ほかほかごはん たまごやき
彼の部屋を飛び出したとたん降り出した雨は、みるみるうちにどんどん激しさを増して、あたしの全身を濡らした。
失恋して傘もささずに土砂降りのなかを歩くなんて、まるでドラマの主人公気取りでいやになる。だけどほんとうに、どうでもよくなるんだなって思った。雨に濡れるとか冷たいとか洋服もバッグも靴もびしゃびしゃになるとか、そういうことが、ほんとにどうでもいい。自分のからだが自分のものじゃないみたい。
前髪からぼたぼたと生ぬるい水がしたたり落ちて、視界をじゃまする。くしゃみがひとつ飛び出して、それであたしのからだははじめて寒さを認識したみたいで、かたかたと全身がふるえた。
客待ちをしているタクシーたちのテールランプが雨に滲み、路面電車はレールを軋ませながら走り去っていく。濡れちゃう、とかしましく叫びながら走り去っていく、あたしと同い年くらいの女の子たち。それぞれにカラフルな傘をさして。
金曜の夜の街は、どことなく浮ついているようにみえる。こんなに激しい雨が降りしきっているというのに。あたしだってほんの数分前までは、解放感と、彼に会いたいという気持ちでいっぱいだった。風船みたいにふくらんで、飛んでいきそうなほどだったのに、あっけなく弾けてしまった。
タクシーが近づいてきて、すれ違いざまに派手に泥はねを飛ばした。汚い水をもろにかぶったあたしはもう、笑うしかない。涙も出ない。笑いしか出ない。普通に、歩道を歩いていただけなのに、なんでいきなりこんな泥水をかぶんなきゃいけないの?
また、裏切られた。
何度。何度、同じことを繰り返すのかな、あたし。
電車通りから脇道にはいって、少ししたところで。すっ、と、頭上から雨が遮断された。立ち止まる。ばらばらばらばら、背後からさしかけられたビニール傘にぶつかって弾ける雨の音。
「何してるんすか。陽乃さん」
振り返ると、ルームメイトの折原くんが怪訝そうに眉を寄せていた。ちっちゃいビニール傘をあたしにさしかけているから、折原くんのからだの半分も濡れはじめている。もうかたほうの手には、ぱんぱんにふくらんだエコバッグ。
「バイトの帰りにスーパー寄ってきたんだ?」
「俺のことじゃなくて。陽乃さんはいったいどうしてそんなにずぶ濡れなんすか、って聞いてるんです。傘持ってんのに」
「……激しい雨に打たれたい、そんな気分の日もあるよね」
「よね、って。俺にはないっすけど」
風邪ひくから早く行きましょう、と折原くんがあたしをうながす。あたしは首を横に振った。
「あたしには構わず、先に帰ってくださいな。折原くんまで濡れちゃうもん」
「いいっす。もう手遅れだし」
サックスブルーのボタンダウン・シャツの、右の肩のところが濡れて色が濃くなってる。ひどく申し訳なくて、ごめんね、とつぶやいた。
「そもそもこの傘、俺にはちっちゃいんですよ」
「折原くん、背、高いから。ビニ傘じゃなくってちゃんとしたの買いなよ」
「だって、すぐなくすし」
あいあい傘でぎこちなく歩きながら、誰かとちゃんとまともな会話がまだできる自分に、少しだけほっとしていた。
住宅街の中ほど、小さな公園のある角っこを曲がってすぐ、あたしたちの家はある。
いわゆるシェア・ハウスというやつだ。二階建ての、ごく普通の庭付き一軒家だから、「シェアハウス野の花」のプレートがなければ、それとはわからないだろう。もともとは誰かの持ち家だった物件を、運営会社がシェアハウスとして安くで貸してくれているのだ。
折原くんは、五人いる住人のなかで、いちばん若い。大学一年生、つい先月十九歳になったばかり。みんなの弟的存在。
ドアを開けてすぐ、玄関のところで待たされた。
「陽乃さんがそのまま上がったら廊下がびしゃびしゃになります。あとで拭くの、めんどうくさいでしょう?」
そう言って、先にあがって、どこからかバスタオルを持ってきてくれた。しかも二枚。
「……ありがとう。これ、折原くんの?」
「洗濯したてだから綺麗です、いちおう」
もういちどお礼を言って、顔を拭いて髪を拭いて、からだを拭いた。おひさまと柔軟剤のにおいがする。
「足も拭いていいっすから」
「ほんとうにごめん」
