つがいだからって愛されているとは思わないわ
見知らぬ少年に手首を掴まれ、ビックリして悲鳴を上げた5才の夏。
「見つけた俺のツガイ!」
「えっ…きゃあっ…」
「ああ、えっと…俺のお嫁さん、お名前は?」
それは獣人の番として、私が彼の家に嫁ぐことになることが決まった瞬間だった。
***
「なんて憧れのシチュエーションとして定番よね」
「そうですねぇ」
「小さい頃から結婚相手が決まってて良いわねぇ、運命の二人って言うけれども…釣った魚に餌をやらないタイプの相手だと憧れられてもいいものではないですよって答えてしまうわ」
私はベッドで婚約者からの手紙を読みながらモーニングティーを淹れてくれたメイドに話しかけた。
「お嬢様…。まさか、今年もですか?」
「そう、結婚するまで放置の年がはじまるみたい。どうせ結婚しても放置よ」
「お嬢様、おいたわしや…」
「向こうが番って言って捕まえておいていざ思春期がきたらぽいって!!ぽいって!!」
「お嬢様、一応贈り物は、贈り物はきてます。あと手紙」
「ちゃんと返事は出してるし、私だって贈り物もしてるけど!」
「そうですね、いつも真摯に対応しておりますものね」
「将来、嫁ぐって決まってるのに仲良くなりたかったのに!それだけなのよ!」
「子供の頃から一緒にお育ちで、仲良しでしたけど」
「最近嫌われちゃったの!原因はわからないけど!」
「思春期ですから色々と複雑なのでは?」
「最後に会ったときすまないが結婚するまでは私に触らないで欲しいって言われたのよ。思春期の複雑で片付けるには酷すぎるわ」
「ああー…それは」
「誰よ!獣人は番を嫌うことがないって定説を出したのは」
「番だからと、お祭り騒ぎして外堀を埋められての婚約でしたしね」
「そう、手首を掴まれて番見つけたって言われたかと思えばいくつかその場でテストされて間違いなく番ですって言われて知らない間に婚約内定よ。遊びだと思ってたのがテストだったってオチつき」
「あの、見知らぬ少年に抱っこされて帰ってきて旦那様が卒倒したお嬢様初めての遠出の日。従者真っ青」
「あれは、従者はどうにもならないわよ。身分が違ったから…従者は不敬にならないようにやんわり守ってくれてたわ」
「状況把握して向こうを刺激しないようにガードしてましたものね」
「全力で護衛は威嚇されてたわ。護衛に守ってもらえてたのにそれを台無しにして向こうを遊びに誘ってしまった私の落ち度よ。5才にあのやりとりはわからないわ」
「あのあと護衛が申し訳ないってひたすら謝ってましたね」
「そう、悪いことをしたわ…。遊びの邪魔しないでって邪険にしてしまったけど、今となっては邪魔してくれたほうがよかったわ」
「まあ、遅かれ早かれ番として見つけられた瞬間におしまいですが」
「そうよなんなのよあの法律」
「番認定でお互いに好いているようだとほぼ強制婚約ですものね」
「言葉巧みに誘導されたわ。遊んでくれておやつくれて優しくしてくれたら5才なんてすぐに好きっていうわよ」
「それにしてもお嬢様と相思相愛だと思ってましたがね」
「でも、会ってくれないのよ。エスコートだっていつもお父様」
「最後にお二人でお会いしたのは…」
「1年前」
「1年…。1年もきちんとお会いできないと不安になりますよね」
「お兄様が学園でお会いしてるのでお元気なのは知っているけれど」
「そうなんですよね…社交会場でもドレスは送ってくれども別々の参加でしたものね」
「それ!最後にお会いしたときよ。ドレスを送ってくれたからそれを着て出席したのにエスコートはお父様だし。欠席なのかと思ってたらお兄様と一緒に参加してるし。お父様と一緒にいるときにあちらから結婚するまでは触るなって言われたんだけど娘がそんな風に言われてもお父様は娘を無下にしたって怒らないし。ドレスは誉めてもくれなかったからきっと自分の贈ったドレスって気付いてないのよ」
指を折りながら、過去を思い出す。
「その…旦那様はなんと仰っていましたか?」
「ああー…うん。仕方ないねって」
「仕方ないね…ですか」
「そう!ひどいわよね!仕方ないねですって」
「娘を愛する父としては珍しい反応ですね」
「でも、事実なのよ!」
「お母様に相談は?」
「したけど!向こうは今必死に我慢してるのだから、貴女も今は我慢なさい。って言われておしまい」
「我慢」
「結婚前なのだからそんなに私が嫌なら…今なら番なんて誤解でしたで済ませてあげるのに」
私は、婚約者からの手紙をしまう。そしていくつか来ている別の手紙をチェックしてため息をついた。
手紙箱にばさりと、乱雑にしまいこむ。
「番が誤解なんてあるんですかね」
「出会ったのが八歳と五歳よ。間違いの一つや二つきっとあるわよ」
「ううーん、そうですかね。番を間違える…」
「なんか…。含みがある言い方じゃない?」
「いえいえ、とんでもないです」
「本能で決められた番なんて本当はいないのよ」
「それで?」
「向こうは自由に過ごしていらっしゃるみたいだし…私も嫁ぐまでは彼のことを忘れて好きに過ごそうかしら。諦めも肝心よね。嫁いでからもきっとやることがないでしょうけど」
「お嬢様…」
「番だから愛されてるなんて思い込み、今日で捨てるわ」
「寂しそうな顔しないでください」
「馬鹿ね、寂しそうな顔なんてしてないわ」
「そうですか?」
私はベッドから足を下ろしてしっかりと立った。
「ええ、今日から新しい人生の始まりよ。まずは着替えるわ。…身支度を一人でやってみたいの。教えてくれる?」
「畏まりました」
ドレス選びに着替え、洗顔。
化粧水をつけて軽くパフ。
身支度は整った。
よし、交渉の時間だわ。
***
「お父様ー!お父様!お父様!いらっしゃる?」
私は、今日の来客がないことを確認してからお行儀は悪いけれど屋敷をまわって父を探した。
「おお、どうした?」
書斎から父がひょこっと顔を出した。
少しふくよかなまるっとした可愛いボディ。
ベストがよく似合うお茶目な眼鏡のお父様。
いつもにこにこだけど怒ると怖い、書記長官。
最近、ちょっと白髪交じりの髪がダンディーさを演出してると思うわ。
ライネル長官は怒らせるなというのが書記官室の合言葉ですって。
「少々お時間いただきたいのです。今後の相談で」
「今後…何かしたいことがあるのかい?一年後には向こうに嫁にいくだろう。それまでには終わる程度のことなら構わないよ」
「いや、それなんですけどね。ほら私、子供の時から嫁ぐ相手が決まっているでしょう。でも…ここ1年、なんならあと1年ほど会わない、エスコートなし、結婚するまでは触らないでって言われたので多分破談になると思うんですよ」
「ああー…いやいや、お前たちは番だろう。破談にはならないぞ」
「番、番って言われてきましたけど何かの間違いだと今なら思うんですよね」
「間違いじゃないか見分けるために番のテストがあるだろう、それを何度やっても同じ結果だっただろう」
「だから、きっとそれが間違いなんだと思うんですよね」
お父様がすがるようにメイドを見る。
メイドはふるふると首をふった。
お父様が誤魔化しの笑みをうかべた。
「お父様、誤魔化すのが下手ですね。でもそれでいいです。お家の都合で嫁ぐなんて番ではないとざらにありますし。わがままを聞いてください」
「そうじゃないんだが…。それで、何がしたいんだい?」
「新しい家庭教師と家事です」
「家庭教師はかまわないが…家…事…?」
「ええ、将来のために覚えておこうと思いまして」
「必要ないだろう」
「考えてみてください!今は必要ないですけども嫁いだら屋敷に一人なんですよ!」
「侍女に執事、コックがいるだろう。それに夫婦で住むじゃないか」
「最初はいますね!あっ間違いました。若夫婦なんですから安定した収入の保証がないじゃないですか」
「領地の収入があるだろう。わざわざ家事をしなくとも」
「お父様、お願いです。まずは簡単なものでいいので家事を会得したいのです。お勉強も刺繍も頑張りますし、家事を覚えたらお仕事でお疲れのお父様にお料理を差し上げたりできますわ。娘の手料理、食べてみたくありませんか?」
「うぐっ…」
「家事をする前に貴女。花嫁衣装の縫い取りはどうなってるのかしら?」
「ああ、エリー!来たのか。騒がしかったからな」
お父様がほっとした顔でお母様を見る。
もうちょっとだったのに…。まあいいわ。
クールビューティーなエリーお母様。
ちょっとつり目の狐顔。私の狸顔はお父様譲りなのかしら。
外での評価は冷たい人って言われてる。そんなことないのに。お父様といるときはとても綺麗な顔で笑うの。
美人でクールなお母様は社交界の花扱い。
まるでカラーの花のようだと言われているの。
家だと飴と鞭の使い手。
頭ごなしに否定はしない。やることやってからならわりとなにに興味を持とうが許してくれる。
やることやらずに行動するときつめの罰はあるけど…。
だから今回もきっと大丈夫。
「お母様!このあと伺おうとおもっていたのです。嫁ぐまでに刺繍とお勉強を頑張ろうと思いますのでスケジュールを詰め込んでいただきたいの」
「勉強はいいけれど花嫁衣装のレース縫い取りが先よ、貴女苦手でしょう。覚えたら将来役立つ技術になるんだから」
「そうなんですの!知識は身を助けるといいますので今日から嫁ぐまでにできる限りのことをやるつもりですわ!」
「はぁー…意気込みはいいけれど、花嫁衣装を投げ出さずにお勉強も頑張れたなら家事の体験も許しましょう」
「ありがとうございます。お母様、お父様」
今日から私、頑張ります!
***
決意してからしばらく経った。
朝は身支度の練習から運動・昼は勉強・夕方は花嫁衣装の縫い取り・夜はこっそり始めた掃除の練習。
他にも空いた時間に予定を詰め込みに詰め込んで、私は体調を崩して寝込んでいた。
結婚するまでに美しい身体を作りたい、そのためには運動が必要ですわと嘯いてお兄様の真似ですのと走り込んだり木刀を振るったあと汗をかいたままでいたせいか…。
深夜まで刺繍の縫い取りをしたあとに、慣れない掃除をしてドレスを濡らしてしまい、乾くまでそのままでいたせいか…。
つらつらと考えながら起き上がり、水を飲んだ。
そのとき、開いていたドアの隙間から学園にいるはずのお兄様の顔がひょこっと覗き込んだ。
「ジェニー。可愛い妹のジェニファー」
「マリウスお兄様!」
お母様と、お父様の遺伝子がいい感じにミックスされた驚きの好青年!マリウスお兄様!顔はお母様似。
お父様と同じ書記官になってゆくゆくは書記長官になれたらいいねと学園でお勉強中。
国の施設で働くには、学園に通って好成績を納めるのが条件ですが、私の自慢のお兄様はなんと主席!
