03-08 彼女の悪夢と恋心
赤、赤、赤。
コボルド村では、見渡す限りの赤が広がっていた。
燃え盛る炎の赤。滴り落ちる血液の赤。そして少女の流れるような髪の赤。
今にも焼け落ちてしまいそうな屋敷のエントランスで、二人の女が。
アンジェリカとその母親が言い争っていた。
『アンジェリカ、ここはもうダメよ。早く逃げなさい』
『いや!お母さんも一緒に逃げよう!』
すがるように懇願するアンジェリカ。
ここで一緒に脱出しなければ母の命が無いことは火を見るよりも明らかだった。
『お母さんも必ず後で行くわ。貴方はミツバと一緒にこの村を出るの。そして、この広い世界をミツバに見せてあげて』
そんなアンジェリカに、母は優しく諭そうとする。
敵の狙いはアンジェリカである。ならば自分が盾となろうと。
母はそう考えているに違いなかった。
『で、でも……』
『貴方の力は本当に尊い力。神様から賜った天使様の力なの』
天使様の力。アンジェリカが幼い頃から持っていた力。
アンジェリカは母の言葉の意味を量りかねていた。
『貴方の力で、一人でも多く幸せにしてあげてね』
『お母さん!いや!行かないで!!』
アンジェリカの声はもはや母には届かない。
炎の中へと歩んでゆく背中に向かいアンジェリカは母を呼び叫んだ。
『アンジェリカ、大好きよ……私の、可愛い天使様……』
最後の、母の言葉を皮切りに。
アンジェリカの意識は闇へと落ちていく。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「お母さんっ!お母さんっ……!!」
「アンジェリカ様!どうか、お気を確かに……!!」
敬愛する主人を押さえ込むミツバ。
だが、悪夢の中、錯乱して暴れるアンジェリカの力は常軌を逸しており、全身の体重を以ってしても払いのけられてしまいかねないものだった。
「はぁっ…はぁっ…あ…ミツバ……?」
夢と現の境目でアンジェリカは嘆き、涙を流していた。
意識が戻るにつれ、見知った天井に気付いたアンジェリカは少しずつ平静を取り戻していく。
その傍らでは、友人であり最愛の妹でもあるミツバが心配そうに顔を覗き込んでいた。
朝食を部屋に呼び、二人きりで摂る。
パンと冷たいかぼちゃのポタージュ、タマゴのサラダ。
パンを一口サイズにちぎり、口へ運んでいく。渇いた口の中を冷たいスープが潤す。
そんな事を繰り返している間に、アンジェリカは現実を取り戻して行った。
「随分とうなされておられましたわ。また、あの時の夢ですか?」
サラダにドレッシングを掛けながら、ミツバが訊ねる。
「ええ、あれから結構経って自分なりに割り切ったと思っていたのに」
アンジェリカは首肯し、生タマネギとピーマンだけを避けて口に運び咀嚼していた。
「私は……きっと、いくつになっても風化などしないと思います」
「そう、ね。私もきっと忘れられない」
二人は顔を見合わせ、頷き合う。
ミツバはアンジェリカが避けた生野菜にドレッシングを掛け、自分のパンに挟み主人へと差し出す。
「木々の焼ける臭い。村人の叫び声。炎と血で一面染まった赤色……私達が生きている限り、脳裏に焼きつき続けるでしょう」
ミツバからパンを受け取り、アンジェリカは一口食べると生タマネギの辛味に渋い顔をする。
ミルクを口に含みほっと一息を吐くと、ミツバの顔を見て微笑んだ。
アンジェリカとミツバは、先ほどのような悪夢を見る度に二人だけで朝食を摂り、互いの現実を改めて認識しようとする。
「でも、私は怖くないよ。外の世界でいっぱい友達もできたし。私の周りには道具達も、それに貴方もいるわ。ミツバ」
自分は生きている。相手も生きている。言葉を交し合う事で、互いの温もりを再確認しようとしていた。
「はい、私をずっと貴方の傍に置いて下さい。アンジェリカ様……」
邪悪な死霊使いも、恐ろしいアンデッドも、今この場にはいない。
アンジェリカも、ミツバも、大きな怪我をする事無く五体満足である。
今はそれだけで十分に幸せだった。
「ところで」
食事を済ませ空いた皿を一つに纏めながら、ミツバが思い出したように呟いた。
「今日からタイガ様の面会が許可されるそうですわ」
