異世界転移したら文字通りのスローライフで何をするに も 通 常 の 3 倍 時 間 が か か る こ と に
5作目の短編投稿です。よろしくお願いします。
「 ス ロ ー ラ イ フ 、 憧 れ ま す よ ね え …… 」
全身スローライフでおなじみの桃井遥香さんが、会議室の窓の外を眺めて微笑んだ。
生まれも入社も僕より1年早い先輩だが、僕より早いのはそれだけで、他はもうありとあらゆる面でいろいろ遅い、この編集部いや出版社屈指の有名人である。ふんわりと弧を描くロングヘアや、いつも微笑んでいる可愛らしい顔立ち、なんとなく丸くて豊かな身体もスローライフを具現化しているようで、だから全身スローライフだのゆっくり桃井さんだのと呼ばれている。
決して悪い人ではないのだ。いやむしろ穏やかで優しくて、とてもよくできた人だと思う。
だがしかし。いやもう、申し訳ないのだけれど本当、一緒にいるとこう、イライラが抑えられなくなってしまうのだ。
今もまた、人事異動で着任したばかりの新編集長がこめかみに血管を浮き上がらせていた。
「桃井! ちょっと立ておまえ! いいか、次号はスローライフ特集だがおまえまでスローになるな! 効率とスピード重視だ! 効率と! スピード!」
早口でまくしたてる新編集長。気持ちはわかる。だが無謀な挑戦だった。桃井さんはゆっくりと立ち上がりながら。
「 こ ん な に 急 い で 喋 っ て お り ま す の に 」
火に油をゆっくり注いだ。
「じゃあ普通に喋ったらどうなるんだおまえはッ!」
「 普 通 に 喋 っ た ら …… 」
途中で編集長はぎゃあと叫び、もういいから黙ってろとキレてしまった。桃井さんは少し間を置いてから「 は い 」とスローに返事をして微笑んだ。そしてゆっくり座った。
スローライフというのは「自分の時間をしっかり用意してのんびり自由に過ごす生き方」のことである。決してゆっくり喋ることではない。
残念だけど桃井さんとは一緒に暮らせないな。などと、別にシェアハウスの予定もないがそう思い、僕は会議に意識を戻した。
僕たちが作っているのは都会人向けの、ファッションを中心にした月刊総合情報誌である。
来月はスローライフ特集を組むとのことで担当チームが急遽編成され、僕もそこに入った。
作業内容とシメキリを互いに確認し合った。かなりの強行スケジュールだ。
スローライフ特集なのに超絶多忙な日々になるぞこれはなんの冗談だと冷や汗をかきながらさっそく行動を開始した。
全体的な構成案を悩みながら作成し、アドバイザー候補をピックアップしているうちに終電が近づいていた。
時計を見てぎょっとし、あわてて退社して水道橋駅まで走るはめになった。
交差点で赤信号に捕まった。やばいやばい。ぎりぎりだぞこれは。
青になると同時にダッシュ。しかしそこで、横から来ていたトラックがまったく減速していないことに気付いた。
まずいと思った次の瞬間、僕はたぶんはねられた。
目が覚めると、青空が見えて、あたりは一面の花畑だった。
悪い意味で天国だと理解した。
やってしまった。
まだ22歳という若さで、交通事故で命を落としてしまったらしい。
死んでから自己紹介するのもあれだが、僕は住友大樹。真面目が取り柄のいたって普通の契約社員だ。
見たところ身体にも服装にも異常はない。心臓も動いていた。
「いや、生きてるんじゃないのかこれ。呼吸もできてる。身体も暖かいし」
生きてる? じゃあここはどこだ。
きょろきょろしながらうろうろしていると細い道に出た。道を歩いていると人が見えた。女性が3人。ホッとした。
「すみません、一番近い駅はどこですか」
その3人はアメリカかヨーローッパの人だと思えたが、とりあえず日本語で尋ねてみた。
ありがたいことに日本語が返ってきた。
返ってきたはいいが、そのスローさに驚いた。
「 一 番 近 い エ キ 」
「 エ キ っ て 何 」
「 飲 み 物 の こ と か し ら 」
以下、簡潔にまとめる。
ここはなんと異世界だった。