靴を脱いで、靴箱に手をついて立ったまま片足ずつストッキングを脱ぎ、申し訳ないきもちでいっぱいになりながら、足を拭いた。折原くんは、その間、ずっとあたしから顔をそむけてくれていた。ほんとにほんとに、ごめんなさい。
「洗って返すね」
そう言ったのに、いいっすよ、とぶっきらぼうに答えて、折原くんはあたしの手からバスタオルをうばった。そして、二枚あるうちの、綺麗なままのタオルを、あたしのあたまにぽふっとかけた。
「羽織っててください。肩、寒そう」
こんな、六つも年下の男の子に、なにからなにまでお世話してもらって。情けない、そう思ったら、目の奥が熱くなって視界がぼやけた。
すん、と鼻をすすると、
「何か、あったんですか」
と。折原くんがつぶやいて。なんでもない、と短く答えてあたしはぺたぺたと廊下をあるく。住人五人の共同の場所である、ダイニングキッチンへ。
折原くんはすぐに小さな薬缶を火にかけてお湯を沸かしはじめた。あたしは自分専用の椅子に座って、ふかふかのバスタオルにくるまってまるくなっていた。
まっすぐに部屋に戻ったら、ひとりになっちゃう。それが、なんだか、こわかった。
ぜんぶがどうでもよくなったまま、もう二度とあたたかい光のある世界とつながれなくなる気がした。つい一時間ほど前にみた、あの光景を、まぶたの裏にふたたび見てしまいそうな気がした。
すぐに、薬缶がしゅんしゅんと湯気を吐き出しはじめる。
「お風呂、すぐに入ったほうがいいんじゃないですか。今、誰もいないみたいだし」
折原くんは、火をとめて、棚からちいさなガラス瓶を取り出した。
「でも、折原くんだって濡れてるし。いま八時ぐらいだし、お風呂、折原くんの時間でしょ?」
「いいんです。俺、今からごはんの準備するし」
「……ごはん」
その単語を聞いたとたん、あたしのおなかが、きゅるるるるって、間抜けな音をたてた。
「…………」
「…………」
恥ずかしい。それに、信じられない。今あたしはこれ以上ないってぐらい散々な精神状態なわけで、そんななのに食欲だけは平常通りだなんて。雨に打たれた冷たさも、寒さも、彼に裏切られた傷みもどこか遠くにあって、まるで感覚が麻痺しちゃってるみたいな感じだったのに。
「食べます?」
「……献立、聞いてもいい?」
「ごはん。鯵の塩焼き。作り置きのきんぴら。味噌汁。具は、冷蔵庫の在庫と相談。それと、たまごやき」
たまごやき。折原くんのたまごやき、ごちそうになったことがある。大好きな味。思い出すと、ごくり、と喉が鳴った。
「たべたい。……たべたい。折原くんの、ごはん」
「承知しました。じゃ、その前に。陽乃さんのマグカップ、借りますよ」
棚からあたし専用のマグを取り出すと、小瓶からきんいろの蜜を匙ですくってたらし、お湯を注いだ。ふんわりと、あまい香りの湯気がひろがる。
「はちみつしょうが湯です。飲んでください」
「……ありがとう」
折原くんはほんとうに気が利く。どうやったらこんなにいい子に育つんだろう。彼のご両親が育児書を書いたら売れるんじゃないかな。
はちみつのやさしい甘さと、しょうがのかあっとくる刺激と香りが、からだの芯をあたためる。
「しょうがを薄く切ってはちみつに漬けただけです。ホットミルクに入れてもいいし、夏は炭酸で割ってもいいし、料理の味付けにも使えるし」
「そういうの、誰に教わったの? おかあさん?」
「いえ、親父です」
「へえ。おとうさん」
「ええ。それより、それ飲んだらお風呂ですよ? 溜めて浸かったほうがいいです。みんないないし、内緒にしときますんで」
こくりとうなずいた。きょうは金曜だし、みんな遅いか、もしくは帰ってこないかもしれない。野村くんは飲みにいってそうだし、歌ちゃんは彼氏のとこ。沢木さんは、そういえば今日は夜勤だって言ってた。なら、いいか。
お風呂はみんなで時間を決めて共同で使っている。バスタブに湯をはったら、つぎのひとのために捨てて、浴槽を軽く洗っておくのがルール。もったいないからみんな、特別なことがない限りシャワーで済ますのだ。これは公式ルールじゃないけど、暗黙の、ってやつ。
