03-09 幸福の循環
アンジェリカの目の前に、見渡す限りの本棚が広がっていた。
それは例えるなら知識の森。
少しでも気を抜けば、たちまち何かに手を引かれ、どこか知らない世界へと連れて行かれてしまいそうで。
ここには多くの物語が眠っている。
アンジェリカはついついそれに手を伸ばしたくなるが、ぐっと我慢する。
今回の目的はあくまで魔王について記述されている本を探す事だった。
「オウ!アナタがアンちゃんサン!」
「ひえっ!?」
不意に声を掛けられ、素っ頓狂な声を上げてしまうアンジェリカ。
振り返るとそこには司書風の格好をした長身の青年が立っていた。
「アナタの活躍聞き及んでマス!我らの姫を助けてくれてアリガトウ!!」
「ど、どど、どういたしまして!?」
青年はいたって興奮した様子でアンジェリカの手を握り上下に振る。
その力強い握手に彼女は戸惑うばかりであった。
「落ち着いて、ルーキーさん。アンちゃんが困ってる」
ぺちり。スフィアの手刀が青年の頭を叩く。
すぐ傍にはミツバも微笑みながら寄り添っている。
「オウ、これは失礼致しましタ」
スフィアに諭された青年がアンジェリカの手を離し、彼女はようやく騒がしい司書より解放されたのだった。
「ワタシ、ルーカス言いまス。この図書館の司書ネ」
ルーカスと名乗った青年が、形の整った綺麗な挨拶をする。
切れ長の瞳に艶やかな黒髪。男性でありながら女性を思わせるしなやかな身体。
人魚族特有の耳びれと、フォーマルな黒いスーツを着こなす様は育ちの良さを思わせる。
何より印象的なのは片眼鏡だ。
「ここ数年で台頭してきた天才学者だよ。魔王の事は彼に調べさせてる」
「みんな、ワタシを期待のルーキーって呼んでマス。アナタもそう呼ぶネ」
整った顔立ちから作られる人好きそうな笑顔と、そして顔に掛けられたモノクルは青年の知性の高さを感じさせていた。
「ええ、よろしくねルーキーさん」
自己紹介を終え、アンジェリカとルーキーは改めて握手を交わした。
「これが、風嵐の魔王と思シキ者について記された書物でゴザイマス」
「ちょっと見せて」
アンジェリカはルーキーから本を取り上げ読み上げようとする。
「ふむふむ、どれどれ、うーん、なるほど……」
難しい顔をしてうんうん唸るアンジェリカ。
「分かるのですか?」
ぱらぱらとページを捲るだけのアンジェリカに、ミツバがふと不審に思い問いかけると本を放り出しこう言った。
「さっぱり。全然読めないわ」
一同からため息が漏れた。
「ダメじゃん。ルーキーさん、頼んだよ」
「オ任せアレ~。しかと刮目セヨ~。目に物見せてくれル~」
ルーキーはアンジェリカの放り出した本を拾い、読み進み始める。
「風嵐の魔王とハ、コノ世界の歴史に度々現れル災禍のようデスネ」
「初メて歴史に現れタノは約六百年ほド前。風翼竜ワイバーンと共ニ降臨しまシタ」
「人間への明確な殺意ヲ持ち、人間を真空の刃を使イ殺す事に喜びを見出ス存在」
「一言で定義するナラ、彼女は我々『人間の敵』でアル」
「殺す事だけが、目的ですって……」
一行は息を呑む。
サーニャは六百年も前から、生きてこの世界で災厄を振りまいていたというのか。
この本がでたらめなのか、あるいはサーニャが過去に消えた魔王の名にあやかっているのか。
どちらにせよ一夜にして一国に甚大な被害をもたらした侵略力と、国王と王妃の両名に向けた残虐性は、そのいずれも魔王と呼ぶに相応しいだろう。
ルーキーは続ける。
「奴は特に、一人ノ女性に執着しマス」
「女性の運命を翻弄し、いタブり、快楽のまマニ切り刻む」
「二百年前の戦役デも、勇者の仲間の少女ヲ攫っていルようデス」
読み進めるうちに、ルーキーの言葉にためらいが混じる。
