婚活で出会った女性に「年収は気にしません」と言われたが、どうやら本当らしい。
「年収は、あまり気にしません」
そう言われたとき、俺はコーヒーのカップを持ち上げかけていた。
婚活を始めて八か月。三十四歳。住宅設備を扱う会社の、どこにでもいる営業職。年収は四百六十万円で、借金はなく、貯金はそれなりにある。
結婚を申し込むときの説明としては、たぶん悪くない。胸を張るほどでもない。
目の前に座る三枝里帆さんも、俺と同い年だった。
友人夫婦の紹介で会うことになった人で、事前に聞いていたのは、印刷会社で事務の仕事をしていることと、甘いものが好きだということだけだ。
「紹介してくれた美穂から、ちゃんと働いている方だとは聞いてます。それで、今のところは」
里帆さんはメニューを指で押さえた。
「八代さん、プリンとチーズケーキだったら、どちらにします?」
「プリンですかね」
「じゃあ、私もプリンにします」
迷いのない決断だった。
俺はカップを戻した。
会社の規模も、役職も聞かれなかった。
今まで会った人たちが、おかしかったわけではない。生活をともにする相手なのだから、収入を確認するのは当然だ。転勤の有無も、共働きの希望も、大事な話だと思う。
俺だって、相手が仕事を続けたいのかは気になる。
ただ、勤務先を答えた直後、質問が目に見えて減ったことが二度あった。
昇進すればどれくらい増えるのか、と聞かれた夜には、会社の人事制度を調べ直した。
最近は仕事の話になるたび、次に提出する書類を探すような気分になっていた。
「本当に、聞かなくて大丈夫ですか」
「必要になったら聞きます。八代さんも、私のことで気になることがあれば聞いてください」
そこでようやく、俺も彼女の収入を知らないことを思い出した。
「分かりました」
「あ。でも、一つ聞いてもいいですか」
やっぱり来た。
俺はわずかに背筋を伸ばした。
「家に、使わないけど捨てられないものってあります?」
用意していた回答が、一つも使えなかった。
「……説明書、とかですか」
「説明書?」
「捨てたあと困る気がして。もう持ってない家電のも、たぶんあります」
里帆さんは一瞬きょとんとして、それから笑った。
口元を隠すのが間に合わなかった、という笑い方だった。
「それ、私もあります。引っ越したとき、前の部屋の給湯器のが出てきました」
「給湯器は、さすがに持ってこなかったでしょう」
「はい。説明書だけ連れてきました」
俺もつられて笑った。
運ばれてきたプリンは、思っていたより大きかった。
里帆さんはまず一口食べて、目を細めた。
「これにしてよかった」
その顔を見たら、昇進した場合の年収を頭の中で計算していた自分が、急におかしくなった。
*
二度目に会ったのは、その二週間後だった。
昼食のあと、川沿いを歩いた。近くで小さな手作り市が開かれていて、里帆さんが足を止めたので、一緒にのぞくことにした。
アクセサリーや焼き菓子の店に交じって、手のひらほどの布の帽子を売っている店があった。
里帆さんはそこを少し長く見ていた。
「赤ちゃん用ですか」
俺が聞くと、店の人が笑った。
「ぬいぐるみ用なんです」
「ああ、なるほど」
小さい帽子にも、裏地がついている。自分の指先を見てから、もう一度帽子を見た。俺が作ったら、表裏をひっくり返す前に壊しそうだった。
「こういうのって、全部手で縫うんですか」
「ミシンも使いますよ。仕上げは手縫いですけど」
隣の里帆さんが、なぜか俺の顔を見ていた。
「買うんですか?」
「今日は、見てるだけです」
そう言って、彼女は店の人に会釈した。
帰り道、今度は旅行の話になった。
「旅行って、荷物が多いほうですか」
