婚約の白紙化と後継と
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マリーナ・タルボット伯爵令嬢は、豪奢な応接室で待ち続けていた。彼女が今居るのは、カートレット公爵家の一室で、婚約者のネヴィル・カートレット公爵令息との月に一度の交流の時間だった。
マリーナは14歳、ネヴィルは2つ年上の16歳。婚約が結ばれたのは一年前だが、正式に婚約披露をするのはマリーナが成人の15歳になってから、ということになっていた。と、言うのも、二人の婚約は王国全体の今後を左右する政治的なもので、相性が悪いので白紙になりました、とできない事情があったのだ。
ネヴィルは政略で結ばれたマリーナのことを、厭わしく思っていて、この恒例のお茶会も、一時間は遅れてやってきて、侍女が淹れるお茶を一口飲んで「ではまた来月」と席を立つのだった。
マリーナは、茶の席にやってきたネヴィルに挨拶すべく立ち上がり、カーテシーの一番深い体勢のままだった。そのままマリーナはネヴィルが退出するのを待って、頭を上げた。
「今月は挨拶の声も出せなかったな」ネヴィルのマリーナへの態度を嘆く時期は既に過ぎ、最近は挨拶のどの辺りまで出来るかどうか、の予測を立てるまでになっていた。
それでも初めて会った時は、まだゆっくりお茶を飲めた事もあった。
「ネヴィル様は、読書がお好きですの?」
マリーナはネヴィルが読んでいた本の書影で、自分の所属の読書サロンから出版となった本だと気付いて話しかけた。初対面の女性との茶会で、本を読む時点でネヴィルはマリーナを邪険にしていたのだが、この時はマリーナの好きなタイトルに舞い上がって気が付かなかった。
どんどん対面時間が短くなっているので、そろそろ婚約破棄も時間の問題かな、とマリーナが考えながら玄関に向かっていると「あら」と若い女性の声が聞こえた。
「まだいらっしゃったの?」ベサニー・ディビス子爵令嬢がマリーナに話しかけてきた。
「お兄様はとっくに家をお出になったのに、お見送りすらされないなんて、それでも婚約者なのかしら?でも義務としての婚約者ですもの、寄り添う気持ちがなくても仕方ないかもね」とベサニーは、マリーナだけに見せる意地の悪い顔でそう言った。
「お久しぶりです。ベサニー様」マリーナはベサニーに会釈した。ベサニー・ディビスはネヴィルの父親の亡き妹の忘れ形見で、カートレット公爵家に我が物顔で出入りしている。公爵には弟が二人妹が三人いて、その一番末の妹がベサニーの母親だった。
ベサニーの両親は愛し合った末の結婚で、父親は今も亡き妻を想って暮らしているらしい。恋愛結婚を至上に思う故か、事ある毎にマリーナとネヴィルの婚約を貶めにかかるので、マリーナはベサニーに会うのが嫌だった。
ベサニーのこの考え方は、ネヴィルにも影響を与えているのではないかとマリーナは思っている。初対面の時からネヴィルはマリーナに冷たかったからだ。
つまりはマリーナ自身の何かを嫌っているのではなく、政略結婚の相手、であるマリーナが気に入らないのだろうな、と推測しているのだが、それはあながち間違いではないように思えた。
カートレット公爵夫妻は、ベサニーの横槍に対してどう思っていらっしゃるのだろう、というのがここ最近のマリーナの懸案事項だった。
マリーナの実家のタルボット伯爵家は、その血統が建国時に遡るほど古くからある由緒正しいもので、貴族派の中では主要な位置にいた。前王の王弟が臣籍降下したのが祖となるカートレット公爵家との婚姻は、貴族派と国王派とのつながりを強くするためのもので、互いの派閥を大事に思っているというパフォーマンスでもあった。本来ネヴィルの気持ち一つで無下に出来るものではないのだ。
タルボット家に着いてマリーナは、執事に父親に会えるかどうか確認を取った。
「お父様にお会いできるかしら?」
「奥様と居間でお茶をなさっているので、お嬢様の帰宅をお知らせいたしましょう」執事のカーソンが、そのまま両親が揃っている居間に知らせに行った。
マリーナは着替えてから、居間に顔を出した。
「お父様、お母様、只今戻りました」
「お帰りなさい、マリーナ。ネヴィル様はお変わりありませんか?」母のモニークが声をかけた。
父のユージーンもマリーナにお帰りと言って笑いかけた。
「お父様、今日のご挨拶は声すら聞いてもらえませんでしたわ。もうそろそろ婚約破棄だ、とか言われそうですわ」
