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水滸綺伝  作者: 黒原亜玲
第二回 王教頭 密かに延安府に逃れ 九紋龍 大いに史家村を騒がす
8/82

 それから一月、王進と母は逃げ続けた。成り上がりの太尉風情に目をつけられて尻尾を巻いた息子を、母は決して責めなかった。

 あの父ですら頭のあがらなかった気の強い人なのだから、思うところは山とあったに違いない。だがおそらく母は、息子以上に、この国の権力者たちの底知れぬ闇を知っていたのだ。

 だから、身に覚えもない罪や穢れを着せられる前にともに逃げようと言った王進を、母は涙すら浮かべてひしと抱きしめたのだった。

 「母上、ここまで来れば、延安府(えんあんふ)まではあと一息ですよ」

 「倅や、ここまでは、まだ手配書も出回っていないようだね」

 「ええ、もう安心して良いかと」

 延安府を目指したのは、そこで経略使(けいりゃくし)を務める(ちゅう)老公という人物やその部下たちが好漢揃い、以前軍務をともにした際も、王進の武術の腕を大層買ってくれたからだった。これと思った人物ならば経歴を問わず用いる种老公の義侠心に、己の進退を託すことにしたのだ。

 道中では思ったとおり、開封府がばらまいた手配書を目にし、高俅の追っ手が放たれたという話を耳にした。恐々と逃げ急いではいたが、それでも老いた母と僅かな荷物を乗せた馬を引きながらの旅路で一度も追っ手の姿を見なかったのが、誰のおかげかは良くわかっていた。

 「でもお前、ちょっとばかり欲張りすぎたんじゃあないかい? 延安府まではもうすぐと思って元気に先を急いだのはいいが、このあたりには宿どころか家の一軒も見当たらないようだよ」

 辺りが墨色の中に沈みはじめてしばらくたつが、母の言うとおり、人家の灯りは一つも見当たらない。静かな田畑がだだっ広く続く昼間の景色がそう変わっているとは思えないのだから、これは今宵の宿を探すのは至難の業かもしれぬ。この一月で好き放題に伸びた髭を指先で弄びながら、どうしたものかと太い眉を寄せて思案し、

 「……む?」

 ふと、めぐらせた視線の先に灯りを見つけた気がして、王進はもう一度、疲れで萎みがちな目を凝らす。しばらく視線をさまよわせていれば、南の方の林の向こうに確かに人家の灯りが見えた。

 「母上、あちらの林の向こうに、どうやら誰かのお宅があるようだ。今夜はひとまずあのお宅に泊めてもらえるよう頼み込み、明日の早朝にまた出立することといたしましょう」

 そうと決まれば足取りは軽くなるもので、遠くに見えた灯りもあっという間に眼前に迫ってきたが、いざ近付いてみれば土塀に囲まれたその屋敷は思ったよりも広い。

塀の外側には鬱蒼とした柳の木が蒼い霧のごとく生い茂り、葉陰からは寝言まで分かるほどにはっきりと牛や羊の寝息が聞こえ、その数の満ち満ちていることがうかがえる。灯りのもとで屋敷の周りを見回せば、背後の岡に向かって数多くの家々が立ち並んでいるのが見え、この一帯が村であることを知る。

 「夜分遅くに失礼する!」

 地主などではなく、万一役人の家であったらと言う思いがふとよぎったが、ここを逃せばしばらく村はないだろう。開き直って門を叩き続けていると、やがて一人の使用人らしき男が姿をのぞかせた。

 「はいはい、ええと、どのようなご用向きで?」

 「実は私たち母子、道を急ぎすぎて宿を通り過ぎてしまいましてね。このあたりには人家も見当たらぬようだし、どうしたものかと思っていましたところ、遠くにお宅の灯りが見えたもので、こんな時間ですがお訪ねした次第です。どうか一晩、こちらのお屋敷の片隅を貸してはいただけませんでしょうか。もちろん宿代はきちんとお支払いいたしますので」

 「ははあ、それは大変でしたなあ。お待ちください、ただいまこちらの大旦那様に聞いてきますから」

 人の良さそうな顔がひょいと引っ込んだかと思えば、少しもたたぬうちに再び門扉から笑顔が現れる。

 「大旦那様が、ぜひお入りになるようにと。さあ、さあ、どうぞこちらへ」

 「これはありがたい」

 母と荷物を降ろし身軽になった馬を柳の木に繋ぐと、さっそく王進は母の手を引き、屋敷の奥へと案内されるままに入っていった。

 灯明を映して輝く廊下の奥の間では、この屋敷の大旦那と呼ばれる男が目尻を下げ、両手を広げている。母子揃って感謝を述べ礼をすれば、大旦那は慌てて二人を立たせるのだった。