「少ないですね。一泊ならリュックだけです」
「なくても困らないものは、持っていかない?」
「物によります。里帆さんは?」
「少し、多いです」
「充電器を何本も持っていくとか」
「それもあります」
それ以外もあるらしい。
俺は、前に出張先へ持っていった文庫本の話をした。結局一ページも読まなかったのに、往復ずっと鞄に入っていた。
「持っていかないと、読みたくなったりするんですよね」
「そうなんです」
里帆さんが、深くうなずいた。
本について、そこまで共感された経験はなかった。
帰宅後、友人の健吾に連絡した。
〈三枝さん、いい人だね〉
すぐに電話がかかってきた。
『お、どうだった?』
「楽しかった。ただ、ちょっと変わった質問をする」
『どんな?』
「使わないけど捨てられないものはあるか、とか」
『片付けの話?』
「俺もそうかと思ったけど、荷物は多いらしい」
健吾が電話の向こうで笑った。
『まあ、分かんなかったら本人に聞けよ』
「そうだな」
電話を切る前に、つい聞いてしまった。
「俺の趣味って、伝えてる?」
『特撮? いや、仕事と年齢くらいだけど。言っちゃまずかった?』
「いや。別に」
別に、と言いながら、少しほっとしていた。
俺は子どもの頃から特撮が好きだ。
今でも休日に昔の作品を見るし、気に入った怪獣のフィギュアを買うこともある。
ただ、以前、婚活の席で話したときに、相手から困ったような笑顔を向けられた。
『子どもができたら、一緒に見られますね』
悪気はなかったと思う。
けれど、子どもがいなければ見てはいけないもののような気がして、それからは趣味を聞かれると「映画」と答えている。
里帆さんにも、まだ話していなかった。
*
三度目は、植物園へ行った。
屋内展示を回って、温室の外にあるベンチで休んでいたときだ。
里帆さんが鞄からハンカチを出した。その端に何かが引っかかって、一緒に転がり落ちた。
小さな、茶色いものだった。
俺は足元から拾い上げた。
手のひらに収まる、ラッコのぬいぐるみ。薄い青の上着を着ていて、片方の袖が少しだけめくれている。
「あっ」
里帆さんが、今までで一番慌てた声を出した。
「すみません」
「大丈夫ですよ。土のところには落ちてないです」
軽く底を払って差し出したが、彼女はすぐには受け取らなかった。
「こういうの、まだ好きで」
「ラッコ?」
「……ぬいぐるみです」
声が、さっきより小さくなっていた。
「謝ることですか、それ」
言ってから、何か責めるように聞こえただろうかと思った。
でも彼女は俺を見たまま、ゆっくりまばたきをした。
「引きません?」
「びっくりはしました。鞄から出てくると思わなかったので」
嘘をついても仕方がない。
「旅行の荷物って、この子ですか」
「はい」
「本より小さいですね」
彼女の口元が、ようやく緩んだ。
「この服、この前の手作り市みたいなところで?」
「あ、これは自分で縫いました」
「これを?」
俺はもう一度、青い袖を見た。
「袖、どうやってひっくり返すんですか」
里帆さんは今度こそ笑った。
「先の丸い棒を使うんです。お箸みたいな」
「やっぱり指じゃ無理なんですね」
「たぶん、八代さんの指だと」
そう言って、彼女は受け取ったラッコの袖を直した。
手つきが、やけに丁寧だった。
「小学生の頃から好きなキャラクターなんです。これは最近出た、小さいサイズですけど」
「名前はあるんですか」
「キャラクターの名前は、こはるです」
「ラッコなのに、こはる」
「ラッコにも、春は来るので」
真顔で返されて、俺は吹き出した。
少しして、里帆さんが膝の上のこはるを見ながら言った。
「前に付き合ってた人に、もういい年なんだからって言われたことがあって」
