始まる前
休日の朝、ヒメはいつもより早い時間に起床した。
日の出もまだな、夜更かしさんな人間なら眠くなり始めるくらいの時間帯。そんな時間に運動着へと着替えたヒメは寮の外に出て、
「おはよう、ヒメちゃん」
「おはよう、ジンゾウ」
最早見慣れた運動着姿のジンゾウにおはようの挨拶。
ジンゾウは相変わらず寮に帰る時はヒメを見送ってから男子寮に帰るし、帰る前に翌朝こうして迎えに来ても良いかと確認を取り、そして当然のようにこうして待っている。
二年になっても揺らぐ事無く同じ事を繰り返すのは忠犬染みているが、どうしても素が駄犬なのが困ったところだ。
「ヒメちゃん、全然食べる量増えないね」
「そっちが増えすぎてるのだわ」
まずは運動前の軽い食事。
なのだが、軽めで消化しやすい食事ではあるものの、ジンゾウの前では大盛りのどんぶりがとっくに空になっていた。ヒメなら食べ切る前に伸び切るだろう量を瞬殺とはどういう体をしているのやら。
「……ジンゾウ、あとよろしく」
「うん!」
食べ切れなかったスープとパンを隣に座っているジンゾウにスライドし、ジンゾウはぺろりとそれを平らげる。
ヒメも頻度を上げてカロリー摂取を頑張っているのに、どうしてこう胃袋が育ってくれないのか。身長も全然育ってくれなくて嫌になる。この体躯だからこその動きは自慢出来る程だがそれはそれ。青い芝生に憧れるのが乙女心というものだ。
「んん~~……ヒメちゃん、ちょっと痛い……」
「それでも大分やらかくなっているのだわ。はい、もうひと頑張り」
「あばばばば」
食後、腹ごなしとしてストレッチ。
開脚したジンゾウの背中をぐいと押せばぺたりと倒れた。一年間、長期休暇中はどうだったか知らないけれど、学園に居る間は欠かさずヒメと行動を共にしていた為、必然的にストレッチも毎日していた。そのお陰か随分柔らかくなったものである。
「じゃ、今日は少し走る量を減らして、ペースを上げていくのだわ」
「うん。今日は忙しいもんね」
「ええ」
しかし、だからといって日課を疎かには出来ない。
そう思いながらヒメは走り出し、一瞬遅れ、しかしすぐに追いついたジンゾウが並走する。
休日は三時間がいつもの事だが、今日はペースを上げて二時間コースだ。
「……いや、これ、凄く、ちょっと、疲れるね……!」
「まったくなのだわ……」
二時間後、二人して汗だくになっていた。
いつものペースで走る分には三時間でもそこまで消耗しなくなってきていたが、少しペースを上げたら二時間走るだけで全身がぐっしょりだ。ヒメは額の汗が目に入りそうになったので、指でその水滴を拭い飛ばす。
「それでも、最低限をこなしておけば安心だもの」
「確かに、これやっとくと体を動かしやすくなるしね」
そう笑うジンゾウの額にも汗が流れている。
いや、額だけじゃない。首にも汗が垂れているし、運動着に覆われた服は汗による湿気でべたついていた。勿論それはヒメも同じだが、
「ふふ」
「?」
思わず笑ったヒメに、ジンゾウはきょとんと目を丸くする。
「どうしたの、ヒメちゃん?」
「いえ、ただ」
ふふ、ともう一度笑って、ヒメは言った。
「そんなに汗だくになるだなんて、ジンゾウも随分人間らしくなったわね」
その言葉にジンゾウは目が零れ落ちそうな程大きく見開き、くしゃり、とすぐに表情を崩す。
嬉しいような、噛み締めるような、泣きそうな顔を隠すように俯き、鼻を啜りながら袖で顔をぐしぐしと拭った。
「……ヒメちゃんは、いつも僕が欲しい言葉をくれるね」
「汗だくになってるって言葉なんかを欲しがるなんて、随分と変わった好みなのだわ」
「はは、そういう意味じゃないってわかってる癖に」
ジンゾウは顔を上げる。その目はまだ少し潤んでいて、とろけるように細められて、熱の籠った視線がヒメに向けられた。
だが、そんなものはヒメにとってどうでも良い。
「私はただ、私一人が汗だくの中、ジンゾウが疲れなんて知りませんというすまし顔でケロッとしてるのに苛立っていた。それが同じように疲れて、同じように汗だくになっている。それが愉快で笑っているだけの事を、そんな風に過大評価される方が困るのだわ」
