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魔女王の息子たち

東の街に着くと、インフェルノはフリストリーニャを連れて街に入った。フリストリーニャはオレンジの瓜を模した帽子を被らされて、インフェルノの隣を歩いていた。

東の街は時計塔があった街よりも大きくて、道いっぱいに人々が行き交っていた。


「インフェルノ、この被り物は何なのでしょう」

「セーラがいた街で拾ってきたものさ。犬人間が被ったら滑稽かなと思ったんだが、意外と役に立つじゃないか」


フリストリーニャの帽子は丸く膨らんでいて、二本の角をすっぽりと覆い隠していた。帽子が変なのを覗けば、フリストリーニャはただの人間に見えた。

インフェルノはフリストリーニャを連れて、まず最初に新聞屋に入った。今朝の新聞を買って、売り子を捕まえて色々聞いた。


「最近、お供を連れて東へ旅をしてるんだ。この辺りで何か物騒な事件とか無かったかい。旅をしていると新聞も読めないから困ってるんだ」

「そりゃ危ないな。最近は西の方が物騒なんだ。一番近くのだと、村人が飼ってた肥やしにみんな殺された事件なんかがあるぜ」

「なんだって? まさか数日前に立ち寄った村じゃないだろうな。村はずれの教会に、角の生えた神父が住んでるやつかい?」

「そうそれだ! あんた運が良いなぁ、あと何日か遅かったら巻き込まれたかもしれないぜ」


新聞屋を出ると、フリストリーニャは胸を撫で下ろした。


「なるほど、この被り物が無ければ危ないところでした」

「セーラやアルクトスは隠しようがないが、きみは何とかなるからね…しかしこの街の人間はユーモアに欠けるな。こんな帽子を見てピクリとも反応しないなんて、よほど感情というものが育ってないと見える」

「えぇと…すみません、道化師の御役目は頂いていませんでしたので」


インフェルノが不満そうに街を歩いていると、人波の向こうから、広い街いっぱいに聞こえるほどの大笑いが聞こえてきた。何事かと振り返ってみると、一人の男が笑っている。男が指さした方向にフリストリーニャが居たので、動かしてみると、男の指もそれを追って向きを変える。


「見たまえ、見たまえ、見たまえキノコくん! 私はこんなにも滑稽なものは見たことないよ、瓜、瓜、頭に瓜! 頭にキノコは年がら年中見ているが、瓜は初めてだ! 瓜、瓜、ひぃーっ」

「よしフリストリーニャ、次へ行こう。これはただの不審者だ」


インフェルノが踵を返すと、待ってくださいと子供が立ち塞がる。インフェルノの視界が真っ赤に染まるほど大きな、キノコの傘が頭に付いていた。


「待ってください、ジュウシチロウ様は変な人ですが不審者じゃありません。どうか怪しまないでください!」

「ひーっ、ひーっ、笑いすぎて腹が痛い、こんなに笑ったのは久しぶりだ。そこの瓜くん、是非とも名前を教えてくれたまえ。そっちのお供のきみも」

「主人は私だこの不審者、今すぐその首を矢で射飛ばされたいか!?」

「インフェルノ、インフェルノ落ち着いてください、こんな街中で弓を構えないで!」


ジュウシチロウと呼ばれた男とインフェルノが静かになったのは、それからしばらく経ってからだった。


「なるほどきみは旅人か。ここに来るのは初めてかい。それならたくさん笑わせてくれたお礼に少し案内をしようか。実を言うとね、私はこの街の管理を任された魔女王の息子、名をジュウシチロウと言う。今日はこのキノコくんを連れてお忍びで街に──」

