角神父・後
「──そして最後に残った魔術国家の王、アイザック・ケルンスターが処刑された事により、この世界は一つの国家として統一されたのです。魔術・呪いの類は最後の魔術師とされたアイザック王の死により根絶され、今は魔女王とその子供たちだけが、神聖魔術と呼ばれる力を有しているのです」
フリストリーニャが一息つくと、また夜風が窓を叩いた。夜はすっかり更けていて、エルビスは自分の部屋に戻って眠っていた。
「魔女王は何者なんだ」
インフェルノは暖炉の炎を見つめていた。
「最初の国家が滅んでから最後の国が滅ぶまで、そして今に至るまで君臨し続けている魔女王が全て同じだというのなら、千五百年は生きていることになる」
「そういう事になります。魔女王様は不老不死の力を持ち、また国を治める裁量もある。私たちのような人ならざる者たちから人間を守り、千年間、この広い世界を統治し続けた」
「魔女王こそが人ならざる者だとは思わないのかい」
「そうですね。普通の人間ではない、という点だけは同じなのかもしれません。けれどそれ以外の全てが異なります。魔女王様はこの世界を太陽の如く照らし続ける存在ですが、私たちはただ、日陰でその温もりの残り滓を分け与えて頂くに過ぎないのです」
フリストリーニャの言葉は、まるで何も偽りが無いように心のこもったものだった。
「そういうものなのです、肥やしというのは。私、フリストリーニャさんのように多くは学んでいませんでしたけれど、それでも、自分を人間だと思っていた頃から信じて疑いませんでした。私たちが生まれる前、本当にずっと前から、それが当たり前だったのですから」
「そうか、分かった」
インフェルノはそう言うと、暖炉の部屋を出て行った。
「分かった、分かった、分かった」
急に遠くまで見渡せるようになったような、不思議な気分だった。ずっと肌で感じていただけの何かを理解できた喜びの他に、言葉で言い表せないような、重苦しい何かが肩に乗っているようだった。
「兄様はどうして戦争へ行くの?」
木漏れ日の中での事だった。
幼かったあの頃、兄がまだ少年と呼べるような…今の自分と同じくらいの頃だった。
何度か兄が長期の遠征に出て、また何度目かに帰って来た時の事だった。
あの時はただ、兄がずっと一緒にいてくれれば良いのにと思っただけだった。物心ついた頃から兄は将来有望な軍事指揮官で、いつかそうなるのは決まっていた。けれども幼い心では理解しきれなくて、母の目を盗んでは、兄に縋って引き留めていた。
「──は、私たちが何と呼ばれているか知ってるかい」
「──と兄様が? きょーだいじゃないの?」
きっと答えるのが難しかっただろうに、兄は丁寧に教えてくれた。本当に理解するのはずっと先でも、いつかできるようにと説いてくれた。
「帝国の外では、私たちは鬼畜月人と呼ばれている」
「きちく?」
「他の国よりも残忍で、まるで鬼のようだという意味らしい。本当にそうなのだと信じ込んで、悪い鬼なのだから退治するべきだと言っている」
「兄様はやさしいよ!」
怒りだとか、そういうものすら分かっていなかった。兄様は優しくて、頭が良くて、温かい木漏れ日のような人だった。それが自分にとっての世界だった。
「外国を旅していた人が、帝国の人間だと知られただけで殺されてしまう。私の顔の火傷だって、突き詰めれば私が帝国の王子だからと襲われたんだ。このままずっと放っておけば、きっといつか、もっと酷い事をされる。だから、私は軍隊を率いて戦うんだ。この国の人々…もちろん、──も守るために」
そこまで話したところで、急な雨が降ってきた。木漏れ日は屋根から遠い場所にあったから、雨から逃げて走る。怪我で目を悪くした兄の手を引いて。
「──」
今はその部分だけが霞んでしまうけれど、木々を叩く雨粒の隙間に、兄は確かに名前を呼んだ。
「いつかきっと分かる日が来る。私が戦っているもの、いつかきみが戦うかもしれないもの。例えそれが――――」
「バソリーさん!」
振り返ると、パジャマ姿のエルビスが立っていた。
夜の川は一面が黒一色で、祖国を象徴する青い月も、今夜は見えなかった。
「きみ、寝てたんじゃないのかい」
「だって、風がうるさくて…」
「そういう時は頭の中で歌でも流しとくんだ。父君が歌ってくれた子守唄とかあるだろう」
「そっか、バソリーさん頭良いね!」
「きみ一日で懐きすぎじゃないかい。それとも、この辺じゃ人見知りの意味は違うのかな」
エルビスはインフェルノの横に並ぶと、石の上に座って川を見下ろした。