「ヒメちゃん、こういう時僕を甘やかしてくれたりしないよね」
「甘やかす理由がないもの」
ただ正直に言っているだけで、ジンゾウが求めている言葉を意図して与えているつもりもない。
それに、
「それにジンゾウ、別に甘やかされたいわけでもないでしょう」
「……そう思う?」
「甘やかされたいのなら、わざわざ私の訓練に付き合ったりせず、もっと甘やかしてくれる相手を探すのだわ。でも、そうせず、甘えたりもせず、妥協もしない。私の訓練に文句も言わずついてくる。もっと本気を出せ、と強制する私に付き合って何時間も組手だなんて、甘やかすという言葉とは真反対なのだわ」
ヒメの言葉に、へら、とジンゾウが緩く笑った。
「ヒメちゃん、本当に自覚が無いんだね」
「は?」
「僕が勝っても諦めずに対策を練って、実際に僕に勝って、その動きに僕が対応して、でも諦めずに同じ事を繰り返して僕を負かして。そうして、どんどん強くなる僕を何度も上回ってくれる。僕は最強でも反則でも無敵でも無いんだって事を、何度だって証明してくれる」
それが、
「僕はそれが、すっごくすっごく嬉しいんだよ」
最強のジレンマみたいな事を言って来たのでヒメはちょっとイラっとした。
対抗できる相手も居なければ立ち向かってくれる相手も居ないので最強になっても良い事が無い、と言っているようなものだ。煽り以外の何だと言うのかその言い方。
「…………言っておくけどジンゾウ、私は普通にジンゾウの事を反則だとは思っているのだわ」
「そうなの!?」
「一度見ただけの動きに対応して、模倣、それを超えて応用まで編み出せるだなんて普通に反則でしかないのだわ」
「でもヒメちゃん、諦めないよね?」
「反則程度で何故私が諦めなければならない?」
思わず素で問い返せば、ぷはっ、とジンゾウが思わずといった様子で笑った。
「反則が相手なのに、それでも当然勝てるって思って挑んで、そして実際に勝ってみせるなんてヒメちゃんくらいだよ」
「勝ち続ける、は出来ていないのだわ。そう考えればこの程度、探せばどこにだって居る。諦めない、なんて誰にだって出来ることだもの」
選ばれし者にしか抜けない剣なら、成る程選ばれし者にしか抜けないだろう。
けれど、抜けない剣を諦めずに引っ張り続ける、は誰にだって出来る。
「十回中九回負けると決まっていても、百回中九十九回負けるとしても、それならその分だけ挑めば一度の勝ちは得られるのだわ」
「出来ないから皆立ち止まるんじゃないの?」
「やろうと思えば出来るのだわ。身長を伸ばそうと思っても思い通りになんていかないけれど、諦めない、っていうのは誰にだって出来るじゃない」
「そっか、確かにヒメちゃんの身長は諦めた方が良さそうだもんね」
ヒメは回転を加えた拳をジンゾウの鳩尾に食らわせた。
「あぐっ……」
「諦めて! いないと! 言っているのだわ!」
良い意味で人間らしく変わって来た癖に、相変わらず失言癖だけ変わらないのは何なんだこの駄犬。
「でもヒメちゃん、そんなに大きくなりたいの?」
「いいえ」
「えっ!?」
「大きくなりたいわけではないけれど、小さいからといって侮られるのが不愉快なのだわ。舐め腐った態度を取られるのも不愉快です」
「成る程」
「それに、体躯が小さいとその分だけ容量に差が出てしまう。量を食べられないし、筋力を付けようにも体躯が大きい相手とは違う形の付き方になる。体躯が大きい者がやろうとしても出来ない事を私は出来るけれど、体躯が大きい者の動きを私は決して出来ないのだわ」
「でもヒメちゃん、前に一瞬巨人みたいな攻撃してきたよね」
「あれは威圧感と位置取り、踏み込みや遠心力等を利用しつつそう感じさせる攻撃をしただけ。一瞬騙す事は出来ても、あくまで一瞬。一瞬の小手先なんてどこの誰でも出来るでしょう」
「ヒメちゃんも中々に反則じゃない?」
「私は真っ当に鍛えてこの技を得たのだわ。それを言うのは私より弱い者だけでしょう」
「あー」
「だから、もう少し誇りなさい。私の立つ瀬が無い。貴様が自分を低い程度と見做す度、私の品格も貶められていると知れ」
「えっ!? え、どういう……?」
「…………駄犬」
「何で!?」




