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婚活で出会った女性に「年収は気にしません」と言われたが、どうやら本当らしい。

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/11/03

「年収は、あまり気にしません」


 そう言われたとき、俺はコーヒーのカップを持ち上げかけていた。


 婚活を始めて八か月。三十四歳。住宅設備を扱う会社の、どこにでもいる営業職。年収は四百六十万円で、借金はなく、貯金はそれなりにある。

 結婚を申し込むときの説明としては、たぶん悪くない。胸を張るほどでもない。


 目の前に座る三枝里帆さんも、俺と同い年だった。

 友人夫婦の紹介で会うことになった人で、事前に聞いていたのは、印刷会社で事務の仕事をしていることと、甘いものが好きだということだけだ。


「紹介してくれた美穂から、ちゃんと働いている方だとは聞いてます。それで、今のところは」


 里帆さんはメニューを指で押さえた。


「八代さん、プリンとチーズケーキだったら、どちらにします?」

「プリンですかね」

「じゃあ、私もプリンにします」


 迷いのない決断だった。


 俺はカップを戻した。

 会社の規模も、役職も聞かれなかった。


 今まで会った人たちが、おかしかったわけではない。生活をともにする相手なのだから、収入を確認するのは当然だ。転勤の有無も、共働きの希望も、大事な話だと思う。

 俺だって、相手が仕事を続けたいのかは気になる。


 ただ、勤務先を答えた直後、質問が目に見えて減ったことが二度あった。

 昇進すればどれくらい増えるのか、と聞かれた夜には、会社の人事制度を調べ直した。


 最近は仕事の話になるたび、次に提出する書類を探すような気分になっていた。


「本当に、聞かなくて大丈夫ですか」

「必要になったら聞きます。八代さんも、私のことで気になることがあれば聞いてください」


 そこでようやく、俺も彼女の収入を知らないことを思い出した。


「分かりました」

「あ。でも、一つ聞いてもいいですか」


 やっぱり来た。

 俺はわずかに背筋を伸ばした。


「家に、使わないけど捨てられないものってあります?」


 用意していた回答が、一つも使えなかった。


「……説明書、とかですか」

「説明書?」

「捨てたあと困る気がして。もう持ってない家電のも、たぶんあります」


 里帆さんは一瞬きょとんとして、それから笑った。

 口元を隠すのが間に合わなかった、という笑い方だった。


「それ、私もあります。引っ越したとき、前の部屋の給湯器のが出てきました」

「給湯器は、さすがに持ってこなかったでしょう」

「はい。説明書だけ連れてきました」


 俺もつられて笑った。


 運ばれてきたプリンは、思っていたより大きかった。

 里帆さんはまず一口食べて、目を細めた。


「これにしてよかった」


 その顔を見たら、昇進した場合の年収を頭の中で計算していた自分が、急におかしくなった。


     *


 二度目に会ったのは、その二週間後だった。


 昼食のあと、川沿いを歩いた。近くで小さな手作り市が開かれていて、里帆さんが足を止めたので、一緒にのぞくことにした。


 アクセサリーや焼き菓子の店に交じって、手のひらほどの布の帽子を売っている店があった。

 里帆さんはそこを少し長く見ていた。


「赤ちゃん用ですか」


 俺が聞くと、店の人が笑った。


「ぬいぐるみ用なんです」

「ああ、なるほど」


 小さい帽子にも、裏地がついている。自分の指先を見てから、もう一度帽子を見た。俺が作ったら、表裏をひっくり返す前に壊しそうだった。


「こういうのって、全部手で縫うんですか」

「ミシンも使いますよ。仕上げは手縫いですけど」


 隣の里帆さんが、なぜか俺の顔を見ていた。


「買うんですか?」

「今日は、見てるだけです」


 そう言って、彼女は店の人に会釈した。


 帰り道、今度は旅行の話になった。


「旅行って、荷物が多いほうですか」

「少ないですね。一泊ならリュックだけです」

「なくても困らないものは、持っていかない?」

「物によります。里帆さんは?」

「少し、多いです」

