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今日降る雪の 第96回オール讀物新人賞最終候補作

作者: 加藤竜士

私は過去4回、オール讀物新人賞の最終候補に残っています。

しかし、受賞はならず。

同賞には毎回2000ほどの応募作がありますが、

そのなかで2000分の5に残ることはなんとかできても、

2000分の1に残ることは至難の業ということでしょう。

「今日降る雪の」はそのなかの一作。

どうぞ時代小説のおもしろさを楽しんでください。



      一


 夕暮れころから降りはじめた雪は、夜が深まるとともにいっそう激しくなってきた。

 江戸城の濠に沿ってつづくその広い通りも、白一色に塗り込められ、音はなかった。

 そのかすかな雪明かりをたよりに突き進む一人の武士の姿があった。

 降りしきる雪が視野を塗りつぶし、行く手をはばむ。

 深く積もった雪のなかに足を踏み込むたびに吐き出される白い息は、たちまち闇に吸い込まれて消える。

 男は、傘も差さずみのや合羽も着ていない。

 頭の上の一文字笠には雪が積もり、黒羽織に納戸色なんどいろあわせ、鉄紺の無文のはかまも真っ白である。

 手に提げている晒し木綿の白い包みが、かじかんだ手に食い込み、時とともに重みを増してくるようだった。品川からここまで歩いて来るのに一刻(二時間)もかかった。

 男は牛込御門のまえから右に折れ、広い坂道をゆっくりと上っていった。深夜、行く手には薄闇のなかに白い風景が延びているばかりで、人の姿はない。

 神楽坂とよばれるその坂の右手は武家地で、通りに面して大きな屋敷がつづいている。この辺りは旗本屋敷が多く、坂道の向こうの北側には小旗本の居宅がひしめく。

 坂の中腹まで来ると、男は足を止め、向き直った。

 笠を上げ、正面に見据えたのは、相模さがみ小野原藩留守居役、山下助左衛門の屋敷である。

 江戸定府の江戸留守居役は、それぞれ藩邸内に与えられた屋敷を居所としているが、藩邸内での暮らしは窮屈きゅうくつだといって、そとに別宅を構える者も少なくない。

 助左衛門邸の大きな門は固く閉じられ、厚く雪をかぶって、門番の姿もなかった。

 男は手にしていたさらし木綿の包みをほどくと、なかのものを取り出し、門前の踏み石段に叩きつけるように置いた。

 ぐちゃっと音がしてそこから血がほとばしり、周囲の雪を紅く濡らした。一刻前に切り落としたばかりの生首だった。

 男は門を離れて通りに戻ると、振り返ってまた門を睨みつけ、無言で雪の坂を下っていった。


 新しき 年の始の 初春の

   今日降る雪の いや吉事よごと


 男の背を追うように、懐かしい声が降りしきる雪とともにとめどなく降りおちてくる。今は亡き友が餞として贈ってくれた歌である。

 雪は、坂道にしるされてゆく男の足跡も覆い消して、静寂だけを闇に沈めていった。



「殿、殿!」

 障子越しに浅田七五郎の声がした。この家の若党である。二十四歳という若さに似合わず冷静沈着で頼りになる男だが、めずらしくその声は取り乱していた。

「どうした、大きな声を出して」

 眠りを破られた助左衛門は、寝床から不機嫌な声をあげた。

「お休みのところ、恐れ入ります。一大事でございます」

「なんだ、こんな朝早くから」

「御免」

 障子が開いて、七五郎が青ざめた顔で入ってきた。

「門前に、首級が置かれておりました」

「しゅきゅう?」

 七五郎が枕元まで近づいてきて声をひそめ、「生首でございます」と言った。

「どういうことだ?」

「わかりません。つい今し方、仁平が雪かきをしようとおもてに出たところ、門前の踏み段の上に置いてあったと」

「何者の首だ。当家の者か」

「見覚えのない顔にございます。髪型から察するところ武士のようですが」

「首だけか? 胴体は?」

「見あたりません」

「見知らぬ武家の首だけが、当家の門前に置いてあったというのか」