「だってバソリーさんは違うもの。村の人たちは僕の事からかうけど、バソリーさんは意地悪そうなだけで意地悪くないし」
「それ褒めてるつもりなのかい」
「褒めてる!」
「あぁそうかい…お子様はさっさと寝たまえよ。私が君くらいの年の頃は、こんな時間に起きてたら兄様だって怒りだすさ」
「ねぇ、バソリーさん、お願いがあるんだ。僕やっぱり海が見たい。バソリーさんのお供にして、僕も連れてって」
子供の言う事はいつも突然で、大人からすると笑ってしまうような話ばかりだ。けれども子供にとっては一番のタイミングで、理屈だって通っている。
年の離れた兄やその配下とばかり話していると、それを理解する者とそうでない者の違いが判る。彼らもやはり、弟や妹がいる者たちだった。
「あーあ…兄様もこんな感じだったのかな、もしかして」
ため息をつくと、インフェルノはエルビスに向き直った。
「御役目を継がなくていいのかい」
「継ぐ前に帰るよ。海を見たらすぐに帰る。本当はお父さんと見たいけど…海の事しっかり覚えて、お父さんに伝えるよ。僕の子供たちにも、ずっと話して聞かせる」
「びっくりするほど私に利益が無い! きみ力仕事もできないし料理だって親任せだろう」
「できるよ! アルクトスさんやセーラさんほどじゃないけど…食事の量、みんなより減らして良いから」
「好きなだけ食べたまえよ、大飯食らいの犬人間に比べれば微々たるものさ」
風は一層強さを増して、川上に向かって吹き荒れた。インフェルノはそれを横切るように歩いて、教会へ戻った。
「良いよ、海を見るまでついて来るといい。父君には明日の朝、話をしよう。私だって鬼じゃないんだ、子供の我儘くらい聞くさ」
次の日、エルビスは村の広場で火炙りにされた。
遅くまで起きていたインフェルノたちが寝ている間に、村人と父親に殺されてしまった。
アルクトスが異臭に気付いて目を覚ましたのは、風向きが変わった昼頃の事だった。
インフェルノが広場に着いた時、エルビスは真っ黒になって父親に抱かれていた。
「なぁ、アルクトス。兄様もこんな感じだったのかな」
泣き崩れているセーラの隣で、インフェルノは尋ねた。
辺り一面に立ち込めた異臭の中で、アルクトスは喉を鳴らしていた。
「なぁ…私が焼き殺されたと知った時、兄様はこんなにも…こんなにも、こんなにも腹立たしくて、憎くて、信じられなくて、苦しくて、悲しくて、目が回って、腹の底が裏返ってしまいそうで、今すぐ手当たり次第にみんな殺してやりたくて…あの子を抱きしめたいって」
「申し訳ありません。あなた方にはつらい思いをさせてしまいました」
フリストリーニャは、村人たちに急かされて教会へ戻っていく。処刑台の片付けを命じられているのだと、村人の言葉で分かった。
「待てよ」
アルクトスが呼び止めると、フリストリーニャは立ち止まった。
「はい、何でしょうか」
「その子が殺されたのは、俺たちと一緒に村を出たがったからか?」
フリストリーニャは、しばらく何も言わなかった。ただ、地面の何もないところを見つめて、静かに息をしていた。
「…いいえ違います。それは今、初めて知りました。この子が今日死んだのは、あなた方には何も関係のない理由です」
「だったらどうして」
「角です」
フリストリーニャはアルクトスの方を向いて、自分の角と、燃えずに残ったエルビスの角を見えるようにした。
「我が一族は、角の先端が外を向いていると、乱暴で反抗的な性格になると言われています。御役目を継げるのは、私のように先端が内向きになっている者だけです。外向きになっている者は、年頃になる前にこうして間引かれるのです」
フリストリーニャの言葉は、まるで何も偽りが無いように透き通ったものだった。
けれどもその目はどこか遠くを見つめていて、心はどこか、その先にあるようだった。
「わざとだな」
フリストリーニャは、インフェルノの言葉には立ち止まらなかった。
「昨日、わざと私の前で魔女王だとか歴史の話を持ち出したな。きみの子供が何十人も死んでいることから目を逸らさせて、今日の処刑の邪魔をさせないように。そんな事をしてまで、エルビスを殺したんだな」
「私は一度だけ、魔女王様の御姿を見たことがあります」
立ち止まらないまま、インフェルノに背を向けたまま、教会へ向かっていった。
「私がこの子よりも幼かった頃の事です。魔女王様は美しく、勇ましく、知性溢れる方だった。今はただ神話として残る言い伝えの通り、まるで別世界の御方のようで」
