俺と先生。2
巡見後すぐに所感文を提出した笹井。教員室に呼ばれて……
「笹井。今から言うことを時間をかけてもらってでかまわんから、考えてもらえんか? よろしく頼む」
俺を正面から見つめて真顔で話をするその様子に、とてもはぐらかせる雰囲気ではないなあと腹をくくった。
「さて。わしは実は、あの神社の跡取り息子でな。継ぐつもりで神道系の修学を終えたわしは、親父の下で禰宜として神職を奉じることとなった――」
佐分利先生は若い頃に、宮司である父親と些細なことで諍いを起こしてしまい、家を出て十数年間、世界中を旅して回ったそうだ。インドでガンジス川に浸かり、イギリスのコーンウォール地方で地質調査をし、中東では銃弾を尻に浴びて、片頬がえぐられた。
負傷兵のようになり、這々の体で日本に帰国してからは、あちこちの神社仏閣を巡りながら、人生とはなにか、生死とはなにかを問い続けていたと言う。
そうこうしているうちに、実家の神社が無人で荒れ果てたものになっていると耳にした。急ぎ帰るが、既に両親共に病に斃れており、後継者のいない寂れた神社だけが先生の帰りを待っていた。
「それからは教師と神職という二足の草鞋を履き、親父が残したものを護らんとがむしゃらに働いてな。そのせいでか無理が祟り、結核を患ってしまった」
二年近くの療養生活を余儀なくされた佐分利先生は、神社の方は氏子さんたちに話を通し、参拝のみで祈祷や祭事は行わないことにした。毎日境内を掃き清めてはきたが、年もとり思うようにはいかなくなってきていたのだそうだ。
自分に子供がいないため跡を継がせる者もなく、致し方なく教職を優先させていたところに、この俺が現れた。
⋯⋯⋯⋯??
俺ですか? なんとな?
「わしはな、笹井、おぬしの全てを把握しておるわけではない。ただ聞き及ぶところによると、おぬしは小さい頃に生死の境を、彷徨ったことがあるそうだな」
教職を続けながら先生は、様々な宗教や信仰について調べ、研究してこられたとのことだった。
俺もその辺のことはおおよそ予想をしていた。巡見を通して、自分らが住み、また学んでいる地域やその風土、信仰なんかについて教え導いてこられたんだ。たまに提出していた風土記や研究書に、喜んでもらえていたのが目に浮かぶ。
「きっとおぬしは、わしなどには思いも付かぬほどの苦労や、葛藤を乗り越えてきたに違いない。わしが勝手に思い込んでいるにすぎぬかも知れぬ。しかしな、おぬしの生き方、その異質なまでの博識多才さがな、もったいなくも尊く、逆に憐れで仕方ないのだ」
じーっと俺を見据える目には、年降った樹のような確かさと、落ち着いた信念めいたものが垣間見えている気がした。
「もうわしがなにを言いたいのか、おぬしには分かっておるだろう。しかしあえて聞こう。笹井よ、あの神社の神職を、わしに代わり継がんか?」
佐分利先生は、ゆっくり考えてからで答えて構わないと仰った。でも、俺は今この場で答えることにした。
「先生。私のような特異者に、かように過分な評価と信頼をお寄せ下さること、心より感謝申し上げます」
「! そうか、では継いでくれるのだな?」
すわと身を乗り出し、目を輝かせる先生を見つめ返しながら、俺はそれに答えた。
「すみません、先生。違うんです、申し訳ないのですが、お断り致します」
「いや、今すぐにという話ではない。先程も言ったが、ゆっくり考えてからでも」
俺はかぶりを振った。
「先生のお申し出はとてもありがたいことですし、興味が無いわけではないんです。ですが、今は……」
どう話したら良いんだろう。日を置いたからといって、俺の心が変わることはない。だとしたら今の思いの内は、しっかりと伝えておかないといけない気がする。そうしなければ、先生に対して失礼にあたる。
「先生。確かに先生の仰るように私は、過去に生死の境を彷徨い、そして生き直すことになり今に至ります。その際に、私はすべてをやり直す――文字通り一から人生をやり直すことになりました。しかし、自分という存在すべてが失われているのにもかかわらず、思考し、悩み、言葉や文字を解する力は消えないままでした」
それまで勉強してきたこと。数字の概念から四則演算など、たくさん読んできたであろう本の内容(家全体にある蔵書は、今現在でも大切な宝物だ)。その他の科目すべてに、友達やクラスメートや先生のこと。親戚に親に姉や家や自分自身についても。なにもかも忘れたのか、それとももともと無かったのか。そもそも自分自身が、本当に笹井修司なのか? という疑問、疑念。
なにも無い。なにも持っていない。それを理解し、それに悩み、痛む心は持ち合わせていた状態の俺は、とにかくひたすらに本を読んだ。あらゆる種類の本に、図書館ではできる限り過去数十年分の新聞を読み漁った。そんな本の中には、信仰や宗教といった類のものも数多くあったし、心の拠り所を求めていたのかもしれない俺は、複数の教えなんかも同時に研究分析したものだ。
「誠に申し訳ないことなのですが、先生、自分には特定の信仰や宗教を信じる生き方がありません。多角的な面から研究し、分析して理解したりすることは出来るのですが、それを生きる上での指針にしていくことは、自分には難しく不可能なものに思えてならないのです」
佐分利先生は、豊かになびく髭をしごきながらうーむとうなった。
「笹井のような境遇であれば、致し方のないことなのかもしれんな。生きてきた過程の中に、本来存するべき周囲との結びつきがほどけ、再度結び直すにはもう、既に強固な自我を抱え込んでしまっていて上手くいかなかったんじゃな。それでもこうして話せていることが、やはり笹井、おぬしの稀有な才能でもある」
真顔でそう言われた俺は、なんだかこそばゆいような誇らしいような、そんな普段あまり感じたことのない感覚に驚いた。
「まあおぬしのことだ、なまなかひとつっところに留まれるものではないだろうからな。これから先、さらに多くのものを見、聞き、感じていきながら、深みを増していくことだろう。うむ、それもまた人生よな」
なんだか不思議な言い回し方だけど、嫌な感じは全くしなかった。むしろ、俺がしたこともないような体験をしてきた先生に、お墨付きのようなものをいただいた感じで嬉しかった。
「まあおぬしのことだ、卒業後もなにかと学校には顔を出すことだろうし、わしらも、いつであっても連絡が取れるようにはしておくからな。わしの言ったことは頭の片隅にでも置いといてくれれば良い。ああ、この所感文――というには学術的価値が高すぎる気がしないでもないが……は、ありがたく預かっておこう」
そう言って先生は、俺の書いた所感文をなにやら特別そうなキャビネットの、鍵つきの引き出しの中に入れて施錠をした。
「あ、あのう先生? 所感文、他の人と別けておしまいになりましたが、提出扱いにはして下さいますよね……?」
なんだか嫌な予感がするのは、気のせいだよな。うん、きっとそうだ。
「うむ? そうさなあ……そのつもりだったが気が変わった。笹井、もっと簡単な、今回の巡見に関してのみの所感文を、別に提出せい。日にちはあるでな」
佐分利先生はその年齢には不釣り合いなウィンクを、自然と格好良く決めて窓の外を見遣った。
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