「はい」

「屋敷を違えたのであろう。当家には、さような禍難かなんを受ける覚えはない」

「まことに」

「早急にお上に届けなさい。そのような悪戯を働く者を野放しにしておくわけにはいかぬ」

「承知いたしました」

「首はどうした」

「門前にいつまでも置いておくわけにもまいりませんので。あちらへ」

 助左衛門に促され、七五郎が障子を開けると、雪に被われた白い庭が廊下の向こうに広がり、部屋に明るみがさした。

 半身を起こして覗き見ると、庭先に老中間ちゅうげんの仁平のこわばった顔があった。

 助左衛門は寝床を出て、廊下に出た。

 ひざまずいていた仁平が顔を上げ、ぼそりと言った。

「こちらにございます」

 膝元に男の首が置かれてあった。齢は三十半ばほどだろうか、その顔には今も苦悶の表情が残っており、まげは崩れ、口元には血がにじみ、かっと見開いた目はくうをにらみつけている。

 その禍々《まがまが》しい眺めに、助左衛門は思わず「うっ」とうめき、後ずさった。

「何者の所業でしょうか」

 七五郎があらためて生首を見やってつぶやいた。

 助左衛門は、死に顔の右の頬の、赤く大きくふくらんだ吹き出物に気づいて思わずあとずさった。

「そ、そ、そ、それは……」

 七五郎が訊いた。

「存じ寄りの者ですか?」

 助左衛門は、目を剥き空をにらみつける生首を震える指でさして言った。

「吉川だ、吉川金四郎、豊前ぶぜん長津藩の留守居役だ」



 障子を閉めたきった役部屋は、庭一面を被った雪が昼下がりの日差しを照りかえして明るかった。

 木挽町汐留の長津藩の上屋敷である。

 山下助左衛門は、先刻から、長津藩留守居役の居川球磨いがわくまと内談をつづけていた。しかし、話はとぎれがちで、たびたび沈黙が流れた。

 江戸留守居役は、藩主が不在のとき文字通り江戸藩邸の留守を守り、藩主が在府であっても、御城使として江戸城中に詰め、幕閣の動静などを把握し対応する。藩の外交官でもあり、幕府や他藩との交渉事もたいせつな職務である。

 他藩の留守居役との交流を通しての情報交換も重要で、そのために留守居寄合仲間もつくられている。殿中では大名の格式によって帝鑑の間、柳の間、雁の間、菊の間など詰め席が決まっているが、江戸留守居組合も基本的には藩主の詰め席と同じ列の藩で組織されることが多かった。五位の譜代大名である長津藩と助左衛門の小野原藩はおなじ帝鑑の間詰めの組合である。

 明るい障子のほうに目をやったまま沈思していた居川球磨が、組んでいた腕をほどき、丸火鉢に手をかざしてぼそりといった。

「大先生のお屋敷に金四郎の首とは……いったい誰がなんの意趣で……」

 留守居役には貫禄によって格式があり、留守居寄合の中でいちばんの古参には敬意を表して「大先生」と呼ぶ。

 大先生の助左衛門はいらいらして言った。

「それがわからぬから、こうして訊きにきておる」

 今朝方、金四郎の首が見つかったのと時をおなじくして、金四郎の遺骸も見つかっていた。首を切り落とされ、品川の料亭の裏庭の雪の中に転がっていたのである。

 金四郎は昨日、その料亭で朝方まで飲み、そのまま別室で芸者と枕をならべて休んだのだが、早朝になって手水にたった。なかなか戻ってこないことに気づいた芸者が、ようすを見に行って発見したのである。

 金四郎の亡骸は町方によって見分され、いまはこの上屋敷にもどっている。切り離された首も助左衛門が運ばせて引き渡した。

 球磨は「んー」とうめき、ふたたび思案に暮れる。まったく犯人に心当たりがないようである。

「吉川金四郎は御当家の御留守居役、貴公の直属の者でござろう。何者の仕業か、心当たりはござらぬのか」

 留守居役の人数は藩の大小などによって、一名のところもあれば多人数を置いてあるところもある。助左衛門の小野原藩には四名いるが、長津藩には留守居役が三人、居川球磨がその筆頭で、殺された吉川金四郎は次席である。