頭が良くて、顔よし!ちょっと女心に疎いのが欠点。腕っぷしはそこそこ。
「入ってもいいかい?」
「駄目です。風邪がうつりますよ」
「残念、もう入ってしまった」
「もう、お兄様ったら。あら…?学園は…?」
「授業が終わってから超特急で帰ってきた。明日には帰ってしまうけど。アーサーもすごく心配してたよ。ジェニー、ちょっと痩せた?」
「最近運動を頑張ってますの。風邪のせいではありませんわ。アーサー様が心配…?まあ、一応婚約者ですものね」
「一応もなにも、番だろう。とても心配していたぞ。僕を揺さぶるほど…」
「番ですけども…。好かれているやらいないやら」
「間違いなく好いてる。そんな心配しなくとも…アーサーはジェニーのこと、大好きだよ」
「そんなことありませんわ。ここ1年ほどちゃんとお会いしてませんし…今年もまたお手紙と贈り物だけでエスコートなし、会うこともないでしょうし…きっと私の顔も覚えてないですわ」
「いや、そんなことはないよ。ジェニーの肖像画と写真をいつも穴が空くほど見てるしジェニーからの手紙と贈り物は存分に眺めたあと失くさないように丁寧にしまってる」
「お兄様、使わずにそれしまい込んでるっていいませんか?」
「いや、贈り物はもったいなくて使えないって騒いでる」
「はあー…それ。贈り物が好みじゃないから使わないときに言う常套句ですわよ」
「そう?いや、アーサーは本当にそう思ってると思う」
「次回から食べ物にしますわ。あとお兄様、肖像画も写真もお兄様が持ち歩いてよく見せてるからだと思いますわ。穴が空くほど見てる、じゃなくて穴が空くほど見せつけられてるだと思いますわ」
「いや、口を開けばジェニー、ジェニーの話だよ」
「やだもう、お兄様。一年も会ってないのですからそんなことないですよ」
「会ってないといったってふたりきりになる場所でだろう?いつもアーサーは…あっいや…なんでもない」
「別にいいです。エスコートはいつもお父様ですし、最後に二人で会話したのは一年前だし…アーサー様から触らないでって言われてますから嫌われてるのは分かってますよ」
「誤解だから落ち込まないで。アーサーはジェニーのことが大切だからこそ会わないようにしてるんだ…いやでもあの様子だと…嫌われてると思うよな…」
「お兄様、今日はなんだか意地悪です。もう、意地悪するなら出てってください」
「ジェニー。そんなに気になるなら今度アーサーにジェニーをエスコートさせるように許可をもぎとってくる。アーサーは天国と地獄をいっぺんに味わうようなもんだろうけど…挙式前の予行演習だと思って…」
「別にいいです。地獄を味わわせてまでエスコートして欲しくなんてないです。夢は一年前までにさんざんみました。今は…もう…。番なんて誤解でしたっていつか言われるんですよ」
「アーサーとジェニーはちゃんと番だ。そうじゃなきゃアーサーはこんなに苦しまないさ」
「こんなに…苦しまない…。ほら、やだもう、やっぱり…」
「ジェニー、熱で錯乱しているのかな。起きる頃にはアーサーから見舞いの届け物がどっさり届くだろう。大丈夫、ジェニーはちゃんと愛されてるよ。心配せずにもう寝なさい」
私はお兄様に押されるがまま布団にまた横たわった。
「……………………そうですね。寝ます。おやすみなさい」
「おやすみ、ジェニー。僕の可愛い妹、いい夢を見るんだよ」
目を覚ました夕方、お兄様との会話をバッチリ覚えていた。その会話を思い出して私はやっぱり番なんて何かの間違いだったのだと確信を深めたのだった。
それにしてもエスコートが地獄のように思われていたなんて…。嫌われたのは分かっていたけれど、少し悲しい。
前を向いて生きると決めたから、嫁いだのちにどうなってもいいようにするって決めたでしょうと自らを鼓舞する。
贈られてきたアーサー様からのお見舞いは執事に頼んで定型文の言葉と流行りの菓子を用意させて学園に戻るお兄様に渡してもらえるように頼んだ。
用意したのは執事だし、持っていくのはお兄様。
私の痕跡がないので受け取っても嫌悪感はないだろう。
今までは必ず、自分で選んでいたし手紙と刺繍したハンカチ、リボンなどを贈っていたけれどもうしないことにした。
すぐに贈れるように、刺繍したちょっとした小物や飾り紐はいつも机の引き出しにいれてあった。
もう日の目を見ることはないだろう。…もったいないな。
定型文と流行りの菓子だけの返礼品を見たお兄様が本当にこれだけでいいのかとわざわざ部屋まで来て確認してきた。
私はいつも手作りの品や手紙をつけるだろうという気遣いだった。
「お兄様。熱で私が用意することもできないですからそれは取り急ぎです。あとはまた贈ります」
そう言うとお兄様は納得して出ていった。
確かに、あれだけでは贈られてきた見舞いの品に釣り合わないなと考えて領地でとれた高級蜂蜜などの食べ物を追加でアーサー様のご実家と個人に届くように手配した。
私に分割された領地のものだし、ある意味これも手作りだわとちょっと面白くなった。
なんて書いていいのか心の整理がつかなかったのでまだ具合が悪いとメイドに内容含めて代筆を頼み、送った。
***
体調を崩してから二週間後。
私は自分に分割された領地のマナーハウスへ静養に来ていた。
ちょっと回復してはこりもせず布団の上で出来る作業を詰め込んで無理をして体調不良。回復しては体調不良を繰り返したからだ。
あのベッド生活でものすごい、刺繍の腕が上がった。
この調子だと花嫁衣装の完成は早まるだろう。
あと少しで自分が縫わなければいけない部分が終わり、針子に渡せそうだ。
静養してる暇なんてないわ。自立しなきゃいけないのに。
勉強もしなければいけないと言ったが、もともと高等学習にマナーなど基本学習はとうの昔に終わっている。
そのため、勉強といっても趣味の専門学習なのだから少し休みなさいと教師にも言われてしまった。
何人かのメイドに執事を連れて、部屋に入る。
暖炉の前の椅子に腰かけたとき、私は気づいた。
人生の大半をきっとこのマナーハウスで過ごすことになるわ。嫁いだあとになにがあってもここは私の領地だから最悪家を追い出されてもこの場所は取り上げられない。
それなのにずっと暮らすのには準備が足りてないという個人的にとても大事なことだった。
物の位置の把握など至急行わなければと気が急く。
「ねえ、今は私がこの屋敷の主人。嫁いだら、相手の家をまとめることになるわよね。ものの扱いが分からなくて困りたくないの。私に家事を教えてくれるわよね」
「お嬢様、病み上がりです。それにまだ家事をやりたいと諦めてなかったのですか」
「お母様にも教師にも勉強も、運動だって一週間はおやすみって言われて暇なんですもの。やりたいの…駄目?」
「ちゃんと決まった時間なにもやらずに休むなら………………簡単なものだけですよ」
「ありがとう!」
雇用主と労働者の関係。
とはいえ、私が幼少期を過ごしたマナーハウス。
全体的に皆対応が甘い。
今は私がこの屋敷の主人。
私がやりたいと言えばお嬢様の頼みならと少しずつ家事を教えてくれた。
徐々に出来る家事を増やしていき、料理以外の家事は専門にはかなわないがほぼ完璧に出来るようになっていた。
普通は入らないバックヤードにもいれてもらい、屋敷のなかを全部把握していった。
「次は料理をしてみたいわ」
「さすがにそれは駄目です」
「ええー、ケチ。火も、包丁も初回は使わないから!シェフの邪魔もしないし…!駄目…?」
「絶対に怪我しない、シェフの注意をよく守る、水であかぎれないようにきちんとケアをする。守れますか?」
「守る、守るわ。火も刃物も使わない料理があるといいのだけれど…」
「……………サラダくらいなら」
「お嬢様、それをパンに挟んだらサンドイッチになりますよ」
「凄い!料理よ。どうやればいいの?」
「ええーっと、この屋敷の清潔な飲み水にレタス、小さいトマトを用意します。トマトはヘタを取ってレタスはちぎって」
「トマトは終わったわ。レタスは…こう?」
「ちょっと大きいです。もっと小さくこれくらいに」
「出来たわ!」
「終わったら飲み水で洗って、完成です」
「見てちょうだい!サラダの完成よ!次はサンドイッチだわ!」
「我々の黒パン、お嬢様の白パンで手本をお見せしますね」
「ねえ!その、黒パンというのを食べてみたいわ」
「うちの黒パンは美味しいですけど、お嬢様にはちゃんとしたパンがあるでしょう」
「いいでしょう?皆はどうやって食べるの?」
そんな風におねだり、わがままを繰り返してやれることを増やしながら過ごした。
実家からの連絡にはまだもうちょっと領地にいたい…と返信し、お兄様からの手紙は最近やった新しいことを書いた。
アーサー様からの手紙には、その都度本を開いて適切な距離を保った節度のある定型文を記載するよう指示してメイドに返信させた。
そのうち、お兄様の手紙におまけのように手紙が同封されるようになったのでついにアーサー様は書くことがなくなったのかと思った。
お兄様が直筆で返信してやれと記載するようになったのでお忙しいと思いますのでお気遣いなく。心安らかにお過ごしください、お返事は不要ですと返信した。
滞在中に居心地がよくなるように整え、屋敷はどんどん充実した。
私もそろそろ帰らなければとは思っていたがどうしても帰りたくなかった。
その頃になると花嫁衣装の縫い取りは全て完成していた。
ひとまずそれだけを実家に届けてもらった。
そのまま、ずるずると領地に2ヶ月以上滞在した。
療養も含めて見逃せない期間になったのかさすがにお母様が様子を見にきた。
「ジェニファー、体調は良くなっているのだからそろそろ帰ってきなさい。あともう少しで社交シーズンですよ」
「お母様…。帰らなければとは思っているのですけれど…帰りたくないのです」
「社交はしなければなりませんよ」
「分かっています。ただ…」
「ただ…?」
「社交場でアーサー様にお会いするのがどうしても怖くて」
「怖い…?なぜ…?貴女達は番でしょう」
「番なんて…きっと子供時の勘違いです」
「テストを受けてまで番だと認定されているのだから疑う余地はないわよ。マリッジブルーね」
「マリッジブルー…そうかもしれないです」
「話を聞くわ」
「端的にいうと結婚まで二年間、アーサー様に会わない。触れないで欲しいと言われたあと、お兄様からアーサー様が私のエスコートは地獄のようだと思って過ごしていると聞かされて心が折れましたの」
「マリウス…貴方なんてことを…」
お母様が頭を抱えていた。
「お兄様から聞いたところによるとプレゼントやお手紙もご迷惑のようでした。今までは好かれていると勘違いしていたため恥ずかしくて顔もあわせたくありません」
「もったいなくて使えないっていわれたのではなくて?