 「いやはや、さぞやお疲れになったでしょう。そうかしこまらずに、さあ、どうぞこちらにおかけください」 

 髪も髭も雪のように白く、皺深いところを見れば齢六十あまりのようだが、陽だまりのような笑みを浮かべる顔のつくりは精悍で、若かりし頃はさぞや女に騒がれたろうと思われる。纏う部屋着や靴の色形には、山がちな農村の主とは思えぬ粋が感じられた。

 「お二人はどちらからおいでになったのです? なぜこのような夜更けにこんな田舎の村を歩いておいでに?」

 さっぱりとした話しぶりには純粋な労りと好奇心しか感じられなかったが、この親切な主に害が及ばぬためにも、真実を明かすのはためらわれた。

 「……私は張と申しまして、都で商いをしていたのですが、ちょっとばかりへまをやらかしましてね。元手をすり、どうにも立ち行かなくなったので、母にやいやい言われながら、延安府の親戚を頼っていく道中なんです。ところがまた馬鹿なことに、もうすぐ延安府と思えば心が急いてしまって、元気に進んできたはいいが、宿を通り過ぎてしまったというわけです。突然のことでご迷惑とは思いますが、今宵一晩お世話になり、明日の早朝に急いで出立したいと思います。宿代も必ずお支払いいたしますので」

 「ははあ、なるほど。いや、なに、この屋敷は大昔に先祖が建てたもので、幾分今の生活には広すぎるくらいだ。貴方たちお二人をお泊めするくらい、何の迷惑になりましょう。幸いこの史家村(しかそん)は農村、食い物には困りませんから、田舎料理ではありますが、どうぞお食事を召し上がってください。その様子では、まだ夕飯にありついておらんでしょう」

 「や、これはかたじけない」

 史家の大旦那が使用人たちに用意させた牛肉や野菜の皿があっという間に机いっぱいに並び、さらには酒までもがなみなみと注がれる。

「さあ、遠慮せずに一献」とすすめられるまま五、六杯も酒を飲めば、不安と焦燥と怒りに疲れ果てた体の奥底までも温まる。

 最後につやつやとした飯をかきこみ、親子ともども再び拝礼すれば、史家の大旦那は二人の背を抱えるようにして立たせ、さっそく客間へと案内した。

 「さあ、どうぞこちらでお休みを。御母堂が乗ってこられた馬にも、飼葉を与えておきますゆえご安心ください」

 「これは、何から何まで世話になります。飼葉の分も、もちろん御代をお支払いいたします」

 「気に召されるな……張殿」

 張殿、と呼んだ声に微かに浮かんだ不思議な色にも気付かぬままに、王進は半ば倒れるように寝床に入り、そして、

 「……何の音だ?」

 扉を鋭く叩くような音に驚き、飛び起きた。

 目をつぶっていたのは一瞬のように感じられるのに、部屋の中は薄緑色の淡い光に満たされていて、夢も見ぬほど深く眠っていたことに気が付いた。

 そうして音のありかを探ってみれば、隣の寝台で眠っていたはずの母が半身を起こし、腹を押さえて苦しそうに咳き込んでいる。

 「ああ、倅や、起こしてしまったね」

 「母上、どうなされた。どこか痛むのですか?」

 「心配おしでないよ。ただのさしこみだけれど、ちょっと痛みがひかなくてね」

 「これは参った。おそらく長旅の疲れが出たのでしょう」

 母の体は案じられるが、史の大旦那には今日出て行くと約束しているし、長居すれば身元が判明した時に迷惑をかける。袖口で母の額の脂汗を拭い、背中をさすりながらしばらく途方に暮れていると、なかなか起きてこない客人たちを心配したか、大旦那自らがそっと部屋の扉を開けて母子に声をかけた。

 「おや、張殿、どうされました? 早朝に出立せねばならぬと聞きましたが、遅くなってしまいますぞ」

 「旦那様、お世話をかけてすみません。実は母が昨夜からさしこみを起こしてしまいまして……どうしたものかと考えていたのです。長居してお宅に迷惑はかけられぬ」

 「なんとまあ、遠慮深いお方だ!」

 うめき声すら漏らす母の様子を見て、大旦那が慌てて寝床に駆け寄ってくる。

 「ご案じ召されるな。御母堂ともども、しばらくはこの屋敷に泊まって養生なさればよろしいのです。さしこみに効く薬も知っておりますので、今日にでも街に買いに行かせましょう。いくら急ぎの旅といえ、体が元気じゃなくちゃどうしようもない。どうか遠慮せず、好きなだけうちで休んでいってください」

 「旦那様、我々母子、なんと礼を申せばよいか」

 「もう良い、もう良い。ただし毎晩、酒を飲みながら私の話し相手をしてもらいますぞ、よろしいな?」

 大旦那の瞳に宿るいたずらめいた光に触れ、王進はこの一月でようやく、救われたような心地を覚えたのだった。


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