「おい見ろ、あのキノコ傘はジュウシチロウ様の御付きじゃないか」

「本当だ、ジュウシチロウ様だ、ははーっ」

「…ジュウシチローサマ、お忍びってどういうものか知ってるかい」

「勿論。身分を隠して街へ出て、民の暮らしを知ることだ。しかし我が都市アペイロンの民は勘が鋭くて困る。いつもすぐに見つかってしまうのさ」

「馬鹿だ、壊滅的に馬鹿だ」


インフェルノは心底呆れ返って、そのままジュウシチロウに付いて歩いた。行く先々で人々が平伏するのは面倒だったけれど、やがて人々も面倒になったらしく、遠巻きに眺めるだけになった。


街はこの世界で初めて見るものばかりだった。

道を行く自転車、街灯、信号機、レジスター、電信柱。

どれも見覚えのあるもので、インフェルノにとっては、かえって気味が悪かった。


「どれもこの世界で見たことのないものばかりだろう。ここは私が発展させた人類の叡智が揃う場所。この街でできない事は世界のどこであってもできはしない…そういう意味を込めて、限界発展都市と呼んでいる」

「随分と後ろ向きな言い方をするじゃないか。ここが駄目なら全て諦めでもするのかい」

「そうせざるを得ないだろうね。私は魔女王の息子。神聖魔術をして万物の道理を読み取り、編纂する力を持つ者。その私がこの手で生み出した人類の光、それこそがこの街だ。故にこの街は世界のどこよりも発展し、またその可能性がある場所となっている。悲観的になっているのではない、極めて合理的に鑑定しているだけに過ぎないのだよ。この世界の最先端はここであり続ける。故にこの街はこの世界の限界でもある。この街で叶わない事はこの世界のどこでも叶わない。そういう風にできているのだよ」


市場に行くと、色とりどりの食物や雑貨が並んでいる。商人たちはそれに埋もれるようにしながら商売をする。そこに肥やしの姿は無く、インフェルノは、まるで元居た世界に戻ってきたような気分になった。


「この街に、肥やしはいないのですか」

「いるとも。ほらここにキノコくんがいるだろう。彼女は半植物人種の末裔でね、この辺りの山々に生息する植物に関しては何より正確な知識を持っている。万物の心理を追求する私には最適の助手だ」

「その他にはいないのですか? この街は、他の村で見るような肥やしが見当たりません」

「あぁ…つまりは荷車を引いて死体の処理をする者か。それならこの街にはいないとも。荷物の運搬は台車やリフトで事足りるし、害虫害獣の類は各家庭に設置されたダストシュートへ投げ込めば良い。昔ながらの手法で石臼を使ったとて、化学肥料に勝る養分は得られない。この街に必要なのは──」


宿屋の扉が開け放たれると、ひとりの少女が飛び出してくる。背格好はインフェルノやセーラと同じくらいで、何も着ていなかった。


「たすけて」


少女はフリストリーニャにしがみ付いた。その尖った耳で、何かを聞きつけたのかもしれなかった。けれども宿屋から出てきた男に捕まると、すぐに引き剥がされてしまった。


「鎮静剤はあるかい」


ジュウシチロウが、男に尋ねた。男が気まずそうに笑うと、ジュウシチロウは注射器を取り出して、少女の首筋に刺した。


「あはは、お部屋に戻りましょう。どうかお話の続きを」


鎮静剤を打たれると、少女はどこか遠くを見ながら男に縋りついた。ついさっき助けを求めた相手など見えない風で、故郷の歌を口ずさみながら。


「設備投資は怠ることなかれだよ、きみ。せっかく手に入れた耳長族だろう。長く使った方が良いだろうに」

「はぁ、すいません。興奮剤は持ってるんですが」

「あれは血の気を多くするだけで役には立たないよ。そういうのは試合をさせる時に使うものだ。ただ従順でいさせるなら鎮静剤、或いは扱いは難しいが幻覚剤の類が良いだろう…やあすまないね、他ではあまり見ない光景だから驚いただろう。今のはそこの宿で使っている耳長族の娘だ。養殖技術の確立には成功したが、供給が行き届いていないのが現状でね。あぁして天然物を飼い慣らす苦労は未だ続いている」


