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毒虫女


恋の話をしよう。

少女はどこかで生まれた。それが街の中だったのか外だったのか、真相を知る者にはついぞ出会えなかったが、いつかの冬の夕暮れに、時計台の下で泣いているのを拾われた。

街はとても大きかった。十七年も生きれば知らない道は無かったが、知らない住人は沢山いた。もしかすると、いつかどこかで親とすれ違っていたかもしれないが、考えたところで、何かが変わることは無かった。


少女はセーラと名付けられた。街で一番の金持ちの家で、料理人の手伝いとして育てられた。

読み書きや簡単な計算は、働く中で覚えた。家の娘が学校へ通い始めるころ、セーラは使用人たちの食事を用意する仕事を始めた。娘が年頃になって身支度に時間をかけるようになると、身の回りの世話も任せられた。

娘はセーラと同じ年に生まれた。夏の暑い日に生まれ、太陽のように輝かしい笑顔とよく通る声が印象的だった。いつでも堂々とした振る舞いをする彼女に憧れるうち、セーラはいつも彼女の事を考えるようになっていた。


それは本当に淡い、正しく憧れの先にある恋心だった。ただ黙って茶汲みの頃合いを見図らねばならない自分を、ほんの気まぐれでも良いから目に留めてほしいというだけの事だった。遣いに出かけた先で見かけた彼女と学友の昼食会の隅に、給仕ではない身分で座っていたいだけだった。その夢が叶うのならば、その日の帰りに馬車に轢かれて死んだとしても、何も未練は無かった。


太陽はセーラを見ていなかった。太陽が見ていたのは、セーラが作った料理に嫌いなものが入っていないかとか、用意した靴下が左右揃っているかとか、脱ぎ散らかした服が片付けられているかとか、そういった事だった。

セーラにとってそれは当然の事だった。だからこそ夢を見たのだった。太陽が見る世界の、その隅に自分の影が映るのが、ただ一つの望みだった。それさえ叶うのなら、夜の間に殺されて、次の日から朝を迎えられなくなったとしても、そのまま安らかに眠れる気がした。


本当に本当に、淡くて、小さくて、静かで、控えめで、強く押し込められた願いだった。



荷馬車は当てもなく進んでいた。

インフェルノは星を見て方角を知る術を持っていたが、太陽が二つある場所ではまるで使えなかった。犬人間は村の外など何も知らなかった。自分が外に出ることがあるだなんて考えた事もなかったので、外にあるもので知っているのは、村の子供が夏に出かけるという「街」と、木の実や肉が採れるという「森」だけだった。


「本当にこっちなんだね、妙な臭いがするというのは」

「あぁ間違いない。こっちの方角から、人の死んだ臭いがする。肉が腐った臭いと、腹の中のものが流れた臭いだ」

「よろしい、それなら用心したまえ。そんな臭いを放っておくという事は異常事態だ。もしきみの言う街があるんなら、確実に何かが起こっているぞ」

「それでも行くのか?」

「当然! そこらに生えている草に毒が無いように祈りながら口に運ぶなんて、私は耐えられないのだから!」


荷馬車に積んだ食料は殆どが野菜で、今朝煮込んだのが無くなれば後はどこかで調達するしかなかった。けれども目の前に広がるのは延々と、どこまで行っても草原だけで、見覚えのない草ばかりだった。そういう事情で、アルクトスが嗅ぎ付けた人間の気配に向かって走っているのだった。


「待て、待つんだ犬人間。今、変なものが見えなかったか」


遠い地平線のかなたに黒い街が見えた頃、インフェルノは荷馬車を止めさせた。それから少し歩いて戻って、草を掻き分けて地面を探した。目当ての物を見つけると、持っていた空き瓶に詰めて荷馬車に戻った。


「なぁ、これはこの世界では当たり前の物かい」

「いや、こんなものは初めて見た。そこにいたのか?」


インフェルノが瓶に詰めたのは、蜘蛛に人間の頭が付いたようなものだった。手のひらほどの大きさの体に見合った頭は赤子のような顔付きをしていて、犬人間と違って言葉を理解していることは無いようだった。瓶から出ようとカサカサ蠢いていたが、上にある入り口が閉じられているのには気付かない。


街に向かって進んでいくと、それに似たものが地面に溢れていった。その体は色々な毒虫の形をしていたが、決まって頭だけは人間の赤子だった。


「見たまえ、犬人間。私たちはあの街が見えた頃に黒い建材で出来た家なんだろうと言っていたろう。だが間違ってた。あの一番近い家をじっと見つめてみろ。何かおかしいだろう」