俺は口を閉じた。
「結婚したら全部しまってね、って。人が来たとき恥ずかしいからって」
「全部?」
「はい。私も、飾る場所は相談するつもりでしたし、増やしすぎないようにはしてたんですけど」
それきり、彼女は少し黙った。
ラッコの袖口を、親指で撫でている。
「一緒に集めてほしいわけじゃないんです。興味がなくてもいいし、イベントにも一人で行けるし。でも、好きだって言うたびに、まだそんなのって顔をされるのは……しんどくて」
俺は、自分の部屋の棚を思い浮かべた。
大人になってから買った、子どもの頃に欲しかった怪獣たちが並んでいる。
「それで、捨てられないものがあるかって聞いたんですか」
「ちょっと遠回しすぎましたね」
「説明書って答えて、すみません」
「いえ。あれはあれで、よかったです」
里帆さんは小さく笑って、それから顔を上げた。
「結婚するなら、自分の好きなものを、馬鹿にしない人がいいんです」
言い切ったあと、彼女は少し照れたように視線を落とした。
俺は膝の上で両手を組んだ。
「俺も、言ってないことがあります」
彼女の肩が、わずかに強張った。
前置きが大げさすぎた。
「特撮が好きなんです」
「……特撮?」
「怪獣とか。今も見てます。フィギュアも持ってます」
里帆さんは、何か考えるように俺の顔を見た。
「さっき、拾うとき」
「はい」
「頭をつかまなかったの、それでですか」
俺は自分の手を見た。
たしかに、両手で胴体を持って渡した気がする。
「いや、分からないです。首が取れそうに見えたのかもしれません」
「取れません」
きっぱり言われた。
里帆さんが、こはるを持ち上げた。
「よかったら、見せてください。八代さんの怪獣」
俺はスマホを取り出した。
棚の写真を探す指が、少し忙しかった。
*
写真を見せ始めて五分で、俺は自分が説明しすぎたことに気づいた。
「すみません。シリーズが違う話までしました」
「いえ。でも、一度に全部は覚えられません」
「ですよね」
「この、顔がちょっと眠そうなのだけ覚えました」
彼女が指したのは、俺の一番好きな怪獣だった。
作中では街を三つ壊し、防衛隊を壊滅寸前まで追い込んでいる。
「眠そう、ですか」
「違いました?」
「いや、言われてみると」
画面を見直した。
たしかに、朝が弱そうな顔をしていた。
その帰り、駅の改札前で俺は次の約束をした。
映画でも、食事でもなく、彼女が行きたいと言っていた海辺の町へ、日帰りで行く約束だった。
四度目のデートは、よく晴れた。
市場を歩いて、海鮮丼を食べて、海の見えるカフェに入った。
テラス席に座ると、里帆さんは鞄の中を一度見て、そのままファスナーを閉めた。
「こはる、います?」
「いますけど」
「出さないんですか」
「今日は、一緒に来てるので」
俺のことらしかった。
「写真、撮りたかったんじゃないですか」
「……少し」
「じゃあ、撮りましょう」
里帆さんは周りを見た。隣の席は空いていて、店員もほかの客の対応をしている。
鞄からこはるを取り出し、飲み物の前に座らせた。
今日は、紺色の帽子をかぶっている。
「それ、あのとき見てたやつですか」
「はい。あとで通販で買いました」
「なるほど。似合ってます」
彼女はこはるの位置を直して、スマホを構えた。
「八代さんの飲み物も、少し入れていいですか」
「どうぞ」
俺がグラスを寄せると、彼女は二枚だけ撮った。こはるを鞄に戻し、今度は俺を見て笑った。
「ありがとうございます」
「いえ」
俺はストローに口をつけかけて、止めた。
「もう撮らなくていいですか」
「大丈夫です。氷、溶けちゃうので」
ストローから、冷たいコーヒーが上がってきた。
