第1話 はじまり
みんながここで絵を描いたのだろう、美術室にはインクの匂いがした。
創作の匂い。ブレザーと鮮やかな水色プリーツ・スカートに染みつきそうな色彩だ。
それを嗅ぎ、朝倉凛子はイスに座って壁を見ていた。
「あたしなんでこの絵が好きなんだろう」
目先には世界旅行をして収集したかのような、たくさんの風景画が飾られている。
どれも有名な風景だ。
ただひとつを除いて。
それは夕焼け空であった。
旅行先の風景にしては貧相で、今から窓を覗けば広がっているような、名無しの風景。
凛子は、このありきたりな絵が好きであった。
「好きな理由がわからない。でもなんだか、眺めていると心地いい」
凛とした子になりますように。そう育てられた凛子のキリリとした目が、たやすく緩んでしまう。
でもなんで好きなのか、わからない。
凛子はため息をついた。サッカー部をやめて、この絵を見てからはため息ばかりでる。そして幾度かのため息をすると。
「凛ちゃん。そろそろ帰ろうか」
綺麗な音色に呼ばれた凛子は、席から立ち後ろを向いた。
夕日で鮮やかになる美術室の机たち。それらが規律正しく並んでいる。そんな隊列のちょうど中心に、一人の少女が立っていた。
「あぁ早苗か」
「どうしたの凛ちゃん。ぼーっとして」
早苗がスカートをひらひらさせて、そばに寄ってくる。
その身振りはハムスターのように健気で、彼女の微笑みかけには、凛然とした凛子も自然と笑みがこぼれた。
「見ての通り」
「また絵に集中してたの?」
隣にて首をかしげる早苗とは、おでこひとつほど身長差があった。それと茶色いボブカットと、人目を惹きつける笑顔から、ちっこい動物を連想してしまう。
そんな早苗に目を向けて、凛子は冗談交じりに言った。
「早苗が描いた絵は、いつ見てもよくわかんないからね」
「わたしの絵そんなに変かなぁ」
「変じゃなくて不思議」
「不思議って?」
「すごくいい絵だ、てこと」
聞いて早苗は頬を赤くした。夕焼けよりも綺麗な色彩に染まる。そして照れながら「ありがとう凛ちゃん」と口にした。
「うん。てか今なん時?」
「五時なりたて。下校時間まで描いちゃってた」
「なるほど、あたしらは帰りそびれたわけか」
ずいぶんと長く美術室にたむろしたな、と時間を聞いて凛子は思った。こうも遅く居残りしていたら先生に怒られそうだ。
「だいじょーぶ。今日の顧問は大沢先生だから、いつもみたいに大目に見てくれるよ」
楽観する早苗に、凛子は釘を刺す。
「大沢おばちゃんか。でも怒ると超絶怒涛だぞ。マシンガントークでハチの巣だ」
身の毛もよだつ、と凛子は言う。
大沢先生は信頼できる優しい先生だが、怒ったときは天地がひっくり返るほど恐ろしいのだ。
「わかってる。それに怒られないよ。あとは部活動を終えたことを伝えるだけだから」
「なら大沢おばちゃんのマシンガンが火を噴くまえに、とっとと伝えに行こうか」
「うん。でも凛ちゃんはここにいて」
言われて凛子は驚いた。
「なんで。てか一緒にいくよ。まつのはつまらないし」
「まぁまぁそう言わずに。廊下は寒いから、ここでお菓子でも食べてくつろいでてよぉ」
まのびした声とともに、早苗は上着の内ポケットを探る。そして一口サイズのチョコレートを取りだした。
なにかとつけて早苗は、甘いモノを渡したがる。それを知っている凛子は、自然と手を出した。
「はい凛ちゃん。どーぞ!」
凛子の手にお菓子が落ちる。
これには見覚えがあった。昼休みにもらったチョコと、同じ包み紙だからだ。
「昼のと同じだね。ありがと」
包み紙を開けて、チョコを口に放りこむ。
舌で甘さを転がした。唾液に絡んでカカオがとろける。やたらと甘い。