はちみつしょうが湯であたたまって、熱い湯に浸かってぬくもって。もこもこのルームウエアに着がえて、すぐに髪を乾かした。それから、脱衣所を軽く掃除。自分の脱いだものは、自分専用の脱衣かご(外から中身が見えないタイプ)に入れたけど、今だれもいないみたいだし、洗濯してしまうことにする。洗濯機は、男子用と女子用のふたつがある。
もともとは友達でも兄弟でもなんでもない他人同士が共同生活をするのだ。互いに不快な思いをしないように、かずかずのルールがある。生活していくうえで、あらたにつくったルールもあれば、ルームメイト同士、打ち解けていくうちになあなあになったルールもある。そこは臨機応変に、たいせつなのは相手の立場になって振る舞うこと。
住人同士のコミュニケーションを大事にするのが、このシェアハウスを運営する会社のコンセプトだけど、もちろんそれぞれのプライバシーは守らなければならない。うまく暮らしていくには、それなりのバランス感覚が必要なのだ。
ダイニングにもどると、ごはんの炊けるふくよかなにおいと、魚の焼けるいい匂いがあたしを出迎えた。ねこのもようの入ったエプロンをつけた折原くんが、キッチンでせわしく立ち回りながら言った。
「座っててください。魚も焼けたし、あとはたまごやきだけなんで」
「たまご、やき」
あたまのなかを折原くんのごはんだけでいっぱいにした。しあわせなもので満たされていたい。どろどろした淀んだ澱は、ぜんぶ、ぜんぶ、押し込めて浮上できないようにしていなくちゃ。
やがてテーブルに、ふたりぶんのごはんと、お魚と、きんぴらの小鉢と、たまごやきがならんだ。食器棚は共用だけど、それぞれのスペースは百均のブックエンドで区切ってある。まあ、区切りがなくても、もうどの食器が誰のものか、それぞれみんな把握しているのだけれど。
あたしはお味噌汁をよそった。厚揚げと大根のお味噌汁。青い小ねぎが散らしてある。
「食べましょう」
「ありがとう折原くん。すっごく、おいしそう」
「いただきます」
「いただきます」
あたたかな湯気のたつごはんに、つくってくれた折原くんにありったけの感謝をこめて。あたしはまず、たまごやきに箸をつけた。あざやかな黄色がまぶしい。すごく綺麗に巻いてある。ふんわりとやわらかくって、きっと絶妙な火加減で焼いたんだろうなて思う。あたしなんて、何度つくっても焦がしちゃうのに。味も、すごく好み。あたしはたまごやきは塩味がすきで、折原くんのは、しょっぱすぎず、ほんとうにちょうどいい加減なの。
「おいしい。あのね、あたしの実家の味と、似てる。折原くんののほうが何倍もおいしいけど」
「どうもありがとうございます。たまごやきは、いちばん、その家の味が出るんで」
「折原くんちは、定食屋さんなんだよね?」
はい、と彼はうなずいた。春、進学と同時にここに入居した折原くんは、あたしたちが開いた歓迎パーティのお礼にと、ルームメイト全員にごはんをつくってくれたことがあった。お店で何十年も料理をしているお父様直伝の味。まだ親父の足元にも及びませんと折原くんは謙遜したけど。まるでふるさとに帰ったときのような、ほっこりと安らげる味で、こんなお店があったら、毎日だって通っちゃうかもしれない。
ふっくら焼けたお魚に、お味噌汁。大根からも出汁が出ていて、やさしい白みその香りと相まって、じんわり滲みわたる。
いけない。涙が出てきちゃった。あたしは折原くんに気づかれないようにさっと目じりをぬぐい、席をたった。
「ビール飲んでもいい?」
「どうぞ」
冷蔵庫から冷えたビールを取り出す。ほどよくテンションをあげて、陽気にふるまっていたい。
「来年になったら折原くんも一緒に飲めるね」
「楽しみっす」
ふふ、とわらってプルタブをあけた。ごくごくと、のど越しを味わう。
「最近ずっと忙しくって。まともなごはん、食べてなかった。だからほんとうにうれしい。ありがとうね」
「いいっすよそんな、料理は趣味なんで。おいしく食べてくれるひとがいたほうがつくり甲斐もあるし。ていうか泡、ついてますよ。口に」
「え? や、やだ」
あわてて、ハンカチで口をぬぐう。くくくっ、と折原くんはわらった。
「たいへんですね、やっぱ。働く、って」
「……うん」