ミツバの言葉を聴き、アンジェリカがポンと手を打つ。
死霊使い……風嵐の魔王サーニャの襲撃より既に三日が経過していた。
傀儡夫婦に手酷い怪我を負わされ神殿の救護施設で治療を受けていたタイガ。
神官達による懸命な回復魔法によって一命は取り留めたが、戻らない意識と体力の回復待ちによって面会謝絶を受けていた。
「そうなんだ、やっとお見舞いに行けるわね」
「美味しい果物をいっぱい持って行きましょう」
「そうね」
そう言って、アンジェリカは双頭の獣オルトロスのぬいぐるみを掴み上げる。
武器も持たないまま前回の戦闘に巻き込まれたアンジェリカは、強大な敵を前に何も出来ずに居た。
否。十分な道具を所持していたとしても同じかもしれない。
それでも、間接的に。友人達を深く傷つける事になってしまったのは事実であった。
街は一見すると特に何も変わっていないように見える。
だが、荒らされたままの店先や花壇は手入れされることなく放置され、心なしか人々の表情も暗い。
アンデッドは討伐されたが、多くの人々とシンボルとなる国王を同時に失ったこの国は
薬師ケイやマルス王子の尽力も空しく深い傷跡を残し、暗い泥濘の底へと沈んでいた。
神殿内の救護棟の一室に、タイガは入院している。
親しみやすい性格で友人も多いのか、彼の病室には多くの人々が出入りしていた。
「うわ、結構人いるねぇ」
「タイガ様はかなりの人気者みたいですわね」
もちろん他の怪我人の見舞い客もいるだろうが、タイガは魔王に立ち向かった勇敢な戦士の一人である。
彼を慕って人々が集まるのは至極当然であると言えた。
「国に帰ってきた時も道行く人に声掛けられてたからねえ」
一人、納得するように腕を組みアンジェリカはうんうんと頷いた。
そんなアンジェリカに、ミツバが何かに気付いたようにおずおずと指で肩を叩く。
アンジェリカはそれに気付き、ミツバの指差す方に向くと、もう一人の勇者であるスフィア王女が、所在無げに柱の陰から顔を出していた。
「スフィアさん」
アンジェリカが後ろから声を掛けると、スフィアがびくりと肩を震わす。
「や、やぁ、アンちゃん」
ぎこちなく答えるスフィア。
「入らないの?きっとタイガーさん待ってるよ」
「他の人が先だよ。みんなタイガさんが心配なんだ」
そう言いながら、スフィアはタイガの病室の入り口を遠く見つめていただけだった。
「それを言ったら、スフィアさんだって義妹じゃないの」
「……会いづらいよ」
スフィアは目を伏せる。
確かにスフィアは勇者の光を以ってサーニャと傀儡夫婦を撃退した。
しかし、そこに至るまでに払った犠牲も大きかった。
父であるルサーク王、義兄であるタイガ、街の方にも多くの被害を出していた。
自分に彼らを見舞う資格はあるのだろうか。スフィアは悩んでいるように見えた。
アンジェリカは意を決し、スフィアの手を握る。
驚くスフィアなどお構い無しに、アンジェリカは人を掻き分けタイガの病室へと歩いていく。
「はいはい、ごめんねえ。スフィアさん通るよ~」
「すみません、すみません~」
「ちょ、ちょっとアンちゃん!ミッちゃんまで!」
スフィアはたまらず抗議の声を上げるが、そんな抗議などどこ吹く風といったばかりに前からは腕を引っ張られ、
後ろからは背中を押されて流されるままに病室へと近付いて行った。
多少強引とも取れるアンジェリカの行動に周囲の人々は一瞬ぎょっとする。
しかしスフィアの姿を見つけるやいなや、むしろ進んで道を開けて行く。
「なんだい、スフィア王女。やっと来たんだねえ」
「タイガ王子が待ってるぞ。早く行ってやれ」
遅すぎる主役の登場に、彼らは自然とそんな言葉を掛けていた。
白一色の部屋に、褐色の肌と金髪が流れる男が一人。
白装束に身を包んだタイガは、部屋の窓から退屈そうに外を覗いていた。
「あっ、あの……」
蚊の鳴くような声でスフィアはタイガに呼びかける。
そんな消え入りそうな声でも、タイガは決してスフィアの声を聞き逃さなかった。
「スフィア姫!やっと来てくれたんだね」
タイガの表情にぱっと火が灯った。
