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2 立てば芍薬 座れば牡丹 走る姿はアマゾネス

 ――どうしてこんなことに……っ!?


 知結はグラウンドを必死に駆け抜けながら、心中で激しく嘆いていた。

 女子ケイドロ部キャプテンから、訳も分からないまま逃げている最中である。

 その顔は今にも泣き出しそうなものだ。彼女の幼い容姿と相まって、見る者の同情を誘うだろう。もっとも、同情だけではなにも解決しないのだが。


 本当に理不尽な状況だった。

 胸に深く渦巻くのは、後悔。

 ひたすらに己の軽率な行動を悔いていた。


 従兄が部長をしているからって様子を見にいくんじゃなかった。行ったとしてもすぐに帰っておけばよかった。頭を触られるのを我慢すればよかった。

 これは日頃の行いが悪いのか。冷やかしの罰なのか。

 何か善行を成せばいいのか。今日は帰りにコンビニで募金でもしておこうか。


 段々思考が支離滅裂になりつつある。

 しかし、そんな心理状態でも肉体の方はしっかり役目を果たしていた。

 無意識ながら、軽く握った腕を振る綺麗なフォームで走っているのだ。

 火事場の馬鹿力か、もしくは無意識だからこそ余計な力が抜けた良い走りになっているのか。

 理由がなんにせよ、スカウト目的の上級生達が目を輝かせる程に知結は速かった。


 あっという間にグラウンドから出ると、知結はとにかく視界から外れようと進路を変え、一般教室棟と特別教室棟との間の道を進む。

 途端に周囲からの居心地悪い好奇心が突き刺さった。

 無理もない。

 制服で全力疾走する女子である。しかも場違いなのでグラウンドよりも目立つ。恐ろしく周りの興味を引いていた。

 恥ずかしい。見られたくない。後悔が更に大きく膨らんでいく。

 いつしかほろりと目から滴が流れ落ちた。


「もうそろそろ、かな……?」


 道を半ばまで走った頃。恐怖が込められた呟きを漏らしつつ、足を止めずに後ろを振り返る。

 様子見の為だが、そこに光利は発見出来なかった。

 三十秒はとっくに過ぎているはず。彼女がいつ追いかけてきてもおかしくはない。

 体感時間が引き伸ばされているだけで実際にはあまり経過していないのか。


「大丈夫、なのかな……?」


 それとも、今までの心配は杞憂だったのかもしれないと思い直した。

 光利は目を閉じていた。ケイドロのルールを守ろうとしているから、だから知結の逃げた先が分からず探しているのか。


 僅かに希望が見えてきた。

 適当なところで止まってもいいかもしれない。


 と、思った、その矢先。

 遠く離れた校舎の角から、小さく見える人影が飛び出してきた。

 それが大音声で叫ぶ。


「見いぃつけたあああ!!」

「ひゃあああああああ!!」


 狩人襲来。

 知結もまた反射的に大きな悲鳴をあげ、首を痛めそうな速度で前を向いた。必死に、それはもう全速力で足を動かす。


 しかし光利はそれ以上に速い。とにかく速い。リードがあっという間に縮んでいく。初めは小さかった姿がぐんぐん大きくなっていく。ほとんど男子と変わらないような、女子らしさを捨てた速さだ。