何事かと顔を覗き込む一行をよそに、彼の額にはじんわりと汗が滲んでいる。
慎重に言葉を選ぶように、一言ずつ、紡いでいくルーキー。
「その少女は勇者によッテ助けられタソうでスガ、発見さレタ時は重篤な傷ヲ全身に受けていテおり……」
「命は助カったもノノ、重いトラウマを抱えてシマッたそうですネ」
スフィアがうへぇと声を漏らす。
ミツバに至っては想像したのだろう。口元を押さえて気分が悪そうにしている。
「ぞっとするな……そんな奴にアンちゃんは狙われてるの?」
スフィアの言葉に一同の視線がアンジェリカに集まる。
サーニャの下卑た悪意が一人の少女の身に向けられていると嫌でも思い知らされる。
彼女は自身の肩を抱き、身を震わせた。
「そんな恐ろしい存在を相手に、私達は立ち向かえるのでしょうか……?」
不安げにミツバが呟く。
彼女達には戦いを避けるという選択肢は無い。
アンジェリカにとってもスフィアにとってもサーニャは親の仇であり、また国と教会に所属する冒険者である以上は、奴との戦闘が激化すれば戦力として逐次投入されるだろう。
いずれにせよ、サーニャとの対峙は避けられないのだ。
ルーキーは引き続いて本を読み進める。
「魔王との交戦記録はイクつも残っていマス。勇者も奴には手を焼いテイたようデスネ」
「まず、普通ノ剣や魔法でダメージを通す事が出来ナイ。全て謎の障壁によって弾かれるソウデス」
「また、追い詰めるとスグにワイバーンに乗って逃げテシまいマス。あの竜もセットで厄介な相手でショウ」
魔王を倒せない理由が次々と挙げられていく。
「打つ手無しじゃん」
酷く落胆した様子でスフィアはため息を漏らすが、それとは対照的にルーキーは不敵な笑みで舌を鳴らし指を振る。
「ノーノー、慌てないデ。奴も無敵というわけではありまセン」
「それはなぁに?ルーキーさん」
アンジェリカの表情に喜色が浮かぶ。
「あわてない、あわてない。アンちゃんサン。少し紅茶の時間にしましょう」
思わず身を乗り出す彼女の肩を両手で押さえ、天才学者はしばしの休憩を提案したのだった。
「ハァイ、今日の紅茶はミントティーですネ」
神妙な表情で進められた読書会は、振舞われた紅茶によって優雅なお茶会となる。
「わぁ、私これすきよ」
「ありがとうございます、ルーカス様」
配られた紅茶の香りを楽しみながら一口。
鼻の奥まですっと抜けるミントがアンジェリカ達の気分を落ち着ける。
「こうやって、落ち着いてお茶を飲むなんてどれくらい久しぶりかな」
ほっと一息をつき、ミツバと頷き合うアンジェリカ。
「この国に帰って来てから、ずっと慌しかったもん。ゆっくりしたいよ」
スフィアは両手両足を投げ出し椅子に寄りかかる。
アンジェリカはお行儀が悪いと笑うが、そうしたい気持ちも少しだけ分かった。
姦しい三人娘と新人学者はクリームたっぷりのケーキをつまみ談笑する。
好きな花言葉の話。幼い頃の変な友達の話。スフィアとタイガの馴れ初め。どんなお婆ちゃんになりたいか。
とりとめのない話ばかりだが、少女達は束の間の休息を楽しんでいた。
「ルーカス様は、旧時代の文字を読む事が出来ますのね。私にはそういった学がありませんから、尊敬致しますわ」
ひとしきりの会話の後、ミツバがルーキーへの率直な感想を述べる。
「天才だからねえ。私らの知らない事をどんどん学んでいくんだよ」
両手足だけに飽きたらず、首までもたれ掛かるスフィア。
苦しくないのかしら?とアンジェリカは思う。
「ハッハッハ~。もっと褒め称えヨ~」
ルーキーは謙遜などせず、賞賛を真正面から受け止めて笑う。
「みんな、褒める。ワタシ、嬉しい。だからもっと頑張る」
