一
その昔、竜虎山開山の天師洞玄、伏魔殿に閉じこめるは三十六の天罡星と七十二の地煞星
合わせて百と八人の魔王は今、洪に遇いて目を開き、再び世に解き放たれた
世に災いをもたらす妖魔を逃がした洪太尉は、かたく人々の口を閉ざし、都に帰りて天寿を終える
そして時は静かに流れ、魔星を宿した好漢たちは――
【第二回 王教頭 密かに延安府に逃れ 九紋龍 大いに史家村を騒がす】
哲宗在位元符三(一一〇〇)年、東京開封
慌ただしく立ち働く使用人たちの間を悠々と歩きながら、青年は無造作に結った髪を手持無沙汰に弄ぶ。
柔和に見えて、時に底冷えするような眼光を放つ三白眼は、せわしなく辺りの様子を探っている。
屋敷の主の誕生日を祝う盛大な宴会もそろそろおひらきの時間となり、客人たちの使い捨てた器をうず高く積み上げた盆が、広間と台所の間を行きつ戻りつしているのを――いや、その盆を運ぶ若い娘を眺めているのか、青年の口元がひくりと歪む。
「……」
ふと、それまでだらしなく肩を揺らして歩いていた青年の背が、竹のごとくぴんと伸びた。
猛禽のようにさまよっていた鋭い瞳が、廊下の向こう、書院から影のように優雅に姿を現した二人の男を映し出す。
「まったく、あのような見事な細工は見たことがない」
「さすが端王殿下、お目が高いですなあ! あの獅子の文鎮は、最高級の翡翠を使った、世に二つとないもの……ああ、それともう一つ、同じ職人の手によるもので、玉竜を模した筆懸けもございます。あいにく今は手元にないのですが、明日取ってきて、獅子の文鎮とともにお届けいたしましょう」
「義兄殿の御好意、かたじけない。その筆懸けもきっと、美しいのだろうなあ」
「私の誕生祝いの宴に御出席いただいた、ほんの御礼ですよ」
白髪混じりの髭をたくわえた恰幅の良い男――この屋敷の主である王晋卿の体に半ば隠れてしまうような小柄な人物は、未だ少年と言ってもいいようなあどけない顔に満面の喜色を湛え、まだ見ぬ筆懸けに想いを馳せているようであった。筆より重い物など持ったこともないであろう華奢な体が負けてしまいそうに豪奢な衣装は、遠目から見ても最高級の絹を使っているのがわかる。すべるように静かに廊下を歩む姿は、彼の並みならぬ家柄を感じさせた。
「端王殿下、ね……」
誰あろう大宋国先代皇帝・神宗の皇子にして現皇帝・哲宗の弟である端王は、その姉と結婚した王晋卿にとっては義理の弟でもある。風流道楽の道に通じ、書画や歌舞音曲をたしなみ儒教道教知らぬものはないと謳われる端王だが、彼の最も好み得意としているのが蹴毬であることは、世間の誰もが知るところであった。
「おい、高毬!」
「……今、行きます」
宮中へと帰る端王を見送った主に呼ばれ、思案げな顔をあげた青年の名は高二――彼の世にも見事な蹴毬技を見た人々からは、『高毬』と呼ばれていた。
「高毬、あの御方が誰か分かるか」
「ええ、端王殿下でしょう。皇帝陛下の弟君で、つまり御主人の義弟君でもある」
「馬鹿者、そういうことではない。いいか、よく考えろ」
顎の肉を揺らす王晋卿の視線の先、図体のでかいごてごてとした馬車が去りゆく様を、高毬もまた見つめる。
「皇帝陛下の玉体は……残念なことに、あまり強うなくてな。昨今の朝廷内での熾烈な権力争いも、相当に御負担となっているに相違いない。そこでだ、高毬、頭の良いお前ならばわかるであろう? もしも……もしも、陛下に万が一のことがあれば、次にその座を継ぐのは――」
今年で二十五となる高毬と、一つ二つしか歳の違わぬ若き皇帝・哲宗には、未だ嫡子はいない。となれば、次に帝位を継ぐことになるのは、彼の弟である端王ということになる。いずれ皇帝の義兄となる男は、なるほど、己のお気に入りの近習を、次の皇帝のお気に入りにもさせようというのか。
「実は今日、端王殿下に一つ、約束をいたしてな。届け物をせねばならぬのだが、その役目、お前に任せるとしよう」
目尻に怪しげな光を乗せて笑う主人の心の内では、世に二つとない文鎮や筆懸けなど道端の石ほどにしか思われていないに違いない。そうしてそれは、高毬にとっても、同じであった。
「端王殿下は、何よりも蹴鞠を愛しておいでだぞ、高毬」