 助左衛門が聞いた。

「金四郎が、誰かの怨みを買っているというようなことはなかったか」

 球磨は口を結んで答えない。

 殺された理由が何にせよ、その首が置かれていたのが助左衛門の屋敷前だったことが、すべてを示唆しているように球磨には思える。

 顔を上げると、目に映ったのは、年甲斐もなく怖気立ち、底知れぬ不安に囚われている老人の姿だった。

 球磨は重い口を開いた。

「大先生が、恨みを買うようなことはございませなんだな?」

「何を申す。そのようなことがあるわけがない」

 助左衛門は言下に否定したが、どこか狼狽しているようにも見えた。

 球磨は「んー」と深いため息をつき、ふたたび腕を組んで黙り込んでしまった。

 生首が見つかった後、助左衛門はすぐにそれを幕府に届け出た。御徒士目付が駆けつけ、首が置かれていた現場の見分や発見者の聞き取りを行い、その見分書と口書きが御目付を通して月番の若年寄にあげられた。

 金四郎の首が置かれたのは神楽坂だが、首なし死体が見つかったのは町地の品川である。本来、町地で起こった事件は町奉行所の受け持ちとなるが、首が見つかったのが武家屋敷だったので、御目付と町奉行のどちらで吟味探索するか、若年寄に判断を仰いだのである。

 いずれにせよ、すでに月番の北町奉行によって探索ははじめられている。

「見分にきた徒士目付に根掘り葉掘り聞かれて、ひどく不快な思いをした」助左衛門が言った。「御上に届け出なんぞしなければよかったと後悔したぞ。金四郎の首は秘密裏に処分して、口をつぐんでおれば良かったのだ。町方が品川の金四郎の死骸を調べ、首なし死体のまま探索が終わってしまえば、痛くもない腹を探られることもなかった」

 球磨は無言で頷いただけだった。あまり関心がないように見えるのが、助左衛門には不満らしい。

「敵は、我が山下家ではなく、帝鑑の間詰めの留守居役組合を標的としているのではないのか」

 と助左衛門が言った。

「なぜ、そうお考えで?」

「そ、それは、当家が怨みを買うような覚えはないからだ」

「さようか……」

 球磨の答えは歯切れが悪く、何かしら含みがあるようでもある。

 煮え切らない態度に助左衛門は苛立ち、

「今夜、売茶亭ばいさていで」

 と言い捨てるように言葉を残して出て行った。

 一人になった球磨は目を落とすと、腕を組んで深いため息をついた。

 助左衛門に同情する気持ちはなかった。一刻も早い事態の収束と自藩に被害が及ばないよう、ひとえに願うばかりである。

 金四郎にこんなひどい仕打ちをしたのは誰だろう、と思案はふたたび立ちもどる。

 助左衛門には言えず口を濁したが、実は、思い当たる節がひとつだけあった。もしそうだとすると、この凶事は、金四郎一人では済まない。もはや、その禍根を断つことは叶わないからだ。

 そのことに思い至って、球磨は突然、恐怖と不安に凍りついた。

 まだ誰か殺される。つぎは……誰だ?



 売茶亭の二階の奥まった座敷に、江戸留守居役たちが集まっている。

 江戸留守居は会合や相談と称して、藩の公費で高級料理屋やときには吉原、芝居見物、相撲見物と遊興に明け暮れる。そんな寄合に対し幕府は禁止令を出したが、何年かするとまたぞろ幅をきかせはじめ、御留守居茶屋と称する料理屋も現れ始めていた。芝久保町にある売茶亭も、そんな御留守居茶屋のひとつで、平清ひらせい八百善やおぜんとならぶ名代の料理茶屋でもある。

 その、いかにも高級そうな料理屋から、今夜も三味線の音や芸者や客の華やいだ笑い声が聞こえている。

 しかし、二階の奥まったその一室だけは、場違いに重い空気につつまれていた。

 広い座敷には酒肴の膳が用意されているが、そこで盃を傾けているのは一人だけである。いつもなら呼ばれた芸者たちが出番を待って控えているはずの隣の小座敷に武家たちが集まり額を寄せ合っていた。急遽、山下助左衛門から招集を受けた帝鑑の間詰め大名家の留守居役たちである。