ふたりの間で行き違いがあるわ。次回の社交場ではアーサー様がエスコートしてくださるから必ず参加よ。ドレスも贈ってくださるそうよ」
「………………………………………」
私が黙っているとお母様がぎゅっと抱きしめてくれた。
「可愛い可愛い私のジェニー。ちょっとアーサー様とすれ違ってるだけよ。皆貴女を大切に思ってるわ」
「…………………………分かっていますお母様」
「どうしても辛くなったらお母様のところへ逃げていらっしゃい」
「嫁ぎ先から逃げてもいいですか」
「駄目よ。まずは戦いなさい。嫁ぎ先できちんと話し合ってどうにもならなかったら、一緒に戦ってあげるわ」
「お母様…!」
「あと、半年もしないうちに結婚の書類を提出してあちらの用意した家で暮らすでしょう。…お母様と娘の過ごす時間をあまり奪わないでちょうだい」
「ごめんなさい、お母様。ちゃんと帰りますわ」
「今夜はこちらで過ごした期間の思い出話を聞かせてちょうだい。怒らないから」
そこからお母様と親子の時間を過ごした。
お父様との出会い、結婚式の話、若い頃の話。
普段聞かないような話ばかりで新鮮だった。
次の日、お母様と帰宅した。
お父様にも家族で過ごす時間を減らしてしまって申し訳ないことをしたなと思った。
お父様とお母様が揃ったタイミングで持ってきた材料を使い、うまく作れるようになったサラダにサンドイッチ、紅茶をふるまいサプライズで感謝の気持ちを伝えた。
私が作った組み紐や刺繍ハンカチ、タペストリーなどの贈り物も喜んでもらえた。
出来上がったサンドイッチはお兄様にも届けてもらった。
お兄様にも刺繍したハンカチを添えていつもありがとうと添えた。
そうしたら、帰ってきたのか!それに妹の手料理だって!と嬉しがってバスケットを抱えた状態でわざわざ帰宅したのには笑った。
ばれないうちに独り占めするには帰るしかなかった。とても美味しいから今度またつくってほしい。顔を見れて、元気そうで良かったと言い残して風のように学園に戻っていった。
一週間後、アーサー様がエスコートするダンスパーティーに向けてドレスがやってきた。
贈られたドレスは淡いブルーを幾重にも重ねたもの。
首や腕は薄衣のレースに隠され、上品さを演出している。
艶のある布全体に柄がほどこされ、光をあびるたびにキラキラと輝く。
そして同じ布を用いたヘアアクセサリーとリボン。
装飾品は金のネックレスで、黄色のシトリンが中央に埋め込まれている。
「シトリンに青でアーサー様の色ね」
贈られたドレスはアーサー様の瞳と髪色そっくりの色をしている。
「お嬢様、こんなドレス見たことありません。特にこの光る生地に皆様の注目を集めることでしょう」
「そうかしら」
***
そして迎えた一週間後。
社交界は女の戦場ですとこの日のために肌をメイドと一緒に磨き上げた。
完璧に整えた肉体。
ドレスにあわせたメイク。
贈られてきたブルーのドレスを身にまとう。
同色のリボンで腰の括れを強調し、髪もしっかりと結い上げ飾りをつけた。
ネックレスのシトリンが胸もとを目立たせる。
頑張って準備した結果、私は華のように美しく香りたつ乙女となった。
今日のダンスパーティーは、普段から仲良くさせていただいている伯爵家主催の比較的ライトなもの。
個人的に学校の設立をするほど教育に力をいれており、王宮や王室勤務希望ではない学園生徒の卒業後就職先として人気が高い。
個人学校は勤務先としての条件も悪くない。
また、ダンスパーティーは外部の人間に才能を売り込む場所として学園生徒にも開放されている。
伯爵家もそのつもりで爵位がないとしても学園生徒にダンスパーティーの参加を許している。
ドレスを持っていない人には伯爵家領地にいる自身を売り込みたいデザイナーや腕のいい若手職人が作った作品を貸し出している。
つまり、伯爵家主催のダンスパーティーは若手の才能展示会のようなものだ。
我が家はパーティーに出て欲しいと招待状をもらってお客様として参加する。
伯爵家のダンスパーティーが皮切りとなって我が家の社交シーズンの本番が本格的に開幕すると行っても過言ではない。
学園生徒や最新の流行、若手の才能を売り込まれる側として参加する。そしてもちろん結果が良ければ採用する。
表現は悪いが、貴族の挨拶まわりと若手の才能の青田買いに行くのだ。
採用面接の手間を省いて、流行の兆しを直接見極める場として国中の様々な貴族が活用している。
「ジェニー、アーサーが君のことを迎えにきたよ。といっても同じ馬車に僕も乗るけど」
「お兄様もご一緒なんですね」
「どうも、こぶです」
「お兄様ったら」
「アーサーにとっては久しぶりのジェニーなのに両親と一緒の馬車じゃ可哀想だからね。お馴染みの邪魔者として僕が参加するよ」
「お兄様はエスコートのためにアリシアお姉様を迎えに行かなくて大丈夫でしょうか…?今からでもお父様とお母様にお願いを…」
「大丈夫!心配しないで。アリシアは王宮の用事に駆り出されて不参加。僕はまだ必要ないからジェニーちゃんについててくださいとお役御免。今年の伯爵家のパーティーに参加できないのは悲しいけれど未来の妹にくれぐれもよろしくお伝えくださいって言ってた」
「アリシアお姉様…」
「向かうにはまだ少し早い時間だ。アーサーが待つ部屋まで僕がエスコートするよ。お手をどうぞ。お姫様」
「よろしくお願いします。格好いいお兄様」
自室を出て、廊下を歩く。
お兄様がアーサー様が待つ部屋のドアをノックして声をかけた。
「アーサー、ジェニーを連れてきたよ。ドアを開けるけど準備は出来てる?先に言っておくけど今日のお姫様、アーサーが考える以上に魅力的だから気合いをいれて会うように」
たたみかけるように捲し立てて返事も聞かずに勢い良くお兄様がドアを開けた。
開いたドアから真正面、向かい合うような視界にアーサー様が飛び込んできた。
久しぶりに会うアーサー様は椅子に腰かけて紅茶を飲んでいたようだ。やんちゃで可愛かった頃の面影は残しながら、すっかり大人の男性となったアーサー様がそこにいた。
輝く濃いシトリン色の髪、青い瞳。
燕尾服にはドレスにあわせたポケットチーフ。
獣人の姿。
先祖の特徴を少しずつ受け継いだ姿。
ふかふかの獣耳に、鋭い眼光。
アーサー様は比較的純血の人間に近い姿だと思う。
でもお兄様は、アーサーは混ざる血が多いから苦労していると言っていた。
少し会わない間に厚くなった筋肉、精悍な体つき。
褐色の肌は、ワイルドで野性的な魅力のスパイスになっている。
彫りが深くキリッとした目付き。眼力が強く、意志がはっきりしていそうな眉はまっすぐ太く整えられている。
すっと一本筋を書くように高い鼻筋。
印象的な唇は今はきゅっと引き結ばれている。
そして、眉間にシワ。
顔がすこし赤らんでいるのでもしかしたら体調が悪かったのかもしれない。
ガタリと慌てて立ち上がろうとしたアーサー様。
お兄様が、座ってていいよ僕らもお茶飲むからと制止する。
「お久しぶりです。アーサー様、この度は我儘を言ってしまったようで申し訳ありません。お身体にさわりがあるようでしたら本日エスコートはお兄様にお願いしますが…」
「いや、ジェニー。体調は大丈夫だ。君のエスコートをする栄誉を取り上げないでほしい」
ぐるると、喉から唸り声をあげながらアーサー様がいう。口を開いていないのにぐるる、ぐるると音が部屋になる。
「まあ、ほら。今の時期は、ちょっと。特にアーサーは今の時期は特に獣人本能が強くてね、学園でなにがあっても理性を鍛える訓練が必要って言われてるし…、アーサーのことは心配しなくて大丈夫だよ」
「でも、唸り声をあげるほど痛むのでしょう」
「いやあの声は、久しぶりにジェニーに会えて嬉しいから出てるんだよ」
「それにしてはお顔も赤いですしお辛そうな顔で…」
「ジェニーすまない…本当に大丈夫なんだ。すぐ抑える」
心配だが、アーサー様が大丈夫と言い張るのだからこれで終わりにしたほうがいいだろう。
「そんな状態でもエスコートを引き受けてくれてありがとうございます、アーサー様。ドレス、ありがとうございました」
私はアーサー様に向かってカーテシーをした。
「こちらこそ失礼なことばかり言っているのにいつも受け入れてもらってすまない。未熟者だからまだ加減が出来ないんだ。どうか嫌わないでくれ。今日のドレス…良く似合っている」
ドレスが似合っていると口でそうはいうものの目線があわない。
私はアーサー様に対して他人行儀な笑みを浮かべながら返事をした。
こちらの顔をみていないのだからわからないだろう。
こちらこそ、未熟者ゆえ今まで失礼なことばかりしていたようで…これからは節度あるお付き合いをするように心がけます」
「ジェニー、夫婦になるのだから前のように接してほしい。節度に関しては…色々我慢させているのはこちらのせいなのだからジェニーは今までどおりでいてほしい。ジェニー、愛している」
アーサー様が愛を囁いたあとこちらの様子をうかがうようにちらちらと見つめてくる。
「私も将来のパートナーとして好ましく思っております」
心にもない愛を囁いて反応を見るなんてずるい。
アーサー様の喉がなる音が止み、部屋に静寂が訪れた。
「ジェニー?どうしたんだ?」
誤魔化せていると思ったのに社交用の仮面を被ったのが伝わったのだろうか。
不思議そうな顔を浮かべたアーサー様が先ほどと違い、なにかを探るようにじぃっと見てくる。
真剣な顔のアーサー様と目線があう。私は思わず目をそらしてしまった。
アーサー様がガタッとした音をたてて立ちあがりお兄様の横に立つ私に近づいてくる。
アーサー様が手を伸ばしてきて私に触れようとした。
その時、アーサー様に結婚するまで触らないでほしいといわれたことがフラッシュバックして顔が強ばってしまう。
アーサー様が傷ついた顔をした。
それとともに私にもズキリと心が裂かれるような痛みが走る。
「あっいや…違うんです…これは…」
なにも悪いことなどしていないのに思わず、言い訳をしようとする。
私は眉が下がり、瞳がじわりと潤む。泣きそうだ。
下がっていくアーサー様の手。
私は思わず手を伸ばした。
アーサー様の手を私が掴んだ瞬間。
頭のなかに結婚するまで触らないでほしいと言ったアーサー様の声が警鐘のように響く。
ぎくり。ネジが切れたおもちゃのように私は急に止まる。
先ほどまで熱かった指先が氷のように冷える。
「ごめんなさい、アーサー様。今すぐ離れますから」
謝罪した私の声が震える。
アーサー様が繋いだ手を離さないように力をこめた。
「ジェニー?様子がおかしいぞ」
「アーサーとジェニーは久しぶりに会うのにちょっとギクシャクしちゃったのかな?そろそろ紅茶もくるだろうし仕切り直そうか」
