かう。会いたい人がいるんでな」
市場に足を踏み入れると、一気に生臭さが強くなった。
先輩はいとも簡単に人の間を掻きわけていく。
それに遅れまいと必死になるが、何度か肩がぶつかりジロリと睨まれた。
そのたびに頭を下げつつ、奥へ奥へと進む。
大量のハエにたかられている精肉店の前で不快な臭いは最高潮に達し、その前を小走りに走り抜ける。
すると、目の前が突然開けた。人の数もまばらだ。
「ここは・・・?」
「一種の集会場みたいなものさ。この先が奥側の市場だ。くれぐれもはぐれるなよ。君を見失ったら、もう一度見つけられる自信がない」
そんなご冗談を、と突っ込みを入れたかったが、どうにもそんな雰囲気ではなかった。
集会場を抜けると、一気に辺りが薄暗くなった。
前にいる先輩の後をひたすら追う。
徐々に目が慣れて来た頃、いくつもの細い通路が交差する場所に出た。
どの通路も、その両端を所狭しと小さな露店が軒を連ねている。
先輩は迷うことなく、左から二番目の道へ進んだ。
新しい露店の前を通るたびに、今まで一度も嗅いだことのない臭いにぶつかる。
人目を引かない程度に周りを見ると、その用途の想像もつかない物が通路にはみ出して置かれている。
抑えきれない興味を抱きつつ、それでも先輩の後をついていく。
すると、突然ある露店の前で立ち止まり、先輩はそのまま中に入っていった。
黒い布が入口にかけられており、中の様子は伺えない。
看板らしいものも、何かが店先に置かれているわけでもなく、そこが一体何を取り扱っている店なのか、外から判断できる材料は何もなかった。
一度だけ深く息を吸う。意を決して僕も先輩の後に続いてその中に入り込んだ。
中は通路と負けず劣らず薄暗い。
「お、それでそいつが今回の新入り君ね」
聞き覚えない声の方向に顔を向ける。
露店の奥に椅子があり、そこに男が腰掛けていた。
「うーん、新入りになってくれるかどうかは、怪しいな。ヤン君、こちらはコーディネーターのラズさん」
先輩から紹介を受け、奥の男が立ち上がった。
「ご紹介に預かりました、ラズです。スラムは初めてなんだってね?」
一礼をし、答える。
「ヤンです。ええ、そうです。見る者全てが新鮮です。色々と勉強させて頂きます。それと、先輩。あんまり意地悪な事言わないで下さいよ」
先輩はニヤニヤと笑っている。
すると、そんな先輩の様子を見てラズも笑い出した。
「なんだか君が先輩と呼ばれてると、こちらまで背中がむず痒くなってくるな、イシル」
「当の本人だってそうなんです。仕方ない」
先輩が笑って答える。
口ぶりからして、かなり長い付き合いのようだ。
「じゃあ、早速なんですが手短にブリーフィングを。いいですか?」
「了解だ。奥に来てくれ、資料を用意した」
ラズが露店の奥の幕を上げると、そのさらに奥に少し広めの部屋が現れた。
「かけてくれ。そんじゃ、始める前に一つだけお詫びしなきゃならんことがある」
椅子を勧めながら資料を手に取り、ラズはそう切り出した。
「お詫び?」
「ああ。行く場所がちょっと変更になってな。まあ資料見てくれ。二ページ目だ」
ページをめくると、そこにはこの周辺の地図が掲載されていた。
「イシルと話し合ってな。ヤン君は優秀らしいし、それなら一番スラム街でもスラム”らしい”とこに連れていこうと話していたんだが、ここ数日で突然事情が変わってな」
「それじゃあ、ホルズ地区にはいけないのか?」
先輩も初耳だったらしい。
「残念ながら、そうだな。どうしてもと言うなら、その周りくらいは見にいけるが・・・中はまずい」
ラズはようやく席につき、話を続ける。
「事情が変わったのは二日前、それも夜になってのことだ。ホルズのほうで大きな衝突があってな。何人か死人も出てる。かなりの数の住人が追い出された」
机の脇に置いてあったファイルから、ラズは何枚か写真を取り出した。
「若い奴を一人潜入させて、写真を撮らせてきた。殺し合いなんざこのスラムでは日常茶飯事だが、流石に一つの地区全体でドンパチやるなんてのは稀だ。ここまでの規模だ、始めはギャングの抗争か何かだと思ってな。基本的にはあいつらはカタギには手は出さない。たまに不幸な事故も起こるが、一度シマから追い出されればすぐに治安は回復する。そう思ってたんだが・・・」