教会に向いて吹く風の中で、フリストリーニャは振り返った。インフェルノを見るその目は、インフェルノを突き刺して、中まで覗いてしまうような、鋭い光を宿していた。
「あなたは不思議な人でした。私の娘に瓜二つで、立ち振る舞いや言葉のひとつひとつまでもがそっくりで。ラーマは私と血が繋がっていません。どこかから迷い込んで来て、この手で殺すまで育てた子供です。あの子はいつか、どこか遠い世界から来たのだと話していました。私には理解が及ばぬ事ではありますが、魔女王様も、ラーマも、そしてあなたも。言葉では言い表せない何かを持っているのです。そしてあなたはラーマによく似ていた。立ち振る舞いや言葉のひとつひとつ…きっとあの子と同じ事をする。ラーマがしたように、子供たちの処刑を阻もうとする」
「どうしてそこまでして殺したんだ。どうして、そんな事をしてまで私を騙して…自分の子供を焼き殺した!」
地面が燃え盛り、フリストリーニャに燃え移る。インフェルノの炎は処刑の炎とよく似ていた。生き物の体を炙って、痛めて、苦しめて燃やす炎だった。フリストリーニャはその中で、エルビスを抱きしめて泣いていた。
「こんなに、熱くて、苦しくて、恐ろしいから…一度だけで殺してやらねばならないのです。ラーマが救えなかったあの子は、殺される事の恐ろしさで気が狂ってしまった。血を吐くまで叫び続けて、何度も殴られて骨が折れて、もう殆ど死んでいるような状態で、やっと処刑台に上った。そんな思いをさせるくらいなら…最初から…何も知らないまま殺してやらねばならないのです」
驚いた村人が鍬や鉈を持ち出したので、アルクトスはインフェルノとセーラを抱えて村を出た。そのまま馬車に飛び乗って、教会を出て森へ向かった。
「これが世界だ。これが──これが兄様の戦ってた相手だ!」
セーラがしがみついても、拳に血が滲んでも、インフェルノは馬車の床を殴り続けた。
ラーマがやってきたのは、十二番目の子供が死んだ日だった。
その頃は九人の子供たちと一緒に暮らしていた。その中で三番目の子供が、川の向こうに立っているラーマを見つけて、教会へ連れてきた。
ラーマは村人たちを気味悪がったので、教会で、子供たちの一人として暮らすことになった。子供たちで唯一、十歳を過ぎていたので、十三番目の子供として育てることにした。
「お父さん」
ラーマは人間でありながら、肥やしをそう呼び慕った。弟や妹の世話も、まるで本当の家族のようにして振舞った。ラーマという名前も、はっきりとした物言いをすることから、自分が付けたものだった。
「お父さん、私はここではない別の世界から来ました」
その話を聞いたのは、十四番目の子供が処刑される前の日だった。
「私がいた世界には、太陽は一つしかありません。お父さんのように、角が生えた人もいません。言葉や文化は似ているけれど、それでも、こことは違う世界です」
ラーマは時々冗談を言う事があったけれど、この時は本当の事を話しているようだった。
「お父さん、本当の事を言ってください。明日アンテレだけが村へ行くのは、殺されるためじゃないんですか。私はあの日、十二番目の子が殺されるのを見ていました」
はっきりと物を言って、勘の鋭い子供だった。迂闊に触れると怪我をしてしまうくらいに。
「お父さん私は──私は、アンテレを連れて逃げます。他の子たちも、時間が掛かっても逃がします。私は、あの子たちが殺されるなんて、絶対に許せません」
あの子は──まだ、知らなかった。きっと、魔女王の存在すら知らなかった。村から逃げ出しても、どこへも逃げられないのだということも、分かってはいなかった。
父と慕った人を、あの子は信じていた。だから、まさか襲われるとも思わず背中を向けた。
そのせいで…二度と、朝日を拝むことは叶わなかった。
森に住み着いた肥やしたちは、きっと何が起きたかも分からなかった。
ラーマは一思いに殺してやれなかった。娘として育てた子供に、加減無く刃を振り下ろせなかった。
だから、何度も何度も、必死に殺し続けた。殺されるしかない生き物たちを、せめて苦しまずに終わらせてやるために。何も分からないまま、理解せずに終われるように。
「殺せ! あの化け物を殺せ!」
水を浴びせられて、村から送り出される。前もって準備していたので、エルビスの埋葬はすぐに終わった。我が子のために合わせた手で刃を握って、教会を出る。
化け物は教会のすぐ前に立っていた。
分からないまま殺してやるのは、きっと無理だった。
「あなたもきっと、本当の名前があるんですね」
娘によく似た子供は、やはり自分の名前を忘れていた。