「それじゃ凛ちゃん。行ってくるから、ぜったいに待っててね」
凛子がチョコレートをなめる。早苗は出口へと軽やかに歩いた。そして扉前で凛子に手を振る。笑顔で「行ってきます」と扉を開けて、冬風に身震いしながら、廊下に出て扉を閉めた。
美術室にひとりぼっちとなった凛子。
すると途端に、絵の具の不思議な匂いを嗅いだ。
カカオとは違う匂い。存在感のある匂い。
芸術の残り香、というのだろう。なんとも意欲的である。
そんな匂い元のひとつ。早苗の絵を眺めた。
「やっぱり、わからないけど好き」
太陽が地平線へと去って行く、オレンジと黒のグラデーション。
ありきたりで見慣れている風景。
だけど好き。
でもなんで好きなのだろうか? 今までにも早苗の絵を見てきた。しかしこれほど惹かれたことはない。不思議だ。いったいなんで、この平凡な絵に魅力を感じるのだろう。
ため息ひとつ、とりとめのない考えを巡らせる。すると早苗が戻ってくる音――ガラガラと美術室のドアを開ける音――を聞いた。
「おかえり。どうだった?」
凛子は夕焼け空に背を向ける。そしてすぐ、早苗に異変があると気がついた。
目を合わせてくれない。
「ねえ凛ちゃん」
早苗はうつむいたまましゃべる。そしてドアを閉めて、内鍵をかけた。
「なにしてんの早苗?」
「あのね。聞いてほしいことがあるの」
「なんかあったの?」
「それも含めて聞いてほしい」
見るからに早苗は震えていた。まるで蛇に睨まれたハムスターのように。
近くによると強く怖がる。その証拠に手が、ぎゅっと握りこぶしを作っていた。
なんで怖がる、と凛子が声をかけようとしたとき。早苗が顔を上げた。
目と目が合う。
「わたしね、凛ちゃんが好きなの。だからお付き合いしてほしい」
鋭い目つきの凛子なのだが、このときだけは目を丸くした。
好き。そう親友から告白されたのだ。驚きだ。
「ちょっとまって。冗談でしょ?」
「凛ちゃんにとってわたしは、冗談で告白する酷い子なの?」
「それは違うけれど……」
「これはおふざけじゃない、嘘でもない。これはわたしの、本気の告白」
幼子の目から、重みを感じられた。
見知らぬ重量。言葉の圧が凛子にのしかかる。
「凛ちゃん。わたし、もしかして気持ち悪い……かな」
「そんなことない」
凛子は否定した。
なぜならば早苗の好きに、うれしく思えたからだ。
告白してきたのは同性の早苗。同じ学校の女子。しかし一番の親友で、とても大切な人なのだ。
「ほんとうに?」
早苗が尋ねる。心配そうだ。
それもそのはず、親友になって一年半の月日をともにしたのだ。そんな親友に告白をする。それも同性。告白が原因で嫌われることもあるだろう。好きな人に嫌われると思えば、心配でいてもたってもいられないはずだ。
だからこそ、それをふまえて凛子は答える。
「あたしはね、友達に告白されたからって、絶交するようなヤツじゃないよ」
おずおずぎこちなく。
「それと……あたしでよければ、おねがいします」
答えを聞いた早苗は、一筋の雫をこぼした。
「早苗、泣いてる?」
「だって。やっぱりダメだと……拒絶されるって、間違ってるって」
ぽろぽろと涙する早苗の背中に、凛子は両腕を回して、優しく抱き寄せる。
「泣かないで」
涙する早苗を見ていられない。凛子は静かに言った。涙を見ていると心がしめつけられる。
「わたし凛ちゃんのこと、好きでいい?」
「いいよ。早苗の好きは、あたしが受けてあげるから」
今の早苗は本当に小動物みたいで、ちょっとしたことで死んでしまいそうだ。
だから守りたいと思った。
早苗を守れるのなら、どんな関係になっても構わない。
たとえ今の生活が変化してしまっても。