宿屋の扉の向こうにはたくさんの耳長族がいた。ある者は遠くを見つめて、またある者はインフェルノやフリストリーニャを睨んでいる。扉が閉まると、街はついさっきまでと同じ時間が流れ始めた。


「さっきの注射は何だい」

「幻覚性キノコを原料に調合した薬でね。一時的に夢を見る事で落ち着き、覚めた後は現実を思い知って心が折れるという仕様さ。夕方辺りには落ち着くだろう。自分は神でないと絶望し、抵抗する気力も無くなる。資金に余裕があるのならここで買っていくと良い。きみのお供には必要無くとも、道中で襲ってきた獣なんかにも使えるからね」

「なるほど、それはどうも」


広場の噴水には男が腰掛けていて、6本の腕で弦楽器を弾いていた。インフェルノたちが近付くと静かに瞼を持ち上げて、白と黒の反転した瞳を覗かせた。そしてまた目を閉じると、また聞き覚えの無い曲を弾き始めた。

ジュウシチロウは地面に置かれた空き缶に硬貨を投げ入れる。中に数枚の硬貨が入っている音がした。男はそれには何も感じない風で、観客が立ち去ってからも変わらず同じ曲を弾き続けた。


「あれも見覚えがないね」

「奏虫族さ。森の素材で楽器を作り、それを奏でて意思疎通をする。商人はそれをレコード…つまりは音を記録する物に覚えさせて、市場で売っている。あれは商売道具のひとつということだ」


街には商売道具を何度か見かけただけで、これまで見てきた肥やしの姿は見当たらない。どこを見ても人間と機械ばかりで、フリストリーニャは気が遠くなった。


「つまりこの街はきみたちなど必要としていない。娯楽程度にしか求めていない。加えて必要な分は養殖できる。そこら辺に生えてる雑草なんて何の役にも立たないと」


ジュウシチロウたちと別れて、インフェルノは言った。夕暮れの街を行く人々はふたりの事なんてまるで気にしていなかった。


「この街の外も、いつかこの街のようになるのでしょうか」

「なるとも。それが発展というものだ。この街はこの世界の限界にして最先端だからね」

「ラーマ」


フリストリーニャが手を引くと、インフェルノの目の前を炎が過ぎった。

屋台の片付けをしていた店主が加減を間違えて吹かせたものだった。


「あぁ危ないところだった。どこも怪我は…」


フリストリーニャはインフェルノの顔を覗き込んで、そして慌てて手を離した。


「…すみません」

「いいさ、兄様だって時々使用人にやっていた。きっと私を思い出しても同じことをする」



ヴェーチルは綺麗な声を持っていた。

いつも歌っているような、優しい、穏やかな声だった。使用人の中では一番年が近かったけれど、自分よりもずっと大人で、随分と遠くに立っている気がした。


純聖は強く美しい少年だった。

朝日の如く輝く髪を伸ばし、自慢の薙刀で主君を守る従者だった。ヴェーチルの次に年が近くて、二人揃って幼い主を追い掛けていた。


鮮火は目を開けた。けれども何も見えなかった。ぼんやりと霞んで、色も混ざって見えていた。頭も体も、あちこちが痛くて堪らなかった。


「じゅん、せ」


声すら、思うように出せなかった。けれども自分を背負う背中の主だけは、いつも通りの温もりだった。


ヴェーチルは母親と共に鮮火の世話係になった。父親は彼女が生まれる前に別れたきりで、母娘揃って働いて生きているのだと言っていた。

こんなに綺麗な声なんだから、歌手になればいい。

何の責任も持たない、幼い子供の言葉だった。けれども彼女は笑って、ラジオで流行りの曲を歌った。鮮火が滞在していたのは開拓されたばかりの植民地だったので、テレビもラジオも、彼女に訳してもらっていた。