「充電器を何本も持っていくとか」

「それもあります」


 それ以外もあるらしい。


 俺は、前に出張先へ持っていった文庫本の話をした。結局一ページも読まなかったのに、往復ずっと鞄に入っていた。


「持っていかないと、読みたくなったりするんですよね」

「そうなんです」


 里帆さんが、深くうなずいた。

 本について、そこまで共感された経験はなかった。


 帰宅後、友人の健吾に連絡した。


〈三枝さん、いい人だね〉


 すぐに電話がかかってきた。


『お、どうだった?』

「楽しかった。ただ、ちょっと変わった質問をする」

『どんな?』

「使わないけど捨てられないものはあるか、とか」

『片付けの話?』

「俺もそうかと思ったけど、荷物は多いらしい」


 健吾が電話の向こうで笑った。


『まあ、分かんなかったら本人に聞けよ』

「そうだな」


 電話を切る前に、つい聞いてしまった。


「俺の趣味って、伝えてる?」

『特撮? いや、仕事と年齢くらいだけど。言っちゃまずかった?』

「いや。別に」


 別に、と言いながら、少しほっとしていた。


 俺は子どもの頃から特撮が好きだ。

 今でも休日に昔の作品を見るし、気に入った怪獣のフィギュアを買うこともある。


 ただ、以前、婚活の席で話したときに、相手から困ったような笑顔を向けられた。


『子どもができたら、一緒に見られますね』


 悪気はなかったと思う。

 けれど、子どもがいなければ見てはいけないもののような気がして、それからは趣味を聞かれると「映画」と答えている。


 里帆さんにも、まだ話していなかった。


     *


 三度目は、植物園へ行った。


 屋内展示を回って、温室の外にあるベンチで休んでいたときだ。

 里帆さんが鞄からハンカチを出した。その端に何かが引っかかって、一緒に転がり落ちた。


 小さな、茶色いものだった。


 俺は足元から拾い上げた。

 手のひらに収まる、ラッコのぬいぐるみ。薄い青の上着を着ていて、片方の袖が少しだけめくれている。


「あっ」


 里帆さんが、今までで一番慌てた声を出した。


「すみません」

「大丈夫ですよ。土のところには落ちてないです」


 軽く底を払って差し出したが、彼女はすぐには受け取らなかった。


「こういうの、まだ好きで」

「ラッコ?」

「……ぬいぐるみです」


 声が、さっきより小さくなっていた。


「謝ることですか、それ」


 言ってから、何か責めるように聞こえただろうかと思った。

 でも彼女は俺を見たまま、ゆっくりまばたきをした。


「引きません?」

「びっくりはしました。鞄から出てくると思わなかったので」


 嘘をついても仕方がない。


「旅行の荷物って、この子ですか」

「はい」

「本より小さいですね」


 彼女の口元が、ようやく緩んだ。


「この服、この前の手作り市みたいなところで?」

「あ、これは自分で縫いました」

「これを?」


 俺はもう一度、青い袖を見た。


「袖、どうやってひっくり返すんですか」


 里帆さんは今度こそ笑った。


「先の丸い棒を使うんです。お箸みたいな」

「やっぱり指じゃ無理なんですね」

「たぶん、八代さんの指だと」


 そう言って、彼女は受け取ったラッコの袖を直した。

 手つきが、やけに丁寧だった。


「小学生の頃から好きなキャラクターなんです。これは最近出た、小さいサイズですけど」

「名前はあるんですか」

「キャラクターの名前は、こはるです」

「ラッコなのに、こはる」

「ラッコにも、春は来るので」


 真顔で返されて、俺は吹き出した。


 少しして、里帆さんが膝の上のこはるを見ながら言った。


「前に付き合ってた人に、もういい年なんだからって言われたことがあって」


 俺は口を閉じた。


「結婚したら全部しまってね、って。人が来たとき恥ずかしいからって」

「全部?」

「はい。私も、飾る場所は相談するつもりでしたし、増やしすぎないようにはしてたんですけど」


 それきり、彼女は少し黙った。

 ラッコの袖口を、親指で撫でている。


「一緒に集めてほしいわけじゃないんです。興味がなくてもいいし、イベントにも一人で行けるし。でも、好きだって言うたびに、まだそんなのって顔をされるのは……しんどくて」