目の前で、彼女がいちごのソーダを飲んでいる。
写真に写っているのは飲み物とぬいぐるみで、俺の顔は入っていない。
それでも、彼女の楽しい一日の中に自分がいることが、妙に嬉しかった。
帰りの電車を待ちながら、その写真を送ってもらった。
俺のアイスコーヒーは、左端に三分の一だけ写っていた。
「これ、今日の写真として、保存していいですか」
「もちろん」
それから里帆さんが、少し間を置いて聞いた。
「八代さんは、写真、撮らなくてよかったですか」
「撮りましたよ。海とか」
「二人では、撮ってないなと思って」
スマホを持つ手に、力が入った。
「……撮ります?」
「はい」
ホームの端の、誰もいない壁の前で、俺たちは並んだ。
画面を見ながら位置を調整していると、彼女の肩が俺の腕に触れた。
シャッターを押してから、俺は画面を確かめずに言った。
「里帆さん」
「はい」
「次から、友人の紹介で会ってる二人じゃなくて、恋人として会いたいです」
自分で言って、回りくどいと思った。
「付き合ってください」
彼女は俺を見上げた。
写真を撮ったときより、ずっと近いところに顔があった。
「はい。私も、そうしたかったです」
到着を知らせる放送が流れた。
俺はスマホをしまいかけて、写真を確認していないことに気づいた。
画面の中で、俺はひどく緊張した顔をしていた。
隣の彼女は、きれいに笑っていた。
*
付き合い始めてから、里帆さんは俺の部屋にも来るようになった。
最初の日、棚の前で足を止めて言った。
「実物だと、けっこう大きいですね」
「この一体だけです。箱を開けたとき、俺も思いました」
「置き場所、測らなかったんですか」
「横幅だけ測りました」
怪獣の尻尾が、棚から少しはみ出している。
里帆さんは笑ったが、顔が眠そうだと言ったときと同じ笑い方だった。
俺も一緒に笑えた。
俺は彼女の部屋で、こはるの仲間たちに会った。
大小取り交ぜて十二体。低い棚に並んでいて、その隣には裁縫箱と、布の切れ端を分けた透明のケースがあった。
「もっと部屋中にいるかと思いました」
「いっぺんに並べると、掃除が大変なので。季節で少し入れ替えてます」
押し入れに保管しているものもあるらしい。
「増える一方にならないんですか」
「なりかけたので、月の予算を決めました。買わない月の分は、イベントに行く交通費にしたり」
彼女は棚の手前にいた一体の、曲がった襟を直した。
「八代さんは?」
「一体が高いんで、欲しいのを選んで、何か月か積み立ててます」
「予約してから届くまで、長いですよね」
「なんで知ってるんですか」
「この前、公式のお店を見たので。眠そうな子、ないかなって」
俺は返事をする前に、棚のラッコを見た。
彼女も俺の好きなものを、俺のいないところで思い出してくれたのだ。
「……同じ怪獣の、大きいサイズが今度再発売されるらしいです。持ってるのとは造形も違うので、気になってて」
「じゃあ、場所は測っておいたほうがいいですね」
「はい」
その晩、俺は棚の奥行きを測った。
もちろん、趣味の話ばかりしていたわけではない。
食べ物の好みも、実家との距離も、仕事の愚痴も話した。
彼女は辛い料理が苦手で、俺は洗濯物を畳むのが遅かった。彼女は休日の午前中に用事を片付けたい人で、俺はできれば一時間長く寝ていたかった。
ある日、一緒に見た特撮映画の感想を聞いたら、彼女は困った顔をした。
「怪獣はよかったです」
「人間側は?」
「途中、誰が誰を裏切ったのか分からなくなりました」
俺も初めて見たとき、分からなかった作品だった。
逆に、彼女の好きなキャラクターの短編アニメを見た俺は、途中で寝た。