ヴェーチルが歌うと、純聖はそれに合わせてギターラを弾いた。時々知っているところを口ずさんで、その時だけは、薙刀を傍らに立てかけて。


「ヴェ、チルは、ヴェーチルは、どこに」


──先に行かせました──今は鮮火様のために布団を用意しておりますので──


「そう、か」


あぁあれは。今思えば、随分と残酷なことをした。

あの日ヴェーチルは十五歳、純聖は十六歳。ずっと大人に見えていたけれど、まだ幼い子供だった。幼い子供が、幼い子供を背負って、砲弾の雨から逃げていた。どうしてそうなったのか、知識はあっても理解はできない。どうして、母が娘を使って、十歳と少しの子どもを狙ったのか。それを知りながら働いて、呑気な子どもの話を聞いて。


「私は、こうしていられればそれで良いのに」


木漏れ日の中の事だった。

滞在していた屋敷の裏庭に、生家の庭に似たような場所があった。その懐かしさに惹かれてヴェーチルを連れて通った。ヴェーチルは本や新聞を持って行き、それを読み聞かせた。ある時それを読み終わって、遠くで純聖が訓練しているのを見ると、それだけ言って黙り込んでしまった。


黒くて長い髪に、白くて細い指。

睫毛が長くて、口の左端にほくろがあって。

自分を見る目は慈しみと、温もりと、今思えば葛藤が浮かんでいて。

純聖を見る目は、木漏れ日のように淡い恋の色をして。


暑くて、熱くて堪らない。

自分の肌が焼ける臭い。血が頬を伝う感触。全て、全て覚えていた。どんなに時が過ぎても、静かな木漏れ日の下に帰っても、妹に異国の話を聞かせていても。


思い出す。


思い出す。


後悔していた。

もっと話をすればよかった。ヴェーチルと、先に逝ってしまった妹と。

たとえ何もできなかったとしても、何かが変わっていたかもしれない。考えれば考えるほど、いつまでもいつまでも、同じことばかり。


優しくて温かいヴェーチルは。

鉈を振り上げた母親の前に立ちはだかって、そのまま一緒に、爆風に飛ばされていった。

そのまま骨すら見つからず、自分は純聖に背負われて。

木漏れ日の温もりも、初恋の輝かしさも、業火の中に消えていった。


不器用で寂しがりの妹は。

やっとの思いで駆け付けた時には、真っ黒な炭の塊になっていた。

どんなに敵を殺しても帰ってこない。ただ安らかにいてほしいと願うだけで。


木漏れ日の温もりも。


果ての無い愛おしさも。


思い出す。


さらに多くのことを。


ヴェーチルがいなくなって、妹が生まれて、妹もいなくなって。


思い出す。


たくさんの人を殺した。

平和を願って、きっと関係のない人々まで。

何も守れなかったくせに、守るためだと言い聞かせながら。

殺して、踏み躙って、悪魔と呼ばれ、世界中から憎まれて。

隣にはいつも、純聖が寄り添っていた。


思い出す。


気付く。


ここは植民地ではない。

どこか遠くの国の森の中。

背中の温もりは夢の中。


純聖はいない。


ヴェーチルが逝って、妹が逝って、随分と長い月日が過ぎた。


飛行機が落ちた。


純聖は胸から上だけ木に引っかかっていた。


右足の、膝から下を失くして動けなかった。


そのまま近くにいた原住民に担がれて、村に運ばれている。


言葉はわかる。

ヴェーチルが教えてくれた。

悪魔の肉を食うのだと言っている。生きたまま捌いてやるのだと言っている。

見えずとも分かる。その瞳は憎しみに満ちている。


「あ、やか」


妹を呼ぶ。

返事はない。

ただ焼け爛れた肌の痛みが、妹を恋しがった。


鮮やかな火と書いてセンカ。彩りある火と書いてアヤカ。

ただの、普通の兄妹だった。

兄は幼くして炎に焼かれ、妹はその十数年後に焼き殺され。

それでもその間のひと時は、ただ静かで温かい家族の時間だった。


「やすらか、に、どうか、やす、らか、に」


熱くて、痛くて、悲しくて、苦しくて、悔しくて、恐ろしくて、寂しくて、恋しくて、憎くて、逃げ出したかっただろう。それが全て分かるのに、知っているのに、助けることはできなかった。

