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水滸綺伝  作者: 黒原亜玲
第二回 王教頭 密かに延安府に逃れ 九紋龍 大いに史家村を騒がす
7/82

 徽宗在位政和二(一一十二)年


 おそらの高くに

 毬がはずむよ

 てあしをふれば

 あっというまにだいじんさま 

 あっというまに……


 長閑な朝にきらきらと響いていた子供たちの声が、ふいにぷつりと途切れる。重苦しい癖にひどく忙しない足音が近付き、屋敷の門前でぴたりと止まるのを、王進(おうしん)は床の中からじっと聴いていた。

 「王教頭! 王進教頭は御在宅か!」

 聴き慣れた声に、らしくもない焦燥が滲んでいるのを感じ取った王進は、立ち上がろうとする老母を目で制し、じとりと汗に濡れた体を起こす。乱れた寝巻を整え、熱の残る手で質素な門扉を押し開ければ、想像通り蒼い顔をした禁軍の部下が、視線を泳がせながら立ち尽くしていた。

 「曹隊長、君らしくもない焦りようだな。見ての通り、すっかり風邪にあたってしまった」

 大柄で厳つい体躯に似合わぬ穏やかな目をした青年は、ためらうように幾度か唇を震わせたあと、俯き加減で声を絞り出す。

 「王進教頭、先日新たに殿帥府(でんすいふ)都指揮使(としきし)となった高太尉が、本日着任されたのですが……その、王進教頭だけ目通りに参上されていないことにひどく御立腹でして」

 「なんだと? 病により職務を休む旨の届は正式に提出している。それを御存じないのでは?」

 「いいえ、それが、軍正司殿もそのことはしっかりお伝えしたんです。それなのに、嘘をついているだ仮病だなどとあることないことおっしゃいましてね、挙句の果てには引きずってでも捕らえてこいなんて、まるで罪人扱いときた。まわりに止められなきゃ、一発殴っているところでしたよ」

 いつも物静かな部下がそこまでいきり立つとは、よほど新任の太尉は横暴な男なのだろう。彼は口には出さぬが、このまま王進が彼を帰せば、酷い仕打ちを受けるに決まっている。荒削りで、女子供には好かれぬと自覚している己の顔に、なるべく彼を安心させるような笑みを浮かべ、王進は肩をすくめた。

 「わかった、そこまで言われるのであれば行こう。着替えてくるから、少し待っていてくれ」

 話を聞いていたらしい母の心配そうな眼差しに背を向け、ふらつく体を叱咤しながら手早く着替えた王進は、曹隊長に支えられながら殿前司(でんぜんし)の軍営へと出頭した。

 一段高くしつらえられた指揮座の上、目にも綾な椅子に腰かけた紫衣の男の前に、殿帥府に属するすべての将兵が鎧を陽光に煌めかせて居並ぶ様はさすが、壮観であったろう。だが、熱で朦朧とする意識を手放すまいとする王進は、指揮座のもとで頭を垂れて拝礼し、型通りの挨拶を述べるだけで精一杯で、その勇壮な光景を見て感慨に浸る余裕などはなかった。

 「貴様、禁軍教頭だった、王昇の息子だな?」

 挨拶を終えて立ち上がり、目を伏せたまま傍に控える王進の頭上に、酒焼けした声が降りかかる。

 「は、その通りでございます」

 「はは、やはりそうだ! 王進、王大郎、貴様だったか!」

 その声にただならぬ嘲笑が現れたのを訝しみ、粛と伏せていた顔をあげた王進は、その時初めて『高太尉』の顔を正面から見た。

 「この不届き者が! 何が禁軍教頭だと? 笑わせるな!」

 「なっ……」

 己の欲望しか映さぬ下卑た三白眼と、狡猾な蛇を思わせる顔かたち――十数年の月日が髭や皺となって記憶を惑わせようとも、この軽薄な男を王進が見間違うはずはない。しがない太鼓持ちから皇帝のお気に入りへと大出世を遂げた、『高毬』――いや、今は偉そうに一字を変え、『高俅』と名乗っている男が、目の前で口尻を震わせていた。

 「お前の父親は、もとを正せば道端で見物人相手に芸を見せびらかすただの薬売りだったのだ。あの野郎にも、その息子のお前にも、いったいどんな武芸の心得があると言うのだ? お前を教頭に推挙した前任者の目は節穴だったに違いない。おまけに今日は俺の着任の日だというのに、無礼にも仮病を使って挨拶にも来ないだと? いったい誰の許しがあって、そのような真似をして俺を馬鹿にするというのだ」

 「何をおっしゃる、高太尉殿。私はこの通り、不覚にも風邪にあたり、まだ体が癒えておりませぬ。休暇の届も正式に提出しております」

 「はっ、死に損ないが。そんなに病が重いのであれば、何故今ここにこうして出てこられる」

 「太尉殿たってのお呼びとあれば、来ぬわけには参りません」

 「こしゃくな……!」

 恐れもせず淡々と答える王進の態度が余計に怒りを煽ったらしい。高俅は、椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がり、左右に控える将兵たちに唾を飛ばした。

 「誰か、この無礼な男を捕らえて棒で打て!」

 「お待ちください、太尉殿」

 まったく身勝手な怒りのまま病人を打ちのめせと命ずる新任太尉の暴言に、騒然とする将兵たちの中で、すらりと背の高い青年が一人、指揮座の前に歩み出て膝をついた。

 「高太尉殿、御怒りを鎮めてください。本日は太尉御着任の目出たい日。この晴れの席を刑罰の執行で穢すのは不吉でありましょう。どうか本日ばかりは、ご容赦を」

 月の宵を思わせる落ち着いた青年の声に、まわりの将兵たちも次々、その通りと口を揃える。

いかに横暴な高俅と言えど、着任早々、禁軍の部下たち全員を敵に回すほど愚かではなかったらしい。跪き、王進のために許しを乞う青年の顔を意味ありげにじろりと見つめると、大げさに溜息をついた。