「今回は違ったと?」
次の言葉がなかなか続いてこないので、思わず俺はそう尋ねた。
ラズは頷いた。
「ここらのギャングに事情を確かめようにも、奴らの方が情報を求めてきやがった。奴らは何も知らなかったのさ」
「・・・じゃあ、一体どこのどいつがそんな命知らずな真似を?」
先輩の指摘は最もだ。
カシハラという王都にありながら、このスラムでは国家権力はほとんど意味を成していない。
いつだって最高権力はマフィア達に握られているこの場所で、白昼堂々、そのマフィアの鼻面に右ストレートを撃ち込んだわけだ。
そんな先輩の指摘に対して、ラズは首を横に振った。
「それがイマイチ分からない。このスラム出身のやつも確かに多いが、なんだか外部からの人間が多く集まっているらしい。戦闘力に関しては、まあちょっかい出すのはやめたほうがいいな。今朝早く、そんな無礼な振る舞いにブチ切れた西のマフィアが手下引き連れて乗り込んでってな。結果は散々だったらしい」
「マフィアよりも強いって、相当ですね」
そんな俺の感想に、ラズは少し考えるような表情になった。
「・・・総合の戦力的に言えば確かに強いってことになるんだが、とりあえず数が多いらしい。それでいて火器も十分にあるらしくってな。とりあえず、今回は行けないってことだけ了承してくれ」
ラズが置いた写真を手元に寄せる。
「了解です・・・。結構興味あったんですけどね。それにしても、この写真だとずいぶん若い人が多そうだ」
「ここらはそもそも平均寿命も短いから、外よりは若いやつの方が目立つ。ああ、だがその写真に映ってるのはその外部から来た奴らだよ。それを撮らせた若いの曰く、『同盟』とかいう言葉がやけに聞こえてきたらしい」
その言葉に、思わず身を乗り出す。
「それって・・・『新世界同盟』のことですか?」
ラズはめんどくさそうに答える。
「だろうな。特にホルズの辺りは反政府組織が根城にしてきた過去がある。スラムの中でも奥まった地域で、マフィアのこともあるから、基本は長続きしないんだけどな」
「これ・・・軍務省の方とかに情報は行ってるんですか?」
思わず先輩に向かって尋ねる。
「さあ、どうだか?スラムの処理に関しては軍務省と警察がずっと押し付け合ってるし、ここまで捜査してるとは思わないね」
ラズが言葉を引き継ぐ。
「ここからスラムに少し関わる君に、為になるか分からないアドバイスだ。いいか、軍務省でも警察でも、本腰入れれば多少時間はかかってもスラムの掃討なんて出来るのさ。じゃあなんでやらないか。・・・結局、その後新しいスラムがまた出来るだけだからさ」
地図を指で示しながら、ラズは続ける。
「一度根本的に壊れちまったこの世界は、正直目を見張るほどに復活したさ。だが、世界で最も安定していると呼ばれているこのヤシマだって、その歪に悩まされている。ずっとだ。解決されることもない、ただ時の流れに任せて、徐々に改善していくのを待つだけの歪み・・・。ここはその歪みの中心地なのさ」
「いい説明だ。だが、単に放っておけば、その歪みだって悪化しかねない。だからこその我々国土開発省さ。今は無理でも、俺たちの子供や孫の世代。もしかしたらもう少し先まで続くかも知れないが、それでもこんな場所を無くしてみせるってな。青臭い目標だろ?」
そう言って、先輩は笑った。
「ただ、俺は結構この仕事に誇りを持ってるのさ。希望無くして、未来無し。滅亡の瀬戸際まで行った俺たち人類は、いつだってそう生きてるのさ」
そんな先輩の様子を見て、ラズは頷いた。
「・・・イシルみたいな先輩について行きな。こういう奴はしぶとい。出世はしないがな」
「なんだよ、その言い方!」
先輩が立ち上がって抗議する。
そんな先輩に対しニヤニヤと笑っていたラズだったが、すぐに真剣な表情に戻った。
「さて、伝えたい思いが伝わった所で、具体的な今日の業務の話しに移るぞ」
こうして、俺のスラム街でのインターンは始まった。