 そして彼女は爛々と目を輝かせて笑っていた。獲物を前にした獰猛な肉食獣のように。ギラギラとした目が醸し出す雰囲気は、恐怖そのものである。


 それを振り返って見てしまった知結は、ライオンに本気を出される兎の気持ちになった。


「どいてっ、下さいっ!」


 他人の迷惑なんて考えていられない。

 前を歩いていた数人の生徒をかき分け、隙間を強引に突っ切る。

 通り過ぎる際に見たのは、不審な顔。しかし彼らは続く光利を見て納得の表情を浮かべた。

 流石の個性。彼女の奇行はこの学校では大して珍しい光景ではないようだった。

 そしてもう一つ。有名人だからこそ、止めようとする心優しい勇者はいなかった。


「ひいぃっ……」


 泣きそうだった。いや既に泣いていた。

 なにがなんだか分からなくて、哀れな小動物は涙を流していた。

 だが俯いていられない。俯いてはいけなかった。

 精神論だけでなく、合理的な判断でもある。フォームの問題、単純に前を見て走る方が速いのだ。

 だから周囲から集まる視線の中、堂々と顔を上げて走っていた。


 そして。

 そうこうしている内に校舎の終端が近付いてきた。道の分岐点がある。更に言えば、この追いかけっこの。

 迷う時間はない。ここからどの方向に向かうべきか。

 とにかく遠くへ逃げるべき。ならば左へ曲がり、次は右だ。体育館や武道場のある方へ。

 回るよりもジグザグに逃げた方がより離れられる。それが模範的な解答なのだから。

 だが、


 ――ちょっと待って。


 知結の頭に、不意に疑惑がよぎる。

 どうして光利はもう追いついてこられたのか。

 速さだけではない。

 とにかく遠くへ。とにかく姿を隠して。とにかく逃げやすい方へ。そんな分かりやすい行動パターンだから、すぐに見つかったんじゃないのか。

 光利は行き先を見ていないし、虱潰しに探してもいない。最短ルートで追いかけてきた。

 正確に先読みしたのだ。だとしたら、一度視界から外れたところで意味はない。せいぜいが僅かな時間稼ぎだろう。

 だが、その一瞬を活かせるのなら。そんな可能性があるとしたら。


「うん……やるしかない……っ!」


 知結は涙を払って決意した。

 次の曲がり角で仕掛ける。こちらから先手を打つ。


 まずはゆっくり呼吸し、萎縮する体をなだめる。次に脳内で描いた動きを再確認。弱気を飛ばし、己を鼓舞する。

 そして実行。

 スピードをなるべく落とさないよう、大きな弧を描いて角を曲がる。体を傾け、壁スレスレを攻めた。

 

 短くも緊張に満ちた時間が過ぎ、一気に校舎の隙間を抜けきった。

 そこからそのままUターン。一度曲がった後、進路を左へ。第一特別校舎棟と第二特別校舎棟の間の道へ。

 それは戻る方向であり、校舎を挟んで光利に近付く方向。普通に逃げるのならば向かうべき方向とは反対の方向だ。

 校舎の影で姿を隠し、裏をかく。それが知結の策だった。


「お願い……っ!」


 小声で必死に祈りながら、知結は背後を振り返る。

 校舎棟に挟まれた道。寂しげに植木が並ぶだけの、人気のない空間。

 そこに、数秒遅れて光利は現れた。

 しかし見えたのは背中。光利は逆方向へ曲がっていったのだ。

 やはり先読みしていたらしいが、残念。目論みは成功したようだ。


「やたっ!」


 小さくガッツポーズ。

 時間と距離を稼げる。この内にグラウンドに戻れれば、人の中に隠れてしまえるかもしれない。

 心に溢れる喜び。頬が緩んでしまうのを止められない。


 しかしそれは。


「っ!?」


 一際高い足音に打ち崩された。


 考えるまでもなく知結は理解する。

 光利の対応は早かった。

 強引なようでいて華麗なターン。殺した速度を流し、逆方向へ新しく力を生み出す。

 獰猛な肉食獣が、一際嬉しそうに笑っている。

 速度を増した。今までが既にデタラメな速さだったが、それ以上に加速したのだ。


 ――嘘でしょ!?