 誰が金四郎を殺して助左衛門の屋敷の前に首を置いたか、さんざん憶測や見解を交わしたが、解明するには至らなかった。

 金四郎の死体の斬り口から見て、ただならぬ遣い手らしいと聞いても、恐怖心をあおられるだけで、その遣い手というものにはだれも心当たりがなかった。

「殺したのは誰かということより、この先どうすべきかでござろう」

 分別くさくそう発言したのは脇坂である。三十七のとき備後びんご福川藩の留守居役に就いて七年になる中堅である。

「他出のときは、警護人を伴うことにしましょう。若党だけでは心許ない。せめて二人か三人腕の立つ者を」

 と美濃みの稲垣藩の依田謙之亮よだけんのすけが言った。まだ三十前の、助左衛門はもとより周囲の顔色ばかりうかがっている気の小さい男である。

「ならば他出そのものを控えれば良い。さすれば襲われることもない」

 と笠原が言う。信濃松井藩の留守居で、依田とは年齢も経験年数も近い。

「では、われらの寄合の会もしばらくは控えるということに……」

「方々は」

 口をだしたのは隣の座敷で一人酒盃を傾けていた上杉頼母うえすぎたのもである。

「事件はまだ終結していないとお考えのように聞こえるが? つまり、吉川金四郎どのがはじまりで、さらに二人目、三人目の犠牲者が出ると」

 一同が返答に詰まり押し黙る。

 豊前ぶぜん戸倉藩の留守居の頼母は三十半ばとまだ若いが、相手が誰であろうと歯に衣着せぬ物言いをする。平然と冷徹非情な意見を吐いて場を白けさせることもあるが、しかしそれはいつも正鵠せいこくを射ているので、反論の余地がなく、皆を黙らせてしまうのだった。

「ご一同、なぜそうお思いか」

 全員、うつむいたままである。

 頼母は盃を満たしぐいと飲み干すと、皆のほうに振り返り、さらに追いつめるように強くことばを吐いた。

大友海伊おおともかいい

 突然出たその名に、部屋の空気がぴしりと凍りついた。

「どなたも、そうお思いなのであろう。それに触れぬのは、その名を口にするのがはばかられるか」

 それに対して声を返したのは、大先生の助左衛門だった。

「……あれはずいぶん前のことだぞ。それに、あの男はすでにこの世にはないのだ。それがどうやって金四郎を殺し、首を切ってわしの屋敷まで運ぶのだ」

 震えおののき、依田謙之亮が思わず口走った。

「亡者があの世から舞い戻ったか」

 一昨年の師走、下総しもうさ美月みつき藩の留守居役大友海伊は寄合の席を飛び出し、吾妻橋から身を投げて死んだ。

「海伊はここにいる全員に怨みをもっていたと思うが、とくに怨まれていたのは殺された吉川金四郎、この上杉頼母、それといちばんは大先生であろう。つぎに襲われるとしたら、二人のうちのどちらかだな」

 助左衛門がむっとして聞く。

「なぜ、わしが一番なのだ」

「お忘れか? 海伊は、大先生の度重なる苛めに、我慢ももはやこれまでとみずから命を絶ったのじゃ。金四郎の首がお手前さまの門前に置かれていたことが、何よりの証しでござろう」

 助左衛門は開きかけた口を閉じた。反論できなかったのだ。それは、昼間、居川球磨から問われて内心狼狽した理由でもあった。

「大先生だけではない。自分も海伊が大嫌いでござった」

 と頼母は告白した。

「いや、嫌いというのではない。何でも彼でも杓子定規しゃくしじょうぎに物を見るあの堅苦しさがうとましく苛立たしかったのだ。人はもっと柔軟に物事を受け止めなければならぬ。それがわからぬから嫌みをいい、からかい、苛めた。それで怨まれるなら致し方なし。言い逃れするつもりはない」

