第3話 「あたり前」と兆し
その日を境に、三葉は以前より少しだけ他人を意識するようになった。クラスメイトが笑い合う声や、窓の外で部活に励む同級生たち。その全てが、彼女の中でシャッターを切らせる動機になっていた。
そんな日々の中、部活帰りの夕暮れ、キノと二人で駅前を歩くことになった。部室の話題から少し脱線して、最近撮った写真の話をしていた。
「草牧さんの写真、ちゃんと見せてもらってないけど、どうなの?」
三葉は苦笑いした。「ただの練習です。風景ばっかりで、つまらないですよ」
「それ、違うよ」キノは立ち止まって、ゆっくりと三葉のほうを見た。「つまらないとか面白いとかってさ、写真の表面的な話でしょ。どれだけその一瞬を『自分がどう見てたか』を残せたか。それがいい写真の定義だから」
彼の目は穏やかで真剣だった。それが何よりも、三葉をドキリとさせる。
「……じゃあ、私が見た景色って、ちゃんと写ってるのかな」
「写ってるよ。君が写るし、君が写したいものもね」
まるでシャッターが降りた瞬間を見透かされるようで、三葉は目をそらした。そのわずかな沈黙の後、彼女は意を決したようにカメラのストラップを握りしめる。
「今度見てください。私の写真……いいものかどうか、自信はないですけど」
キノは柔らかく笑った。「おう、見せてよ。そのときはちゃんと正直に言うからさ――期待しないでね」
そう言いながら歩き出す彼の背中は、夕焼けに溶け込みそうだった。三葉は、心の奥で小さな炎が灯るのを感じた。
放課後の部室にて
後日、三葉は写真を数枚選び、部室でキノに見せた。被写体は校舎の廊下や、曇り空の町並み。どれも大きなテーマがあるわけではなく、ただ「見えたもの」をそのまま収めた写真だ。
一枚ずつ手に取ったキノは、「へー」とか「いいね」とか、特に具体的な感想を口にしない。その態度が気になって、三葉は少しだけ焦った。
「やっぱり、面白くないですよね……」
「いや、そういう話じゃないよ。ただね――草牧さんさ、自分が気づいてないけど、結構『他人を見てる』んだなって」
「……え?」
「たとえばこれ、校舎の窓越しに撮った教室の写真、そこに小さく誰かがいる。この誰かがさ、どんな人かとか気になって、でもそこまで踏み込まずに撮った感じが出てるじゃん。それってつまり、君自身だよ」
キノの指摘に、三葉はふっと息をのんだ。その言葉が核心を突いていることが、自分でわかってしまう。自分は、どこかで周囲を眺めるだけで、「輪」に入ることを恐れていた。
「撮る側でいるって楽しいけどね、たまには撮られる側も経験したほうがいいんじゃない?」
彼の言葉に押されるように、三葉はカメラを預けた。キノが向けるファインダーの中で、自分はどんなふうに映るのだろう――そんなふうに思いながら。
数日後、三葉は部室で写真を整理していた。机に広げられた枚数が増えるたび、自分が何を見ていたのかが少しずつわかってきた気がする。
ふと手が止まる。キノが撮ってくれた自分の写真が、一枚だけ紛れ込んでいた。校舎の窓辺、夕方の逆光の中でぼんやりと座っている自分の姿。それを見つめていると、自分が見慣れない他人のように思えた。
(私って、こんな顔してるんだ……)
自分がこんな表情をするのは、キノといるからだ。これまで無意識にしてきた「普通の顔」が、彼の目にはどんなふうに見えていたのか。その答えが、この一枚に収められている気がしてならなかった。
ふと窓を見上げる。外では夕焼けが一日を締めくくるように空を染めている。部室に流れるその柔らかな光が、何かを告げているような気がした。
三葉はそっと写真を胸に抱えた。そして、その鼓動が自分自身への問いと重なっていくのを感じた。
「やっぱり、私は先輩のこと……」
答えが自然に浮かび上がった瞬間、彼女の心には不安よりも温かさがあった。