「書類と話してるみたいだ」と婚約破棄されました。殺しの会社の審査係なので、あなたが書いた依頼書も規約どおりに処理します
依頼人の欄に、わたしの名前が書いてあった。
標的の欄には、親友の名前があった。
うちの会社は、人を殺す依頼を請けている。
表の看板は便利屋だ。引っ越しも遺品の整理も、ふつうに請ける。裏の依頼は紹介でしか入ってこず、入ってきたものは必ず審査部を通る。わたしはそこで依頼人に電話をかけ、規約を読み上げ、たいていは断っている。九割は断る。警察に辿られる仕事を請けなかったから、この会社は三代続いた。
先週は、夫を殺してほしいという依頼を断った。依頼の三日前に、保険金の受取人を書き換えていたからだ。警察が最初に見るのはそこです、と電話で教えると、依頼人は黙った。黙った人は、たいてい、それで諦める。
ただし、依頼人が身内のときだけは、審査部を通さずに社長室で受理される。身内の依頼を、身内が審査しないための決まりだ。そのかわり、受理された依頼の写しは、一枚残らず審査部に回ってくる。
その朝、わたしの机にあったのは、その写しだった。
本当なら、今日は休みのはずだった。婚約して一年の記念に、温泉へ行く予定を入れていた。三か月前に一緒に行く人がいなくなって、休みも取り消した。
婚約は、父と真壁の家が決めた。真壁遼は実行部でいちばん腕のいい人で、わたしより三つ上だった。わたしは断らなかった。毎日なにかを断る仕事をしているくせに、自分のことだけは一度も断ったことがなかった。
遼と食事に行くと、あの人はいつも窓の外を見ていた。出口と人の流れを見ておくのが仕事の癖なのだと言った。わたしの顔を見るのは、会計のときくらいだった。
三か月前、遼は莉緒を選んだ。高校からの親友で、うちの家業を知っている数少ない外の人間だ。高校二年の冬、家のことを誰にも言えないのがつらくなって、莉緒にだけ話した。莉緒は怖がらなかった。透子がいつも誰かの頼みを断ってばかりいる理由が分かった、と言って笑った。あの笑い方に、わたしは九年、救われてきた。
婚約をやめると告げられたのは、昼どきの定食屋だった。会社の人間がよく使う店だ。
「お前といると、書類と話してるみたいだ」
遼は、周りに聞こえる声で言った。隣で莉緒が、困った顔で笑っていた。
「透子は強いから、平気だよね」
平気よ、とわたしは答えた。店じゅうが、わたしの次の言葉を待っていた。わたしは味噌汁を飲み終えて、自分のぶんの勘定を払った。
その夜、莉緒から電話があった。泣きながら謝って、それから、遼のことを教えてほしいと言った。
わたしは教えた。朝が弱いこと。味噌汁は白味噌がいいこと。待ち合わせの時刻を、いつも三分で切ること。ちょうどの時刻は人が時計を見るから、という仕事の癖が抜けないのだ。気にしなくていいよ、と言った。
怒鳴っても泣いても、遼は戻ってこない。戻ってきてほしいのかどうかも、わたしには分からなかった。分からないまま、親切にしていた。親切にしているあいだは、自分が何をなくしたのかを数えなくて済んだ。
写しを、もう一度読んだ。
実行は今夜。場所は、莉緒の住むマンションの裏の駐車場。時刻は、二十一時三分。
依頼人の印は、わたしの認め印だった。審査部の机の、二段目に入れてあるものだ。わたしは印鑑を、印面を左に向けてしまう。引き出しを開けると、右を向いていた。
手は震えなかった。
特記事項の欄には、こう書いてあった。
二十一時三分、男性一名が現場に駆けつける。実行担当は、その時点で退くこと。
うちの会社では、ヒーローの出てくる話は好まれない。理由は、規約の第十九条に書いてある。
筋書きは、それだけで読めた。
莉緒が襲われる。遼が駆けつけて、間一髪で助ける。依頼人を辿れば、わたしの名前が出てくる。婚約者を奪われて、嫉妬で親友を殺そうとした社長の娘。婚約が壊れたのは、わたしのせいになる。遼は命の恩人として莉緒の隣に立ち、会社にも残れる。
父は今週、海外にいる。社長室の受理は、秘書の代決で済んだのだろう。身内の依頼はめったに来ないから、秘書は特記事項が規約に反していることに気づかなかった。
わたしは今日、休みのはずだった。写しを読むのは明日になる。そのころには、全部終わっている。
遼は、わたしの休みを覚えていた。わたしが休みを取り消したことは、知らなかった。旅行がなくなったあと、わたしがどこで何をしていたのかを、あの人は一度も気にしなかったのだと思う。
このまま何もしなければどうなるのかは、分かっていた。わたしは規約を読んで暮らしている。何もしないでいる、という考えが、一瞬だけ浮かんだ。浮かんだことを、わたしは覚えておくことにした。忘れたふりをすると、いつか同じことを考える。
規約を棚から出して、四か所に付箋を貼った。取り消しには、実行担当と監査の立ち会いが要る。第二十三条だ。十八時半に審査部で、と二人に連絡を入れた。
それから、依頼書にある代理人の番号に電話をかけた。知らない番号だった。
「はい」
莉緒の声だった。莉緒は、わたしの知らない電話を一台持って、この筋書きに乗ったのだ。
「依頼人の瀬名です。本日十八時半に、依頼人による取り消しの手続きを行います。代理人の方も、立ち会うことができます」
返事までに、長い間があった。
「……透子?」
莉緒に名前を呼ばれるのは、三か月ぶりだった。
