二
端王の屋敷までの道のりを教えようとする主人を遮り、高毬はさっさと黄絹の包みを持って出立した。開封東京の都は、ほかでもない、己の生まれ故郷だ。宮中に立ち入ることができるような身分ではなかったが、地理は分かっている。たった三年離れていた間にも当然、都は日々様変わりし続けていたのだが、高毬の足は迷うことなく端王の屋敷の方へと向かっていた。
(三年は、長かったぜ、王昇)
三年前、高毬は、実の父親に衙門への訴状を出された。生まれ持った歌舞音曲や蹴鞠の才で太鼓持ちを務め、逆らう者は槍棒の才で叩きのめし、気ままな生を謳歌する息子を放っていた父も、街の有力者の息子の財を食いつぶし、挙句の果てには痴情のもつれで大騒動を起こしたのには、ほとほと困り果てたらしい。
だが、それだけならばどうということはなかった。弁が立ち、人に取り入るのを得意とする自分たち親子ならば、わずかばかりの杖刑だけで済ませることもできたのだ。それがまるで流刑のように都を追われる仕打ちとなったのは、ひとえにあの憎たらしい男――王昇が、開封府の長官と結託したためだった。
『よいか高二郎、心技体揃わず、仁義礼智を解さないお前が槍棒を持ったとて、それは術にあらず、ただの路傍の見世物じゃ』
禁軍で槍棒術を指導していた王昇教頭の高名を聞きおよんだ高毬は、自慢の槍棒の腕を買ってもらい、あわよくば禁軍に取り立ててもらおうと、彼に教えを乞うた。だが王昇は、多くの見物人の目の前で散々に高毬を叩きのめした挙句、お前には武人たる資質はないと、まるで吐いて捨てるように言ったのだ。
『資質……だと……?』
『分からぬのなら、さっさと帰ることだ。大郎! こいつをつまみだせ』
『承知しました』
土埃にまみれて無様に転がる己を見下ろす王昇と彼の息子の冷ややかな目を、覚えている。
『でも、師兄、彼は怪我を……』
『冲儿、放っておけ』
嘲笑を帯びた衆目の中で唯一、聡明で端正な眉目に気遣いを浮かべてこちらを眺めていた幼い少年がいたことも、覚えている。少年を下がらせた王大郎に掴まれた首筋の痛みも、足を引きずって歩み去りながら感じた屈辱も、己の背を追う少年の眼差しも、あの日の天気さえも、高毬は覚えていた。
あの時の王昇が、あることないことを衙門に讒言したに違いない。結果、高毬は都を追放され、淮西臨淮州で賭場を開いていた柳という男のもとで三年の月日を過ごす羽目になった。
その後皇帝による恩赦が出なければ、この華々しい大宋国の都に帰り、風流事を愛する皇帝一族の娘婿の元で近習をすることなど一生できなかったろう。それにこうして、人生にまたとない機会を得ることも。
「おや、どちらの御屋敷のお人ですかな? こちらには、どのような御用件で」
「私は王晋卿様の屋敷から参った者。昨日、端王殿下が主人の宴にお越しくださった折り、玉の細工を献上するお約束をいたしておりましたので、届けに参った次第です」
ほどなくたどり着いた端王の屋敷の門前で、近習らしき男に用向きを述べる。その間にも高毬には、身を立てる好機を呼ぶ小さな音が、はっきりと聞こえていた。
「ああ、左様でございましたか。殿下はただ今、御庭で蹴鞠の最中でございます。どうぞこちらへ、御案内いたしましょう」
近習の後について高い塀に囲まれた通路を抜ければ、広大な庭が目の前に現れる。一部の隙もなく作りこまれ、配置を考え尽された草木や石の、その細部に神経質なまでに手入れが行き届いた明媚な様は、庭園に造詣のない高毬にすら圧倒的な美を感じさせた。
「端王殿下は、御庭造りに大層御心を砕かれる御方でして」
高毬の無音の感嘆を察したのか、先を行く近習がにこやかに手を掲げる。
「ほら、あちらにあらせられます御方が、端王殿下でございます」