お兄様がフォローにはいる。
ちょうどそのタイミングでメイドがお茶を持ってきた。
「ああほら、ちょうど紅茶がきたよ。どうぞ」
ワゴンが小さな音を立てて室内に入る。
メイドが入り口に立っている私達をみて怪訝そうな顔をする。
繋がれた私達の手に気付き、笑みを浮かべて思わずと言った風に声を出した。
「お嬢様!仲直りできたんですか?」
「仲直り…?」
「やだ、喧嘩なんてしてないわよ」
私は慌てて否定する。メイドに首をふる。
「すまない、なぜそう思ったのか教えてほしい」
「僕も教えてほしいな」
「ええと…」
メイドが私に指示を求めようとした。
「答えなくていいわ。あとはやるわよ。紅茶をありがとう」
私はそういって握られた手を外そうとしたが、アーサー様にしっかりと掴まれていて動かせない。
「ジェニー。ダンスパーティーのドレスでお茶の世話は無理だし、聞きたいことを答えるまでは彼女にはここにいてもらうよ」
「お兄様!私のメイドですよ!」
「うちに在籍しているのだから、僕のメイドでもある。なんなら父上と母上に頼んで命令させてもいい」
「これは大事なことだ。君のメイドにそのように思われているなど番として不本意だ。それになぜそう思ったかと問いかけたときに、君はメイドに答えなくていいと言った。なにか原因があるのだろう。見逃すわけにはいかない」
「ジェニー、ダンスパーティーに穴をあけるわけにはいかないよね?」
お兄様が真剣な顔でいった。
「そんな、脅すなんてひどい」
「脅す?ジェニーはそう感じたんだね。ごめんね。でもアーサーは引き下がらないよ。ダンスパーティーに向かわなければいけないからここで答えてもらうのが一番手っ取り早いんだ」
メイドが諦めた顔になった。
「お嬢様、私の不用意な発言により場を乱してしまい申し訳ございません。お嬢様のお心のためにも話すわけにはまいりませんのでこの場をもって「待ってちょうだい。いいわ、私が話すわ。貴女はなにも悪くありません」
「そう、じゃあ彼女からも聞いてジェニーからも聞こうかな」
「お兄様、私が話すのだから彼女はもう関係ないわ」
「ジェニー、メイドにそう思われていること自体が問題なんだ。ジェニーはアーサーの番なんだよ」
「分かりました…。でもお兄様。本当に大したことではないんですよ」
「うん、ジェニー。聞きわけられていいこだね。とりあえず座ろう」
私は雰囲気を変えるように、なるべくじとっとした目をつくってお兄様を見つめた。
「お兄様には結果がどうであれ、あとで美味しいスイーツを要求します。もちろん、メイドの分もですよ。なにせダンスパーティーの前に二人の繊細な乙女心が傷ついたので」
「ああ、もちろん。とくにメイドには圧をかけて申し訳ないからね。こころおきなく話せるように今月の給金に色をつけよう」
席に着き、メイドがお茶を配膳していく。
メイドがこちらに来た時囁く。
「なにも咎めないから話してちょうだい。でも、先に私が話します。ねえ、嫁いだらアーサー様のところについてきてもらうのだからお願い…辞めないで」
「お嬢様…!」
紅茶で唇を湿らせて話し始める。
「拗ねてただけよ。だって全然会わないでエスコートもしない、触らないでって他人行儀にされたんだもの。喧嘩はしてないけど、嫌われちゃったみたいって話してたの。だから…それで手を繋いでたから、仲直りってきっと思ったのよ」
ドアの前のメイドが同意する。
「ええ、さようでございます」
「君は俺の番だぞ!君を嫌うなんてあり得ない!!!」
「アーサー、まって。次は君の口から語って。何を言ってもいいよ」
お兄様がメイドに指示した。
「お嬢様がこの数年間、アーサー様から他人行儀に振る舞うように指示されて大変傷ついておられましたのは事実です。なんどかお嬢様がお願いした件に関してもアーサー様が、エスコートを断固として拒否されておりましたゆえに仲違いなされたのだと思っておりました。それゆえに、結婚前に手を繋いでいる姿を見て思わず仲直りされたのだと…場を乱してしまい申し訳ございません」
「他人行儀に振る舞うようになど言っていない。だから急にそっけなくなったのか」
アーサー様が大きめの声で叫んだ。そしてメイドを憎むような目線で睨み付けた。
「では、私とメイドの勘違いですわね。メイドは悪くないです。手紙から適切な距離をおいてほしいと言われたので配慮するようにしておりました。もともと、喧嘩するほど会っておりませんものね。私とは。誤解してしまいました」
思ったよりも冷めた声で話してしまった。
あらやだ、ついうっかりの部分も声に出るなんてまだまだ未熟だわ。
「君は俺の番だ!これほどまでに想っているのに、君のことを愛していると言うのに」
「アーサー、落ち着いて。ジェニーも言いすぎ。ジェニーが拗ねているのは分かったからアーサーはダンスパーティーのときにジェニーの機嫌をとりなよ」
「分かった…すまない」
アーサー様が温くなった紅茶を煽る。
私も、紅茶を飲んで喉を潤した。飲んだばかりなのにのどがカラカラだ。
「いえ、言いすぎました。機嫌をなおします。拗ねるのはこれでおしまいにします。アーサー様、お兄様。申し訳ありません」
私はこのままではいけないと小さい子どもが拗ねて嫌みを言っていたようにその場をまとめる。
「そろそろ、向かう時間ですね。アーサー様、空気を悪くしてしまい申し訳ございません。今日はエスコートお願いします。馬車に参りましょう」
そう言うと私は立ち上がる。
アーサー様がエスコートのために、私の背中に手を回し、腕を差し出してくる。
アーサー様に触らないでほしいと言われたときの声が警鐘のように頭に響いていた。それを無視して手を伸ばす。
触れたとたんにぎしっとまた肉体がこわばったが触っても問題ない、今日だけ。と自分に言い聞かせた。
今日のエスコートが終わったらまた、他人のように振る舞うくせにと叫び、じくじく痛む心には気づかないふりをする。
あの手紙が来たときに、諦めると決めたのだ。
番なんて何かの間違いだし、最初から愛されてるなんて思わなければいい。嫌われてるのにやってられない。
愛してるなんて言葉は、口だけなのだから最初から期待なんてしなければいい。
情に絆されずるずると付き合ってくれただけ。
子供の感情に惑わされて番なんて誤解して外堀を埋めて求婚した以上、今さら破棄もできなくてアーサー様も困ってるだろうけどこちらも既に嫁ぐしかないのだ。
諦めに似た笑みを浮かべて私はエスコートを受け入れた。
玄関に向かう。お兄様は、アーサー様と私の後ろを歩いてついてきている。
アーサー様は、こちらを見ながらエスコートしている。
真顔だ。不快だろうに、申し訳ない。
アーサー様のエスコートで玄関につくとお父様とお母様がダンスパーティーに向かうために準備をしていた。
「おお、アーサー君。今日は娘が嫁ぐ前なのにエスコートを頼んでしまってすまないね」
お父様がアーサー様に声をかけた。
「お世話になっております。とんでもないです。大事なジェニーを預けていただき光栄です」
アーサー様とお父様が握手をした。
「ジェニーが番だけどこのままでは破談されそうと世迷いごとを言うもんだからそんな心配ないと安心させてやってくれ」
「破談…?あり得ませんね」
「番なんて間違いなんだとこの間からずっと騒いでいるんだよ」
「ジェニーは間違いなく俺の番ですよ。…………………ジェニーとはあとで話し合わないといけないですね」
急にエスコートしている手にぐっと力が入ったのを感じる。
「アーサー様?」
「さっきもそれでひと悶着あったんだよ父上」
「そうなのか?マリウス」
「お兄様!アーサー様も!ちょっと拗ねていただけです。さっき言ったじゃないですか」
「メイドにも仲違いしたって愚痴を言っていたようで、揉めたのです」
「放置されて拗ねる気持ちは分かりますがジェニー、この間も言ったけれど我慢なさい」
「はい、お母様」
身内に相談しても結局はこれなんだから、諦めるしかないよねと持っていた扇子をぎゅっと握りしめる。
胃がぐるぐるする。キュッと締め付けるように痛い。
「アーサー君にも色々と我慢させていると思うが…いいかい、君の番ではあるけれど私の大事な娘なのを忘れないように」
「はい。ジェニーには今は寂しい思いをさせていますが結婚したらそんなことがないようにしっかり励みます」
「今日は娘をよろしく頼むよ」
「皆様、そろそろ移動されたほうがよろしいかと」
ドアマンがそっと声をかけてくる。
「おお、もうそんな時間か。遅れないうちに向かおう。さ、屋敷を出るぞ」
全員でそれぞれの馬車に向かった。
私はアーサー様の手にエスコートされ馬車に乗る。
アーサー様の隣の席に座る。お兄様はアーサー様の向かい。
私はどうしたらいいかと目線を下にやる。
馬車のドアが閉まった瞬間アーサー様が、私の肩をつかみ自身のほうに引き寄せた。
「ジェニー、ジェニーは俺の番だ。ジェニーが番なのは間違いない。誰が何をいおうと破談になんてさせないし君以外娶るつもりはない」
「アーサー様、ありがとうございます」
嘘でもその言葉嬉しいですという言葉は飲み込んだ。
もう疲れてしまった。何を言っても取り繕うための言葉にしか聞こえない。
にこりと笑って対応する顔にアーサー様とお兄様が物言いたげな顔をした。
「馬車が着きました」
ドアのノックと共に御者の声が響く。
エスコートされながら馬車を降りて、挨拶に向かう。
マリウス兄様はしっかりアーサーにエスコートして貰うようにと言い残して別の挨拶に向かった。
「本日はお招きいただきありがとうございます。エリン、後でお話できたら嬉しいわ」
「エリン、挨拶も終わる頃だし行ってきなさい」
「あら、お父様ありがとう」
「サンドラ伯爵、よろしいんですか?」
「ああ、他ならぬジェニー様だからね。今日は珍しくアーサー様もいらっしゃるし、うちの宣伝も頼むよ」
「もう、サンドラ伯爵ったら。では、エリンの婚約者がお迎えに来るまでお借りしますね」
伯爵家のエリンは親しい友達だ。
普段は身分差や周りの目があるため真面目に振る舞うが、ある程度挨拶が終われば友人として話せるようになる。
ダンスが始まる頃までにはエリンの婚約者が迎えに来るのでそれまでは一緒にいられるだろう。
「ジェニー」
「エリン」
エリンと私は微笑みあい名前を呼ぶ。
ハグとチークキスをした。
エリンがエスコートするように私の腕をぎゅっと寄せたのでにこっと笑う。
「今日は珍しいわね。エスコートつきで来るなんて皆ざわつくわよ」
「ええ、今日は特別。わがままを言ったの。番としてエスコートを引き受けてくださったの」