「それから、今夜は出歩かないでね。冷えるから」
それだけ言って、電話を切った。
昼からは、ふつうに仕事をした。依頼を二件、断った。どちらの依頼人にも、いつもの声で規約を読み上げた。声は、一度も揺れなかった。
十八時半、審査部の応接に、監査室長の小田切さんと鷲尾さんが座った。鷲尾さんは今夜の実行担当で、父より年上で、遼に仕事を教えた人だ。
取り消し届の理由の欄にペンを当てたとき、廊下を走ってくる音がした。実行部の人は、足音をさせずに歩く。遼もそうだった。
ドアが開いた。遼だった。後ろに莉緒がいた。
「小田切さん、聞いてください」
遼は、わたしではなく監査室長に向かって言った。定食屋のときと同じ、周りに聞かせる声だった。
「依頼人はそいつです。婚約がなくなったのを恨んで、莉緒を殺させようとした。俺は、それを止めに行くつもりでした。特記事項の男は、俺です」
莉緒は、遼の袖をつかんでいた。
小田切さんが、わたしを見た。
「瀬名さん」
「はい。いくつか、確認させてください」
わたしは、窓口でいつも使っている声で言った。
「まず、特記事項です。当社は、依頼人が指定する中止の条件を受け付けていません。第十四条です。それに、殺したい相手のところへ、自分でヒーローを駆けつけさせる依頼人は、わたしの知るかぎりいません」
遼が口を開きかけた。
「次に、時刻です。二十一時三分。ちょうどの時刻は人が時計を見るから、三分で切る。あなたの癖よ。三か月前、わたしが莉緒に教えたくらいの」
莉緒の手が、遼の袖から離れた。
「それから、印鑑。わたしは印面を左に向けてしまうの。今朝、引き出しを開けたら右を向いていた。押した人は、わたしの癖を知らない人です」
「そんなもの、証拠に」
「最後に、代理人の番号。かけたら、莉緒が出ました。標的ご本人が代理人をしている依頼は、うちでは初めてです」
遼は、もう監査室長のほうを見ていなかった。
「それでも、俺は莉緒を助けに」
「ええ。王道の展開なら、ヒーローは必ず間に合いますね」
わたしは、付箋の二枚目を開いた。
「うちの規約では、間に合ったヒーローは目撃者です。第十九条。実行中の現場に駆けつけた方は、目撃者として処理されます」
鷲尾さんが、低い声で言った。
「特記事項は読まん。規約にない条件は、読まないことにしている。二十一時三分に誰が来ようが、俺は最後までやる」
遼の顔から、色が引いていった。
この人は、自分で書いた筋書きのいちばんいい場面で、自分に仕事を教えた人に処理されるところだったのだ。莉緒と、二人で。
「取り消してくれ」
声が、かすれていた。定食屋で聞いたのとは、別の人の声だった。
「頼む。取り消してくれ」
頼む、と言われたのは初めてだった。
「取り消しは、依頼人ご本人にしかできません。第二十二条です」
わたしは、ペンを持ち直した。
「依頼人は、わたしです」
それから、届を遼のほうへ向けた。
「理由の欄は、二つのどちらかです。依頼人が気を変えた、と書けば、わたしが莉緒を殺す依頼を出して、途中で気を変えたことになる。あなたがさっき言ったとおりの話ね。依頼人本人の意思によらない依頼、と書けば、このまま監査です。どちらにしますか」
「真壁」
小田切さんが言った。
「反論は」
遼は、口を開いて、閉じた。どちらを口にしても、依頼書を書いたのが自分だと認めることになる。
わたしは、本当のほうを書いた。ペンの音が、応接にやけに大きく響いた。
遼は棚から用紙を一枚抜いて、立ったまま書きはじめた。退職届だった。監査に呼ばれる前に辞めた者は、追わない。第三十条にそう書いてある。
あの人が規約を読んだのは、たぶん、これが初めてだった。
莉緒は、遼が書き終えるのを待たずに出ていった。一度も振り返らなかった。
鷲尾さんは立ち上がって、わたしの前で一度だけ足を止めた。
「いい読み上げだった、お嬢」
遼が出ていってから、わたしも棚から用紙を抜いた。
同じ用紙に、違う理由を書いた。一身上の都合、とだけ。本当の理由は、もう少し長い。毎日他人の依頼を断ってきたのに、自分の人生のことだけは、一度も断らなかった。その分を、今日まとめて断る。
書き終えたところで、携帯が鳴った。監査が動くと、社長のところへ自動で知らせが行く。
「聞いた。よくやった」
海の向こうからでも、父の声は大きかった。
「それでこそ瀬名の跡取りだ。真壁の家には、わたしから話をつける。次の相手も、こちらで探しておく」
「お断りします」
自分の声が、窓口の声と同じだったことに、少し驚いた。
父が黙った。黙った人は、たいてい、それで諦める。
「退職届は、社長室の机に置いておきます」
電話を切った。泣くかと思ったが、泣かなかった。怒鳴る理由も、もうどこにもなかった。
二十時半、莉緒からメッセージが来た。ごめんね、とだけあった。
少し考えて、返した。
次に誰かを好きになったら、その人が待ち合わせを何分で切るか、見ておいて。癖は、本人より正直だから。
これが、わたしが莉緒にする最後の助言になると思う。
二十一時三分、わたしは駅のホームにいた。
誰も駆けつけてこなかった。駆けつけてもらう必要のあることは、全部自分で片づけておいた。
行き先は、まだ決めていない。断るのは得意なので、どこかの窓口なら雇ってもらえると思う。
風が冷たかった。莉緒は、ちゃんと家にいるだろうか。
電車が来たので、乗った。