 俺は、自分の部屋の棚を思い浮かべた。

 大人になってから買った、子どもの頃に欲しかった怪獣たちが並んでいる。


「それで、捨てられないものがあるかって聞いたんですか」

「ちょっと遠回しすぎましたね」

「説明書って答えて、すみません」

「いえ。あれはあれで、よかったです」


 里帆さんは小さく笑って、それから顔を上げた。


「結婚するなら、自分の好きなものを、馬鹿にしない人がいいんです」


 言い切ったあと、彼女は少し照れたように視線を落とした。


 俺は膝の上で両手を組んだ。


「俺も、言ってないことがあります」


 彼女の肩が、わずかに強張った。

 前置きが大げさすぎた。


「特撮が好きなんです」

「……特撮?」

「怪獣とか。今も見てます。フィギュアも持ってます」


 里帆さんは、何か考えるように俺の顔を見た。


「さっき、拾うとき」

「はい」

「頭をつかまなかったの、それでですか」


 俺は自分の手を見た。

 たしかに、両手で胴体を持って渡した気がする。


「いや、分からないです。首が取れそうに見えたのかもしれません」

「取れません」


 きっぱり言われた。


 里帆さんが、こはるを持ち上げた。


「よかったら、見せてください。八代さんの怪獣」


 俺はスマホを取り出した。

 棚の写真を探す指が、少し忙しかった。


     *


 写真を見せ始めて五分で、俺は自分が説明しすぎたことに気づいた。


「すみません。シリーズが違う話までしました」

「いえ。でも、一度に全部は覚えられません」

「ですよね」

「この、顔がちょっと眠そうなのだけ覚えました」


 彼女が指したのは、俺の一番好きな怪獣だった。

 作中では街を三つ壊し、防衛隊を壊滅寸前まで追い込んでいる。


「眠そう、ですか」

「違いました?」

「いや、言われてみると」


 画面を見直した。

 たしかに、朝が弱そうな顔をしていた。


 その帰り、駅の改札前で俺は次の約束をした。

 映画でも、食事でもなく、彼女が行きたいと言っていた海辺の町へ、日帰りで行く約束だった。


 四度目のデートは、よく晴れた。

 市場を歩いて、海鮮丼を食べて、海の見えるカフェに入った。

 テラス席に座ると、里帆さんは鞄の中を一度見て、そのままファスナーを閉めた。


「こはる、います?」

「いますけど」

「出さないんですか」

「今日は、一緒に来てるので」


 俺のことらしかった。


「写真、撮りたかったんじゃないですか」

「……少し」

「じゃあ、撮りましょう」


 里帆さんは周りを見た。隣の席は空いていて、店員もほかの客の対応をしている。

 鞄からこはるを取り出し、飲み物の前に座らせた。

 今日は、紺色の帽子をかぶっている。


「それ、あのとき見てたやつですか」

「はい。あとで通販で買いました」

「なるほど。似合ってます」


 彼女はこはるの位置を直して、スマホを構えた。


「八代さんの飲み物も、少し入れていいですか」

「どうぞ」


 俺がグラスを寄せると、彼女は二枚だけ撮った。こはるを鞄に戻し、今度は俺を見て笑った。


「ありがとうございます」

「いえ」


 俺はストローに口をつけかけて、止めた。


「もう撮らなくていいですか」

「大丈夫です。氷、溶けちゃうので」


 ストローから、冷たいコーヒーが上がってきた。

 目の前で、彼女がいちごのソーダを飲んでいる。


 写真に写っているのは飲み物とぬいぐるみで、俺の顔は入っていない。

 それでも、彼女の楽しい一日の中に自分がいることが、妙に嬉しかった。


 帰りの電車を待ちながら、その写真を送ってもらった。

 俺のアイスコーヒーは、左端に三分の一だけ写っていた。


