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角神父・前


食卓は酷く冷たかった。

明かりが灯っているのに薄暗くて、温かいはずのスープは生ぬるくて、テーブルも椅子も固く冷たくて。染み一つない真っ白なテーブルクロスが、自分が間違えるのを楽しみに待っているようで。


テーブルクロスを汚すたび、母は娘を叱りつけた。自分はそんな事しなかったと声を荒げて、どうしてこうなったんだと苛立った。何度も続くと食べ終わらないうちに食卓を追い出され、最後はひとりだけ余所へ行けと言われてしまった。


ひとりで食事をしなくて済むのは、兄が戦争から帰って来た時だけだった。一年の殆どを異国で過ごす兄が帰ってくると、食卓には食べきれないほどの食事が並ぶ。母はほんの少しだけ機嫌を良くして、兄の話を聞きながらそれを食べる。そうして食事を終えた母が出て行くと、次は自分が入る。


兄は母がいる間は殆ど食事に手を付けず、妹が来るのを待っている。

冷めてしまった料理を妹と分け合って、異国で見聞きしたものを教えてくれる。

次の日は木漏れ日の中で午前を過ごして、昼時になると花壇の前のベンチに座ってサンドウィッチを食べる。


それはまだ、インフェルノがただ一人の人間だった頃の思い出だ。



「あっっっつい!」


アルクトスが吐き出したのは、出来上がったばかりのスープだった。


「きみねぇ、少しは考えてから行動したまえ! 主人の服に飛沫を飛ばす下僕がいるかこの大馬鹿者! 第一ついさっきまで煮え立っていたのを飲んだら熱いに決まってるだろう! きみは文字通りに煮え湯を飲んだんだよ煮え湯を!」

「ごめんなさいインフェルノ、私、少し冷ましてから飲むようにと伝えるべきでした。こんなにすぐに食べてくれる人、これまでいなかったものだから」


時計塔の街を出た三人は、街中から集めた食料や物資を馬車に乗せて、東に向かって進んでいた。セーラが働いていた家の中で地図と方位磁石を見つけたので、この世界で一番大きな街に向かう事にした。


「寒くなってきましたから、温かいものを食べましょう」


セーラはそう言ってスープを作った。この世界で採れるものを使った料理は、不思議とインフェルノの舌に馴染んだ。野菜を刻んでいる間にも毒虫は産まれたが、地面を這い回るだけで、食材には興味が無いようだった。


馬車に乗っている間、セーラは馬車の端に座って、産まれた毒虫は道に点々と落ちて行った。眠る時も足だけは外に出して、それ以外は二人と一緒になって眠った。インフェルノの身の回りの世話もしたがったが、インフェルノが大抵の事は一人で済ませてしまうので、少し手持ち無沙汰になっていた。


「インフェルノ、また妙な臭いがする。あの森からだ」


手綱を握っていたアルクトスが言うと、インフェルノは双眼鏡で森を見た。何も変わったことのない、常緑の森だった。


「臭いっていうのは前の街と同じかい」

「いや、少し違う。肥溜めみたいな臭いだ」

「つまり糞尿か。他の森より臭いの強い何かがいるのだろうね」

「インフェルノ、左の方から誰か来ます。あの馬車」


セーラが知らせると、インフェルノは弓を構えた。馬車に乗っていたのは男が一人だけで、インフェルノを見ると、真直ぐに向かってきた。


「ラーマ、どうしてここにいるのですか!」


頭に山羊のような角があった。背が高くてどこか頼りない痩せ型で、その縋るような目を見て、インフェルノは矢を放たなかった。


「あぁ、申し訳ありません。あなたの姿が、私の娘によく似ていたのです。もう何年も前に死んでしまった娘ですが、姿を見たからには駆け寄らずにはいられませんでした」


馬車を止めると、男は言った。着ている服は質の良い生地が使われていて、荷馬車も手入れの行き届いた上等品だった。


「私はフリストリーニャ、向こうにある村で教会の管理を任されています。旅人が訪れるのは滅多に無い事ですが…教会で良ければ是非ともお立ち寄りください。村の人々も、きっと歓迎してくださるでしょう」

「行く前に聞かせてくれ。きみの村というのはどんな場所だい」


インフェルノが尋ねると、フリストリーニャは答えた。


「えぇ、とても良い村です。私のような肥やしにも名誉ある御役目を与えてくださる人々の村です。冬の寒さは厳しいですが、獣や暴徒も村にはやって来ません」


村の人々はフリストリーニャの言った通り、インフェルノたちを温かく迎えた。勝手にインフェルノは家来を連れた旅人なのだと判断したので、特に嘘を話す必要もなかった。

教会は村の外れにあって、インフェルノたちが到着すると、石造りの建物から角の生えた子供が現れた。


「息子のエルビスです。昨日十歳になりました」


エルビスは父親と同じ黒髪で、紹介されると何も言わずに頭を下げた。他に家族はいないらしく、洗濯が残っているからと出て行ってしまった。


「申し訳ありません、エルビスは昔から人見知りで」

「よそ者なんて滅多に来ないんだろう、それなら仕方のない事さ。しかし二人しかいないのに教会を管理するのは大変だろう。何か困っていることがあれば言うと良い。特に力仕事なら、ほらここに得意そうな奴がいるだろう」