「もう、死んでしまったんだ私は。だから思い出せない。戻ることができない頃の名前なんて、もう思い出せない。今の私はインフェルノ。私は、この世界を焼く炎になったんだ」
「何故ですか。何故あなたはそんなにも戦いたがるのですか。そこまでして、どうして戦おうとするんですか」
ラーマは死ななくてよかった。
角が無いから、狂暴になる心配も無かった。
御役目を継げないとしても、死ぬ必要は無かった。ラーマは女の子だから、どこか別の村へお嫁に行くことだってできた。
この世界に逆らわなければ。
「今もずっと、一緒に生きていられたのに!」
毎晩毎晩、夢を見る。起きていても、ふとした瞬間に夢を見る。今でも子供たちが生きていて、あの頃のように自分を慕ってくれる夢を見る。呼び掛けられて、振り返っても誰もいない。子供を殺すたびに、夢を見る時間は長くなっていく。
仕方がない事だった。彼らは生きるのが許されなかった。望まれた規格に育ててやれなかった。だから彼らは、
「あの子らは死ぬべきだったのか?」
ふとした瞬間、夢を見る。
鍋を火にかけた時、窓を開けた時、扉を開けた時、雲の隙間から光が差した時。
あの時、二度目の刃を振り下ろした時の夢を見た。
愛する娘と、よく似た少女を前にして。
「エ ン ビ レ は 死 な ね ば な ら な い っ た の で か ?」
夢と現実が混ざり合って、よく似た顔が重なって、問いかけてくる。
答えろと、答えてくださいと、剣のように鋭く、真直ぐに、心へ突き刺さる。
「お前は死ぬべきだと、愛する我が子に言えるのですか?」
何度も何度も、夢を見る。
我が子を殺した日の夢を、何度も、何度も、夢に見る。
最初の子供の事だって、昨日のように思い出す。
何度も何度も、あの日のやり直しをさせられるように。
何度も何度も、何度も何度も、何度も。
やり直しなどできない。それは遥か昔から決まっている事だった。
やり直しなどできない、けれど。
やり直しなどできないのに、夢を見るのは。
痛みが現実へ引き戻す。
火傷を負った腕を、刃を手にした腕を、インフェルノが強く握っていた。
「戦うんだ。相手がどんなに大きくて途方が無くても、関係ない。戦って、戦って、守り抜かなきゃならないんだよ」
踏みしめた草木を撫でる風が、どこまでも吹き進む。森を越えて、谷を越えて、山を越えて、どこか、見たことのない場所まで。
見たことが無いはずなのに、この目で見ているような。行ったことが無い場所なのに、確かにそこにあるのが分かるような。
それまで当たり前だと思っていた世界が、重く圧し掛かってくる気がした。
「殺せ! 殺せ!」
教会までやってきた村人が、フリストリーニャを囃し立てる。
彼らの姿は、ほんの少し見ない間にずいぶんと汚らしくなった。
「何してるんだ、こんな奴さっさと殺してしまえ!」
村人の手が、インフェルノに、ラーマに、我が子に伸びる。
なんて汚らしい、考えただけでも悍ましい。握ったままの刃を振り下ろして、その手を切り落としてもまだ足りない。
いっそ楽しそうにさえしていたのに、村人たちは恐れおののき逃げていく。蛇のようになったフリストリーニャの顔を見て、化け物だと叫んで逃げ帰る。けれどもそれは叶わなかった。フリストリーニャは酸を吐いた。それは村人たちの体を溶かして、皆一つに固めていった。やがて日が暮れるころになると、村の広場には一塊になった村人が、処刑台があった場所で山になった。
「インフェルノ、あの時のように私を燃やしてください」
全てが終わった後、フリストリーニャは言った。
「愛していたのに、あんなに愛していたのに。私は救う事ができませんでした、救おうともしませんでした。ただ仕方がないのだと諦めて、何にもしようとしませんでした。それがどんなに愚かな事かも知らずに、ずっと、ずっと、ずっと目を瞑っていた! 燃やしてください、燃やしてくださいインフェルノ、こんなにも罪深い私を…どうか燃やして、あの子らのように苦しめて──一緒に眠らせてください」
「…いいや、それはできない。できないんだよフリストリーニャ、私は」
世界の全てが憎かった。だから、家でも草木でも、自分の放った矢でさえも、何でも燃やすことができた。
「私はね、フリストリーニャ。憎んだものしか燃やせないんだ」
「インフェルノ、インフェルノあなたは、あなたは」
フリストリーニャは泣いていた。
いつまでもいつまでも、子供たちが死んだ場所で、涙が枯れるまで泣き続けた。
「インフェルノ…あなたはこの世界を、地獄に変えました…」
風は今、海に向かって吹いていた。