 「ふん、そこまで言うならば、今日のところは皆の顔に免じ、許してやろう。だが忘れるな、貴様の非礼、必ずや明日、詮議いたすぞ! おい、誰か二人を選び、こやつの屋敷に見張りをつけろ。逃げ出さんようにな」

 吐き捨てるように怒鳴り付けた高俅が大股に立ち去るのに続き、あからさまに安堵の表情を浮かべた将兵たちが、次々と軍営をあとにする。とりわけ親しい部下や同僚たちは、立ち尽くす王進を気遣うように背や肩を叩いて行く。

 「くそ……」

 己の厚い唇にいつの間にか血が滲んでいることに気付き、手の甲で乱暴に拭う。体は未だ熱を持っているというのに、頭だけはひどく冷え切っている。浮遊感にも似た虚しさに足をもつれさせれば、高俅相手に王進の許しを願い出た長身の部下が、するりと王進の肩を支える。

 「王教頭……師兄」

 「世話をかけたな、冲儿」

 彼が親しくしているらしい二人の兵卒を見張りとして従え、家路を戻りながら、王進は嘆息した。

 「高太尉とはどこの高かと思えば、街中で太鼓持ちをしていたならず者の高二郎だったとは。冲儿、お前もあいつを覚えているだろう? 父があいつを散々に打ったのは、ほかの弟子たちを馬鹿にしたり、銭を盗んだり、女を賭けて試合をしたり、とにかく酷い有様だったからだ。あいつが父親に訴状を出されたとき、それまでの行いがあまりにも酷かったので、彼に迷惑していた民のためにも、我が父が開封府の長官に厳罰を進言したのだ。それを逆に根にもって、俺の上官になったのを良いことに恨みを晴らそうとするとはな……」

 「高俅の行いの腐り様は、俺も耳にしています。皇帝陛下のお気に入り故、誰も口出しできぬと……だが、こんな仕打ちはあまりにも酷過ぎる。師兄、ご安心ください。俺がなんとかして、師兄を御救いいたします。謙儿(けんじ)とも協力して、高俅に掛け合ってみましょう」

 端正な顔に憂いを浮かべる部下は、かつて父の下でともに槍棒術を習った兄弟のような存在だった。己のあとを追うように禁軍に入った少年は、今や威風堂々とした偉丈夫となり、二年前から若き禁軍教頭として武術の腕をふるっている。聡明な人柄で慕われる彼だが、その心の内に激しい炎を宿していることを、王進は良く知っていた。

 「冲儿、お前の義憤は良く分かる。だが、お前は俺と違い、まだ若く前途ある身だ。おまけにもうすぐ、婚礼も控えているではないか。今ここで、わざわざ高俅の怒りを買うようなことをするべきではない」

 「それは、そう、ですが」

 「俺は」

 この世に生を受けてから四十年、ずっと暮らしてきた屋敷を見上げる。財を軽んじた父親が、小粒の一つも受け取らず、職務の合間に少年たちを指導した道場でもあったこの家は、二代続いた禁軍教頭の屋敷にしては質素だった。

 「冲儿、俺はきっと、逃げるだろう。俺一人がどうにかなっても一向にかまわんが、母ももう良い歳だ。最後の孝行をせずに死ぬわけにはいかん。だから、もし俺を助けたいと言ってくれるなら、見逃してはくれないか」

 「そう仰ると、思っていました」

 青年の長い総髪が、夕暮れの風に揺れる。自分たちの後ろを黙々とついてくる年若い二人の兵士も、どこかやるせない顔でこくりと頷いた。

 「この恩は、生きて返すぞ、冲儿」

 「何を言うのです。俺が師兄に受けた恩義は、この程度では返せぬほど深い。どうぞ、気を遣わず。俺たちが貴方に逃げられたと白状したとて、そこまで酷い罰は下らんでしょう」

 「そうだとしても、証拠はあった方が良い。そうだ、おまえたち」

 見張りの兵士たちに、懐から出した銀子を握らせる。

 「一人は、これからさっそく、酸棗門(さんそうもん)から出たところにある東嶽廟(とうがくびょう)に行き、明日の早朝、門を開けて待っているよう道士に伝えてくれぬか。此度の病の治癒祈願のため、線香をあげに行くとでも言っておけばいい。そして今宵は廟で泊ってくれ。それからもう一人は、五更ころに出発しろ。廟に供える牛と豚、羊を買って、それを煮ながら俺を待つ……ということにしよう」

 もちろん、東嶽廟になど立ち寄る気はない。だが、こうしてもっともらしい理由をつけて彼らを動かしておけば、たとえ高俅に問い詰められても失言で墓穴を掘ることはないだろう。

 「冲儿、お前の亡きご両親には、本当に世話になった。そしてお前も、まだ十にもならんころから今日まで、よく我が父と俺についてきてくれた。いずれまた、恩を返すためにお前に会いに来よう。それまで暫し、お別れだ」

 「師兄、どうか、俺の拝礼をお受けください」

 長躯を地に伏し、武人とは思えぬ優雅さで王進に向かい三拝した青年は、立ち上がりざま、そっと小さな袋を押し付けてよこした。

 「これを、路銀に」

 「だめだ、冲儿、受け取れぬ」

 「それでは、御免」

 緋色の羽織をひらめかせた青年の姿は、掠れた声だけを残し、あっと言う間に青暉橋(せいききょう)の向こうへと消えていった。


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