 慌てて視線を前に戻す。

 姿勢は大きな前のめりに。脚を意識して回転を加速させる。明らかな無理。息切れしつつ、限界に近付きながら、必死に逃げ続ける。


 そんな時。

 強い一陣の風を感じ、思わず目を閉じた。

 一瞬の黒い視界。そして開いた先には。


「え?」


 それが見えた途端、間抜けな声が出た。

 それも仕方ないだろう。


 何故か、あの一瞬で。


 光利が前にいたのだから。


 単純に追い抜いただけの話なのだが、たったそれだけの事実が知結の常識からは外れていたのだ。

 更に光利は向きを変え、後ろ向きに走り始めた。それで速度を維持するのは難しいはずだが、なんなくこなしている。

 両手を大きく広げ、親しい人を迎えるような体勢。嬉しそうな、しかし狂暴そうな、あの笑顔。

 訳が分からない。


 分かる事と言えばただ一つ。

 今が全力疾走の最中であり急には止まれないという事だけだ。


「あ……」


 世界がスローモーションになる中で自分から光利(もうじゅう)(きば)へ突っ込んでいく。

 決して抗えない。逃れられない。救いがない。選択肢は一つきり。

 絶望とはこういう瞬間を言うのだろう。

 知結は悟り、そして時間が正常さを取り戻す。


「つーかまーえたーっ!」

「きゃあああぁっ!!」


 哀れな獲物は捕食者に捕まってしまった。弱肉強食の理である。

 抵抗は不可能だった。力が強く身動きがとれない。そもそも疲労と息切れで動けない。


 光利は知結を掴みながら全身、特に脚を眺めている。どこも触ったりはせず、見ているだけだ。

 頭には触らない。

 意地でも撫でたくなるから追いかけてきたのでは。

 だとしたらこの鬼ごっこの意味は?

 知結は混乱の中、現実逃避的な思考が巡る。


「やっぱりな」


 不意に手を離された。急に支えを失い、尻餅を着く。

 解放されたとはいえ息も絶え絶えな知結に、彼女は清々しい顔で告げる。


「こりゃ鍛えてる筋肉だ。前は運動部だったろ。筋もいいしな」

「え? ああ、はい……」

「反射神経と瞬発力に期待してたんだが。それ以上の逸材だったな」

「えー、はい……ありがとうございます?」


 訳が分からないまま曖昧に応えた。立ち上がってはいても腰は引けているし、少しでも離れようともがいていた。

 嫌な予感がしていたからだ。


 そしてやはり、見事に的中する。


「ケイドロ部入らねえか!? センスは保証するし、三年二人、二年二人で人数不足の今なら即レギュラーで全国大会だ! さあ、一緒に熱い青春を過ごそうぜ!」


 肩を強く掴み、顔を近くに寄せながらの勧誘である。

 気迫。勢い。熱血が全身から溢れていた。温度さえも高く感じ、笑顔は有望株に舞い上がる指導者そのものだった。


 そんな熱烈な口説きをされた知結はというと。


「……え、と……」


 酷く怯えた様子で口ごもっていた。


 正直、断りたいと思っている。

 特に入りたい部がなく迷っていたが、ケイドロ部は許否したかった。ケイドロが嫌ではなく、この人物が所属する部だけは嫌だったのだ。

 だが素直に聞き入れてくれるのか。例え他の部へ入る予定だと言っても、引き下がらずに説得してきそうな予感がするのだ。それはもうしつこく。


「さあ! とりあえず体験入部だけでも!」


 そうして迷っている間にも、光利はよく通る声と強烈な目力で更に畳み掛けてくる。肩を掴む力も増して痛いくらいだ。

 

 知結は危機感を覚えた。

 この調子で続けられたらいつかは押しきられてしまいそうだと。根負けして頷いてしまいそうだと。

 迷っていたら手遅れになると理解していた。


「え、あのっ、すみません!」


 だからその前に行動した。

 思考がまとまらずに、最適解でなくてもとにかく説得力のある断る理由があればそれでいいと。

 知結は焦って裏返った声で、ふと浮かんだ身近な顔から思いついた閃きを言った。


「……私、ずっと前からユキ兄とマネージャーになる約束してたので!」


 入りたくない一心で吐いたとっさの嘘。


 これが自らケイドロの世界へ飛び込む致命的な一言だったと気づき後悔するのは、言い終えた数秒後の事である。

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