「…そういえばアーサー様は番だったわね」
「ええ、そう。番…そういえば番なのよ」
はっとした顔でエリンが話題転換する。
「そのドレスよく似合うわね」
「ええ、ふわふわでキラキラ光って珍しいドレスよね」
「エリン嬢、お招きありがとう。いつもジェニーと親しくしてくれて感謝するよ」
「こちらこそ、今日は私のジェニーがお世話になります」
二人がにっこりと笑ってお互いに挨拶をしている。
「ところで先ほどジェニーのドレスにそっくりなものを着ている獣人の女性を見かけましたけれど隣国ではこのデザインと色味が流行っていますの?お恥ずかしながら不勉強なもので参考にさせていただきたいわ」
「あら、そうなの?アーサー様、隣国で最新の流行のものを贈ってくださったのね。どうもありがとうございます」
なんだ。着るときにアーサー様の色だと思ったけれど流行りなのね。そうなると大量生産のドレスなのかもしれない。似たようなドレスが沢山あるのなら珍しいドレスと言ってしまったけれど一般的なものなのかも。
アーサー様が訝しげな顔になる。
「いや、この布はジェニーのためのものだから似てるものがあるはずないのだが」
「そうなんですの?じゃあ、あの方がお召しになっているドレスは?」
エリンが扇子でそれとなく指した先には私と全身そっくりな格好をした一人の獣人の女性がいた。
アーサー様が驚いたようにその女性を見ていた。
「お知り合いですか?」
「ああ、知り合いだ。どうして彼女がここへ?しかもなぜあのドレスを?」
「あの?ドレスは2着あったんですの?」
エリンが問いかけた。
「いや、でも彼女のところのドレスだったんだ。君のために譲って貰った」
私はぴしりと顔がひきつるのを感じた。
「彼女のドレスですか」
「ああ、彼女のドレスだ。手違いがあったのか?少し話してくる。エリン嬢、すまないがジェニーを頼む」
「アーサー様」
私を壁の方に立たせてするりと、アーサー様が去っていく。
壁の花の出来上がり。
エリンが声をかけてくる。
「アーサー様と学園でのお知り合いとのことだけど、どういう関係かしら」
「分からないわ」
興味深そうに様子を見ていたエリンが目を見開く。
そっと私の視界からアーサー様が見えなくなるように立った。
「エリン、もう見てしまったわ。随分親密そう」
よろけるようにアーサー様にもたれかかる親しげな女の姿。
嬉しそうな女の顔、アーサー様は困った様子だが振りほどかない腕。
「その、」
エリンが気遣わしげな顔をしている。
「大丈夫よ、エリン」
そのとき、エリンの婚約者が迎えにきた。
「やあ、エリン。待たせてすまない。ジェニー嬢、ご機嫌いかがかな?」
「アズール様、ご機嫌うるわしゅう」
「迎えにきてくれてありがとうアズール」
エリンの婚約者のアズール様が迎えにきた。
一緒にいられるのもここまでだろう。
気をつかわせないようにその場から離れよう。
「エリン、楽しんで。一人になったことだしお花摘みでもしてくるわね」
「ジェニー、ちょっと!」
有無を言わさず立ち去った。
事情を把握していないアズール様がきょとんとしていた。
***
手洗い場にむかう途中で、後ろから話しかけられた。
「ねえ!アーサー様からプロポーズされた?今日のアーサー様はあんたとお揃いの格好だね」
驚いて振り向くと見知らぬ少女がいた。
「やだ、人違い!ごめんなさい!格好も姿も全然違うのに!シシーには似ても似つかない!あんたシシーより小さいし比べると子供みたいだしね!ドレスが同じだから間違えちゃった!悪く思わないで!でも、なんでシシーのドレスを貴方が着ているの?」
悪意がある顔。
「シシー?貴女誰?」
「学園1のパタンナー、ローズを知らないって?物知らず。しょうがないなー、これだから…特別に教えてあげます」
「学園の生徒さん…」
「隣国の大商人の娘 シシー、学園1のパタンナー ローズ 二人が手を組めばあらよあらよと新作ドレスがザクザク!デザインとドレスのお買い求めはハッピー ゴー ラッキーまで!まあ、あんたには絶対に縁がない店よ」
びしりと決めたポーズ、きっとキメポーズなのだろう。
人の話を聞かないタイプだ。
「なるほど…参考になりますわ…」
「で、それはアーサー様がプロポーズのために作ったドレスなんだけどなんであんたが着てるの?盗んだ?」
「そんな…!贈られたドレスを着ただけです!いいがかりだわ!」
「布は特別製、パターンを作ったのは私、卸したのはシシーのところ!シシーがこれを着てプロポーズされるって何度も私に話してたのよ!二人は運命の絆で結ばれてるんだから!学園でもお似合いの二人で番なのよ!婚約者はシシー!どうせ学園で盗み聞きしたんでしょうけどー、貴女がその格好をしてアーサー様にプロポーズされようとしてても無駄!無駄無駄無駄無駄!シシーが今日プロポーズされるのを指をくわえてみてなよ」
「………………酷い侮辱だわ。貴女、学園の生徒さんね、パタンナーのローズ、覚えたわ。後程、家から正式に抗議させていただきます」
「あっはははは、貴族の真似事?後程、家から正式に抗議させていただきます?そんな脅しきかないきかない!おっもしろーい!伯爵家のエリン様の真似事かしら?お高くとまって!あんたひとりだしエスコートもない!お情け参加のくせに生意気ね!」
話にならない。
ローズとかいう女性は興奮からか顔が真っ赤だ。逆上している。
身の危険を感じた。
女性の手洗い場の周辺警備が薄いのか人がいない。
誰かを呼んで助けを求めなくては。
「あら、貴女こそ学園枠のお情け参加よね」
エリンが現れた。
「えっ、エリン様?なんで…?本日はお招きいただきありがとうございます」
途端に畏まり、礼をするローズ。
「あんた!早くエリン様に頭を下げなさいよこのグズ!」
罵られ、伸びた腕に頭を掴まれる。
怖い。血の気が引く。動けない。
「きゃっ」
掴まれた強い力に耐えきれず転んでしまう。
頭の装飾は落ち、がしゃんと地面に落ちて砕けた。
なにかにひっかかったのかドレスの飾りも取れてしまい、布も裂ける。
散々だ。
「なによっ私は悪くないわ自業自得よ」
なにかしら思ったのかそう吐き捨てられる。
「エリン様、不届きものが紛れ込んでおります!罰を!」
そしてローズはエリンに駆け寄り、私は悪くないとアピールしている。
「ジェニファー様が頭を下げる必要はないわ」
「おっと、助けるのが遅れてすまないね」
エリンの婚約者、アズールがローズの腕を掴んで捻りあげる。
「痛たたっ痛たっ!」
「なにか勘違いしてないかしら?ジェニファー様は特別な存在、本来ならこちらにお越しいただくこともない尊いお方なのよ。わきまえなさい平民。衛兵!何をしているの!早くこの女を捕まえなさい!」
声を聞いて衛兵が駆け寄ってくる。
「不届きものです。連れていきなさい」
有無を言わさず衛兵がローズを連れていった。
「ジェニファー様。大変申し訳ありません。こちらの不手際です。お詫びのしようもございません」
エリンが頭を下げた。
「こちらも手洗いならとひとりで行動し、浅慮でした。でも気分が悪いわ…帰宅しますので替えのドレスを借りてもよいかしら」
「勿論でございます」
手洗いの側でよかった。
社交場から少し離れた場所。
このまま戻ればあらぬ疑いをかけられる格好。
休憩室では勘繰られる。
着替えにすぐ近くの馴染みの応接室を使わせてもらうことにした。
不愉快なドレス。
一刻も早く脱ぎたい。
エリンが用意したのは、シンプルなワインレッドの柔らかなドレス。
先程と真逆のドレスにほっとする。
これなら着れそう。
お湯で全身をぬぐう用意。
下着から何から何まで、替えましょうと侍女を用意されなすがまま。
社交するわけではなくなったので薄化粧。
髪の毛もおろしてもらい、緩く巻いただけの姿。
サンドラ伯爵家が正式に父母に状況説明と謝罪、お兄様が付き添い帰宅することとなった。
アーサー様は近くに見当たらず不在だったのでお兄様が戻り、連絡するとのことだった。
騒がしい入り口を避け、裏口から馬車に揺られる。
「災難だったねジェニー」
「マリウスお兄様、お手数おかけします」
「いや、アーサーがいるからと離れてしまったからね。事情はなんとなく察したけどまさかエスコートをしないでいたなんて」
「事情…」
「全く、不甲斐ない男だよ」
「アーサー様は、プロポーズされると仰っていました」
「ああ、だが中止だ中止!絶対に阻止!」
「アーサー様はハッピー ゴー ラッキーの、商人のシシーさんと恋仲だったのですね」
「は?」
「いただいたドレスも飾りも彼女のものだとアーサー様から伺いました」
「確かにハッピーゴーラッキーに依頼はしたけれども」
「情人がいるのでしたらこちらは受け取れません。お返しします」
ハンカチにくるんだシトリンのネックレスをお兄様に渡した。
「アーサー様に伝言をお願いできますか?」
「ジェニー」
「お慕いしておりました。お情けの番は身を引きますと。ああ、そうだ、ドレス…」
「ドレス?」
「壊れてしまいましたので、返せません…代金をお支払いしなくては…アーサー様はこれからシシーさんにプロポーズするそうなので…」
顔が陰る。
お兄様のきょとんとした顔。
「ジェニー、シシーって?」
「学園に通うハッピーゴーラッキーの商人の娘、シシーさん。私と同じドレスでダンスパーティーにいらした猫獣人の、アーサー様に抱きついていらした方ですわ」
お兄様が奇妙な顔をした。
「ハッピーゴーラッキーのシシーが同じドレスを?」
「ええ…生地も同じもので、アーサー様が彼女のドレスと」
「ドレスは、確かに彼女のところのものだけど、あくまでもハッピーゴーラッキーの店の製品としてだ。彼女の店のものって意味だと思う。ジェニーのための唯一のドレスをって発注した」
「なるほど、製品のドレスをシシーさんに譲ってもらったと…」
「いや違う、あのドレスに使う生地の権利は全部僕が買ったんだ。だからシシーが身にまとうのは違反。それにデザインもうちの懇意のデザイナーのもの。ちょっとした都合でハッピーゴーラッキーでドレスは作ったけど本来ならジェニーの一着しかあってはいけないんだ」
「アーサー様がシシーさんにプロポーズするために作らせたのではなくて?」
「まさか!そんな不誠実なドレスは兄が許さないよ!第一、ジェニーのドレスのデザインをうちのデザイナーが描いてわざわざ生地を用意させたんだ。アーサーのところのデザイナーとうちのデザイナーがジェニーのドレスで喧嘩して最後は原画を何枚も学園に持ち込んでアーサーに直談判して決まったやつ」
「ええ?」
困惑した声が出る。