こんなに、こんなに、愛しい妹。


どうか、どうかその先に、死んでしまうほどの苦しみの先に、温かい場所がありますように。罪を重ねた自分が辿り着けなくとも、妹はそこに行けますように。


思えば、これまでそんなことは考えたこともなかったが。

もしヴェーチルが生きていたら、きっと妹のことも可愛がってくれただろう。

歳が近ければ、自分よりもっと近ければ、友達にだってなったかもしれない。


また。夢を見る。

なんてやすらかで、あたたかいゆめ。



セーラの歌声に合わせて、ニジュウロクロウは弦楽器を鳴らす。歌い終わると楽器を置いて手を叩く。真っ白で上質なシャツに羽飾りを付けたニジュウロクロウは、拍手すらどこか気取って聞こえた。


「やあ素晴らしい、まるで心に染み入るような歌声だった!」

「魔女王の子供は変人しかいないのかい?」


ジュウシチロウと同じく魔女王の息子と名乗った男は、馬車でインフェルノの帰りを待っていた。

しかし何を思ったのか、セーラの声を聞くなり「やぁきみは良い声の持ち主だ。是非とも歌ってくれないかい」と馬車から楽器を引っ張り出し、インフェルノが戻ってくる頃にはすっかり上機嫌になっていた。


「いやなに、そこの彼に随分と警戒されてしまってね。敵意がないと伝えたかったんだが…女性の前で服を脱ぐわけにはいかないだろう?」

「さぞかし妙な臭いがするんだろうよ。私は一向に構わないから脱いでみたらどうだい?」

「お誘いは嬉しいがまたの機会に。体臭には気を遣っているんだがこればかりはどうしようも無くてね…しかし兄弟に会っているのなら話が速い。アペイロンでジュウシチロウに出会ったのだろう。彼は千と十七番目、私は千と二十六番目の子供だ。街での評判は酷いものだっただろう」

「遊び歩いてばかりの放蕩息子」

「やや違う」

「女たらし」

「それはデマだ」

「貧弱優男」

「誰が言ったんだそれは!」


ニジュウロクロウはやや声を荒げて、それから咳払いをした。


「『触れてはならない毒の花』…それが私に与えられた異名さ」

「フリストリーニャ、それ今日どこかで聞いたかい」

「いいえ」

「私の身体は毒で満たされている。触れれば静かに、眠るように死に至る。それこそ私が授かりし神聖魔術…この世界の人々はそう信じている」


手袋を外すと、ニジュウロクロウは足元に咲いた花に触れた。花は一瞬でその頭を地面に付けて、茎も葉も茶色に染まっていく。それは彼の言葉の通り、眠るような死の光景だった。


「それで、実際のところは何なんだい」

「きみは龍という生き物を知っているかい。近頃は知らない子供も増えたらしいが」

「空を飛び火を吐く巨大な蛇のようなものだろう。古い絵本に載っていたよ。魔女王の世界統一で討ち滅ぼされた邪悪の化身」

「そう、今は絶滅せし遥かなる一族。人間と言葉を交わさず、何にも従わず悠久の時を生きる。魔女王が討ち滅ぼさんとしたのにも頷ける。彼らは人が統べる世には強大すぎた…そして私は、そんな大いなる存在と心を通わせた者。それが本来持って生まれた神聖魔術。今はもう、永劫に見ることができない夢のようなもの…そして、私が生きる道を指示したもの」