「これ、今日の写真として、保存していいですか」

「もちろん」


 それから里帆さんが、少し間を置いて聞いた。


「八代さんは、写真、撮らなくてよかったですか」

「撮りましたよ。海とか」

「二人では、撮ってないなと思って」


 スマホを持つ手に、力が入った。


「……撮ります?」

「はい」


 ホームの端の、誰もいない壁の前で、俺たちは並んだ。

 画面を見ながら位置を調整していると、彼女の肩が俺の腕に触れた。


 シャッターを押してから、俺は画面を確かめずに言った。


「里帆さん」

「はい」

「次から、友人の紹介で会ってる二人じゃなくて、恋人として会いたいです」


 自分で言って、回りくどいと思った。


「付き合ってください」


 彼女は俺を見上げた。

 写真を撮ったときより、ずっと近いところに顔があった。


「はい。私も、そうしたかったです」


 到着を知らせる放送が流れた。

 俺はスマホをしまいかけて、写真を確認していないことに気づいた。


 画面の中で、俺はひどく緊張した顔をしていた。

 隣の彼女は、きれいに笑っていた。


     *


 付き合い始めてから、里帆さんは俺の部屋にも来るようになった。


 最初の日、棚の前で足を止めて言った。


「実物だと、けっこう大きいですね」

「この一体だけです。箱を開けたとき、俺も思いました」

「置き場所、測らなかったんですか」

「横幅だけ測りました」


 怪獣の尻尾が、棚から少しはみ出している。

 里帆さんは笑ったが、顔が眠そうだと言ったときと同じ笑い方だった。

 俺も一緒に笑えた。


 俺は彼女の部屋で、こはるの仲間たちに会った。

 大小取り交ぜて十二体。低い棚に並んでいて、その隣には裁縫箱と、布の切れ端を分けた透明のケースがあった。


「もっと部屋中にいるかと思いました」

「いっぺんに並べると、掃除が大変なので。季節で少し入れ替えてます」


 押し入れに保管しているものもあるらしい。


「増える一方にならないんですか」

「なりかけたので、月の予算を決めました。買わない月の分は、イベントに行く交通費にしたり」


 彼女は棚の手前にいた一体の、曲がった襟を直した。


「八代さんは?」

「一体が高いんで、欲しいのを選んで、何か月か積み立ててます」

「予約してから届くまで、長いですよね」

「なんで知ってるんですか」

「この前、公式のお店を見たので。眠そうな子、ないかなって」


 俺は返事をする前に、棚のラッコを見た。

 彼女も俺の好きなものを、俺のいないところで思い出してくれたのだ。


「……同じ怪獣の、大きいサイズが今度再発売されるらしいです。持ってるのとは造形も違うので、気になってて」

「じゃあ、場所は測っておいたほうがいいですね」

「はい」


 その晩、俺は棚の奥行きを測った。


 もちろん、趣味の話ばかりしていたわけではない。

 食べ物の好みも、実家との距離も、仕事の愚痴も話した。

 彼女は辛い料理が苦手で、俺は洗濯物を畳むのが遅かった。彼女は休日の午前中に用事を片付けたい人で、俺はできれば一時間長く寝ていたかった。


 ある日、一緒に見た特撮映画の感想を聞いたら、彼女は困った顔をした。


「怪獣はよかったです」

「人間側は?」

「途中、誰が誰を裏切ったのか分からなくなりました」


 俺も初めて見たとき、分からなかった作品だった。


 逆に、彼女の好きなキャラクターの短編アニメを見た俺は、途中で寝た。

 起きたら毛布がかかっていて、テレビには停止画面が映っていた。


「すみません」

「眠くなるんですよね。私も寝る前によく見ます」

「そういう用途もあるんですか」

「あります」


 感想を合わせなくても、次の約束がなくなることはなかった。


     *