ずっと忙しくて。彼と会う時間だって、つくれていなかった。二か月前に突発的に仕事を辞めて以来、毎日飲みに行ってはぐだぐだしていた彼に、電話できついことを言ったりもした。今日こそは会いに行くと、いっぱいいちゃいちゃして、それから、ふたりのこれからについてちゃんと話をしたいと、頑張って仕事を片づけて彼の部屋へと急いだ。約束もなかったのに、連絡も入れずに。だって、まさか。だって。
ぐいっと、ビールをあおる。思い出すな、忘れなきゃ。忘れなきゃ。
「つまみもつくりましょうか?」
「あ。いいよそんな。ごめんね、気を使わせちゃって。あたしったらダメだね」
「ほんとに、陽乃さん、何があったんですか」
無言で、お味噌汁をすする。甘辛いきんぴらに、ほかほかのごはん。つややかで、お米のひとつぶひとつぶが立って光ってて、噛むとほんのり甘みがある。さいごのひと粒まで、大事にいただいた。
「ごちそうさま。ほんとうに、おいしかった」
涙を押し込めて、にっこりと笑ってみせる。
「陽乃さん」
「ん?」
「……泣くの、我慢しなくてもいいのに」
なんで折原くんのほうが、そんなにつらそうな顔をしているんだろう。
「陽乃さん」
ことりと、お茶碗を置いた。
「……男のひとって、どうして、浮気するのかな……」
六つも年下の、まだ学生の男の子に、こんな話。ごはんをつくってもらったうえに、こんな、重い話をして。吐きだして泣いて。そこまで甘えるなんて、年長者として、申し訳なかった。だけど折原くんのつぶやきは、胸につまった重たい石をみるみる溶かしてしまった。
涙がこぼれて、頬をつたっていく。決壊しちゃった。止められない。
ごめんね。きっとあたしは、弱っている。ごめんね。
「謝らなくていいです。泣いてください。たくさん泣いてください」
「……っ、く」
彼の部屋のあかりは消えていた。帰ってくるまで中で待っていようと、合鍵でドアを開けて、あがりこんだ。その瞬間、いつもとちがう何かを感じた。
ひとの気配がする。声が、する。首をかしげて、とくに何も疑わずに、灯りをつけた。六畳のリビングにはだれもいない。やっぱり気のせいかと、奥の寝室のドアを開けた。
「も、やだ……っ」
封じ込めたはずの痛みが胸を刺して苦しい。
そのひとは、だれ?
全身から力が抜けて、持っていたバッグを取り落としてしまった。
彼と、知らない誰かが、激しい口づけを交わしていた。
ぎゅっと彼に抱きしめられて、とろけるような表情を浮かべていた女が、ふと、私に気づいた。女の異変に気付いた彼が、「どうしたの」と、今まで私が聞いたこともないような甘い声を出して。そして、私のほうを振り返った。
彼は、驚愕で目を見開いて。滑稽なほどうろたえて、
「や、ちがうんだ。これは、ちがうんだ」
と。わけのわからない言い訳をした。
あたしに向けてじゃない。その女に、対して。
そうだこれはちがうんだ。なにかの間違いだ。落としたバッグを拾い上げ、よろよろと玄関に戻り、立てかけていた傘も忘れずに。きっとあたしは、いたって普段通りの顔をしていたと思う。
アパートを出ると雨が降り出した。ゆっくりと、現実があたしを侵食しはじめた。
「あたし、何やってたんだろう。ずっと気づかなかった」
お金まで渡してたのに。安いシェアハウスに入居して以来、浮いたお金をこつこつ貯金していたのに、請われるままに彼に渡してた。
「ほんとうに、男のひとを見る目がないの、あたし。ずっとそうなの。はじめてつき合ったひとも女癖が悪かったし」
高校生のとき。文化祭に遊びに来ていた他校の彼に、かわいいねって声をかけられて舞い上がってつき合ったけど、彼には自分の学校にちゃんと本命がいた。
「そのつぎも」
短大生のとき。友だちの紹介で知り合った彼は、あたしに隠れて元カノと会ってた。
「そのつぎも」
働き始めてから。合コンで知り合った彼は、あたしと会うときだけ指輪をはずしていたから、実は奥さんがいることに、ずっと気づかなかった。ほんとにバカだった。
恋なんてしないもう二度としない男なんて信用しないだれともつき合わない。
裏切られるたびに呪文をとなえて、もう二度と傷つかないと誓うのに、あたしはバカだから、甘いことばをかけられると、今度こそちがう、運命の恋だ、さいごの恋だって燃えあがってしまう。学習能力ゼロ。きっと、へんな男につけこまれる隙があるんだ、あたしに。軽くあつかってもいい女なんだと、思わせるなにかがあるんだろう。それとも。