 だれも言うべきことばが見つからず、黙り込んだままである。

「自分にはわかっている」

 頼母はつづけた。留守居役言葉という独特の言葉遣いがあり、おのれのことは『自分』と呼ぶ。

「これは、海伊を死に追いやった者たちへの意趣返しだ」

「住吉、疑わしき者は?」

 助左衛門が、終始沈黙を守っていた住吉重郎太に問いかけた。

 亡き海伊の後任として入った美月藩の若き江戸留守居役である。

「海伊どのは妻女も亡くなっており、子もございません。かようなことをしでかす者など、さっぱり見当が……」

「兄がおろう」助左衛門が言った。「用人の、何といったか……」

「大友壱之丞様ですか?」重郎太が言った。「しかし壱之丞いちのじょう さまは、刀どころか竹刀さえ握ったことがないと申しますし、それよりなにより、亡き弟のためとはいえ、人を手にかけるような御仁ではござりません」

「されば   」

 依田が言いかけるのを遮って頼母は言った。

「まだ言うか。死んだ者は生き返らぬ。金四郎どのの首を斬り落としたのは海伊ではない」

「襲ってくるとしたらどこであろう……」球磨が呟いた。「われらは、どんなときでも、一人になるということはない。宴席に出向くときは、すくなくとも一人か二人は供の者がいるし、宴席には多人数が寄り集まる。そこを急襲するとなると、その場にいる者を一人残らず排除しなければならぬし、それでは手間取って狙う相手を討ち取ることは難しかろう」

 福川藩の脇坂志道がつづけた。

「だからといって、われらの居宅を襲うのも難しい。藩邸の前で昼夜通して待ち伏せしていれば目につくし、見咎められて、決行に到らぬまま取り押さえれられてしまうだろう」

 松井藩の笠原飯山が言う。

「藩邸内に忍び込むことさえ容易ではない。たとえ忍び入ったとしても、広い藩邸内でどれがわれらの屋敷か探り当てるのは容易ではないし、寝屋を探り当てるにはさらに時が掛かる」

 依田が怯えた表情で言う。

「誘き出そうとするのではありますまいか。大先生や居川様や、あるいは女の名を使って誘き出し、一人になったところを狙って……」

「せいぜい気をつけることですな」球磨が嫌みな笑みを浮かべて言った。「我ら、とくに女の誘いには弱い」

 その軽口に笑う者はなく、だれもが深刻な面持ちで物思いに落ちた。

「ふん」頼母が一人鼻で嗤い、盃にあらたに酒を注いだ。「来るなら来い。上杉頼母は逃げも隠れもせぬ。返り討ちにしてくれるわ」




      二


「お頼み申す! お頼み申す!」

 昼過ぎ、神田鍛冶町中居道場の玄関先に立ち、声を張り上げる浪人者があった。

 齢は三十一、二だろうか、細身ではあるが、骨太の精悍せいかんな体つきで、周囲を圧倒するような堂々とした気迫をみなぎらせていた。

 剣道着姿の若い門弟たちが出てきて、「何用でござるか」と訊ねると、

「拙者、鈴木善兵衛と申す。強者揃いの中居道場の皆々様にぜひとも、ご教授賜りたくお願いに参った」

 と言った。

 それを聞いて門弟の一人が奥へ走り込み、師範代とおぼしき男を連れてもどってきた。浪人者より二、三歳若いだろうか、胸板が厚く屈強な体つきをしている。

 竹刀を手にしたまま師範代が浪人を見下ろして、せせら笑うように言った。

「ほう、道場破りか。いまどきめずらしい」

「一手、御指南をたまわりたい」

「当道場は他流試合を禁じておる。お引き取り願おう」

「ならばしかたがない。中居道場は怖じ気づいて他流試合を断ったと世間に喧伝させていただく。されば、看板を頂戴して参る」

 くるりと背を向け、看板が掲げてある門のほうへと歩き出した。

 門弟たちが色めき立った。

「待て!」

 男たちが裸足のまま追いかけ、一同が取り囲むと、師範代が行く手に立ちはだかった。

「看板を持ってゆくことは相ならん」

「北辰一刀流中居道場は高名だが、実のところ腑抜け揃いと大いに喧伝するのに、ただのほら吹きと思われては業腹。証しの看板は是が非でも入り用にござる」

「来い」

 師範代はいきなりきびすを返すと、道場のほうへ足早に歩いていった。

 中居道場は浪人のいうように名のある剣客を多く輩出している由緒ある道場である。その強さは今も変わらず、江戸で五本の指にはいると言われており、御前試合でもつねに上位を占める。

