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優しい声

作者: 筧 月子

 どこからか、声が聞こえてきた。

 とても悲しい切ない声に、僕はぼんやりと目を覚ました。けれど、何も見えてこない。瞼は開いているはずなのに、何も見えない。眼前も、見渡す向こうも、真っ暗だった。


 夢か……。


 僕は、そう思った。

 暗闇が安らぐように感じるのもそのせいだ。そして、もう一度目を閉じると、またあの悲しい、女の人の声が僕の躰に降りてきた。


「私、好きな人を殺してしまった」


 声は涙を含んでいた。


「大好きだったのに……」


 震えている声。

 僕は、目を開けなかった。開くと彼女の声が消えてしまうと思ったから。彼女の声は子守唄の様に、闇は毛布の様に僕を包み込んでいく。

 僕はもう考えることも鬱陶しくなってきて、彼女の作る世界に身を委ねた。自分の夢なのに、と少し可笑しくなって笑う。

 彼女は、独り言のようにポツリポツリと言葉を紡ぎ始めた。


 私は彼にピアノを教えていました。彼は週に三回、友達と私の家を訪ねて、一時間ほどピアノを弾いていきました。お友達の方は、お喋りが楽しいようで、合間にピアノに触れているといった感じでしたけれど、彼は本当に音楽が好きだったようです。

 彼がピアノの話をするとき、瞳は冒険家の様に輝いて、譜面を見詰める眼差しは全く隙のない芸術家でした。無邪気を微塵も感じさせない真剣さに、私はとても驚かされ、魅了させられました。

 思えば、私はその瞳に気付いた時から、彼という人間に惹かれていたのかもしれません。

 私の中で、いつしか彼は教え子の一人ではなく、一人の男性になっていました。年甲斐もなく、十を数える歳の差にもかかわらず、私は彼に恋してしまいました。

 それからの私は、十二、三の少女と等しく、彼の前では躰が震え、言葉を交わす事さえ畏れ多く、一刻も早く立ち去りたい気持ちと、一刻でも同じ時間を過ごしたい気持ちに苛まれ、教師とは思えない失態を犯してしまったことは一度や二度ではありません。

 彼はそんなことを気にする様子はありませんでしたが、私は甚だ情けなく、更に赤くなって戸惑うばかりでした。

 彼が来る日を、会ったら泣き出してしまうのではないか不安になるほどの恋しさを体中に秘め、待ち望み、会ってはその恋しさ故に苦しくなり、彼の帰る時間が待ち遠しい……そんな日々でした。

 私は、毎日毎日が苦しいのです。

 体中に彼への想いが充満し、吐きだせる場所は無く、ただひたすらに思いが私を押しつぶそうと大きくなるのです。

 しかし、それでも私はとても幸せでした。彼の声を聞くことが出来、彼の顔を見ることが出来る。私はそれだけで十分すぎるほどでした。ですから、二年が過ぎ、彼が私の元から巣立つ時もさほど落胆はしませんでしたし、逆にこの苦しい思いから抜け出せると、悦びも感じたほどです。

 私は彼に何も望んではいませんでした。

 そのうち、彼も大人に成り、色々な人に出会い、愛する人が現れ、結婚し、家庭を持ち……そう考えることも苦しくはありませんでした。

 今のように、気が向いた時に私の家に立ち寄り、上達した腕で私を驚かせてくれる。今の彼が、今の私を知っている。それだけで、本当に「幸せ」を感じる事が出来ていたのです。

 しかし、その「幸せ」は私の空想のモノでしかありませんでした。

 発端は、彼の弟が私の教え子になった事です。私は、その時、言い知れぬ不安を感じました。

 彼は、私のもとを巣立ち、弟が私のもとを訪れる。

 私は変わることなくここで彼らが来るのを待ち、教え、巣立ちを喜ぶ。

 私は、このままで。

 自分のしていることが、とても物悲しく思え、一瞬、その意味をも見失いそうになりましたが、まだ、私は理性を保っていました。それが、一時期の教師の感傷だという事に気付いていました。それなのに……


 その日、私はいつものように子供が来る時間を、窓辺で本を読み、待っていました。すると、彼の笑い声が聞こえてきたのです。私は、カーテンを開け、外を覗きました。彼は友達とこちらを向いて談笑している処でした。私が小さく手を振ると、彼も大きく返してくれながら、隣の少年に言ったのです。

「弟の先生だよ」

と。

 私は、周囲の空気が止まるのを感じました。

 周りの人たちの景色は、様々な彩りを変えるのに、私の景色だけ、止まっていることを感じました。


 それは、酷い孤独でした。


 突然に私は窓に入り込もうと枝を伸ばす木々の緑さえ憎く思えてきました。

 彼は、既に私を思い出の中の一人として飾っているのです。年ごとに変わる景色の一枚に私が居るのです。


 私は、嫌でした。


 私は、彼の思い出になる事だけは、どうしても嫌だったのです。彼とだけは、同じ時間で生きていたかった。過ごしていたかった。


 私は、私の中で、愛しさが、ゆっくりと色味を変えていくのを感じました。それは、海の底の様に暗い淋しい色でした。


 私は、彼だけを部屋に誘い入れました。彼は私の頼みを聞いて、ピアノを弾いてくれました。

 昼下がりの柔らかな日差しに照らされた彼の横顔は、今、という輝きを持ち、切なくなるほどに綺麗な表情でした。

 

 私は、彼の背後に歩み寄り、彼の鮮やかに跳ねる指を見ながら、彼の背にナイフを突きたてました。


 私は……


 彼女は、言葉を詰まらせたかと思うと、むせぶ様に泣き始めてしまう。

「ごめんなさい、ごめんなさい」と、彼女は子供の様にしゃくりあげて泣いた。

 僕には、彼女の表情は見えもしないのに、はっきりと分かった。

 瞳から溢れるように涙を流し、ずっと我慢してきたものを吐き出すように泣いている少女の姿。

「好きだったの、本当に好きだったの」


 僕は、彼女を許そうと思った。

「好き」という想いを謝る彼女を許せると思った。


「せんせ、い」


 僕の最後の言葉は、彼女に届いただろうか。


 僕の意識の糸が、途切れる。ぷっつりと。

 闇に沈む。

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