「浮気しない男なんて、この世に存在しないのかも」
頭がくらくらした。缶ビール一本しか飲んでないのに、みょうに酔いがまわっている。
「ごめんね、こんな話」
ずっとあたしが泣くのを黙って見守ってくれている折原くんに、謝ることしかできない。
情けない。
ふうと息をつき、立ち上がって、食器を重ね、流しに運んだ。洗い桶にお湯を張り、お茶碗を浸す。
「いいです、俺、やるんで」
「ううん、これぐらいやらせて」
袖をまくって、洗剤をつけたスポンジをくしゅくしゅと揉んだ。
「んじゃ、俺、拭きます」
「おっけ」
かちゃかちゃと食器が鳴る。たくさん泣いたせいで、頭全体が、ぼんやりと痛む。蛇口をひねって、洗った食器をすすぐ。洗いかごに乗せたお皿を、折原くんが拭きあげて棚に仕舞う。
「浮気しない男の話ですけど」
「ん?」
水音にまじって、折原くんのつぶやきが耳に届いた。
「存在します。たしかに」
「……たしかに?」
「俺の父親です」
お父さん。折原くんに、料理を教えてくれたお父さん。
「優しいんだ?」
「はい。息子が照れるぐらいおふくろにぞっこんで。ほんと、恥ずかしくて」
「いいじゃない。憧れる」
ほんとうにあるんだ、そんな家庭。そんな、夫婦。
「酔っぱらって俺に言うんですよ。他人には優しくしろ、好きな女には、その十倍、優しくしろって」
「へえ……」
きゅっと、蛇口をひねって水を止めた。ハンカチで手を拭く。折原くんは、食器を拭く手をとめて、じっと固まっている。
「そのときは、息子にそんな話すんなよ、勘弁してくれって思ってたけど」
「あたし拭くよ」
手をのばしたら、いいっす、と言って折原くんはこっちを見た。顔が赤い。
「やだ、風邪ひいた? ごめんね、あたしのせいで濡れちゃったから。あとはあたしが片づけるから、」
「風邪じゃないですから!」
きゅうに大きな声を出す折原くん。
ていうか、なんでそんなにむきになってるの?
ぽかんと口をあけてあっけにとられるあたしに、さらに顔を赤くした折原くんは、すいませんとぼそりとつぶやいた。
「これは風邪じゃないです。その、おれは、」
ラストの、汁椀をふきあげて、折原くんはふーっと深い息をついてうなだれた。
「あー。だめだ。だめだ俺」
「折原くん?」
「風呂いってきます」
「うん。にしても、野村くん、遅いね。みんな今夜は帰ってこなさそうだね」
「…………」
ゆであがった蟹みたいに真っ赤になった折原くんは、なにも言わずにふらふらとダイニングを出た。だだだだっと、いきおいよく階段を駆けあがる音がする。
ひとり残されたあたしは、冷蔵庫から、もう一本ビールを取り出した。
ダイニングと隣り合っている、共用リビングで、ソファに座ってビールを飲んだ。音がほしくてテレビをつけると、おしどり夫婦で有名なタレントが、のろけエピソードを披露しているところだった。
折原くんのご両親のことを、ぼんやりと考える。なんて幸せな夫婦なんだろう。そして、そんなふたりのもとに生まれて育った折原くんも、なんて幸せなんだろう。
あたしにもいつか、そんな未来が来るのだろうか。誰かと一緒に、そんな家庭をつくれるんだろうか。今はまだそれは、遠い遠い世界の、おとぎ話。
嫌なことはもう忘れよう。あたしをないがしろにするような男のひとのことは。さっさと、忘れよう。
恋はもう、しない。折原くんのお父さんみたいなひとがいたら、考えるかもしれないけど。いたとしても、天然記念物並みにレアだよね。だけど、この世に確実に存在することがわかったのは良かったかな。立て続けにだめなひとに当たったせいで、男性全体を嫌いになってしまうところだった。
アルコールがまわって、ふわっとからだが熱くなる。最悪の気分は脱したみたいだ。雨の音はもうとっくに消えているけど、止んだのかな。止んだ、の、かな……。
目をさますと、部屋は暗くて、あたしはもこもこの毛布にくるまっていた。
ころりと、寝返りをうつ。自分の部屋の、自分のベッドじゃ、ない。彼の家のでも、ない。
「……あ」
思い出した。ソファでそのまま寝ちゃってたんだ、あたし。ていうかこの毛布、だれの……?