「それは有難い事です。それならエルビスを手伝ってやって頂けませんか。私は馬車の積荷を片付けなくてはなりません」


教会裏に行くと、エルビスは洗い終わったものを運び出すところだった。アルクトスが代わりに運びセーラが物干し竿へ吊るすと、洗濯はすぐに終わった。


「きみの御父上がね、私が娘に似ていると言うんだ。ラーマという子はどういう子だったんだい」

「知らない。僕が知ってるのはスフィーダ姉さんだけだよ」


しばらく家事を手伝っていると、エルビスはインフェルノたちの話を聞くようになった。姉について尋ねると、エルビスはどこかから手帳を持って来た。


「ラーマ姉さん、ここだよ。兄さんや姉さんはここに載ってるのが全部だよ」

「待ってくれ、これ全部きみの兄さんと姉さんかい?」


エルビスが開いた手帳には大勢の名前が載っていた。数えてみると三十八人も並んでいて、エルビスはその一番下、ラーマは十三番目の子供だった。


「バソリーさんにも兄弟はいるの?」

「父親が一緒なのを全員合わせてもここまではいないさ。というか、兄様以外は殆ど関わりが無かったがね。ここにいる兄弟は──」

「バソリーさん、海は見たことある?」

「…あぁ、この辺のはまだ見た事無いな。これから行く街は海沿いの道を行った所にあるから、その途中で見るかな」

「遠くのはあるの?」

「うん、本当に遠くのはね。兄様の見送りをする時に」

「どんなだった? しょっぱかった?」

「港だからね、舐めてはいないさ。でも潮の香りはしていたね」


エルビスは村の外の話を聞きたがり、セーラとアルクトスも一緒になってそれを聞いた。やがて夕方になりフリストリーニャが戻ってくると、三人は夕食に案内される。夕食を終えると、インフェルノはメッツェンガーシュタインに乗って森を目指した。


炎で木々を照らしながら歩くと、アルクトスが嗅ぎ取ったらしい異臭が鼻についた。けれども森は静まり返っていて、変わったものは見られなかった。

草木を掻き分けるような音がして、インフェルノはそこに火矢を放った。けれども矢はウサギを射抜いただけで、他には何も見つからなかった。


「セーラ、きみウサギは捌けるかい」


教会に戻ると、セーラはエルビスに本を読み聞かせていた。時計塔の街でインフェルノが拾ってきたうちの一冊だった。


「ごめんなさい、ウサギは捌いた事が無いんです。魚なら何種類かは経験があるですけれど」

「ウサギなら父さんが捌けるよ。この村のそういう事は父さんの仕事だから」

「ほう、それならお手並み拝見してみたいな。今はどこにいるんだい」

「今は裏の作業所にいるよ。ほら、ここから見える、あの小屋」


エルビスが窓を開けて指差した先には、川沿いに小さな木造の小屋が建っていた。


「小屋では何をやってる?」


暖炉の横で眠っていたアルクトスが尋ねた。


「知らない。僕は入っちゃいけないって言われてたんだ」

「…そうか、それならいい。セーラ、さっきの話を続けてくれ。早く続きが聞きたい」


セーラが続きを読み始めると、エルビスはその隣に戻った。インフェルノは少しだけそれを聞いて、部屋を出た。母と子の愛の物語は、昔からどうにも馴染むことができなかった。


教会の裏庭は、誰かが歌っているような風が吹いていた。その風の中を進むと、自分とは別に足音が聞こえてくる。

そこにはヒトのような何かが立っていた。影はインフェルノのような人間と同じだったが、男であり女でもある身体には、寒空の下だというのに、ただ一片の布切れすら纏っていなかった。

弓を構えても、それは全く動じなかった。ただインフェルノを見ると、飢えた猛獣のように突進してきた。

インフェルノは矢を放たなかった。それより先に、アルクトスがその首をへし折った。


「話の続きは良かったのかい」

「エルビスが聞いてるんならそれで良い」

「馬鹿なんだか賢いんだか分からなくなってきたなきみは! まぁ良い、他に用事がないならついて来たまえ。きみが子供に見せまいとしたもの、確かめに行こう」


川沿いの小屋には何もなかった。ただ床の真ん中に板が一枚あるだけで、それを除けると地下へ続く階段があった。階段は何十年、何百年も前に作られたようで、壁や床の所々に穴が開いていた。


「あの子が窓を開けた時、血の匂いでもしたのかい」

「少し違う」


行き止まりには扉があった。

その先にはフリストリーニャと、石臼と、死体の山があった。


ふたりが来ると、フリストリーニャは石臼を引く手を止めた。

その顔が穏やかだったので、インフェルノは弓を構えなかった。


「森にいたのはこいつらかい?」


積み重なった死体の山を指差して、インフェルノは問う。


「村の連中が言っていたよ、数日前から森に肥やしの群れが住み着いたって。そいつらは森の幸を貪りながら繁殖に励んでいたそうだが…夕食後に森へ行ってみたら異臭がするだけで何もいなかった」

「彼らは繁殖のためか私たちよりも食欲が旺盛で、それ以外の事はまるで気にならないようでした。村の方々は立ち退きさえすればそれで良しとしてくれたかもしれませんが…残念ながら、話は通じませんでした」

「なるほど、きみの身分にしては良い暮らしをしすぎていると思ったんだ。この村では『そういう事』をする代わりに、それなりの暮らしが保証されているという訳だ」

「お察しの通りです」


地下室にはいくつもの解体道具が並んでいた。どれも古い物ばかりであったけれど、手入れが行き届いたものばかりだった。


「遥か千年も昔、この世界が魔女王によって統一された時から、我が一族はこの村で御役目を与えられてきました。従順に、彼らの代わりに手を汚し続ける。決して楽な生き方ではありませんが、それでも私たちは一族の歴史を紡いできたのです」

「待ってくれ…実を言うと、私は事情があって歴史を勉強できていないんだ。もし君が詳しいのなら教えてほしい。この世界の成り立ちとか、今の世の動きとかをね」


フリストリーニャはインフェルノの頼みを快く引き受けた。


「それでは、暖炉の部屋に行きましょう。お話が長くなってしまいますので、温かいミルクでも飲みながら、ゆっくりお話しいたしましょう」


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