怪我人・病人とは思えない程に血色がよく、スフィアの来訪を心から喜んでいた事がよく分かる。
「いやぁ、無事だって聞いてたけど顔見るまでは安心出来なかったよ」
胸を撫で下ろすタイガ。
「こんにちは、タイガさん。怪我の具合はどう?」
アンジェリカがタイガに訊ねる。
今のスフィアの様子では、怪我の経過を聞くことは出来ない事がよくわかっていたからだ。
「身体の方はもう全然平気。大丈夫だよ。ちょっとリハビリをすれば、すぐ歩けるようになるってさ」
友人の心遣いに喜び微笑むタイガ。しかしその笑顔はすぐに陰りを見せる。
「ただ、もしかしたらだけど」
心の中で反芻するように一拍置き、静かに口を開いた。
「もう剣は持てなくなるかもしれない」
スフィアの表情から血の気が失せていく
スフィアはタイガを守れなかった。タイガの戦士としての命を奪ってしまった。
そう改めて認識させてしまう事になった。
蒼白となったスフィアの表情に気付きタイガが慌てて取り繕った。
「わ、わ、そんな顔しないでよ。もしかしたらだって」
「で、でも……」
タイガがスフィアの手を取る。
彼の手は何もないのにかすかに震えており、もはや武器どころか食器を持つ事さえ危ういだろう。
「それに姫がいなかったら……ボクはきっとあの場で死んでいたよ。気を失っていても、姫の勇者の光はボクを暖かく包んでいたのが分かるんだ」
傀儡夫婦との戦闘中に発現した青白い光は、スフィアが勇者である事を証明する物である。
その光は人々を守り、癒し、勇気付ける。魔物にとってはその身を焼き焦がす脅威。
スフィアから発せられた光は、タイガが受けるダメージを最低限へと抑えていた。
「あの時とおんなじさ」
タイガは手に取ったスフィアの手を、自分の胸へと押し当てた。
突然の事にスフィアはぴくりとして。されど、されるがままに。
「この世界に迷い込んだ時と同じように。姫がボクを見つけてくれた時のように。姫は、二度もボクを救ってくれたんだよ」
タイガは生きている。胸の鼓動がその証だ。
失われた物もあった。しかし、スフィア達の尽力で救えた命もある。
スフィアがサーニャを追い払った事により、潜在的に救われた人も多いだろう。
押し当てた手を胸から離した時、タイガも、スフィアも、頬をほんのり桜色に染めていた。
「すぐに追いつくから、待っててよ。もうすぐ旅立つんでしょ?」
「ええ」
アンジェリカが頷く。
二人はサーニャを追う為に、共に旅に出る事を約束している。
アンジェリカにとっても、頼りになる戦士が加わるのは歓迎すべき事であったし、何より気の置けない友人と共にする旅は楽しい。
道連れは多い方がいいのだ。
幾許かの楽しい時間が過ぎ、面会時間が終わる。
退室をしようとする三人に、タイガはアンジェリカとミツバだけを呼び止めた。
スフィアに先に出て貰い、タイガに向き直り小声で返す。
「どうしたの?タイガさん」
「スフィア姫、いつも気が強そうにしてるけど。今は本当に弱ってるんだろう」
タイガはアンジェリカと同じように小声で、スフィアの置かれた現状について語る。
「それでも、彼女は勇者だから旅に出なきゃいけない。少なくとも本人はそう思ってるみたい」
「神の啓示とか、異界人のボクには分からない。そして、ボクは今こんな状態だ」
同行出来ない歯痒さに、タイガは顔を顰め、震える拳を握り。
「頼むよ、アンジェリカさん。どうかスフィア姫を助けてあげて欲しい。彼女の友達として、支えになってあげて欲しい」
深々と、頭を下げた。
「タイガさんって、本当にいいお兄さんだね」
「スフィア様の事をいつも気に掛けていますし、素敵な方ですわ」
腕を組み、納得したようにうんうんと頷く。が。
故にというべきか。別の疑問がふと頭に浮かんだ。
「でも、その割には互いによそよそしい気がする。やっぱり血が繋がってないからかしら」
アンジェリカの疑問にミツバは目を瞑り逡巡する。
やがておずおずと口を開き、自らの中で出した結論を紡ぎだした。
「……もしかしたら、あのお二人は好き合っているのかもしれません」
「え?」
ミツバの言葉を一瞬理解できず、聞き返してしまう。
「お互いを名前で呼び合っているのも、兄妹である前に男と女だからではないでしょうか」