 師範代の号令で門弟たちが稽古を中断し、壁を背にして座った。

「ただいまより、他流試合を行う。小山っ」

 呼ばれた高弟らしき若侍の小山はまえに出ると、敵愾心をあらわにして浪人を睨みつけた。これまでの無礼や放言がよほど腹に据えかねているようである。

 この道場の門弟はほとんどが武家の上士以上の子弟ばかりで、町人や武家の軽輩の子息はいない。そんな育ちの良い門弟たちも、血気にはやる目で成り行きを見守っている。

「一本勝負。はじめっ」

 蹲踞そんきょの姿勢から立ちあがると同時に、小山がいきなり床を蹴り、撃ち込んでいった。

 浪人は頭を低くして左に跳び、その一撃をかわして、相手の手首に強烈な一撃を加え、胴を打った。目にもとまらぬ疾風迅雷の動きだった。

 若侍の手から落ちた竹刀が音を立てて床を転がっていった。

「一本」

 師範代が苦々しくいった。認めざるを得ないあざやかな一撃だった。

 さらにもう一人、その場にいた高弟を指名したが、おなじ結果に終わった。

 師範代は「くっ」と喉を鳴らすと、

「中居道場師範代、安岡哲馬が相手する」

 とみずから竹刀を取って前に進み出た。

 門弟の一人が防具を差し出すのを、「無用」と突き返し、浪人と対峙した。

 そのとき、安岡は相手の構えが不格好で一風変わっていることに気づいた。後ろ足に重心を置き、腰を思いきり引いているのだ。そういえば、いまほどわかりやすくはなかったが、善兵衛は初戦からこの構えをとっていた。

 こんなへっぴり腰では強い打ち込みはできまい、と安岡はあなどる気持ちでその男を見た。

「はーっ」

 気合いの声を発し打ち込んでいった。

 しかし、浪人はそれを巧みにはずし、右へ左へ後ろへと飛んだ。間髪おかずに打ち込んでいくが、ことごとくはずされる。安岡は、その不格好な構えが、敵の攻撃を外すのにきわめて有効なものだと知った。

 相手はこちらの攻撃を待っている。思い返せば、一、二戦ともそうだった。攻撃をすればそれをはずし、隙が生まれたところへ打ちこんでくるのだ。

 よかろう、こちらから仕掛けるのはやめだ。そっちから打ち込んでくるのを待ってやる。

 しばし両者の足がとまり、にらみ合いがつづいた。

 安岡は、善兵衛の右のつま先がじりっと動くのを視野のはじに捉えた。

 (来るか)

