インフェルノ
ある少女が殺された。
その死は悲惨であったと言うに値する。生きながら火に炙り殺される少女の姿は、人々へあまりにも多くの物を与えた。
ある者には悲しみを、ある者には恐怖を、ある者には怒りを、そして大きな傷を。
どうして、と少女は叫び続けた。
私は何もしていない。お前たちの同胞を殺したのは私ではない。私はただ、祖国に残り静かに暮らしていただけなのだと。今からでも、この炎の中から抜け出せるかもしれないという、一縷の望みを込めて。
けれども、それ故に少女は思い知った。彼らは自分の事など見ていない。
自分を捕らえ処刑台へ引き摺り針金で縛り火を放ったこの者たちは、私自身の事などどうでも良いのだと。私ではなく、ただ私がいる場所に生まれた者が目的なのだと。
これは大きな一歩だ。
火を放った男が、まだ少女の悲鳴が止まないうちに拳を突き上げた。
それは鼓舞であり、宣戦布告でもあった。けれども炎に包まれた少女には、そのどちらでもなかった。
私は、ただ使われたのだ。この、正義を謳う愚か者に。ただ、箔付けのために。
こんなに熱くて、痛くて、悲しくて、苦しくて、悔しくて、恐ろしくて、寂しくて、恋しくて、憎くて、逃げ出したいような思いをしながら死んでいくのに。それで世界が得られるものは、たったのそれだけなのだ。
少女が最後に叫んだのは、燃え盛るような憎悪だった。
彼らはそれを邪悪の証として喜びさえしたが、少女にとって、もうそんな事はどうでも良かった。
ただ全てが憎かった。ほんの少しだけ愛し信じたものを残して、それ以外の全てが、憎み滅ぼされるべきものであると認識した。
全て、全てが憎かった。煙を吸って意識を失う事を許してくれない風さえも、全てが。
そうして少女は、生まれ落ちた世を去った。自分を心から愛し、また愛した兄の心に穴を開けて。自らの心にも、兄の形をした穴を開けて。
死んだ人はどこへ行くのだろう。
これについて深く論じるのはやめよう。こんな所でそれを話し合うのはあまりに無意味だ。今はただ、起こった事だけを述べよう。
少女は生きていた。
いや、正確に言うと少女は死んだ。確かに死んだ。炭になった後の事は少女自身も知らないが、死というものはきっとこれだろうと確信する瞬間はあった。こればかりは、彼女がどんなに素敵なおとぎ話の世界に迷い込んだとしても、決して変えられない事実だった。
けれども彼女は生きていた。
確かに、生ぬるい風の吹く草原を歩いていた。
空は分厚い雲に覆われ、道らしき道など無く、どこを見渡しても地平線しかないような場所だったけれど、それでも少女は歩いていた。
軍服を模した黒いコートは元帥であった兄を意識して作らせた物で、生まれつき黄金色の髪と深紅の瞳、雪のように白い肌。見間違いようのない彼女は、ただ当てもなく、草原を歩き続けた。
草原の向こうから、三頭の馬がやって来た。
背に男を乗せ、荷物も載せ、男たちの指示通り、彼女を取り囲んで走った。
「やあお嬢さん、こんな所を歩いちゃいけないな!」
何とも言い得ぬ、下品な物言いだった。
「どこから来たんだい、おうちはどこだい、お父さんは何の仕事をしてるんだい」
「ばか、お前そんなの決まってるじゃないか。そんなの無いから、こんな場所を彷徨ってるのさ」
「それはそれは可哀想だ。俺たちで養ってやろうじゃないか。毎日交代でそれぞれ家を回らせて、働く代わりに飯を食わせてやろう」
「そうするとお前、村の『コヤシ』はどうするんだ」
「ばかだなぁ、お前本当にばかだ。『コヤシ』と同じことなんかさせるもんかよ、こんな娘っ子をさぁ」
「そうそう、まぁ若い頃はそうして働いてもらって…その次は『コヤシ』でも産んでもらうか。あれ、動物でもオスだったか──」
聞くに堪えない言葉は途中で打ち切られた。
「熱い、なんだ、熱い」
乗せていた者が転がり落ちても、馬は極めて落ち着いていた。男たちは突然炎に包まれた仲間を助けようと大騒ぎをしていたが、やがてそれが動かなくなると、茫然とその場に立ち尽くしてしまった。
「お前がやったのか」
先に真実を言い当てたのは、馬鹿と言われていた方の男だった。けれども気付くのが遅かった。さらに言うと、注意も足りなかった。男は次の言葉を口にする前に、喉に矢が刺さって死んでしまった。彼らが炎に気を取られている間に、静かな馬が少女に武器を与えていた。
