Say,good bye
雨はまだ、降り続いていた。コンビニの中でも、豪雨の雨音がひどい。、障子を破った音が連続して聞こえてくるようで、まるで悪魔の小便のようで、みっともない自分を嘲笑っているかの様な錯覚に陥る。
ようやく終わったコンビニでのバイトを終えた俺は、寒さをしのぐために買った缶コーヒーとおでんをレジ袋に入れ、まだ勤務中の裕子のレジを向く。
「おつかれ」
裕子は俺を無視した。無理もなかった。俺は自分でも情けなくなる位、涙が出そうになった。ぐっと堪えて、客がいなくなったのを確認して、言った。
「ごめん。俺最低だよな。里佳子にメール打った。返事きたよ。会って直接話しをする。お前にも負担かけさせちゃったことは謝るよ」
裕子は相変わらず眼もあわせてくれなかったが、じっと見ていると、猫目のふちが涙に滲んでいるのが見えた。
「可哀想だ、里佳子さんが。お前明日バイト来なかったら殺す。ちゃんと終わらせたかどうか確かめてやる」
そう裕子は目も合わさず呟いた。里佳子はいい友達、というか妹分を持ったな。心に暖かい気持ちが生まれてくると同時に、自分のしていたことへの罪悪感で胸がギシギシ痛んだ。
「じゃ、また明日な」
帰り際、時計を見ると、午後三時だった。里佳子と落ち合う場所は俺のアパート。まだ約束の時間まで、二時間もある。
俺は途中で本屋でバイク雑誌を買い、野菜の安いスーパーで夕飯のお惣菜を買って、重々しい足取りで玄関の戸を開けた。
最後に、里佳子が訪れて出すお茶をどんなものにするか考えていた。
別れの予感が漂う、部屋の中で、俺の頭は自責の念に捕らわれていた。
なんて薄っぺらい、男なのだろう、自分は。目先の、由美子さんていう俺の片思いの欲望ばかり頭がいっぱいで、周りのことが全く見えていなかった。辛かったろうな、里佳子。好きな人が出来た時点で、別れを切り出すべきだったのだ。
自分のしていたことの不義理さに何故今まで気がつかなかったんだろう。筋を通す時は通すこと、それができない子供ではなかったはずだ。
わかっていた。俺は、自分のせいで里佳子が傷つき俺をおそらく恨むであろうことを恐れていた。
自分でいうのもおかしなことだが、自分は人に好かれることになれきっていた。それは、小さい頃から周りと合わせることが得意だったからだ、と自分では思う。俺は人の好意には好意を。敵意には敵意を。そのサバけた性格のおかげで、人付き合いに苦労はしたことはない。中学高校時代にもなめられたり、イジメにもあうことなく、学校でのいわば目立つグループの中に染まっていたから、逆に威圧的な奴だったかもしれない。
只、俺は自発的に他人に好意を覚えたことは少なかった。それは、愛されることになれきった、人を少し見下した部分にあったのかもしれなかった。自分は自分のしたいことだけをしていれば、後から人はついてくるものだと。
俺は異性からの特別な好意を、今までほとんど受け流してすごした。わざと気付かないフリをしたり、アプローチをされれば合わせるが、心までは預けなかった。
何故か人を心から好きになったことはなく、押しに負けることで以外、異性と付き合ったことがない、というのが本当のことだった。里佳子の場合もそうだった。結果誰とでも寝そうだの、色々風評がたったが俺は気にしなかった。
俺はふと、中学のときに読んだ「人間失格」の主人公に自分は似ているかもしれないとふと思ったのだった。考えすぎだが、それ位今の自分は気分は墜ちに墜ち、人に合わせて生きてきたという事実を全否定させられている気がした。何って、今のこの自分の感情が生み出す空気に。
里佳子は五時よりやや早めにやってきた。今までデートでも遅れてくることもなかった彼女らしかった。
「久しぶり、シンジ」
里佳子はいつも会うときはにかんだ顔で笑顔を見せる。
里佳子を部屋にあがらせ、茶箪笥を開けると、眼に飛び込んできたのは由美子さんが送ってくれたイギリス産のダージリンだった。俺は手を一瞬迷わせた後、隣にあった日東紅茶を手にしてお湯を沸かした。
今、由美子さんの匂いのするものには触れたくなかった。
部屋の中がしんと静まり帰り、通りで下校途中の中学生がふざけた声をあげるのが異様にうるさくて腹ただしい。
俺と里佳子はテーブルを挟んで、向かい合った。明るい里佳子が、長い睫を伏せて、何も言えなくなっている。
何分間か沈黙が続いた後、里佳子が重い口を開いた。
「どうしてずっと連絡くれなかったの? いつもメールも電話も私の方からで。シンジは、私の事ほんとに好きなの? はっきり言ってくれなきゃ……わからない」
俺は、その言葉の重みより、これからの展開を予測することに怯えてしまった。
「ごめん、里佳子。実は、好きな人がいるんだ」
そう言葉に出すと、眼裏に由美子さんが強烈に思い浮かんだ。自分でも、顔が熱く、眼が潤み、声もいつもの淡白さが熱に犯されていくのを感じた。
それと反対に、一瞬のうちに顔が青ざめて、眼から冷たそうな涙が頬を伝う、里佳子。朝に飲み込んだ苦いコーヒーの味よりもっと胃が痛くなる、切り裂かれる様な衝撃に、俺は里佳子から目がそらせなかった。
「……いつから?」
震える唇で里佳子は問うた。
「二ヶ月前位。相手は社会人なんだけど、幼馴染の姉貴で。本気で好きなんだ。だから悪いけど別れてくれないか」
俺は自分で何を言っているのか上の空だった。今振っている雨雲の上だった。喋り、言葉にするたびに、相手が近くなる様な、今の状況に酔った由美子さんの存在を重く感じていた。
冷め切った紅茶が自分の顔にぶっかけられた。気性の荒い、里佳子がかけたものだった。
俺は只、じっと座り、里佳子を睨む様に見つめ、鼻をすすりはじめた里佳子に目を伏せた。
「わかった……さよならシンジ」
嗚咽まじりの声で里佳子は言うと、バッグを持って俺の部屋を後にした。
俺は一人でその後、放心して動けなかった。ぽたぽたと、顔にかけられた冷たい紅茶が顔に流れていくのを感じた。
それが、自分の目から出るものも混じっているのか、自分に問いたい気持ちを抱いた。しばらくたった後携帯を開いて
里佳子のアドレスを消した。由美子さんからの連絡は相変わらず入っていなかった。
これは里佳子を泣かせた自分への罰か何かなのだろうか、と自分で考えたが。結局は俺に片思いをしていた里佳子の様に、俺もまた由美子さんを遠くに感じている、同じ穴のムジナなのかもしれないと俺は思った。
そう考えるのは、寂しい寂しい時間で。俺は苦手だった。
まるで小さな赤子の勘の虫が騒ぎ出す様に、何かあたたかいものを抱きしめて眠りたかった。