「それに、あの生地の権利はジェニーの名義にしたはずだよ。お祝いのつもりだったからね」
知らないうちに生地の権利を持っていたらしい。
「やっぱりなにかおかしい…ネックレスは預かるけど、戻って真相を確認してくるよ。ちょうど家にも着いたし」
そういうとお兄様はとんぼ返りした。
***
屋敷に帰るやいなや、無事の確認からはじまりまずはお風呂ですねと総出で迎え入れられた。
「お嬢様、災難でしたねえ。お風呂から出た頃に夕食をご準備しますからね」
執事長が、言った。
「シェフは今日の夜、お休みの予定でしょう?申し訳ないわ…気遣いありがとう。食欲もあまりないし果物だけ食べるわ」
「とんでもない、こんなときこそ召し上がらなくては」
「そうだそうだ、それに使用人の夕飯も作りますから勤務時間内ですよ」
どうみても外出着のシェフが執事長の言葉を援護するようにやんややんやと言う。
「でも…おでかけでしょう?」
「いや、これは新しいシェフの制服です」
「そんな…」
「そうですよ。ご飯は食べましょうね。でもお嬢様、まずはお風呂です」
メイド長が張り切って腕まくりをしている。
今日はメイド長が風呂の手伝いをするようだ。
服を脱がされ、風呂に入れられる。
馴染みの香油に、ほっとした瞬間に涙が出てきた。
「お嬢様、身体がこんなに冷たくなって怖かったでしょう」
「そう…怖かった…怖かったわ…」
怖かった。
気が緩み出てきた涙。
怖かったと言いながら流す。
何が怖いとは言わない。
でも本当はそれ以上に悲しかった。
泣いている姿などみていませんとメイド長がひとり寄り添ってくれた。
風呂から上がると一人分の食事の準備がぽつんとあった。
家族は皆出掛けている。
当たり前だ。
「嫌だな……………」
そのとき、カートを押した執事長ががらがらと入ってきた。
「お邪魔します」
「お嬢様、楽しめなかったでしょう?どうでしょう。お嫌じゃなければご一緒させていただいて話し相手にでも」
「本当?執事長…一緒にいてくれるの嬉しい…今日はひとりになりたくなかったの」
いろいろと考えてしまうから。
「急遽でしたので本当にささやかですけれどお嬢様の好きなものがほら、ほら、ほら」
ぱっぱっぱと出てくる料理。
「ふふふ…」
「おや、ちょっと気分がよくなりましたかな?」
「ええ、ありがとう」
そのとき、どたんどたどたと玄関のほうから凄い音がした。
「おや…お嬢様。申し訳ありませんが席を外します。様子を見てまいりましょう」
「ええ…気をつけてね」
食事をする雰囲気ではなくなり、どこか緊迫したムードが漂う。
「今日は厄日ね」
家のものは強いし、どうにかなるだろうと思っていたのにどたどたと荒々しい足音がどんどん近づいてくる。
「お待ちください」
「お帰り願います」
「お引き取りください」
そんな声がするので暴漢ではなさそうだ。
ただ、一切迷うことなく音がこちらに近づいてくるように感じるのは気のせいだろうか。
奥の間にいるのに既にかなり近くにいるように感じる。
「ジェニー、すまない!すまなかった!話を聞いてほしい」
ドア越しに大きな声が響く。
びくっと身体が震える。
「アーサー様だわ…」
「ここだな。ドアを開けてもいいだろうか」
「いけませんよアーサー様。かなり不躾な訪問では?お嬢様のエスコートを途中で投げ出してお嬢様に怪我をさせた挙げ句、ご自身はその間にどこぞのご令嬢とよろしくやっていたとうかがっておりますよ。よく顔を出せましたね」
執事長が明け透けに非難する。
「違う!ジェニー以外の女に興味などない!理由があるんだ!ジェニー、すまない!弁解させてくれ」
「おやおや、真実がどうであれ起こってしまった事実に弁解など不要でしょう。お引き取りください」
「あの女にはめられたんだ!ジェニー、せめて声を!声だけでも!聞いてくれ」
「お嬢様はここにはおりません。お帰り願います」
「会いたくない…今はなにも…聞きたくないわ…」
きゅっと縮こまり自身を抱き締める。
「やあ、アーサー君。家主の許可もなく奥の間に入るなど礼儀知らずにもほどがあると思うがね?」
「お義父様!」
「アーサー君、もはや君にお義父様と呼ばれるいわれはない。だがまあ…今まで娘が世話になったね。将来娘が嫁ぐ相手だと思って接していたが…これからはお互い、それぞれの道を生きようではないか。さあさあ、これから娘の縁談をまとめる必要が出てきたからこちらも忙しい。帰ってくれないか」
「そんな、ジェニーは俺の番だ…!」
「アーサー君。私は今日、娘をよろしく頼むよと言ったんだ。ドレスを借りて無事な状態で帰れたとはいえ、暴力をふるわれ転び、ドレスを破いて装飾が壊れたぼろぼろの状態にしろと言った覚えはないよ」
「それに関しては誠に申し訳ないと思っています。しかし…」
「言い訳は起こった事実に対してするものだ。君には失望したよ」
「違うんです。話を聞いてください」
「違う?話を聞いてほしい…?娘のエスコートを放棄しておいてなにを…。ああ!わざわざ娘と同じドレスを着た商人の女………シシーと言ったかな?その女にあのパーティーのあとでプロポーズするという話ならもう聞いたよ。ローズという…娘に暴力をふるった女がぺらぺらと喋ってね、妻のエリーは可哀想に、それを聞いて倒れてしまったよ」
「違います!事前に計画書で提出したように今日はジェニーに求愛する予定でした!」
「そうだねえ、私もそのつもりでエスコートを特別に許したんだ。すれちがっていたようだしね。だから予定の場所に寄らせてもらったんだ。準備されていた用意をみたよ…愛しいシシーと書かれていた。知ってるかい?娘はジェニー、ジェニファーという名前なんだ」
「あの女が勝手にやったんだ!注文書は寮の部屋にあります!発注のときにマリウスがいた!嘘をついていないことはマリウスが知っています!マリウスに聞いてください!お願いします!」
「アーサー君、私は自分の目でみたものを信じるんだ。注文書はいくらでも偽造できる…そうだな…ハッピーゴーラッキーの元締めは隣国の大商会だったね。そこのオーナーが頭を下げて謝罪でもしに来ない限りは信用できない。ただ元締めは…あのシシーとかいう女の父親だったかな…?まあいい、さあ、帰った帰った」
「待ってください!ジェニーに会わせてください…!」
「アーサー君、事実と異なるのならまずそれを証明しなさい。具体的な方法は示したと思うが…?」
「商会のオーナーに謝罪させれば…あれはあの女が勝手にやったことだと分かればジェニーの婚約者のままでいさせてくれますか?」
「いや…どうだろう。君が本当にジェニーを番だと考えているか私は分からなくなってしまったよ。だが、今のままでは君は婚約者の土俵にすら立っていない。そうだな…一週間だけ猶予をやろう。私を信じさせてくれ。そうしたら婚約者のままかは別としてジェニーに求愛する権利くらいはあげよう。ただし、一週間が過ぎたら君のお父上に書状を出す。こちらとしては幸せにしてくれるならジェニーが嫁ぐのは君じゃなくてもいいんだ」
「そんな…!……………分かりました。今すぐにでも連れてきて、謝罪させます。ジェニー、聞いているか分からないがこれだけは言わせてほしい!俺は君を諦めない、愛しているんだ」
「アーサー君、早く帰ったらどうかね」
「分かりました、今日のところは帰ります」
「執事長、馬車に乗るまでお送りしなさい」
「畏まりました」
離れる足音。
テーブルの料理は手をつけられないまま冷えきっている。
ドアが開く音。
「おおジェニー、聞こえてしまったか?」
「……ええ、お父様」
「そうか、ならば分かっていると思うが騒動が収まるまで社交は休みなさい。それと、どんなかたちであれジェニーがきちんと嫁げるように手配するからね」
「えっ…」
「ジェニーなら引く手数多だ。アーサー君以外の人間に嫁ぐと思って過ごしなさい。ああそうだ!早いうちに家系の未婚の男を見繕っておかねば」
その言葉を突きつけられて、足元からがらがらと崩れていくような思い。
覚悟はしていたけれども、足りなかった。
生きてきた人生を否定された気持ちになる。
でもこれは現実、受け入れなければいけない現実だ。
「もう今日は下がって寝なさい」
「…はい…お父様」
気落ちしてとぼとぼと部屋に戻る。
ベッドに倒れこみ、目をつぶる。
なにも考えないようにして心を守る。
気がついたら朝を迎えていた。
「…眠れなかったわ、仕方ないから食事を摂りにいきましょう」
昨日の昼から食べていない、食欲はないが何か口にいれるべきだろう。
部屋から出る身支度をするために近くにいたメイドを呼ぶ。
いつものメイドはまだ来ていないのだろう。
珍しいこともある。
私が声をかけたのはどうやら仕事に慣れていない新人のようだ。
見慣れない顔をしている。
朝の支度を頼むと準備をして参りますとうつむきながら足早に立ち去っていった。
「おはようございます」
「おはよう」
いつもより早い朝。
冷たいモーニングティーをがらがらと押しながらいつもと違うメイドが二人入ってくる。
「貴女達、随分支度が早いのね」
事前に準備されていたような手際の良さ。
「はい、何か問題でもありましたか?」
「いいえ、手際がいいわね。貴女、新人さん?」
「ありがとうございます。はい、新入りでございます。どうぞよろしくお願いします。先輩メイドが遅くなるそうなので私どもが参りました。人前にたてるような教育を受けておりませんので失礼がありましたらどうぞおっしゃってください」
「そうね…もっと笑顔でうつむかずはきはきと喋るととても素敵よ」
「申し訳ありません。緊張してしまいました」
「すこしずつ慣れていけばいいわ」
「ありがとうございます」
「今日は練習だと思って手伝ってちょうだい」
「畏まりました。支度しますので先にモーニングティーをどうぞ。特別製のアイスティーです」
いつもと違う茶葉。提供の仕方。
厨房から気を遣われているのだろうか。
いつもなら温かいホットティーなのに。
まあいいわ。
キンキンに冷えたそれをありがたく飲む。
「え…」
喉がカッと熱くなる。
毒だと気づいた。
すぐ吐き出そうとしたが飲み込んでしまった。
耳鳴りがする。
身体が痺れる。
ぐらりと視界が歪む。
ガチャンと音を立ててカップが落ちる。
毒を盛られた証拠を残そうと溢したお茶の上になんとかどさりと倒れこむ。
「倒れたわ!」
「もう聞こえてないかしら」
「ああもう、服が汚れたわ。脱がせるの大変なのよね」
「ちょっとでしょう?誰もお茶が原因だと思わないわよ、昨日の騒ぎで心労が祟ったと思うはずよ」
騒ぎ立てる女達。
このあと何をされるのか。
助かる方法を考えるとまだじっとしていた方が得策。