「え?え?そうなの?」
「もちろん確証はありませんわ。でも、二人の様子を見ていたら……」
ミツバの言葉がそこで途切れるが、アンジェリカには次に続く言葉が分かっていた。
恐らくタイガはスフィアを好いているのだろう。
そして、スフィアもまたタイガを憎からず想っているのかもしれない。
『ボクにとっては本当にお姫様みたいな人なんだよ』
そう言った際のタイガの顔が思い起こされる。
妹のようにだなんて嘘っぱちだった。
その意味に気付いた時、アンジェリカの心の中がほかほかと暖かくなっていく。
それを大事に抱えるように、アンジェリカは自身の肩を抱く。
「そっかぁ、これが、そうなんだ」
心臓が一際強く波打つ。彼女の中に優しい気持ちが膨らんでいく。
顔が紅潮していくのが彼女自身にも理解できていた。
「アンジェリカ様、お顔が真っ赤ですわ」
「う、うるさいわよぅ」
改めて自身の様子を指摘され、アンジェリカは恥ずかしさにツンと顔を背ける。
ミツバはくすくすと笑っていた。
神殿を出て、二人はスフィアと合流する。
「遅いよ、アンちゃん。ミッちゃん」
待ちぼうけを喰らったスフィアは不満そうに口を尖らせる。
が、すぐに友人達の異変に気がついた。
「どうしたの?顔色がおかしいよ」
「な、な、な、なんでもないわ。気のせいよ」
アンジェリカは赤面したまま胸の前で大げさに手を振り、目を泳がせる。
その様子は第三者から見ても、「なんでもない」ようには見えない。
「ふーん……」
訝しがるようにアンジェリカを見つめるスフィアだが、すぐに興味を無くし街へと歩き始める。
二人は慌ててスフィアから離れ、作戦会議に入った。
「み、ミツバ。それとなく聞いてみてよ」
「あ、アンジェリカ様が聞いてみてはどうなんですか?」
「そんな、恥ずかしい事できるわけないじゃない……」
気になる。しかし聞きづらい。
役割を押し付けあう二人に業を煮やしたのか、スフィアはやや語気を強めに二人を問い質した。
「なんだよ、言いたい事があるならはっきり言って」
「ほら、アンジェリカ様」
ミツバがアンジェリカの背中をぽんと押す。
自身の従者に恨み言を漏らしながら、アンジェリカはスフィアへと歩み寄る。
「じゃ、じゃあ、はっきり訊くね」
すぅ、とアンジェリカが深呼吸をする。
息を吸い、吐き出す度に気持ちが落ち着いてゆく。
何度目かの呼吸だろう。口をへの字に結びアンジェリカは自分の中の疑問をぶつけた。
「スフィアさんって、タイガさんの事……す……好き、なの?」
予期せぬ質問だったのか、スフィアは目を見開きしばし硬直するが、
その直後にアンジェリカの意図を察して、頬を染め、恥ずかしそうに口元を隠し、目を細めて。
「……うん、そうだよ」
肯定的な言葉が、紡がれる。
スフィアの様子を見ればその「好き」の意味を探るまでも無い。
彼女はタイガに恋をしていた。
「やっ、やっぱり!」
アンジェリカとミツバが黄色い声を上げ、互いの手を握り合う。
「参ったな、そんなに表情に出てたのかな」
胸に秘めた想いを知られ、バツが悪そうに頭の後ろをかくスフィア。
その振る舞いは戦士である事を一時忘れた年相応の少女のようであった。
「ね、ね、タイガさんのどんな所が好きなの?」
「アンジェリカ様、もう少し周りに気を配って下さいまし」
「ここで話すのは恥ずかしいな……歩きながら話してあげる。小声でね」
「わぁ、聞かせて聞かせて!」
「行っちゃった、か」
姦しい三人娘を、タイガは一人窓から見送る。
「本当はボクがついていきたかったけど、この身体じゃ無理そうだ」
じっと手を見る。指がかすかに震えている。
傍に置かれたペンを握ろうとすると、力が入らずそのまま取りこぼしてしまう。
タイガは落胆に肩を落とすが、それでも諦めるつもりはなかった。
たとえ武器が持てなくても、タイガはタイガの生き方を模索せねばならない。
スフィアに相応しい男にならねばならない。
一回り大きくなったスフィアを迎え、その時は。
「頑張っておいで。ボクの可愛いお姫様」
雑踏に消える背中を見送って、タイガはそっと愛しい人の名を呼んだ。