「……そうか」ユージーンは額に手をやって考え込んだ。
「今日もまたベサニー様がお屋敷にいらして、また嫌味をおっしゃってたのよ」マリーナは憤懣やる方ない、という顔で本日の報告をした。
「ネヴィル様とベサニー嬢にも困ったもんだな、カートレット公爵ともそろそろ話し合ったほうが良さそうだ」
「相性が悪いという以前の問題でした。マリーナ嬢には大変申し訳無いことをしました」と、カートレット公爵夫妻は頭を下げた。
タルボット伯爵夫妻は、目の前の貴人が頭を下げたことにすっかり恐縮してしまい、自分たちがカートレット公爵夫妻に諫言するとともに婚約の撤回を申し出にやって来たことが頭からすっかり飛んでしまった。
それでもなんとか話し合いは穏便に終わり、二人の婚約は白紙に戻った。
カートレット公爵家でも、ネヴィルとマリーナの交流の際に付けた侍女たちから話を聞いていたようで、度々ネヴィルに注意していたらしい。夫妻からのお叱りがあってさえ、あの態度であったことで、ネヴィルは嫡子としての信用を著しく下げた。下に二人弟がいることもあり、彼の今後はタルボット家の与り知らぬところである。
従姉妹のベサニー嬢は、公爵家を出入り禁止になり子爵家にも援助が無くなったらしい。それまで亡き妹の忘れ形見を娘のように可愛がっていたことを、皆が知っているので、一体何事があったのか?と憶測が飛び交っていた。
政略としての結婚は、ネヴィルの従兄弟に当たる侯爵家の嫡子と、タルボット家とは別の貴族派の伯爵家の令嬢が婚姻を結ぶ事となった。他にも数件、見合いが成立していた。
流石に一組の結婚だけにすべてを懸けるのは危ぶまれたので、保険としてマリーナたちと同様に行われた見合いが成立した結果だった。政略を自分が背負わなくて済んだことを、マリーナは有り難く思ったが、自らの婚約を考えて淑女らしからぬため息をついた。
春になり、各貴族家が王都に集った。その年に15歳になる男女が成人として社交界に出るためでもある。また、婚約披露や結婚披露の場でもあるし、政治的な発表が行われることもある大事な季節でもあった。
マリーナも新成人として、社交界にデビューした。言ってみれば、結婚市場に出たわけである。若い女性は16〜20歳位の間に婚約結婚を推奨される。男性も遅くとも22〜24歳位までに結婚する事が多い。
結婚が遅くなるということは、選択の幅が狭くなるからだ。未婚女性が一番多い春のこの季節が、男性たちにとってもチャンスが多いのだ。
「あの婚約が成立してたら、今こんなに心細く思わずに済んだのに」マリーナが零すと、親友のエレナ・スウィニー伯爵令嬢が、婚約してたらきっと今頃は従姉妹のことばっかり優先する婚約者に、イライラしてたわよ、と言われた。
「あら、本当にそんな事になっていそうだわ」と二人で笑っているところに、フロアの中央でダンスが始まった。マリーナはそこで踊っている一組の方を見て驚いた。
「ねえ、あの方を見て、ネヴィル様ではなくて?」マリーナがエレナの視線をダンスを踊っている人々の方に誘導すると、エレナも「あら、そうだわ」と同意した。
「あのパートナーの方、どこかで見たことが……」
「ああ、あの方、キティ・サール子爵令嬢よ。ほら、王家派のカートレット公爵家の寄子のサール子爵のご令嬢の」
「……思い出したわ、カートレット家にお伺いした時にお茶出してくださってた方よ」マリーナは、ふわふわした赤毛の令嬢を見て思い出した。いつも申し訳無さそうな顔で、お茶を淹れていた侍女の顔を。
「踊っていただけませんか?」穏やかな声がマリーナとエレナに掛けられた。声の主は二人の若い貴公子だった。
「喜んで」マリーナとエレナは顔を見合わせて、にっこりと笑ってから、二人に返事をした。
ダンスの夜から数日、マリーナとエレナは王都のカフェで向かい合い、あの社交界デビューの日の話をしていた。 マリーナとエレナが踊りながら、情報収集したところによると、ネヴィルとキティは二年前の社交界デビュー以来ずっと二人でのみダンスをする仲らしい。
「それってもう婚約者も同然に思われてるわよね?」
「マリーもネヴィル様と婚約なんてことにならなくて良かったわよ。だって、横入りした女だと社交界で思われちゃうもの」
「それもあって、わたくしと距離を取られたのかしら?なら、一応わたくしのことも考えてくださったのかもね」
「あら、そこまで気の回る方かしら?あの侍女だってどんな心持ちで、マリーにお茶淹れてたのか知れたものではなくてよ」