「何だあれは…家が、まるで息でもしてるみたいだ」

「そう、息をしているんだ」


インフェルノの瓶の中で、拾った蜘蛛が体液を出しながら暴れていた。目を大きく見開いて舌を伸ばす表情は、水の中で息をしようと藻掻いているようだった。


「息をしているんだ、あの家が真っ黒になるまで群がった毒虫が。こいつは気まぐれに遠くまで歩いて行ったんだろうね。ここまでの道で見たのも、みんなこの街から溢れ出たものだ。こんな場所にこんな大きな街ができるなんて有り得ない。きっと毒虫が最近急に現れたんだろう」


インフェルノはメッツェンガーシュタインに乗って街を駆けた。道に溢れる毒虫を焼き払いながら進むと、街中に死体が転がっているのが見えた。死体は虫に刺されて腫れ上がったものが殆どで、アルクトスが嗅ぎ付けたのは、それらが嘔吐したものの臭いらしかった。

街をぐるりと一周して、インフェルノはアルクトスが待っているところへ戻ってきた。


「あの塔に登ろう。教会に登った時と同じようにやってみたまえ」

「できるか!」


街の中心にある塔は、見上げるとひっくり返ってしまいそうなほど高かった。インフェルノが見て回った限り、毒虫は塔の天辺から湧いているようだった。


「あのねぇ、まさか私がそんな、塔の壁をよじ登れなんて言うわけがないだろう。私がやれと言ったのはこういう事だ」


アルクトスはインフェルノの言う通り、インフェルノを肩に担いで螺旋階段を上った。階段に溢れる虫はインフェルノが焼き払って、アルクトスは死骸を靴で踏み潰しながら歩いた。荷馬車の周りを取り囲むように火を焚いたので、街はその二箇所からだけ煙が上がった。


「しかし、この街の連中は何をしていたんだろうね」


断末魔を上げる芋虫を見下ろして、インフェルノは言った。


「少なくとも私のいた世界では、虫は卵から産まれるものだった。しかしこんな大量の虫、卵の段階で発見されるに決まってる。そこそこ大きな街で、処分されず孵化へと至った経緯は何なのだろう。こんなに気になることはないよ」

「親が守ったんじゃないのか?」

「…なんだいアルクトス。きみの御両親は子供のために盾になってくれる人だったのかい」

「母は知らないが、父はそうだった。父はそれで死んだ。あんたの親は違うのか」

「まさか、偶然石に躓きでもしない限りそんなことするもんか! 父は国家を治める皇帝陛下で、母はその王妃の一人さ。親子の交流など一度も無かった父と、完璧主義で私を出来損ないと嫌った母だぞ。たとえ私が寄ってたかって焼き殺されても、娘を失ったとすら思わないだろうさ」


インフェルノの炎は少しだけ強くなった。煙が目に染みたのか、アルクトスは目を閉じて階段を上っていた。


「兄様だけ、兄様だけさ、私と、家族だとかそういうのでいてくれたのは。弓が使えるのだって、兄様が教えてくださったからだ。私が小さな頃から本を読み聞かせて、この白い肌だって、雪のように美しいと褒めてくださるんだ。母に似てしまった髪も眼も、太陽のように輝いていると言ってくれたのが、どんなに嬉しかったか」


窓の外に見えるのが空ばかりになった頃、階段は一枚の扉へ吸い込まれていった。扉の先には無数の歯車が噛み合う部屋だった。毒虫を焼き殺しながら進むと、その中心に開いた場所に、一人の少女が蹲っていた。


「誰ですか。この街の人ですか」


少女は尋ねたが、顔を上げてアルクトスを見ると、それは間違っていたのだと気付いたようだった。街に見知らぬ人間はいたとしても、見知らぬ犬人間はいなかったのだから。


「きみ、こいつらの親かい」


インフェルノが瓶を放ると、死骸の入った瓶は床を転がって少女の元へ進んだ。瓶の中身を見ても、少女は動じなかった。


「よく見てごらん、彼女と虫共の顔を。虫の方が不気味で幼いから分かりづらいが、作りがそっくり同じだ」


見比べると、確かに少女は毒虫と同じ顔をしていた。給仕の格好をした少女はどこから見ても人間にしか見えなかったが、時々そのスカートの裾から、全身濡れた毒虫が這い出てくるのだった。



恋の話の、続きをしよう。


セーラの恋は性愛を伴わないものだったが、情け容赦なくそれを振りかざす者はいた。その中でも最たる者が、太陽の兄に当たる男だった。男はセーラの失敗を隠すのを条件に、一晩限りの関係を迫った。セーラはそれに応じた。応じなければ、ある事も無い事も全て話されて、家を去らなければならなかった。


最初の夜が終わった後、セーラは初めてそれを見た。剥き出しになった自分の脚の間に、中指くらいの大きさの芋虫が一匹、どこかを目指して進んでいるのを。

それが人間の顔をしているのを見て、セーラはひどく驚いた。街で見かけたことは無かったけれど、これはいわゆる、肥やしと呼ばれている生き物に違いなかった。それがどうしてこんな場所に、よりによってこんな日に現れたのか。芋虫がシーツの上を這い回るのを見下ろして考えていたけれど、答えは出なかった。ただこれを誰かに説明することもできないので、シーツを洗う時に一緒に水へ投げ込んで、溺れ死んだのを土に埋めた。