大きな声を出すほどの気力はない。
なにかを伝えたり助けを求めるとしたらチャンスは一度きり。
おとなしく床に転がり時期を待つ。
「そうかしら!それじゃあ、この女の服はそのままでいいや、ばれないように片付けるわね…」
ガチャガチャと乱雑な音でカップやポットを箱にいれる。
そして二人は服を着替えている。
農民のような格好。
朝の食材納品口から入り込んだのだろう。
うるさい音がやんだ。
顔が見えるように掴まれる。
この女の顔は知っている。
「獣人は獣人と結ばれるべきなのよ!二人の邪魔をしないでね!死ぬような毒じゃないから安心してよ。ちょっと寝込むだけ。これは警告!それじゃバイバイ」
また床に肉体が投げられる。
「うぅ…」
ドアが閉まり去っていった。
予想に反してそれ以上はなにもされなかったことに安堵する。
どこかで聞いたことある声…。
そしてさっき見た顔…。
そう、あれは学園のパタンナー、ローズだ。
自宅だからと安心していた。
ドアが閉まり去っていく音。
がんがんする頭と冷えていく肉体。
下がる血糖値。
耳鳴りにめまい。
どれくらい経ったのか。
いつものメイドの声がする。
「お嬢様!おはようございます!………きゃああああ!誰かっ!!!!!!お嬢様がぁ!!!!!」
「どうした!」
どたどたと人が集まる声。
最後の力を振り絞り、なんとか言葉を発する。
「毒…商会…のローズ」
そうして目を閉じた。
「医師を…!早く医師を…!」
***
いくにちか朦朧とした日を過ごしたあと、意識がようやく明瞭になる。
「お嬢様が回復されますように」
近くからいつものメイドの声がする。
「お嬢様はただの人間なのですからもう、私は心配で心配でたまりませんよ全くもう」
聞こえてると思ってないのか大きな声。
相変わらず素直なメイドねと感心する。
目を開けてなんとか起き上がる。
肉体がだるい。
「水が欲しいわ…」
「お嬢様!大丈夫ですか?」
いつものメイドが騒ぐ。
「………静かにして…………」
「はい、すみません。お嬢様、お水です!毒味しますよ!」
水をグラスに注いで飲んだあとに渡してくれる。
「今はいつ?」
「ダンスパーティーから6日後です。もうすぐ7日目。今は夕食が終わった後の夜ですよ」
「6日後…」
婚約解消まで7日間だけ猶予を与えるとお父様がいっていたと思い出す。
それも気になるけれど…まずは。
「お父様に、伝えなくては…ハッピーゴーラッキー…いえ隣国の商会は我が家に敵意ありと」
「ああー…それなんですけどねお嬢様が寝込んでる間にとりあえずの解決はしました」
メイドが言葉を濁しながら伝える。
「旦那様から聞いた方がいいと思うので詳細はあとで!とりあえずお医者様たちを呼びますね」
メイドが呼び鈴をうるさいほどにりんりん鳴らして人を呼ぶ。
それを聞いたメイド長や執事長がとんでくる。
「お嬢様に何かあったの?」
慌てて駆け込んでくる姿にずいぶんと心配をかけていたと思う。
「おお、お嬢様起きられましたか。旦那様と奥様に知らせを」
「マリウス様には私が知らせに参ります」
大騒ぎ。
医者の診察のあと、指示により慌てて給仕された具なしのポタージュを食べていると部屋にお父様とお母様がきた。
「ジェニー、起きたのね。身体は大丈夫?」
「今はだるいくらいで…お医者様はこれから運動して落ちた体力を戻そうとのことでした」
「そうか、よかった」
「お父様、ハッピーゴーラッキーに関わる学園のローズという方に毒を盛られました」
「ああ、既に捕らえて国の牢に入れてある。ナイトドレスは毒の分析に出した。役に立ったよ」
お父様が話し始めるとすかさずお母様が被せるように話し始めた。
「ハッピーゴーラッキーは巧妙に隠していたけど獣人信仰の集団だったの」
・獣人信仰
獣人こそ全て、獣人がヒエラルキーのトップにたつという思考だ。
狂信者が多く、妄信的な考えから周囲に危害を加えると問題視されている。
ただ、獣人信仰だけでは罪にはならないはず。
「貴女も被害にあったけど、獣人同士を結婚させるために人間に毒物や薬を盛ることもあったそうで」
「それなら、アーサー様も…?」
獣人信仰の持ち主だったのだろうか。
私のような人間の女は縁がなかったのだろうか。
「いいや、アーサー君は、獣人信仰ではない。毒を盛られたのもジェニーだけだ」
「獣人信仰の…その…商会はどうなりましたの?」
「捕らえた。結果として隣国を巻き込んだ大捕物となったよ。まあ、癪だがアーサー君が活躍した」
「アーサー様は?無事ですか?」
「無事だ」
「よかった」
「獣人信仰だが、どうやら学園に派遣された商会のアドバイザーが不味かったようだ。ハッピーゴーラッキー以外の、元締めの商会とあの女の父親はまとものようだった。獣人信仰に洗脳された集団は厄介だったよ」
「婚約に関しては…あれからどうなりましたの?」
「ああ…まずはアーサー君の活躍で商会の関係者が捕まり、あの女の一族郎党から誠心誠意の謝罪をうけた。私は約束を守る男だからな。一応、諸々の事情を考慮して、アーサー君との婚約は仮婚約に戻した」
「仮婚約」
婚約したままだ。
「大変不本意だが婚約は継続、嫁ぐことには変わらないが仲を深める機会を作ることにしたよ。ただし、このようなことがあったのだから挙式は延期。ジェニーが嫁ぎたくないなら職業人としてずっと家にいるのでもいい。ああ、婿をとる方法はどうだ?」
お母様がお父様を睨む。
「あの」
「そうだな、婿をとったらジェニーはこちらにいてくれるし」
いい考えだとばかりにお父様が考えを言いつらねていく。
「あなた?もう、番だとわかっているのにあきらめが悪いのだから。第一、拗れたのは誰のせいだと思って?ジェニー、黙っていたけれどお父様がアーサー様にきつい制限をかけていたのは知っていて?」
「いいえ、存じません」
「そうよね、悩んでたもの。あなた!!!反省なさい!!!」
お父様がビクッとした。
「いえ、私も悪かったわ。ジェニー、私達のような獣人は人間の番相手に特別な香りを感じるの。それをフェロモンと呼ぶひともいるわ」
「特別な香り?フェロモン?…商会でそんな恋人向けの商品があると聞いたことはありますが…」
「やっぱり、先祖返りの貴女は感じにくいのね。純粋な人間ですもの…。本来なら獣人と番だけの絆として獣人が番を見つけるために香りがあるの」
「じゃあ、アーサー様も私に特別な香りを感じて…?でも商品化されて…?」
「特別な絆に憧れて恋人とお揃いの香水を作って売るというのが一般化しているから今では本来と違う意図になっているわ」
「先祖返りの人間が産まれるのは実に20年ぶりだ。皆すっかり教えるのを忘れていたのだろう」
「その香りを嗅ぐとどうなるんですか」
「抗いがたい魅力に本能のまま動きたくなる…と言われているわ」
「香りは16歳くらいから特に強くなる」
「まさか…」
「そうだ。アーサー君がジェニーを遠ざけたのはその香りのせいだ。番だからひどく強く、16になったジェニーに抗いがたい魅力を感じていたようだ。だから本能のままに行動しないようにきつく制限していた」
「だからって会わせない、触らせないなんてきつすぎる制限ではないかしら?」
「先祖返りの人間は脆い、華奢すぎる、制御のきかないものを近づけさせるには危ない。エリーも賛成しただろう」
「ええ、でも書類を確認して、ここまでだとは思っていなかったわ」
「先祖返りは貴重な存在だ。濃すぎる血を薄めることができる唯一の存在。それゆえに本来の番以外に狙われた歴史から番法がある。生まれたらどのような身分であれ国を挙げて保護され、丁重に扱われる。だが、成長途中の獣人は制御が利かず危険だ。たとえ本当の番であるとはいえ本能を抑え込めない未熟者に可愛いジェニーを預けるわけにはいかない」
「獣人の本能に引きずられて私を好きになったのかしら…そこに愛は」
「あるよ。ジェニー」
ばたんとドアを開けて声が響く。
「お兄様」
「あのとき裏どりが間に合わなくてごめん。間に合っていればこんなことにはならなかったのに。まだ残党がいる可能性は否定できないけどとりあえずはもう安全。さっきのことだけど初めて会った時からアーサーはジェニー以外見ていないよ」
「でも」
「屋敷1つ分」
「え?」
「本当は一生伝えないつもりでいたんだけど…何の数だと思う?」
「マリウス」
強めの声でお父様がたしなめる。
「アーサー個人のジェニーコレクション」
「マリウス!」
お母様がお兄様を叱る。
「ジェニーに会えないときにアーサーが入り浸る場所がね、あるんだよ」
「ジェニー、私たちも存在を知って問題ないか交代で見させてもらったけれど…その…重い愛だと思うけれど…ええと…本能を抑えるためだと言われるとどうしようもないというか」
お母様が言いよどんで何とかマイルドに伝えようとする姿。
言いよどんだ姿にコレクションが実在すると悟る。
「…でも、」
それでも信じられなくて否定する言葉を頭が探し始める。
「今回の事件の解決まで3日、残りはジェニーが目覚めるまでひたすらアーサー君が婚約継続を懇願しに来ていた。ジェニーの気持ちを確認するまではと仮婚約に戻したが」
「……お兄様ごめんなさい。信じられません」
「ジェニーがいろいろ思い悩んでいたのはメイドたちから聞き取りをしたよ。思い悩んでいた様子だと。申し訳ないけどアーサーにこのままだとジェニーはアーサーに嫌われたと感じて嫁ぐことになると正直に伝えた」
「まあ」
「でもこれはアーサーがいつまでたっても本能を制御できないのが悪い。ただ、今と同じやりかたはうまくいかなかった。交流時間もとれないし第一、嫁ぐまでに時間がない」
「マリウス、エリー。挙式は延期にした。時間はあるはずだ。そんなに急いで何かあったらどうする」
「あなた?」
お母様はいつもよりにっこりと笑顔を浮かべた様子なのに声がイラついている。
「監視をつけると話し合ったでしょう。まだそんなことを言って…」
「可愛い一人娘だぞ!」
「だからこそ嫁ぐ前に私達に大丈夫だと証明させるのです」
「わかっているが」
「父上、母上、喧嘩はあとでやってください。ああ、父上から伝えますか?」
「いいえ、マリウスからでいいわ。伝えなさい。こちらは話し合いが足りてないようだから」
「エリー、だが性急すぎないだろうか」
「そんなことはありません」
「では、」
お父様とお母様が揉めているが、それを無視して私に声が聞こえやすいようにお兄様が近づく。