「お、折原くんっ」
びっくりして一気に頭がクリアになった。ソファに横たわっているあたしのちょうど腕のあたり、毛布の上に頭をもたれかけて、折原くんが寝ているのだ。
あたしが大きな声をあげたものだから、折原くんはびくっとからだを震わせて、ぱちりと目をあけた。
「あ。陽乃さ……、って、わあああっ! 寝ちゃってた!」
折原くんは、大きくのけぞって、ソファから離れた。
「え。えと、毛布。折原くんが……?」
「は、はい」
「……ありがとう……。いま、何時……」
「えっと……。野村さんが帰ってきたのが一時ぐらいだったから……。それからしばらくここにいて、……うーん……」
「帰ってきたんだ、野村くん」
「でろんでろんに酔ってました。玄関で倒れこんじゃったから水を飲ませて部屋に運んで」
「ぜんぜん気づかなかった……」
「陽乃さん、すごい気持ちよさそうに寝てたから。だからおれ、ずっと見てて……」
「み、見てて?」
「ち、ちがっ! 見てません見てません見てませんっ!」
何度もはげしく首を横に振ったあと、折原くんはちょこんと正座してうなだれた。
「……すみません……」
「なんであやまるの?」
へんな折原くん。
あたしは、起きあがってのびをした。はやく部屋に戻らなきゃ。その前に歯磨きしよう。
と、くしゅん、と。折原くんがくしゃみをした。
「やっぱり風邪だ。ごめんね、あたしのせいだ」
何から何まで、申し訳ない。ゆうべ、ごはんをつくってくれたこと、だまって泣かせてくれたこと、ほんとうにうれしかった。
「だいじょうぶです。ぜんぶ、おれがやりたくて、やったことだから」
「折原くん」
「はい」
「あたしね。今まで、折原くんのこと、かわいい弟みたいに思ってたけど、ちょっと印象変わった」
「……ど、どんなふうに……?」
折原くんは、きっかり正座したまま、両ひざのうえでぐっとこぶしをつくって、ピンと背すじを伸ばした。
「弟というより……。おかあさん、みたいだよね」
「お、おかあさん……」
あれ? なんでそんな、ごほうびをとりあげられた犬みたいな顔してるの?
「あー。なんだか急に、ジェシーに会いたくなっちゃった」
「ジェシーって」
「実家で飼ってる犬」
「…………部屋、戻ります。寝ます、おれ」
「おやすみなさい。ほんとに、ありがとう」
こんどの連休に帰ろうかな。忙しくて、ずっと帰省してなかったし。そうだ、折原くんに料理を教えてもらって、家族に振る舞ってみようかな。たまには親孝行もしないとね。
料理、か。いままで興味がなかったけど、はじめてみるのもいいかもしれない。恋は裏切るしいつかは終わってしまうけど、趣味は一生つづくものだし。
「折原くん、こんど、おいしいたまごやきのコツ、教えてね」
「コツは、ひとつだけです。あるものを入れるんです」
「あるもの? って、なに?」
「内緒です! じぶんで考えてください! じゃ!」
真っ赤になって眉をつりあげる折原くん。
あれ? あたし、何か怒らせるようなこと、言った?
折原くんは、そのまま、どたどたとリビングを出て行ってしまった。
「あ。毛布」
返しそびれちゃった。こまめに干しているんだろう、その毛布はふかふかで、おひさまのにおいがした。もう一度、くるまってみる。なんだか、すごく、あたたかかった。
余裕のあるとき(もしくは諸々から逃避したくなったとき)に、続きの短編を書きたいと思います。
※書きました。
「ごめんねなんて言わないで」
折原くん視点のお話です。