 初めてちゃんと意見が食い違ったのは、彼女の誕生日の前だった。


 付き合って三か月。彼女が気になっていると言っていた店を予約して、プレゼントを探し始めた。

 俺が選んだのは、小さな石のついたネックレスだった。

 以前、彼女がよく着けているものと似た形で、値段も背伸びしすぎてはいない。


 ただ、まだ買ってはいなかった。

 色を間違えたくなくて、店のページを彼女に送ったのだ。


〈こういうのは好きですか。誕生日にと思って〉


 しばらくして、返事が来た。


〈かわいいです。ありがとう〉


 続けて、もう一通。


〈でも、まだ買ってないなら、相談してもいいですか〉


 その夜、電話をした。


「実は、来月出る、こはるの記念セットが欲しくて」


 知っていた。

 二週間前に、一緒に発売案内を見たからだ。箱の中に小さなベンチと二体のぬいぐるみが入っていて、彼女は画面を何度も拡大していた。


「あれ、自分で買うんじゃなかったですか」

「そのつもりでした。でも、もしよかったら、お誕生日にもらえたら嬉しいなと思って」


 俺は、開いていたネックレスの商品ページを見た。


「誕生日だから、普段は自分で買わないもののほうが喜ぶと思って」


 電話の向こうで、彼女が少し黙った。


「せっかくだし、アクセサリーのほうが記念に……」


 言いかけて、止まった。

 何が記念になるかを、もらう本人より俺が分かっているような言い方だった。


 俺はページを閉じた。


「ごめん。せっかく欲しいものを教えてくれたのに」


 彼女の息が聞こえた。


「ネックレスを選んでくれたのは、嬉しかったです」

「はい」

「でも、こはるをもらえたら、私はすごく嬉しいです」


 俺は目を閉じた。

 彼女が喜ぶかより、恋人に贈るプレゼントとして正解かどうかを考えていた。

 同僚に聞かれたとき、ぬいぐるみを贈ったと答える自分まで、想像していた。


「欲しいって言ってたの、覚えてたんです。でも、そっちは最初から候補に入れなくて」

「うん」

「こっちのほうが喜ぶはずって、勝手に決めました」


 里帆さんは少しして言った。


「私も、最初の返事で言えばよかったです。かわいいのは本当だったんですけど、それだけだと伝わらないですよね」

「言ってもらえてよかったです」


 本当に、買う前でよかったと思った。

 もらったあとなら、彼女はネックレスを大事に使ったかもしれない。俺はそれを見て、自分の判断が正しかったと思ったかもしれない。


「記念セット、予約しようか」

「はい。お願いします」


 そこで、俺は発売案内にあった注意書きを思い出した。


「届くの、誕生日より二週間あとですよね」

「そうなんです」

「当日、手ぶらになってしまう」

「一緒にご飯食べますよね」

「食べます」

「じゃあ、楽しみは二回です」


 その言い方に、俺は救われた。


 誕生日当日、予約した店で食事をして、デザートの皿が出てきたところで、彼女はこはるを一体だけ鞄から出した。


「先に撮る?」


 聞くと、彼女が顔を上げた。


「お願いします。すぐ撮ります」

「いや、急がなくていいけど」

「アイス、溶けるので」


 彼女は写真を撮って、こはるをしまった。

 スプーンを持った手を止めて、俺を見た。


「八代さん」

「はい」

「直人さんって、呼んでもいいですか」


 付き合って三か月も経つのに、俺たちはそこだけ初対面のままだった。


「もちろん。俺も、里帆って」

「はい」


 里帆は一度うつむいてから、小さく笑った。


「直人さん、ありがとう」


 俺のデザートのアイスが、皿の上で溶け始めていた。


     *


 冬になる頃には、どちらかの部屋で夕飯を食べる日が増えていた。