それから、男は何度もセーラを夜に誘った。けれどもセーラはそれどころではなかった。男との夜が終わるたび、虫がセーラの傍を這い回った。セーラはそれを見つけては殺して埋めた。回を重ねていくと、何事も無かった日でも、目を覚ますとベッドの中に虫が蠢いていることがあった。


真実を知ったのは、その瞬間を目撃した時だった。

まさか、そんなことがあるだなんて思わなかった。本当に、ほんの少しでさえ、考えた事は無かった。


虫は、自分が産み落としたものだった。


風呂場でそれが産まれる瞬間を目撃した時、セーラはそれを悪い夢なのだと思った。けれども水の冷たさや虫が産まれる感覚が妙に現実味を帯びていて、慌てて頬を叩くと、その痛みは残酷なまでに本物だった。


「私は、人間ではなかったのです。この塔の下で拾われて、育てられて、働いて、生きてきて…その間、ずっと、私も皆さんも、勘違いしていたんです。私は、人間そっくりの肥やしだったんです」


セーラが泣き崩れると、インフェルノは床へ降り立った。


セーラは美しい顔立ちをしていた。取り乱して涙を流していても、そこには絵に描いたような美があった。ただその足元には無数の毒虫が蠢いていて、産まれた傍から濡れた体を地面に擦り付けていた。


「きみ、単に虫を産むってだけの生き物なのかい」

「分かりません、分かりませんそんな事…私、親なんていないのですから。自分がどこから来たのかさえ、知らないままなんですから」


毒虫の事は誰にも言えなかった。誰かに知られれば、そのまま殺されるかもしれなかった。自分が虫を見て気味悪がったのと同じように、洗濯水の中に放り込んでしまったように。

元より、仕事以外の事を相談できる相手などいなかったのだ。すべて自分一人で考え、人の話を立ち聞きして学んできた。いつか憧れの人に自分を見てもらう夢が、ただ一つの支えだった。


だから、その一言は、たったの一言でも、完全にセーラを破壊した。

ある時、思いも寄らない瞬間に、太陽がセーラを見た。

それはもっと予兆があって、穏やかな時に起こるのだと信じていた。好きな茶葉が同じだとか、そんな、静かで穏やかで、優しさに溢れた理由で。


気付かないうちに産まれた虫が、セーラの足元を這っていた。

太陽はそれの顔まで見ていなかった。そんなもの、詳しく見ようとさえ思わなかったのだろう。ただ気持ち悪がって、その時初めて、セーラを見た。


「やだ、虫なんて連れて来ないでよ、気持ち悪い」


──何かが。


何かが、心のどこかで。


音を立てて、そのまま、粉々に砕け散った。


時計台の頂上は、毎日決まった時間に鐘を鳴らすための歯車が回る場所だから。

そこに行けば、誰も来ないし声も聞こえないから。

何か、とても悲しい事があった時、声を上げて泣いても、誰にも気付かれないままでいられるから。

そうしたらきっと、私の太陽が、私を、いつかきっと、素敵な人として見てくれるから。

だから──


それは断末魔だった。

一人の少女が、人間として生きていたセーラが死ぬ間際の、最後の叫びだった。

鐘の音さえ掻き消して響いたそれは、セーラが産み落としたそれらは、ほんの少しの間に、街中を覆い、貪り、殺してしまった。

ただ一人の少女の、叶わなかった恋と共に。


「きみはとっても素晴らしい存在だ!」


そう、そんな風に、何かを認めてもらいたかった。

今思えばそれは、恋をする前からずっと願っていたのかもしれない。ただ彼女が、自分もあんな風になりたいと思える存在の彼女がそう言ってくれたのなら、それが最も幸福だろうと思っただけで。何か自分にしかできないような事があって、それが認められたらどんなに幸せだろうと、夢を見ていた。

けれども自分にそんなものは無くて。唯一あったものは、誰にも認められない事で。打ち明けることさえ恐ろしくて。何かのはずみに知ったとしても、


「きみは地獄を孕む女だ。私は奪う事でしか地獄を作れないが、きみは産む事で作り出すんだ。まるで鏡合わせだと思わないかい。そこに映っているのは正反対の虚像なのに、私たちはこんなにもそっくりだ」


なんてことを言って、褒めて、ましてや自分と一緒だなんて言ってくれる人は、きっと、遥か彼方遠い世界にしかいなくて。

ひとりぼっちだった自分の手を取って、鏡に向かうように手のひらを重ねてくれたその少女は。


「まるで…太陽のように眩しい人…」


セーラの言葉は、インフェルノの機嫌を良くさせるには充分なものだった。


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