善き人悪き人
今日も寝るか、あっちの世界に飛べたらいいな。
…俺の周りには見渡す限り、若い木々が根を張っていた。こげ茶の幹に薄黄緑色の木漏れ日がかかり、薫るような温かみを感じる。どうやら森の獣道で目が覚めたらしい。見下ろすと、木綿生地のワンピースを着ていて、かかとまで紐のある下駄のようなものを履いていた。腰の部分はベルトで締められており、そこには大きなナイフと、いくつかの巾着袋が下げられている。取り出してみるとナイフは両刃で、古ぼけてはいるが丁寧に手入れされているようだった。
さて、近くの切りかぶを見てみると、どうやら獣道南北に伸びているようだった。南はツタが多く、北はより鬱蒼としている。どちらに言っても正直大した違いはない。起きたときには獣道の真ん中にいたのだから、どちらが正解かなどわかる由もない。なので南に歩き出した。ナイフの切れ味も見てみたかったし。
…失敗だった。ただのツタだと思っていたが、何らかの液体がしみだしていたようだ。ナイフはまるで豆腐のようにボロボロと崩れていった。服は特に何ともないので、この世界のナイフに特有な何かが分解されてしまったのかもしれない。ツタをかき分けかき分け歩いていると、やがて何やらいい匂いがしてきた。ふむ、試しに行ってみようか。そう思い、木に目印を付けながら匂いの下へ向かうと、少し開けた場所に出て、不思議な見た目の小屋がぽつんと建っていた。寄木細工のような、不思議な木の組み方をしている小屋だ。匂いの下はここらしい。まわりに人はいなそうだが…
「あら?お客様?」
美しい低音のご婦人が小屋の裏手から出てきた。畑仕事でもしていたのか、泥まみれの服で野菜らしきものを抱えている。見た目は若いようにも、老けているようにも見える。
「散歩していたんですが、道に迷ってしまいまして。」
「あら、不思議ね。ここは魔女の家ですよ。」
「そう、あなたは別の…世界からこちらへ跳んでくると?」
魔女と名乗った女性が木で出来たティーポットにお茶を作っている。不思議なティーポットだ。まるで初めからそういう形だったようにも見える。
「ええ、そうなります。なかなか突飛な話で信じていただけないかもしれませんが。」
「私も魔女の端くれですから、多少は理解しているつもりですわ。ええっと…」
「ああ、私は羽田宗次郎といいます。」
「ソージローさんね、私のことはネインとお呼びください。名字はまだありません。」
ネインはそう言いながら、お茶をこれまた木で出来たティーカップにそそぐ。コーヒーに近い香りだが、色は紅茶に近い。
「いただきます。」
ズッと啜る。うん、コーヒーに近い。近いのだが、苦味が強い。その割には後味がすっきりしていて、少しラベンダーのような香りがする。かなり好みの味だ。
「おいしいです。これ、なんていう飲み物ですか?」
「嬉しい。ニエンという植物の葉を煮詰めたニエン茶ですわ。」
「ニエン茶、覚えました。いくつか質問しても?」
「ええ。なんなりと。」
「この辺りに町や村はありますか?」
「ええ。ここから東に森を進めばすぐに。」
「その割には人が少ないような…」
「迷いの結界を張っていますので。あなたのような、別世界の人には効かないようですが。」
迷いの結界…、確か魔力壁に触れると、一定距離まで無意識に戻ってしまうという効果があったはずだ。しかしたどり着けたということは、おそらくこの世界の生物たちとは体のつくりが異なるのだろう。
「なるほど。ありがとうございます。最後に一つだけ」
「私と、お散歩しませんか?」
―“善き人の森”南西―
ナインのお勧め散歩スポット、善き人の森を二人で歩き始めた。最初に目覚めた森と違って、道が広く切り広げられており、地面も均したかのようにきれいだった。
「きれいな道ですね。人が良く通るのですか?」
「いえ。ここは初めからこういう形をしているのです。」
「へぇ…不思議ですね。」
全く凹凸のない道を二人でてくてくと歩いていく。左右にはたくさん木が生えているが、どれも均一に並べられたかのように整列している。
「すると、あの木々も?」
「ええ。」
木々は風が吹くとさぁっと静かに揺れる。少し物足りないような気にもなるが、このあまりに完璧な並びの前ではそれも些細な事のように思えた。
また少し歩いていくと、茂みが出てきた。小さな赤い木の実を付けていて、何とも愛らしい。
「それはジェンの実です。一つならおいしいですよ。」
そう言われて、一つ摘み、口に入れてみた。サイズはブルーベリーよりも一回り小さいくらいだが、味はリンゴの様な酸味と甘みがする。試しにもう一つ口に入れてみる
「!」
辛い…。
「この実は火の元素が多く入っていますので、二つ食べると元素結合が…」
うん、まぁ俺が悪いな。忠告は素直に聞いておこう。
更に少し歩くと、今度は太陽光が差し込むところに、丁度良いサイズの四角い石が置かれていた。ナインによればこれもはじめからあったという。真四角の丁度良い高さの椅子に、二人で並んで座る。太陽の光で暖められた石の椅子はほんのりと暖かい。しばし二人で風景を眺めていると、ナインが静かに語り始めた。
「この地にはある民話がありますの。」
「どんな?」
「昔々、あるところに悪い男と善い男が居ました。二人は仲が悪く、いつも正反対のことをしていました。ある時悪い男が森へ出向き、木をバラバラに植え替えて、石の形をぐちゃぐちゃにして、地面もでこぼこにしてしまいました。それはたった半日の出来事でした。悪い男のせいで、森を通る人は足にけがをし、道に迷い、腰かけることもできなくなってしまいました。善い男はそれを嘆き、毎日コツコツと森を整えていったのです。木は整列させ、石は四角くし、地面はきれいに均しました。それを20年もかけて行ったのです。善き男は森を通る人に感謝され、悪い男は森に入れなくなって、食べるものが無くなったのでしんでしまいました。」
「壊すのは一瞬で、整備するのは時間がかかり、コツコツやることで人から感謝されるようになろう…ってことですか?」
「きっとそうなんでしょうね。でも、善き人って、人にだけ善いでしょう?だから、私はあまり好きではありません。」
確かに、動物や虫、植物にとって善いかはわからない。
「ナインさんは、自然がお好きなんですか?」
「私は魔女です。魔女は自然にある力を借りることで超常の力を得られるのです。だから私は、自然を敬い、ともに居たい、それだけです。」
「素敵ですね。私にはできないかもしれない。」
「あなたにはあなたの望みやあり方があるでしょう?それをお探しになるのも、楽しいですわよ。ずっとやっていてはだめですけれど。」
「そうですね…。それにしても良いところです。風は気持ちいいし、体はじんわりと温まる。少し窮屈な気持にもなりますけど、それだって悪いものじゃない。」
ナインはクスっと笑った。
「窮屈、ですか。善き人とは、見方を変えれば窮屈なのかもしれません。」
俺も笑って返す。
「もしそうなら、私もあなたも、悪い人ですね。」
暖かい日差しと、緑の香りを乗せた風が二人を包み込む。今日もいい日だった。
…いい散歩だった。夢…ではなさそうだ。だって体は爽やかで、心は温かいから。