 そう感じたときには頭頂に激打を浴び、衝撃とともに鋭い音が鳴っていた。

「勝負ありっ」

 怒号のような大音声が道場内に轟いた。

「先生」

 壁ぎわに居並んでいた門弟たちから声が漏れた。

 見所けんしょに二人の男が立っていた。

 一人は長く伸ばした白髪を後ろで無造作に束ねた、七十過ぎの矍鑠とした老人である。道場主の中居壮玄なかいそうげんかと思われた。

 その脇に寄り添うように立っているのは三十なかばとおぼしき立派な身なりの武家だった。善兵衛に向けられた眼光が鋭い。

「騒がしいから来てみれば……」

 壮玄が苦々しくいった。

「面目しだいもございません」

 安岡が床にひれ伏し、言った。

「中居道場が他流試合を禁じておるのを忘れたか」

「道場の表看板を持って行こうとするのでやむなく」

「なぜそのまえにわしに知らせなかった」

「先生を煩わすまでもないと……」

 二人のやりとりに割り込み、道場破りが言った。

「すでに勝負はつき申した。看板を頂戴して参る」

 出て行こうとする善兵衛に、壮玄の脇に立っていた武士が「待て」と声を投げた。

「まだ終わってはおらぬ。おれが手合わせをしよう」

「お手前は?」

「上杉頼母。今日はたまたま先生をお訪ねしていた。そのほうは?」

「鈴木善兵衛」

「在所は」

「江戸生まれの江戸育ち。今は長屋のわび住まい」

「浪人者か。流派は?」

馬庭念流まにわねんりゅう

「上州の田舎剣法か」

 薄笑いを浮かべ、見下すように言った。

「試合は終わり申した。看板を頂戴してゆく」

「負けるのが怖いか」

「道場に籍のない御仁と立ち合ういわれはござらぬ」

「中居道場の本目録を受けておる。数年前までここで師範代も務めていた。まごうかたなく中居道場の者だ」

「御免つかまつる。看板はいただく」

「待て! おれとやってからだ」

 善兵衛は出口のほうへ歩きだしたが、ふと足を止め、振り返って言った。

「どうしてもと申されるなら-ー-」

「なんだ」

「立ち合いは木剣にて願おう。防具はなし」

「木剣で防具なし?」

「左様」

「……わかった。それで異存はない。そういうからには、そのほうも生涯不具になっても命を落としても否やはないな?」

「聞くまでもない」

 頼母が壁に歩み寄り、木剣を取って一振りを投げる。

 浪人が受け止め、構えた。

 頼母は向き合い、だらりと木剣をさげたまま問いかけた。

「死ぬ覚悟はできているのだな?」

「………」

「どうなのだ!」

「言うに及ばず!」

「よかろう。参れ!」

 両者が青眼に構え、向き合った。

 道場内の気が一段と張りつめた。

 しかし、ふたりは構えたまま動かない。

 長い睨み合いがつづく。まるで固まって岩になってしまったかのようである。

 おもての日の光のまえに薄雲が流れてきたのだろうか、道場内にかすかに翳りがさした。

 そのとき、鈴木善兵衛がこれまでの独特の構えを解き、まえに出した左足に重心を移した。

 つぎの瞬間、身体ごとぶつかって行くように突進していった。

 受けの戦いから、突然攻めに出たのだ。

 頼母の反撃を跳ね返し、かわし、さらに撃ち込んでゆく。頼母の木剣を右に左に跳ね返しながら面に打ち込み、小手に打ち込み、喉に突き込み、休みなく攻撃を浴びせる。

 何度も壁ぎわまで追い込み、相手が脇に飛ぶのを追って、執拗に撃ち込む。

 頼母は、相手の繰り出してくる一打一打の鋭さに当惑していた。鋭いだけではない、尋常でなく重い。受けるたびに、衝撃が電光のように総身を貫く。

 あなどっていた。この男、並の遣い手ではない。

 頼母は木剣を下段にうつして、相手の打ち込みを誘った。

 木剣がうなりをのせて目の前に飛び込んできたかと思うと、ビシッと音がして、振り上げた木剣が折れ、刀身が半ばから弾き飛ばされていた。

 そのとき動揺して一瞬動きが止まったのが命取りになった。

 間髪おかず襲ってきた善兵衛のつぎの一撃が、頼母の脳天をかち割っていた。

 頭から血を噴き昏倒こんとうした頼母の顔にさらに強烈な一打が加えられた。かすかに残っていた命の火も、それで完全に消えた。

 浪人者は振り返り殺気だった目を一同に浴びせると、木剣をその場に投げ捨て、ゆっくりと出て行った。

 鈴木善兵衛と名乗ったが、それはでまかせの名だった。実の名は後藤郁馬ごとういくまという。

 道場の看板を取ることにあれほど固執していたはずなのに、郁馬は門を出るとき、いっこだにすることはなかった。

 欲しかったのは、上杉頼母の命だった。




      三


 郁馬が住まいのある上屋敷からほど近い日比野道場に通うことになったのは十歳のときである。父親が、本人の承諾もなく入門を決めてきてしまったのである。

小野派一刀流、北辰一刀流などの一刀流や直心影流、神道無念流などが主流の江戸では、馬庭念流の道場はめずらしかった。

 活発な郁馬少年は、たちまち剣術が好きになり、熱中した。稽古は楽しかったが、師範代に目をかけられているのが気にくわないのか、兄弟子たちのいびりが日に日にひどくなっていった。