ニジュウロクロウの手袋には龍が刺繍されていた。くすんだ黄金色の糸が象る模様は夕日のように美しく、使い込まれる中で何度も手直しをされた跡があった。


「唯一、魔女王の手を逃れた龍がいた。生き物でなく概念に近い存在だった。不老不死の魔女王には縁遠いものであったが故、蹂躙されずに夜空を彷徨っていた」

「それが、きみが心を通わせたものだった」

「そう…幼いころの私は病弱で、他の兄弟のように神聖魔術も行使できず…熱病に魘されながら憐みの声を聞いていた。兄や姉たちの声だよ。なんて可哀想なのだろう。何も持たずに生まれてしまって、こんなに弱く生まれて…自分には生きながらえる価値などない、そう思って窓枠を蹴ったんだ」


火照った頬に夜風が心地よかった。誰の姿もない地面と満天の星空が広がる景色が、どこまでも広がっていた。


「それは死の象徴だった。全てを黄泉へ送る猛毒の龍。私を地面に下すと大粒の涙を流す、心優しい者。私と同じ孤独であったが故に討ち溢された、深い悲しみを持つ者だった」


悲しい。悲しい。

ひとりぼっちは悲しい。取り残されるのは悲しい。

みんな死んでしまった。私は生きてすらいなかった。

皆死んでしまう。触れると皆死んでしまう。だからいつまでもひとりぼっち。


「私は彼と共に在りたいと願った。叶わないと分かっていても、願わずにはいられなかった。そして夜明けとともに彼の姿が見えなくなると、私はこの通り。妙な匂いとはこの身に宿った毒の香りだろう。私と彼の親愛の証さ」

「結局胡散臭いのには変わりないがね。それで、龍の力を授かった男が何の用だい」

「ははは、信用のならなさはきみも似たようなものだ。君の自己紹介も是非聞かせてもらいたいところだね。特に、西の村や街を襲うより前の話を」


フリストリーニャが剣を振り下ろすと、ニジュウロクロウは表情すら変えずにそれを避けた。持ってきていた長柄の武器を足で拾い上げると、フリストリーニャごと剣を弾き飛ばした。インフェルノが放った矢も薙ぎ払うと地面に刺さり、龍が羽ばたくかのように旋風を巻き起こした。


「非道いことをするじゃあないか。私がきみたちに敵意はないとあれほ──おっと」

「馬鹿!」


アルクトスが喉元に噛み付こうとしたのを、ニジュウロクロウは間一髪で避けた。思わず武器を握る手に力を込めたけれど、それより先にインフェルノが弓を振り下ろしたので、そのまま動きを止めてしまった。


「話を聞いてなかったのかこの馬鹿犬人間! 触っただけで死ぬ猛毒に噛み付く馬鹿がどこにいるんだ! 駄犬! 節穴! 脳筋太郎!」

「お前昨日多少の毒なら火でブンカイできるって」

「食中毒の話だそれはァ!!」

「やあすまなかったね、先に仕掛けたのはそっちだから御相子ということにしてくれるかい」


ニジュウロクロウは手袋をした手を差し出すと、フリストリーニャを引き起こした。


「なかなかの腕だった。私でなければ首を刎ねられていただろうね」

「貴方の目的は何ですか」

「そう警戒しなくても良い。きみと彼女たちの様子でようやく話ができるようになったところ──」


後頭部を鍋で殴られて、ニジュウロクロウは地面に倒れた。

すっかり油断したところをセーラに襲われたのだった。



鏡よ鏡、母様に一番愛されている子供は誰でしょう。

それは私と鏡が言った。

鏡に映った顔は綺麗。誰より何より美しい。

銀色の髪、空色の瞳。母様が何より愛しいと言ったこの姿。

僕に与えられた神聖魔術。誰より何より愛される魔法。


「母様、母様。ただいま戻りました。サンシロウが首を持って帰って参りました」


手柄を持って帰れば母様は喜んでくれる。刈り取った牛頭を見せると、魔女王はサンシロウを呼び寄せた。


「母様見てくださいこの角を。ニジュウハチロウとその部下が九十五人殺されました。母様への土産にしようと思って、傷付けないように殺してまいりました」

「あぁサンシロウ、可愛い可愛い私の息子。こんなに頼りになる子供はいなかった。こんなに優秀な子供はいなかった。愛しているわサンシロウ、誰より何より愛おしい子。だけど──」