起きたら毛布がかかっていて、テレビには停止画面が映っていた。
「すみません」
「眠くなるんですよね。私も寝る前によく見ます」
「そういう用途もあるんですか」
「あります」
感想を合わせなくても、次の約束がなくなることはなかった。
*
初めてちゃんと意見が食い違ったのは、彼女の誕生日の前だった。
付き合って三か月。彼女が気になっていると言っていた店を予約して、プレゼントを探し始めた。
俺が選んだのは、小さな石のついたネックレスだった。
以前、彼女がよく着けているものと似た形で、値段も背伸びしすぎてはいない。
ただ、まだ買ってはいなかった。
色を間違えたくなくて、店のページを彼女に送ったのだ。
〈こういうのは好きですか。誕生日にと思って〉
しばらくして、返事が来た。
〈かわいいです。ありがとう〉
続けて、もう一通。
〈でも、まだ買ってないなら、相談してもいいですか〉
その夜、電話をした。
「実は、来月出る、こはるの記念セットが欲しくて」
知っていた。
二週間前に、一緒に発売案内を見たからだ。箱の中に小さなベンチと二体のぬいぐるみが入っていて、彼女は画面を何度も拡大していた。
「あれ、自分で買うんじゃなかったですか」
「そのつもりでした。でも、もしよかったら、お誕生日にもらえたら嬉しいなと思って」
俺は、開いていたネックレスの商品ページを見た。
「誕生日だから、普段は自分で買わないもののほうが喜ぶと思って」
電話の向こうで、彼女が少し黙った。
「せっかくだし、アクセサリーのほうが記念に……」
言いかけて、止まった。
何が記念になるかを、もらう本人より俺が分かっているような言い方だった。
俺はページを閉じた。
「ごめん。せっかく欲しいものを教えてくれたのに」
彼女の息が聞こえた。
「ネックレスを選んでくれたのは、嬉しかったです」
「はい」
「でも、こはるをもらえたら、私はすごく嬉しいです」
俺は目を閉じた。
彼女が喜ぶかより、恋人に贈るプレゼントとして正解かどうかを考えていた。
同僚に聞かれたとき、ぬいぐるみを贈ったと答える自分まで、想像していた。
「欲しいって言ってたの、覚えてたんです。でも、そっちは最初から候補に入れなくて」
「うん」
「こっちのほうが喜ぶはずって、勝手に決めました」
里帆さんは少しして言った。
「私も、最初の返事で言えばよかったです。かわいいのは本当だったんですけど、それだけだと伝わらないですよね」
「言ってもらえてよかったです」
本当に、買う前でよかったと思った。
もらったあとなら、彼女はネックレスを大事に使ったかもしれない。俺はそれを見て、自分の判断が正しかったと思ったかもしれない。
「記念セット、予約しようか」
「はい。お願いします」
そこで、俺は発売案内にあった注意書きを思い出した。
「届くの、誕生日より二週間あとですよね」
「そうなんです」
「当日、手ぶらになってしまう」
「一緒にご飯食べますよね」
「食べます」
「じゃあ、楽しみは二回です」
その言い方に、俺は救われた。
誕生日当日、予約した店で食事をして、デザートの皿が出てきたところで、彼女はこはるを一体だけ鞄から出した。
「先に撮る?」
聞くと、彼女が顔を上げた。
「お願いします。すぐ撮ります」
「いや、急がなくていいけど」
「アイス、溶けるので」
彼女は写真を撮って、こはるをしまった。
スプーンを持った手を止めて、俺を見た。
「八代さん」
「はい」
「直人さんって、呼んでもいいですか」
付き合って三か月も経つのに、俺たちはそこだけ初対面のままだった。
「もちろん。俺も、里帆って」
「はい」
里帆は一度うつむいてから、小さく笑った。
「直人さん、ありがとう」
