古人類史は暖簾の先に。
笹井くん、中一の春。
「はい、では授業を始めますよお♪」
可愛らしい声で、新任の先生が教壇の前に立つ。
自己紹介の時に、大卒ですぐ採用されてうちの学校に来たと言っていたから、あまり世間もなにも知らないで社会人になった口だろう。きっとこれから苦労することだろう。
「はい、今日は歴史の授業でも最初の方、人類の誕生についてです」
親しみを込めて、京子ちゃんと呼ぶことにしよう。京子ちゃんは社会科の先生だ。専攻は西洋政治史と言っていたが、当然それだけを教えるわけにはいかない。ましてや中学生に対して、専門的に教える内容ではない。
「え~と、人類の歴史はあ、諸説あるみたいですが大体四百万年前にまでさかのぼります。ラマピテクスですね」
おいおい、年代が違いすぎるぞ、それにいつの時代の話だ? 古い学説ではそう扱われることもあるが、確か今ではオランウータンの祖先とする説が有望……
「このラマピテクスからアウストラロピテクスになって、北京原人に代表される、原人に進化します」
ちょっと待った! なんだ、このいい加減な人類史は? 最新のブリタニカ百科事典や世界大百科を読んでないのか?
「それからあ、旧人のネアンデルタール人になって、クロマニョン人が生まれました」
……ははは。クロマニョン人が生まれちゃったよ、ネアンデルタール人から。もうツッコミどころ満載過ぎて、ぐうの音も出ない。この後に出てくる言葉は決まってるか。
「このクロマニョン人が、人類の直接の祖先になります」
きたあっ! やはり恐れていた通りだった。
確かに専門分野ではないだろうが、ここまで前近代的な人類史観では生徒にとって弊害となり得る。
「きょうこち……失礼。先生、申し上げにくいことですが、その古人類学的分類はいささか古いものと言わざるを得ませんが?」
京子ちゃんがほへっ? という顔をした。恐らくはまわりの生徒みんなが同じような顔をしているだろう。
「え、えと、さ、笹井君で良かったかな? ごめんなさい、どこが間違ってますか、教科書にも指導要領にもそのように書いてありますけど……」
ふう。仕方ない、答えて進ぜよう。何様だ、俺。
「失礼を承知で申し上げます。まず、最初から間違っています。人類をどこからと捉えるかによりますが、少なくとも一千万年前にはゴリラ族とヒト族は分かれており、ラマピテクスはその前の一千四百万年前に分かれた、オランウータン族の方に分類されているはずです。アウストラロピテクスはヒト属とはヒト亜族内で違う属に分類されていますから、直接の繋がりはないのではないでしょうか?」
息が切れた。まだまだ体力的にはきつい。しかしここで終えたら尻切れトンボになってしまう。京子ちゃんにも悪いから、もう少し頑張ろう。
「ヒト属とは、いわゆるホモ属のことですが、ネアンデルタール人はホモ・ネアンデルターレンシスとして別種の人類ですし、クロマニョン人に至っては、ホモ・サピエンスの中のクロマニョン地方で発掘された化石人類と言うのが正解かと。ネアンデルターレンシスとサピエンスの交配もなきにしもあらずですが……」
見る見るうちに京子ちゃんは目を赤くさせて、泣き出して教室から飛び出していってしまった。俺にはなんでそういう行動に出たのか、皆目見当がつかなかった。
「おい、笹井よ。今すぐ追いかけて先生に謝ってこい」
なんでだ? 俺は無言で、今話しかけてきた奴の方を見た。そいつは中学校に上がってからは、それまでのおどおどとしていた性格から変わって堂々とした態度、体格に変貌した板垣だった。
「お前はやり過ぎたんだ。先生を言い負かす生徒がどこにいる?」
……ここにいるんだが。
「いいから早く行け、笹井。こっちは任せとけ」
改めて周りを見渡すと、俺のことをえらく奇異な目で見るクラスメートの面々が。ああ、これはやっちまった感がハンパない。この場は板垣の言う通りにして、京子ちゃんを追っかけた方が身のためか。
「分かった。すまないが頼んだ」
俺は板垣に親指を立てて合図した後、教室を抜け出した。
職員室にでも駆け込まれたら事だ。早く追いつかねばと言うことをきかない身体にむち打とうとしたところで、京子ちゃんを見つけた。なんのことはない、教室のある階毎に設置されているピロティで、独り座り込みながらぶつぶつつぶやいていたからだ。
少し、いやかなり怖いものがある。妙齢の女性が、ピロティの硬めのフロアーの隅で、体育座りしながら虚空を見つめて独りごちているんだからな。
俺は勇気を振り絞り、京子ちゃんに声をかけた。
「きょうこちゃ……またまた失礼。京子先生、先程は知ったかぶってさかしらに口を出してしまいました。ここに謝罪致します、申し訳ありませんでした」
まだぶつぶつやっている。体育座りのせいで、短めのスカートの隙間から……おっとこれ以上はいかんですばい。いささか動揺をしてしまった俺を見て、大人としての尊厳を取り戻したかに見えた京子ちゃんは、やおら立ち上がるとスカートの裾がめくり上がっているのも気にせずに仰った。
「し、仕方ないわね、そこまで言うのなら許してあげなくもなくもないわよ?」
京子ちゃん、許すのか許さないのかどっちなんだ?