見たこともない珍しい花々が咲き乱れる茂みの向こう、蹴鞠のためだけに造られたとおぼしき開けた遊び場に、その人はいた。
金紗縮緬の唐頭巾をかぶり、宙を睨め付ける荘厳な龍の刺繍があしらわれた紫の衣を身にまとった端王は、靴に縫い取られた黄金の鳳凰を日差しに煌めかせながら、四、五人の取り巻きとともに蹴鞠に興じていた。
まだ幼気なかんばせに薫風のごとき笑みを浮かべ、端王が毬を蹴る。あたかもその威光でもって従えてしまったかのごとく足元にとどめていた毬が、晴れすぎてけぶる空を舞うのを高毬はただ、近習の後ろに控えて見ていた。
「あ!」
弓のように見事な軌跡を描いて端王が蹴った毬を、取り巻きの一人が足をめいっぱい伸ばして蹴り返した瞬間、高毬は、短く息を吸った。あらぬ方向にびゅうと飛び上がった毬は、大きく端王の頭上を越え、見守る人の群れの中――高毬の足元に、ただまっすぐ、転がって来た。
「ふ……!」
迷いはなかった。
毬に当たらぬようにと人波が割れ、ただまっすぐに、端王が見えた。
毬を右足の爪先から踝の内側にまわして低く蹴りあげ、左足の外踝で今度はもう少し高く蹴りあげる。その隙に大きく振りあげた右足の外踝で弾いた毬は、まるでそれが定めであるかのように、ただまっすぐ、端王の足元に再び従う。
鴛鴦拐――高毬が最も得意とする技のひとつに、漣のような歓声があがる。そしてそのどよめきの中に、鳥の羽ばたきのごとく軽やかな声がはずんだ。
「お前……お前は、何者か」
どこの誰とも知れぬ男が見せた見事な技に息を詰める取り巻きたちの間から、高毬は静かに進み出て端王の前に平伏した。
「私は、王晋卿様の近習を務める者です。主人の命を受け、玉の細工を二品、殿下に献上するため参りました。ここに書状がございますので、どうぞお確かめください」
「義兄殿は良く気の付く御方だな」
端王の優雅な手が高毬のがさついた手から書状と贈り物を取り上げ、そしてそれらは新しい主に一瞥もされずに使用人の手に渡った。
「そなた、蹴鞠ができるようだな。名は何と?」
「私は高二と申します。少しばかり毬を蹴るのを好みます故、周りは皆、『高毬』と」
地に額をこすりつけるほどに平伏する高毬の肩に、端王の両手が羽根のごとく舞い降りる。
「そうか、そうか。では、こちらへ来て少し、蹴ってみよ」
「な、何を申されます。私の蹴鞠の技量など、お見せできるほどのものではございません。殿下のお相手など、とても務まるとは……」
「はは、謙遜が過ぎるぞ、高毬。先ほどの鴛鴦拐の技、私はしかと見ておった。彼らは斉雲社に属しておる者たちで、この集まりは天下円という、気ままなものだ。何の遠慮はいらぬぞ」
王昇教頭をして武人たる資質なしと評された高毬だが、「機を見、世を渡る」という才に関しては飛び抜けて優れていた。
これ以上辞退すれば端王の気を害すると察した高毬は、「では、恥ずかしながらこの高毬、少しばかり技をご覧に入れましょう」と殊勝な様子で遊び場に進み出で、日頃身につけた技の数々をあまねく端王に披露した。
端王の蹴鞠技が毬を服従させるがごとき優雅さであるのに対し、高毬のそれはまるで毬を弄ぶかのごとく奇抜で華やかなものであった。足の裏側に消えたかと思えば肩の上に現れ、宙を舞ったかと思えば足首に吸い寄せられる毬の描く見事な花模様に、取り巻きたちからも盛大な歓声があがる。
「ああ、なんという名技、なんという名手……ついに私の目にかなう男を見つけたぞ! おい、お前、宴の準備を。義兄殿をお呼びし、高毬を近習にいただけぬか掛け合おうぞ」
愉快げに手を打ち鳴らす端王の、一際突き抜ける竹風鈴のような笑い声が、高毬の背をじわりと包み込んだ。
大宋国第七代皇帝・哲宗がこの世を去り、端王が第八代皇帝・徽宗と成ったのは、この日からわずか二か月後のことであった。