俺のデザートのアイスが、皿の上で溶け始めていた。
*
冬になる頃には、どちらかの部屋で夕飯を食べる日が増えていた。
ある金曜日、訪問先でのトラブルが長引いて、約束の時間を一時間以上過ぎた。
途中で遅れると連絡はしたものの、里帆の部屋の前に着いたときには、肩も腹も重くなっていた。
「ごめん。待たせた」
「お疲れさま。手、冷たいね」
里帆は俺の顔を見ると、詳しい事情を聞くより先に風呂場へ行った。
「手を洗うの、お湯になるまでちょっとかかるから」
蛇口から水の流れる音がした。
俺は玄関で靴を脱ぎながら、その音を聞いていた。
温め直したシチューを食べているうちに、仕事の話がぽつぽつ口から出た。
俺の確認不足もあったので、ただ腹を立てて終われる話ではなかった。
里帆は向かいで聞いて、ときどき「それで?」と言った。
「月曜、もう一回行ってくる」
「そっか」
里帆は鍋を見た。
「おかわり、いる?」
「少し」
食べ終わると、疲れが急に追いついてきた。
皿を運ぼうと立ち上がったら、先に里帆が二枚重ねていた。
「今日は、座ってていいよ」
「でも」
「この前、私が締め日で遅くなったとき、洗ってくれたじゃない」
そうだった。
あの日は里帆が食事中にうとうとしていたので、帰る前に食器を洗った。
台所に立つ彼女の背中を見た。
今日は何をしていても、次に片付けるべきことが頭に浮かんだ。それが今、少し静かになっていた。
「里帆」
「うん?」
「ありがとう」
彼女は振り返って、手についた泡を流してから笑った。
「シチュー、明日の分もあるよ」
そのとき、明日もここで食べたいと思った。
来週も、来月も。
年が明けて、俺の誕生日に里帆がくれたのは手袋だった。
「怪獣は、欲しいのを自分で予約してたから」
選んだ理由を聞く前に、そう言われた。
「仕事の鞄、外のポケットが小さいでしょう。これなら入るかなって」
薄手なのに、はめると暖かかった。
俺は指を曲げたり伸ばしたりしてから、彼女の手を握った。
「どう?」
「暖かい。私の手も」
里帆が、握り返してきた。
俺はそのまま、駅まで歩いた。
*
結婚の話をし始めたのは、知り合って八か月ほど経った頃だった。
きっかけは、里帆の部屋の更新案内だった。
俺の部屋より二か月早く、契約の更新を迎えるらしい。
「次も、ここにするの?」
聞くと、彼女は案内の紙をテーブルに置いた。
「考えてる。直人さんは?」
自分の部屋のことを聞かれているのは分かっていた。
でも、俺は別の答えを返した。
「一緒に住めたらと思ってる」
里帆が、俺を見た。
「ただ一緒に住むんじゃなくて。結婚して」
言ってしまうと、心臓の音が気になった。
レストランも予約していない。指輪もない。テーブルの真ん中には、半分だけ残ったせんべいの袋があった。
「俺と、結婚してもらえませんか」
里帆はしばらく俺を見て、それから、せんべいの袋を脇に寄せた。
空いたところへ手を伸ばして、俺の手を取った。
「はい。私も、一緒に暮らしたいです」
俺は握られた手を見て、ようやく息を吐いた。
「……よかった」
「断ると思ってた?」
「思いたくはなかった」
里帆が笑って、俺の手を両手で包んだ。
そのまま少し黙っていた。
更新の期限を二人で確認したあと、俺は言った。
「じゃあ、部屋を探す前に、お金の話もしようか」
「うん。私も、ちゃんと相談したかった」
それぞれの収入と貯金、毎月使っている金額を書き出した。
俺の給与明細を見た里帆は、残業代の欄と、その月の帰宅時間を確かめた。彼女の賞与は年によって変わるので、家賃は二人の毎月の手取りで無理なく払える範囲にしたい、という話になった。
「そういえば、最初は気にしないって言ってたね。年収」