「あれは、指導要領が古いのが悪いんだからねっ。そうなんだからあ!」
むむ、なんだか変な切れ方してないか? こういうのをなんと言うのか誰か教えてほしいものだ。
「そうです、その通り。よっ、我らが京子先生、良いこと言うねえ!」
こちらもなんだか分からないが、とりあえず調子を合わせておこう。こういった行動を、いわゆる処世術と言うのだろうか。勉強になった。勉強になったついでに分からないことを聞いておこう。
「ちなみに京子先生、伺いたいことがあるんですが」
「ふふん、なにかしら笹井君。この京子先生になんでも聞いてちょうだい。懇切丁寧に教えて差し上げるわよ♪」
……大丈夫か? さっきからだいぶ、その、言っても良いだろうか。京子ちゃん、キャラが壊れてますよ?
「最近耳にした言葉で、ホモ・セク⚪ャルやバ⚪・セクシャルってのがあるんですが、これも人類学的な分類のものなのでしょうか?」
「う~んごめんなさい、私も聞いたことない言葉ねえ。分かりました、今回の名誉を挽回するために、先生調べてきて笹井君に特別に教えてあげるね♪」
あ、キャラ戻りした。かな?
こうして中学一年の、立場も状況も顧みることの出来なかった笹井修司、齢十二の少年はめったやたらに知識をひけらかすような、そんな浅はかな真似は二度とすることはなかった。
完
ん? あの問いかけに対する答、後日談を知りたいって?
いやいや、それは言わずもがな。お察し願いたい。お願いだからね? ダメっすか、ここまで引っぱっといてなにを今更ってか……
はい、みなさんのご想像通りです。そうですとも。
なぜかそれ以来、京子ちゃんは俺に対してまるで石ころを見るような、いや、汚物でも見て顔をしかめるような、そんな態度をとるようになった。
納得がいかない俺は、教室をそそくさと出て行く京子ちゃんの後を追いかけた。
「きょうこちゃん……これまた失礼。京子先生、一体どうしたんですか? なにか不都合なことでもありまし……」
京子ちゃんは俺の腕を引っ張り、ピロティ脇にある用具室に連れだって入り、鍵を閉めた。
なにこれ変な風に胸がドキドキしちゃうんですけどっ!?
などと慌てる俺ではない。あくまでも冷静沈着に、動じることはない。
「先生、やはり公には出来ぬ世界的機密事項だったんですね?」
そう慎重に声を潜めた俺は、自然と京子ちゃんに近づいた。いや、近づき過ぎた。用具室は日の光の入る窓もなく、閉め切られた室内は暗くてしかも狭かった。
むにっ♡ となにやら今まで一度として感じたことのない手触りが、俺の右手の平から脳へ電気的刺激として伝わってきた。それはある種衝撃的で、甘美なものだったので思わずこう、もにゅもにゅと……
思いっきりほっぺた叩かれました。平手打ちです、往復いただきました。
京子ちゃんは、暗がりの中でもはっきり分かるくらい顔を上気させながら、やや息も荒く……近い、京子ちゃん、近すぎて変な気持ちになりますですよ!? 俺の耳元でささやいた。
「先生、自分と笹井君のために恥ずかしいのを我慢して言います。だから、お願いだからこれから発言には気をつけてね? 約束よ?」
それから京子ちゃんは、うら若き乙女が口にするのも憚れるような話を、身体が密着するような狭くて暗い空間を共有するこの俺にし始めた。もう一度言おう。耳元でささやくようにだ。
俺は窓の外を眺めながら、あれからもう五、六年は経つんだなあ。それにつけても世の常識は、こんなんでいいのだろうかと独りごちた。
「おい、笹井。授業に専念せんね!」
寒い。寒いぞ、アサシン。凍えてそのまま永眠しそうになる。
「はい、失礼しました」
「ん。では続きをば。え~、お前らがだいぶ前に習ってる通り、ホモ・ハビリスは旧人であるところのネアンデルタール人になり……」
京子ちゃん、今頃どうしてるのかなあ。
あれから後、中学校を卒業するまで京子先生は、俺と適度な距離を保ちながら一生懸命教壇に立っていた。とても深く多面的に授業を進め、時にはまるでどこかの国の王女様みたいに、また時には、最近よく読むファンタジー小説に出てくるヒロインみたいに、急に可愛く語り出したり、めっ! といたずらめいた口調で怒ったりするようになっていたのを覚えている。誰のせいだろうか。
「ささい-っ、またおぬしは……っ! ええい、立っとれ!」
笹井修司、十八にして廊下に立たされる。
ちなみに初め二足で直立出来たとされるのは、四千万年前の類人亜目くらいからだな。どんな猿かって? 知らんがな。
廊下に立たされながら、現生人類までの歩みを体現してみる。
「ささいっ!!」
ああ、無情。
この頃の笹井くん、いろいろあってKYですね。
あ、念のため申し上げますが、これフィクションですからあ! いろいろ間違ってても、どうぞご愛嬌ということでひとつ……