「そしたらみんながもっと褒める。とても楽しい」
「どんどんその分野が好きになる。ワタシはこれ、幸福の循環と呼んでるネ」
賞賛。応援。激励。それらは全てモチベーションの栄養源となる。
彼はそれらを素直に受け止め、周囲もまた積極的にそういった声を掛ける。
天才とはそうやって作られるのだろう。人間は持っているエネルギーの分しか生産できないのだから。
「ふーん……あ、このケーキおいし」
「アンちゃんサンは正直だネ。ワタシの分も食べて食べて」
自作のケーキを褒められ、ルーキーは気分を良くしてもうひとつ新しいケーキを勧める。
……その後ルーキーは更に自信をつけケーキ作りの腕を上げるが、それはまた別の話であった。
後から思えばあっという間だった休息を追え、一同は席に着く。
ルーキーは再び本を取り出し続きを読み進めていた。
「魔王を倒すには、奴にいつも寄り添っている竜を倒すしか無いネ。竜は魔王の分身。アレが魔王を護る障壁を作ってると書かれてるノヨ」
少女達はあの時の戦いを思い返していた。
緑色に輝く鱗に覆われた巨大な翼竜を……サーニャを乗せて飛んでいった鋭い爪を持った恐ろしい翼竜を。
「アイツか……どうにか接触を増やしたい所だね」
アレを倒せというのか。スフィアは渋い顔をする。
だが、大将首を狙うならばまずは馬を落とすのは兵法の基本だ。
「機会は増えルと思うヨ。教会と神殿が本格的ニ魔王を危険指定したカラネ」
「出現したらミッションも発令されると思う。逆に言えば……」
「いつでも戦えるように、牙を磨いておくようにしておきたいとコロヨ」
そう言ってルーキーは総まとめを締め括った。
遠からずこの情報は教会や神殿にも共有されるだろう。
それは多くの冒険者を戦いに巻き込む事と同義であった。
アンジェリカ達は三度、王の間へと赴いていた。
王の間でマルス王と、ガイアナ前大后に迎えられる。
かつてルサーク王の座っていた玉座は、今はマルス王が座っていた。
突然の王位継承であったが、王は新たな服に身を包んでいた。
今回の事件が無くとも、ルサーク前王はマルス王にその座を譲るつもりだったのだろう。
恐らく、ガイアナ前大后と余生を過ごす為に。
「失礼致します。マルス王、ガイアナ様」
スフィアは以前、父王へした物と同じように跪き頭を垂れる。
「構わない。楽にしてくれ」
マルス王もここしばらくの激流のような数日に参っているのだろう。
表情こそ平静を装い、顔色も化粧で誤魔化してはいるが
少し頬がこけ、痩せてしまったように見えた。
「兄上。私はサーニャを追い、旅に出ようと思っています」
「ああ、君ならそう言うと思っていたよ」
スフィアの青い瞳は、アース村の村長――彼女の叔母のマリアと同じ戦士の瞳をしていた。
マリアにはヒトの闘争本能と巨人族の肉体を隠し持つ、いわゆる遺伝子の裏づけが存在している。
だが、スフィアにはそれすら必要ない。彼女は同年代の少女と比較しても小柄な身体からは考えられない獰猛な瞳を持つ。
敵と見なした相手の喉元に喰らい付き、肉を噛み千切り、はらわたを食い破ってしまいそうな獣の瞳を持っていた。
「君の役割は近衛姫。本来なら僕のガードについて貰いたいと思っているが……奴は多くの人々を傷つけた。怪我人や死者も多く出してしまった」
「これは我々に対する敵対行為と見做している。」
マルス王は握る拳に力を入れる。震える拳は悔しさからのものだった。
魔王に対して。妹のスフィアに対して。そして何よりも力無い自分に対して。
王である自分より戦士として育てられた妹のスフィアの方が剣も魔法も実力は上だから。
何より、スフィアの持つ戦士の瞳は、彼女の兄であるマルス王には持ちえないものだったのだ。