里帆はペンを止めた。
「金額で、会うかどうかは決めないって意味だったんだけど。ちょっと説明が足りなかったね」
「いや。俺も、聞かれないことばっかり気にしてた」
「結婚するなら、お互い知っておきたいよ。働き方も変わるかもしれないし」
その通りだと思った。
俺の仕事には残業がある。彼女の会社も、ずっと今の状態とは限らない。
子どもを望むかどうかは前から話していたが、授かった場合に仕事や生活費をどうするかも、これから具体的に考えていく必要があった。
初めて会った日の俺なら、この話を始めるだけで身構えたかもしれない。
今は、彼女の書いた数字の横に、自分の数字を並べられた。
「趣味のお金も、ここから出す?」
俺が聞くと、里帆は少し考えた。
「共通の生活費と貯金を決めて、残りはそれぞれで使うのがいいかな。大きい買い物は、先に話して」
「分かった。場所も取るからな」
「そう。場所も」
そこは、俺より少し強くうなずいた。
「予約した大きいほう、尻尾も長いんだよ」
「見た。あれ、今の棚に入る?」
「斜めなら」
「直人さん」
「新しい棚は、奥行きも測ります」
里帆が、ペンを持ったまま笑った。
*
部屋探しは、思っていたより難しかった。
通勤時間、家賃、日当たり、台所の広さ。
よさそうな部屋でも、俺の会社から遠すぎたり、里帆の帰り道が暗かったりした。
三軒目の内見で、ようやく二人の意見がそろった。
駅から十分ほど歩くが、途中にスーパーがあり、二人の職場のほぼ中間にある。リビングの横に小さな洋室があって、寝室とは別に使えた。
不動産会社の担当者が管理会社に電話しているあいだ、俺たちはその洋室に入った。
「ここなら、裁縫するときの机も置けそう」
里帆が窓の横を見ていた。
俺は鞄からメジャーを取り出した。
「こっちに棚かな」
壁の幅を測り、床にかがんで奥行きも確かめる。
里帆が俺の肩越しに数字をのぞいた。
「そんなに大きいのにするの?」
「今のと同じくらいだと、足りないと思って」
「怪獣、増やす予定?」
「こはるたちもいるでしょう」
里帆の手が、俺の肩で止まった。
「一緒の棚?」
「嫌?」
聞き返すと、彼女は首を振った。
「ううん。別々に置くんだと思ってた」
「段を分けたら、いけないかな。まだ棚を決めてないから、置きたいのに合わせて探せるし」
俺は立ち上がり、何もない壁を見た。
「眠そうなのは、下にするよ。けっこう重いから」
「じゃあ、こはるたちは上かな」
「うん」
「地震のときも落ちないようにしたいね」
「扉がついてるのを探そうか」
里帆は壁を見たまま、うなずいた。
それから鞄を開けた。
「写真、撮ってもいい?」
「まだ何も置いてないけど」
「うん。置く前も、残しておきたい」
取り出したのは、いつもの小さなラッコだった。
青い上着を着ている。初めて拾った日より、襟の形が少し整っていた。
「服、直した?」
「よく気づいたね。襟だけ縫い直したの」
俺は手のひらを差し出した。
里帆がその上にこはるを載せる。
写真の向こうに、二人で測った壁があった。
今は何もないけれど、ここに棚を置いて、彼女の机を置く。休日には隣の部屋で映画を見て、ときどき片方だけ眠ってしまうのだろう。
「もう少し、こっちを向けて」
里帆の声に、俺は顔を上げた。
「あ、こはるを、って意味だったんだけど」
「そっちか」
笑い声と一緒に、シャッターの音がした。
撮れた写真を見せてもらうと、俺まで写っていた。
手のひらにラッコを載せた俺が、妙に嬉しそうな顔をしている。
「これでいい?」
里帆が聞いた。
「これがいい」
俺が答えると、彼女はその写真を、すぐに俺へ送ってくれた。
~完~