「ねぇ、それって他人事なら面白そうだとは思わなくて?」
「あら、マリーもそう思って?」
マリーナとエレナはクスクス笑い合って、手にした紅茶を一口飲んだ。二人はそのまま頭を突き合わせ、手にした万年筆でメモを取り真剣に話し合った。
マリーナとエレナは、親友同士でさらに言えばある種の仕事仲間でもあった。元々は、仲の良い友達同士の趣味の暴走から始まったのだ。
マリーナとエレナが出会ったのは、読書好きの集まるサロンだった。まだ幼かった二人はサロンのお姉様方とは違って、冒険物語が好きだった。当時は男児も女児も性差なく同じ冒険物語を読んで、心躍らせていた。
そうは言っても成長するにつれ、女性向けのものは、恋愛が主になっていく。その中で、二人は自分好みの冒険物語を紡ぎ出したのである。冒険あり恋愛ありの、現存しない自分たちの求めるものを。
読書サロンで発表されたそのお話は、それはもう人気が出た。お姉様方にも紳士方にも好評だったので、それは社交界にも広まった。
初めは写本で読まれた物語は、サロンの有力者の持つ出版社から出版された。少女二人の名前は出さずに、ペンネームで。たちまち庶民の間にも拡散していった。
二人は、人気作家になったのである。
マリーナとエレナの社交デビューの数か月後、とある恋物語が庶民向けの軽い読み物として出版された。
侯爵家の嫡子とメイドをしている男爵令嬢との恋愛がメインで、王命の婚約者や身分の違いを乗り越えて、結ばれるというハッピーエンド。
身分違いの恋、という部分に庶民の夢が広がったのか、これも一大ムーブメントを起こす勢いで売れた。こっそりと貴族の女性たちの間でも読まれるようになり、そうなると、これってあの二人がモデルでは?という噂話が社交界で囁かれた。二人がダンスを踊るシーンなど、まるで見ていたのか?と思うくらいに詳細に語られたのだ。
社交界ではネヴィルとマリーナの婚約は公になっていなかったが、ある程度貴族派と王家派の融合政策は知られていたので、カートレット公爵家に貴族派の令嬢との婚約が打診されただろうことは、想像に難くなかった。
しかも社交界ではかならずと言っていいほど、側に子爵令嬢、それも公爵家で侍女をしている令嬢がいるのである。
ネヴィルは、従妹のベサニーが今庶民の間に流行っているのよ、といって教えてくれた小説を読んだ。
「お兄様とキティのことみたいでロマンティックよね」
ベサニーは公爵家に出入りできなくなったが、時々ネヴィルと街のカフェで会っていた。伯父様からお兄様に代替わりしたら、きっとお兄様が家にも良くしてくださるわ、との下心を持って、ネヴィルとキティを持ち上げていた。
ネヴィルは本の人気に後押しされた気分で、両親にキティとの結婚を申し出た。今なら、自分たちも祝福されるかもしれない、という「あわよくば」の心持ちでもって。
マリーナとエレナもそれぞれ、同じ読書サロンの紳士方との婚約が整った頃、カートレット公爵家の嫡子のお披露目兼婚約発表があった。ネヴィルのすぐ下の弟、ヒューゴー・カートレットと貴族派のバーサ・ノークス伯爵令嬢が次の春に結婚の運びとなったらしい。
バーサとマリーナ、エレナは同じサロンに属していたので、バーサは二人が作家であることを知っていた。
「あの本って、ネヴィル様がモデルなんでしょう?」
「あらバーサ様ったら、そんなことははっきりと口に出すようなことでは無くってよ」
「作り話ですもの。特定の方をモデルにしたものではなくってよ」
「庶民向けのありがちな夢物語ですわ」
「それにきちんと教育を受けた貴族なら、あんなのを真に受ける人なんていらっしゃらないわよ」マリーナが言い切った。
「そうね、きっと夢見がちな従妹と、身分を甘く見るような侍女に囲まれたとしても、そんなふわふわしたお考えの嫡子なんて、実在したらご家族が恥ずかしいわよねえ」とエレナもくすくす笑って答えた。
バーサは青くなったが、二人の言うことに間違いはないので、言葉もなかった。王命の見合いを蔑ろにし、誠実に対応しなかったバーサの婚約者の兄は、領地で代官として元侍女の妻と暮らすことになったらしい。
内々の問題なので、まだ婚約者に過ぎないバーサも詳しく知らされていないが、公爵様の判断もそういうことであったらしい。
ヒューゴーとバーサの結婚式が素晴らしかったわね、と社交界でその豪華さが話題になった頃。寄親の庇護を失った、とある二つの子爵家が、爵位返上となりひっそりと消えていった。