魔女王は息子の頬を撫でると、深く溜息を吐いた。


「今日は随分疲れたようね。魔術が弱まっているみたい」


サンシロウは飛び退いた。心臓が破裂してしまいそうだった。母様の御顔が曇っている。目に嫌悪が浮かんでいる。鏡が見たい。この場から逃げ出してしまいたい。


「母様、僕の顔は」

「綻んでいるわ」


全身に嫌な汗が滲んでいた。触って確かめると、悍ましい感触があった。


「母様僕は、僕は」

「これからも期待しているわ。おやすみなさい」


魔女王が手を上げると、サンシロウは自室に戻された。

鏡には大嫌いな顔が映っている。反射的に声を上げると、その衝撃で砕け散る。その一つ一つが映す顔が気色悪くて、手当たり次第に叩き潰す。


「期待してるって、期待してるって言ってた。首だってほら、ここにない、母様が持ってるんだ」


──どうかなぁ。

──誰にでも言ってるんじゃないかなぁ。


鏡の顔が囁く。


──サンシロウは愚図だからなぁ。

──いつも兄弟に置いて行かれて。

──あの時だってひとりだけ。


叩けば叩くほど、その数は増えていく。


──あははははは。

──あははははは。

──ジュウシチロウはすごいねぇ。

──あははははは。

──あははははは。

──きっと誰よりもすごいねぇ。

──あははははは。

──あははははは。

──あははははは。

──あははははは。


「うるさい」


──あははははは。

──あははははは。

──あははははは。

──あははははは。


「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい」


──あははははは。

──あははははは。

──あははははは。

「あははははは」

──あははははは。

──あははははは。

──あははははは。


粉々になるまで砕いてしまえ。その顔が見えなくなるまで砕いてしまえ。そうだ全て壊してしまえ。全て、全て、全て、全て。


「そうだ、そうだそうだそうだそうだ! それがいい、それがいい、それがいいよね絶対! みんな壊そう、母様の心が向くもの全て、全て壊してしまおう! あはははははは! あはははははははははははは!!」


夜明け近くになって、サンシロウは粉微塵になった鏡の上で眠りに就いた。

サンシロウの部屋に近付こうとする者は誰もいなかった。



ニジュウロクロウが目を覚ましたのは半刻も後の事だった。


「ごめんなさい、殺すなら今かと思ってしまって」

「いや…なかなか良い判断だったと思うよ私は。その直感はぜひ育ててほしい」

「なるほどその軽口なら大丈夫だろう。さっさと本題に入ってくれたまえ」


水を一杯飲み干すと、ニジュウロクロウは立ち上がった。荷馬車に駆け寄るとよじ登り、器用に屋根の上へ立つ。


「きみたちの関係を見て確信した。人異種を肥やしと呼ばず、道具としても扱わず互いを庇護するその姿から日ごろの行いも推察される。私はきみたちを仲間として迎え入れたい。私と、私の仲間たちが結成した人異種解放同盟…つまり」


ニジュウロクロウの視線の先には限界発展都市アペイロンがある。そしてその遥か先には、山脈とアペイロンに守られた魔女王の街がある。


「レジスタンスだ。魔女王が支配するこの社会を壊し、新たな世界を創造する。人間も、人間でないものも対等な世界。それこそが私の夢であり、理想であり、生きる理由だ。全ての生き物が笑顔で暮らせる楽園を作りたい。その手助けをしてくれないだろうか」


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