「神殿にも話は通している。君をこの国の代表者として擁立した」
「行け、スフィア。行って魔王サーニャを倒せ。戦士としての力を示すんだ」
「はい」
スフィアは次にガイアナ前大后の方へと歩み寄る。
「スフィア姫……」
ガイアナもマルスと同じように厚めの化粧で悲しみを覆い隠していた。
しかし連日泣きはらしていたのか、目は少し腫れぼったい。
「私は、ずっと貴方が父上を奪ったんだって思ってた」
「父上と母上を引き裂いて、自分の物にしてしまおうと考えてると思ってたんだ」
スフィアはガイアナに自分の思いを吐き出していく。
それは彼女なりの整理であり、相手に向けた誠意でもあった。
言い訳がましく聞こえるだろう。それでも、言わずには居られない。
「でも違った。父上も貴方もお互いの悲しみを癒したかっただけなんだ」
それは共有だった。
「父上は、短い間だったけど貴方に支えられてきた」
父と、母と、兄と、妹である自分に、義母という新たな家族を迎え入れる為の気持ちの共有。
父が母を愛したように、父は義母も愛した。母が父を愛したように、義母も父を愛した。
同じようにスフィアはガイアナを。ガイアナもスフィアを。互いに受け入れねばならなかった。
「それをサーニャが引き裂いた。自分の目的の為に」
家族を取り戻す。家族と共に暮らす日常を取り戻す。
「私はサーニャを倒しに行く。勇者として、そして」
その為にスフィアは旅に出ると決めた。
「私と、貴方と。兄上やタイガさんが一緒に家族として笑って過ごせるように」
魔王という、家族の絆を断ち切らんとする愚か者を倒す為に。
「行ってきます、義母上。サーニャを倒したら、必ず帰ってきます……その時は、どうか。どうか私を娘と呼んで下さい」
スフィアはガイアナ前大后に深く礼をする。
父を愛した妻という意味での母。そんな彼女にスフィアは敬意を表した。
「ありがとう……」
そんなスフィアに、ガイアナはるサーク王の妻として。
夫の愛してきた娘に。新たな家族に礼を返した。
一行は城を後にして、ほっと一息をつく。
「一つ、胸のつかえが取れた気がするよ」
ガイアナとの関係に一段落がついて安心したのか、スフィアは晴れやかな顔を見せていた。
「本当によかったわ。最近のスフィアさんピリピリしてたもん」
アンジェリカに指摘され、一瞬だけ目を見開くスフィアだが、すぐに表情を崩しふっと息を漏らす。
「……そんなに、ピリピリしてた?」
「してた。今のスフィアさんはニコニコしてるから好きよ」
ニコニコしてアンジェリカが返す。
「……そんなに、ニコニコしてる?」
「してる。なんだか憑き物が落ちたみたい」
頷くアンジェリカ。ミツバもそれに倣う。
「そっか。なんだかおかしいね」
「おかしいね」
誰からともなく、笑い声が聞こえた。
それに釣られるように、残り二人も笑い出した。
魔王によって身体も、心も傷つけられた。けれど。
三人は身体も心も死んでいない。前に進む為に、また一歩。
悲しみにくれていた街に、そこだけぽわりと光が満ちる。
光は少しずつ広がって行き、暖かな空気が街を包み人々を慰めていく。
アンジェリカと、ミツバと、スフィアという赤、白、青の花はいつしか俯いていた人々の顔を上げさせていた。
スフィアという頼りになる仲間を加え、旅を再開しようと歩き出すアンジェリカ達。
そんな彼女に掛ける声があった。
「そこに居るちんまいのは……おい、アン!アンじゃねぇか!」
聞いた事のある声に振り返るアンジェリカ。
そこにあったのは、かつて共に戦った懐かしい顔。
歩くたびに鳴り響く頑強な鎧の軋む音に、バケツのようなフルフェイスを被った男。
巨人族の戦士ホックであった。