出会った3人は姉妹だそうで、身寄りのない僕は彼女たちが暮らす家に泊めてもらえることになった。
広大な麦畑の真ん中に建つその家は、質素な造りながらとても大きく、大所帯だった。
姉妹の上に兄夫婦、両親、祖父と祖母がいて、兄夫婦には可愛い赤ちゃんもいた。暖炉の前ではもふもふの大型犬が寝そべっており、その頭の上では子猫が丸くなって眠っていた。
なんと全員がスローだった。
馬ですら「 ヒ ヒ ヒ ー ン 」とゆっくりいなないた。
僕はゆっくりと食事を頂戴し、手入れの行き届いた客室をゆっくり与えてもらった。
目が覚めたら普通の世界に戻っていますように。そう祈りながら、僕は暖かい布団をかぶって目を閉じた。
「 コ ケ コ ッ コ ー 」
ゆっくり起こされた。
僕のスローライフの幕開けだった。
この家の主であるお父さんがゆっくり微笑んで「 当 面 は …… 」
要約すると、当面はここで暮らせばいい、もちろん仕事は手伝ってもらうけれどと言ってくれて、家族全員がうんうんとゆっくり頷いてくれた。
僕は家畜の世話や薪の割り方をゆっくり教わった。
休憩が何度も、しかもたっぷりとあり、そのたびに僕はみんなと一緒に木陰に座ってサンドイッチや焼きたてのクッキーをゆっくりいただいた。紅茶の香りもゆっくりしていた。
土曜と日曜は必要最低限のこと以外、仕事をしないスタイルのようだ。
お父さんは僕に釣りをゆっくり教えてくれた。太ったマスがゆっくり釣れて、その夜はマスの香草バター焼きがテーブルにゆっくり並んだ。
なんと水曜日も休日だった。僕は町にゆっくりと連れて行ってもらった。
町といっても小さな田舎町だ。
そこに暮らす人々も、何もかもがゆっくりだった。
季節ごとに、大自然に感謝をする趣旨の大きな祭りがゆっくりと開催された。
その時にだけ作るという料理やケーキがとても美味しかった。
三姉妹の次女が僕にダンスを教えてくれた。
いつの頃からか、みんなのゆっくりさが気にならなくなっていた。
我が身の順応性に感心した。
慣れてしまうともはや鶏は普通に「コケコッコー」と鳴くし、次女の元気な挨拶も「おはよう大樹! 今日もいい天気だよ」と普通のテンポで聞こえるようになった。ただし生活スタイルのスローさはもちろん変わらない。たっぷり休憩しながら働き、休日はお父さんと一緒に釣りを楽しんだ。
もう、元の世界に戻れなくてもいいんじゃないか。
そんなふうに思い始めた。
ある日僕は、たいしてスピードを出してもいない荷馬車に。
ゆっくりとはねられた。
目が覚めて絶望した。
東京練馬区の安アパートの忘れかけていた自分の部屋でひとり、朝を迎えていた。
スマホを見れば、僕がトラックにはねられたはずのあの翌朝だった。
よくよく思い返してみれば、トラックにはねられそうにはなったがぎりぎり助かり、なんとか終電で部屋に辿り着いた。そんな記憶があった。
ずいぶん長い夢を見ていた。
あの暖かい家族に別れを告げることができなかった。
次女などはきっとわあわあ泣いているだろうと思い、夢の中の出来事とはいえ心が痛んだ。
重い仕事かばんを肩にかけて外に出ると、行き交う人々のせわしなさに驚いた。
おにぎりを買おうとコンビニに入ってみたが目に映る情報量の多さにしばらく呆然とした。
店員はとても早口で、ちょっと苛立っている様子だった。
職場に着いた。
みんな早口でせかせかと働いている。
新編集長などは早口すぎて、何を言ってるのか聞き取るのに苦労した。
まあいいか。僕は僕のペースで働くとしよう。
幸い、スローライフ特集はいいものを作れそうな気がする。
まずは紅茶を一杯飲みたいと思い、給湯室に向かった。
そこに、全身スローライフのゆっくり桃井さんがいた。
今日は淡いピンクのカーディガンを羽織っていて、ちょうど紅茶の用意をしていた。
挨拶をすると桃井さんは少し驚いたように僕を見て、そして微笑んだ。
「ようこそ、スローライフの世界へ」
読んでいただいてありがとうございました!
雰囲気は異なりますが現在連載小説を日々更新中です。よろしければそちらもぜひお願いいたします。
五十嵐アオ