 ある金曜日、訪問先でのトラブルが長引いて、約束の時間を一時間以上過ぎた。

 途中で遅れると連絡はしたものの、里帆の部屋の前に着いたときには、肩も腹も重くなっていた。


「ごめん。待たせた」

「お疲れさま。手、冷たいね」


 里帆は俺の顔を見ると、詳しい事情を聞くより先に風呂場へ行った。


「手を洗うの、お湯になるまでちょっとかかるから」


 蛇口から水の流れる音がした。

 俺は玄関で靴を脱ぎながら、その音を聞いていた。


 温め直したシチューを食べているうちに、仕事の話がぽつぽつ口から出た。

 俺の確認不足もあったので、ただ腹を立てて終われる話ではなかった。

 里帆は向かいで聞いて、ときどき「それで?」と言った。


「月曜、もう一回行ってくる」

「そっか」


 里帆は鍋を見た。


「おかわり、いる?」

「少し」


 食べ終わると、疲れが急に追いついてきた。

 皿を運ぼうと立ち上がったら、先に里帆が二枚重ねていた。


「今日は、座ってていいよ」

「でも」

「この前、私が締め日で遅くなったとき、洗ってくれたじゃない」


 そうだった。

 あの日は里帆が食事中にうとうとしていたので、帰る前に食器を洗った。


 台所に立つ彼女の背中を見た。

 今日は何をしていても、次に片付けるべきことが頭に浮かんだ。それが今、少し静かになっていた。


「里帆」

「うん?」

「ありがとう」


 彼女は振り返って、手についた泡を流してから笑った。


「シチュー、明日の分もあるよ」


 そのとき、明日もここで食べたいと思った。

 来週も、来月も。


 年が明けて、俺の誕生日に里帆がくれたのは手袋だった。


「怪獣は、欲しいのを自分で予約してたから」


 選んだ理由を聞く前に、そう言われた。


「仕事の鞄、外のポケットが小さいでしょう。これなら入るかなって」


 薄手なのに、はめると暖かかった。

 俺は指を曲げたり伸ばしたりしてから、彼女の手を握った。


「どう?」

「暖かい。私の手も」


 里帆が、握り返してきた。

 俺はそのまま、駅まで歩いた。


     *


 結婚の話をし始めたのは、知り合って八か月ほど経った頃だった。


 きっかけは、里帆の部屋の更新案内だった。

 俺の部屋より二か月早く、契約の更新を迎えるらしい。


「次も、ここにするの?」


 聞くと、彼女は案内の紙をテーブルに置いた。


「考えてる。直人さんは?」


 自分の部屋のことを聞かれているのは分かっていた。

 でも、俺は別の答えを返した。


「一緒に住めたらと思ってる」


 里帆が、俺を見た。


「ただ一緒に住むんじゃなくて。結婚して」


 言ってしまうと、心臓の音が気になった。

 レストランも予約していない。指輪もない。テーブルの真ん中には、半分だけ残ったせんべいの袋があった。


「俺と、結婚してもらえませんか」


 里帆はしばらく俺を見て、それから、せんべいの袋を脇に寄せた。

 空いたところへ手を伸ばして、俺の手を取った。


「はい。私も、一緒に暮らしたいです」


 俺は握られた手を見て、ようやく息を吐いた。


「……よかった」

「断ると思ってた?」

「思いたくはなかった」


 里帆が笑って、俺の手を両手で包んだ。

 そのまま少し黙っていた。


 更新の期限を二人で確認したあと、俺は言った。


「じゃあ、部屋を探す前に、お金の話もしようか」

「うん。私も、ちゃんと相談したかった」


 それぞれの収入と貯金、毎月使っている金額を書き出した。

 俺の給与明細を見た里帆は、残業代の欄と、その月の帰宅時間を確かめた。彼女の賞与は年によって変わるので、家賃は二人の毎月の手取りで無理なく払える範囲にしたい、という話になった。