「ジェニー、危険思想が紛れ込んでいたから学園が一時的に閉鎖になったんだ。でも今は誰がどんな繋がりを持っているかわからない、国内外で何を起こすかわからなくて危険だから学園の人間すべてを国からは出さずにある程度の信用がある貴族が身柄を預かることになったんだ。アーサーなんだけど、隣国の人間だし身分が高い、思想も問題ないのがわかっているからそれなりの待遇をしなければいけない、だから本来なら離宮預かりなんだけど」
「はい」
「我が家と離宮は近くないだろう。当然、生徒には行動制限もかけるし距離が遠くなる。それでね、我が家は被害者だしアーサーも問題ないと判断されているからと思って一時的に我が家で引き取ることにしたんだ。それに要警護対象は1つにまとめておいたほうが楽だしね」
「はあ…」
「きょとんとして、わかってないなこれは」
「何をです?」
「アーサー、僕、ジェニーで1つの要警護対象としてこの家で同居するから。ジェニーの件で屋敷の警備も強化した。なんならジェニーが最も狙われているから国から警護の人間が来たよ。適齢期の人間の娘は現状ジェニーだけだからね」
「同居…?」
「ああでも同居といっても安心してね。アーサーの主な住居は来客用の塔だし警護の人間もそこで寝泊まりしてもらう。ただ、家が同じになるだけだよ。それと警護の都合で昼から夕方までの時間はアーサーと僕とジェニーみんなで過ごすこと。ただジェニーも気を遣うだろうからアリシアも呼んだ」
「アリシアお姉さまも?お忙しい方なのに…」
「アリシアはさすがに一緒には暮らせないけどできるだけ顔を出してくれるって。家族仲を深めるチャンスだね。権力関係なくジェニーに対するアーサーの対応に関して口を出せるのは今だけだから一度しばきたかっ…いや、指導したかったんだって」
「アリシアお姉さまが…?私のために…?」
「うわ、アーサーごめん。ジェニーが今日いちばんのかわいい顔してる」
「アリシアお姉さま…うれしい」
「ジェニー、アーサーと一緒に暮らすことに関しては?何かないの?」
「あっそれに関してはわきまえておりますので。できるだけ近寄らない・視界に入らない・触れないようにいたします」
すんっと表情が抜け落ちる。
言い争ってたお父様とお母様がこちらを見る。
特別な香り…フェロモンに関してはお風呂にしっかり入って石鹸でごしごしすれば薄れると思う。
アーサー様に関してはいろいろありすぎてもう心は凪。
「ジェニー、嫁ぐ予定の相手だ。本能が抑えられないのはアーサーの責任だからそんなことをすることはない。いつも通りの対応をすればいい」
「えっ…?ですからいつも通りできるだけ近寄らない・視界に入らない・触れないようにいたしますと…」
「ふむ、なるほどわかった。アーサーが悪いね」
「お兄様、匂いに関してはどういたしましょう。石鹸でできる限り落としますけれど本能のままに動きたくなるから消してくれと言われましても限りがありますし」
念のため聞いておこうと質問する。
「ジェニーが気を使うことは何もないよ。ああ、ジェニーとアーサーの関係なんだけどちょっと認識を改めたよ。アリシアにはしっかりと相談しなきゃだね」
「まあ、どんな認識になりましたの?」
「アーサーの片思い」
「まあ、お兄様、アーサー様は匂いに惑わされていただけですよ。ええ、ようやく納得できました。アーサー様が本能に打ち勝てたならきっと目が覚めたと別の方と結婚されるでしょう。一方的に私が好きだっただけなのですからアーサー様が私に片思いなんて」
なぜだか笑いがこみあげてきてうふふと笑う。
「アーサー、これは根深いぞ」
お母様が寄ってくる。
「ジェニー、顔色が悪いわ。お風呂の用意をさせたからもう休みなさい。明日は皆と顔合わせをするわ」
「はい、お母様」
部屋にいたメイドがさっと寄ってきて私を風呂のある部屋に導く。
「マリウス…これでもジェニーはアーサー君のことを好いていると思っていたのだが」
「父上、好いてはいたでしょう。ただ、あまりにいろいろありすぎた」
「少しだけ、ほんのわずかだが同情したよ」
「これからアーサーはジェニーを惚れなおさせなければいけないのに。アーサーには全力で口説けって言ってきます」
「むう…キスはまだ絶対に許さんが軽い抱擁と肩を抱くくらいまでなら許可すると伝えてくれ。あくまでジェニーが嫌がらなければな」
「父上、ありがとうございます」
その後、身支度を終えてあいさつに向かった私にアーサー様が本能は根性で捻じ曲げるから俺のことを捨てないでほしいと全力で縋られたり、顔を合わせるたびに口説かれる日々が待っているけれどそれはまた別の機会に。
えっその後が気になって仕方ない?
それじゃあちょっとだけ。
***
和解したあと。
「アーサー様…?あの…」
「アーサーと呼んでくれないのか、ジェニー」
すぐ傍にある顔が眉を下げる。
その表情に私が弱いと学んで以来、アーサー様はすぐにこの顔をしてくる。
「んんっ…アーサー様…えっと…アーサー、あのですね」
「なんだ?ジェニー?」
「私、自分の部屋に帰りたいのですが…」
「自分の部屋?」
絶対に理解しているのに何をいっているのか分からないという顔をしてこちらを見てくる。
「ええ、自分の部屋に」
「ジェニー、何か欲しいものや不足したものがあるのか?取りに行かせよう」
「そうではなくて、私がここにいる意味がないですしお邪魔ですから…」
「邪魔?どうしてそう思うんだ?」
「じゃあ、聞きますけれど執務室に私がいる意味ってありますか?」
「意味ならある、目の見えるところにいないと不安で仕方がない」
「それじゃあ、せめてあの長椅子にでも座らせていただければ」
「長椅子だと距離がある。何かあったときにすぐに守れない。前の事件で自室も安全ではないと分かっただろう?」
「あれから警備を強化しましたし、食事などに関しても注意をしています。護衛も増員しました」
「護衛か、確かに護衛もいるが好きな女性は自分の手で守りたいんだ。ジェニー、俺に守らせてはくれないか」
「守るのは…守っていただけるのはありがたいのですが…」
「ジェニーは俺に触れるのは嫌か…?」
「嫌ではありませんが…距離が近いです。」
「距離が近い…?ついこの間までこちらから触れることも許されていなかった。まだ軽い抱擁と肩をくむことぐらいのささやかな触れ合いしかまだ許されていない。ジェニーを愛しているのに触れられないなんて拷問でしかない。ジェニー、この程度の軽い触れ合いもだめか…?」
「そういう問題ではありません。それに…軽い抱擁にしては距離が…」
「距離が…?」
「みっ…皆様もいらっしゃいますし」
「皆身内だ」
羞恥で下がった私の顔に大きな手が添えられる。
見つめあうようにやんわりと誘導される。
そのままゆっくりと顔が近づいてくる。
ぎゅっと目を瞑ったときぱんぱんと大きな音が響いた。
「アーサー、これ以上は父上に報告するよ」
「マリウス、愛しい存在を抱きしめるだけだ。これ以上はしない」
「抱きしめるだけ…ねえ?もう抱きしめているのに?」
今部屋には私、アーサー様、お兄様、護衛にメイドがいる。
そして私はアーサー様にお膝の上に横向きにのせられているのだ。
「軽い抱擁は許されたはずだ」
「軽い抱擁がお膝抱っこってはじめて聞いたよ。それに時間的にこれ以上は限界。無理言わないでよ。もう少ししたらアリシアもくるんだから。護衛だってメイドだってジェニーの味方だけどアーサーの味方ではないし」
「アリシアが来るまでには…離れたくない…ジェニー」
ぐっと抱きしめる手に力が入る。
「はぁー、アーサーってばだめだこりゃ…ジェニー、こっちにおいで」
「あ…はい。お兄様」
「ジェニー、嫌だ。側にいてくれ」
お膝抱っこされたまま肩を抱かれうなじ近くに顔を埋められる。
「あーもうちょっと!!こら!!アーサー!!あー、ジェニー固まっちゃってる」
「ジェニー、あと5分、あと5分だけジェニーに焦がれる哀れな男に誉れをくれないだろうか」
「…お…おにいさまぁ…」
***
事件から数年後。
「今度ジェニーにプロポーズをしたいんだが理想のシチュエーションに関して話し合いがしたい」
「アーサー、それジェニー本人に聞かせていいの?」
お兄様があきれたように言った。
「ああ。ジェニーに前にサプライズでプロポーズをしたときは色々重なって失敗しただろう。プロポーズを考えているんだがまた何かあって不安にさせてはいけないからな」
アーサー様が膝の上に私をのせて抱っこしたままキリッとした顔で言う。
いまいちキマらない。
「アーサー様、お膝おりたいです」
「アーサー…アーサーと呼んでくれ。ジェニー、降りてしまうのか…?」
膝から降りてアーサー様から距離をとる。
護衛の近くまで離れてからアーサー様に向きあって言う。
「アーサー様、お膝抱っこなどで触れ会う機会も増えましたが…まだアーサー様のこと信じきれてませんからね、プロポーズをお断りされる可能性もあるかもしれませんよ」
「おっ、ジェニーが強気だ」
面白そうな顔で笑うお兄様。
「ジェニーと結婚できない人生なんて考えられない。何をすればいいジェニー。ジェニー、俺に嫌なところがあれば言ってくれ、ジェニーのいない人生なんて信じられない、ああでもジェニーが幸せなら…」
「アーサー様、そこは俺が幸せにするって言いきるところですよ」
「ジェニー、俺に君を幸せにする権利を与えてほしい。それと同時に俺の隣でいつまでも笑っていてほしい。ジェニーの事を愛しているんだ。頷いてくれるまでプロポーズをしよう」
「ジェニー…」
「…浮気したら許さないんだから」
「これが、プロポーズみたいなものでは?」
***
未来の出来事
「ねえ、お母様。結婚する前に他の人と結婚するかもってなったの本当?」
「まあ…………」
「お父様の目移り騒動って聞いた!」
「それは誰に聞いたの?」
「ええーそれはねぇ」
「嘘!本当なの?」
「やだー、お父様は、お母様一筋がいいー!」
「いやねえ、一筋よぉ。嘘に決まってるわよ」
「それがねえ…本当よ」
「ええーやだーーー!」
「そんなぁー!」
「結果として目移りはしていなかったけれど…で、誰に聞いたの?」
「お祖父様から、聞きました!」
「もう、余計なことふきこんで…」
「私も知りたーい」
「僕もー!」
「私も興味があります」
「俺も知りたいです」
「あらあら、増えちゃったわ。」
暖炉のそばでレースの編み物をしながら沢山の子供たちに囲まれてお話をせがまれている。
結果として無事に結ばれたが…色々あった出来事に想いを馳せる。
どこから話そう。
「昔の話ねえ…まず、あのときは、そうね。釣った魚に餌をやらないタイプだと思ったわ!!!!」
お読みいただきありがとうございます。
少しでも面白かったと思っていただけましたら☆☆☆☆☆をぽちっとしていただけますと幸いです。
作者の創造意欲につながります。