第9話 墨家はカルト宗教だったのか
すべてを平等に愛する「兼愛」、他国に攻め込まない「非攻」を唱え、差別をなくして平和な世を築こうという、なんだか現代的な思想を戦乱渦巻く春秋戦国の時代に持っていた墨子。
墨子はもとは儒家でしたが、儀礼が煩雑すぎる儒教に反感をおぼえ、礼をかんたんにし、倹約を美徳とする新しい派閥をつくりあげます。
これが「墨家」となりました。
墨家は技術集団でもあり、さまざまな防衛兵器を開発し、小国が攻めこまれれば加勢にかけつけ、命を賭してたたかいました。
「非攻」ですが、攻めてくる敵を倒すぶんにはOKです。
平和を口で唱えるだけではなく、行動によって示したのです。そのため「行動する平和主義者」ともいわれています。
墨家は「鉅子」と呼ばれる指導者のもとで、ひじょうに厳しく統率されていました。規律を破れば処刑、もしくは自殺するなどいったようすです。
鉅子の子が殺人を犯したということがあり、秦王が無罪にしようとしましたが、鉅子は、
「人を殺せば死罪をあたえるのは墨者の法です」
といってわが子を殺しました。
また城の防衛に成功しなかった鉅子がみずから首を刎ねるなどといった事件もあり、あとを追うように二百人近い弟子たちもつぎつぎと集団自殺をしました。
カルト宗教的ともいえますが、それだけ自分たちの使命に責任を持っていたのでしょう。
のちに墨家は三つの派閥に分裂し、秦の始皇帝が天下を統一したのちは衰退していきます。焚書坑儒の影響もあるでしょうが、戒律が厳しすぎたのが世の中に受け入れられなくなったのかもしれません。