「そういえば、最初は気にしないって言ってたね。年収」


 里帆はペンを止めた。


「金額で、会うかどうかは決めないって意味だったんだけど。ちょっと説明が足りなかったね」

「いや。俺も、聞かれないことばっかり気にしてた」

「結婚するなら、お互い知っておきたいよ。働き方も変わるかもしれないし」


 その通りだと思った。

 俺の仕事には残業がある。彼女の会社も、ずっと今の状態とは限らない。

 子どもを望むかどうかは前から話していたが、授かった場合に仕事や生活費をどうするかも、これから具体的に考えていく必要があった。


 初めて会った日の俺なら、この話を始めるだけで身構えたかもしれない。

 今は、彼女の書いた数字の横に、自分の数字を並べられた。


「趣味のお金も、ここから出す?」


 俺が聞くと、里帆は少し考えた。


「共通の生活費と貯金を決めて、残りはそれぞれで使うのがいいかな。大きい買い物は、先に話して」

「分かった。場所も取るからな」

「そう。場所も」


 そこは、俺より少し強くうなずいた。


「予約した大きいほう、尻尾も長いんだよ」

「見た。あれ、今の棚に入る?」

「斜めなら」

「直人さん」

「新しい棚は、奥行きも測ります」


 里帆が、ペンを持ったまま笑った。


     *


 部屋探しは、思っていたより難しかった。


 通勤時間、家賃、日当たり、台所の広さ。

 よさそうな部屋でも、俺の会社から遠すぎたり、里帆の帰り道が暗かったりした。


 三軒目の内見で、ようやく二人の意見がそろった。

 駅から十分ほど歩くが、途中にスーパーがあり、二人の職場のほぼ中間にある。リビングの横に小さな洋室があって、寝室とは別に使えた。


 不動産会社の担当者が管理会社に電話しているあいだ、俺たちはその洋室に入った。


「ここなら、裁縫するときの机も置けそう」


 里帆が窓の横を見ていた。

 俺は鞄からメジャーを取り出した。


「こっちに棚かな」


 壁の幅を測り、床にかがんで奥行きも確かめる。

 里帆が俺の肩越しに数字をのぞいた。


「そんなに大きいのにするの?」

「今のと同じくらいだと、足りないと思って」

「怪獣、増やす予定?」

「こはるたちもいるでしょう」


 里帆の手が、俺の肩で止まった。


「一緒の棚?」

「嫌?」


 聞き返すと、彼女は首を振った。


「ううん。別々に置くんだと思ってた」

「段を分けたら、いけないかな。まだ棚を決めてないから、置きたいのに合わせて探せるし」


 俺は立ち上がり、何もない壁を見た。


「眠そうなのは、下にするよ。けっこう重いから」

「じゃあ、こはるたちは上かな」

「うん」

「地震のときも落ちないようにしたいね」

「扉がついてるのを探そうか」


 里帆は壁を見たまま、うなずいた。

 それから鞄を開けた。


「写真、撮ってもいい?」

「まだ何も置いてないけど」

「うん。置く前も、残しておきたい」


 取り出したのは、いつもの小さなラッコだった。

 青い上着を着ている。初めて拾った日より、襟の形が少し整っていた。


「服、直した?」

「よく気づいたね。襟だけ縫い直したの」


 俺は手のひらを差し出した。

 里帆がその上にこはるを載せる。


 写真の向こうに、二人で測った壁があった。

 今は何もないけれど、ここに棚を置いて、彼女の机を置く。休日には隣の部屋で映画を見て、ときどき片方だけ眠ってしまうのだろう。


「もう少し、こっちを向けて」


 里帆の声に、俺は顔を上げた。


「あ、こはるを、って意味だったんだけど」

「そっちか」


 笑い声と一緒に、シャッターの音がした。


 撮れた写真を見せてもらうと、俺まで写っていた。

 手のひらにラッコを載せた俺が、妙に嬉しそうな顔をしている。


「これでいい?」


 里帆が聞いた。


「これがいい」


 俺が答えると、彼女はその写真を、すぐに俺へ送ってくれた。


~完~


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