残った男は命乞いをした。馬も積荷も全て差し出すからと泣いて地面にひれ伏した。
「馬は三頭もいらない。一番速いのはどれか教えたまえ。そして今すぐここから立ち去れ」
「そ、そりゃもちろん、俺の馬だ。俺の馬は村で一番速い。お、俺はそこの、焼け死んだ奴が乗ってた馬で帰るから。じゃ、じゃあな、良い旅を」
乱雑に積荷を落として逃げ出す男を、少女は一本の矢で仕留めた。
「嘘つき。これが一番速い馬なんだね」
馬たちはやはり落ち着いていた。少女は荷物を他の二頭に積み直すと縄で引き、一番速い馬に跨った。
一番速い馬は、まるで少女を恋い慕うように頭を寄せてくることさえしてみせた。
「焼け死んだ奴の馬か。気に入ったよ。君にはメッツェンガーシュタインという名前をあげよう…名前…名前か、そうだな、名前だ。残りの二頭と、それから私の名前も決めてしまおう」
嘘をついた男が呻き声を上げた。確かに狙い通りに当てたつもりだったが、急所そのものが違っていたようだった。それについては特に驚きはない。人を射るのは今日が初めてだったから、仕方がない事だった。
嘘つきは燃やしてしまう事にした。何故だか、あの処刑台の後に目覚めてから、少女の憎悪は炎となって現れるようになっていた。
燃えろ、燃えろ、燃えてしまえ。
汚く、醜く、小賢しい男など。生きたまま焼かれて死んでしまえ。
「炎…炎か。火刑か。見覚えがある」
少女が思い出したのは、幼き日に見た処刑の様子だった。その時は必死だったので意識していなかったが、自分が火炙りにされると察した時、それがどんなに苦しいかまでを理解したのは、その記憶があったからだった。
世界は兄を悪魔と呼んだ。
兄が率いる軍に故郷を燃やされ、家族を殺された者たちが、自然と呼び始めた。
それこそが、自分が生きたまま燃やされた理由だった。兄の命令によって処刑された者の関係者に、あの時の連中がいたのだろう。だから最終的な標的は兄や処刑人であって、自分は「一歩」に過ぎなかったのだろう。
腹立たしい事だけれど、そう考えるのも無理はないと思った。彼らにとって、兄は最も罪深き人殺しで、地獄に堕ちるべき人間なのだから。
兄は地獄に堕ちるだろう。実の妹でさえそう思う。兄が国家のためにと殺しているのは、自分たちと同じ人間に違いないのだから。
それなら私はどこへ行くのだろう。どこへ来てしまったのだろう。今いるここは、きっと元居た世界ではない。何故って、太陽が二つ昇る場所なんて、地球のどこに行っても無いはずなのだから。
彼らの理屈なら、私も地獄へ堕ちるべきだ。ただ国に残って、海の向こうで兄が活躍するのを応援していただけでも、悪魔の血が流れた女なのだから。
けれども、彼らの理屈が正しいとは限らない。よりにもよってその理屈が間違っているかもしれない。だとすればここは地獄ではない。いくら待っていても、大好きな兄は堕ちてきてくれない。
ならば、ここを地獄に変えよう。
私の炎で焼き尽くそう。男も女も、老人も子供も関係なく。どこまで見渡しても赤一色の世界に変えよう。私の憎むもの全てを薪にして、いつか来てくれる兄を待とう。
兄は妹思いで、誰より優しくしてくれる人だから。きっと私の死を知って、私よりも怒っただろう。どんなに醜く焦げた肉の塊になっても、きっと抱き締めて泣いてくれるだろう。
だからここに堕ちてきたら、私はこんなに元気なんだと伝えて──名前を呼んでもらおう。私の、ここに来てから思い出せなくなってしまった、本当の名前を。
「火だった。兄様の名前は、鮮やかな火と書いてセンカと読んだ…それなら私も、きっと火や炎を表す名前だった…そうだ、私は、この地獄を燃やす炎になるんだ」
処刑人から教わった事があった。地獄の炎、もしくは地獄そのものを表す言葉があるという。どういう経緯でそれを教わったのかは忘れてしまったけれど、炎の名を持つ兄に憧れた心には、それが強烈な記憶となっていた。
「メッツェンガーシュタイン、バソリー、フランツィスカ。決めたよ、私の名はインフェルノだ。私はこれから、この世界を焼く炎に、地獄そのものになるんだ」
雲の切れ間から差し込む光がどちらの太陽のものなのか、それは今まで知っていた太陽のものなのか。世界の構造など知らないインフェルノには分からなかった。ただ、その光が自分を祝福したものなのだとは、信じて疑わなかった。