 その日も、防具袋を持たされ、帰って行くところだった。十歳のちいさな身体に、六人分の防具袋は重かった。思わずひとつが肩からずり落ちた。

「新吾さん、こいつ、新吾さんの防具袋を投げ捨てましたよ」

 一平太が言いつけた。

 新吾はいつもつるんでいるこの五人のなかでは最年長の十五歳で頭格である。

「ずり落ちてしまったんです」

 急いで荷物を拾い上げたが、新吾は顔に憎悪の感情をあらわにして郁馬を睨みつけた。

「来い」

 通りからはずれ、人目のない堀端のほうへ連れて行かれた。

 郁馬は暗澹あんたんとした気持ちになる。また、あれが始まるのだ。

「おまえ、野村さんに誉められていい気になるなよ」

 そんなことはありませんと言ったが、今日も師範代の野村が、めざましい上達ぶりを賞賛してくれたのは事実だった。

「小役人の小伜が生意気な」

 もう一人の子分が薄笑いを浮かべて言った。

 新吾の父親も子分たちの父親も郁馬とはべつの大藩の、いずれも上士の子弟だった。

「謝れ」

 一平太が噛み殺した声で言った。

「ごめんなさい」

「そうじゃない。新吾さんの防具袋を落として誠に申し訳ございませんでした。今後このようなことがないよう気をつけます、だ」

 郁馬は言われたとおり繰り返した。

「なんだ、その目は」

 思わず怨めしい目つきになってしまっていたようである。すぐに目を伏せ、「ごめんなさい」と謝った。

「汚したんじゃないだろうな」一平太が新吾の防具袋をあらため、言った。「泥がついてます。それどころか破れてますよ」

 それははじめからあったほころびだった。

「よくもおれの大事な防具を……」新吾の目が細くなった。

 いじめを始めるとき、いつもそうなる不気味な目つきだった。

「脱げ」

「……どうしてですか?」

 意味がわからなかった。

「罰として裸になれと言ってるんだ」

 逆らうことはできない。

「下帯もだ」

 言われるがまま、一糸まとわぬ姿になった。

「よし、金はあるか」

「お金ですか?」

「腹が減ったから、あそこで団子を買ってこい」

 表通りの団子屋のほうをあごで指して言った。

「これでですか?」

「そうだ、すっ裸で買ってこい」

 絶望的な思いに囚われる。しかし、怖くて逆えない。

 もじもじしていると、どこかから声がした。

「いけません!」

 堀端の、生い茂っている葦叢あしむらの陰から一人の子供が出てきた。

 齢は郁馬とおなじくらいだろうか、色白でひ弱な印象の男の子だった。

 その男の子が言った。

「弱い者いじめはいけないことです。だめです」

 まだ十歳の子供の口から出た言葉に、兄弟子たちは気色ばんだ。

「なにい……」

「あちらで本を読んでいましたが、あまりに騒がしいので勉学になりません。ぜんぶ聞こえてしまいました。その子は全然悪くありません。皆さんのやっていることは弱い者いじめです。今すぐやめないといけません。人に難癖をつけていびるなんて破落戸のやることです。武士にあるまじき恥ずべきことです」

 言っていることは勇ましいが、声が上ずってかすかに震え、顔面は蒼白だった。

「餓鬼が生意気な!」

 新吾が手にしていた竹刀の入っている竹刀袋で殴りつけた。

「やめて!」

 郁馬が後ろから新吾にしがみついた。

「うるさい!」

 ふりほどき、こんどは郁馬を殴る。

「だめ!」

 少年が止めようとして飛びつき、突き飛ばされ、殴られる。

 子分たちも加わって、郁馬たちを小突き回し、殴り、蹴りつける。

 さんざんやって飽きたのか、

「腹が減った。どこかで団子でも食って行こう」

 新吾が言い、皆と防具袋を持って歩き去った。

 泥にまみれ、堀端の湿った地面に倒れたまま、郁馬は惨めさに打ちのめされていた。

 うずくまっていた少年が半身を起こし、全身をまさぐりながら声を漏らした。

「痛い……」

「こうなることはわかっていただろ? 出てこなければ良かったのに」

「裸になれって言われたとき、どうして嫌だって言わなかったの?」

「目上の人だぞ、口答えはできないよ」

 怖いからだとはいえなかった。言えば、自分が意気地無しだと認めることになってしまう。

「間違っていることには間違っているって言っていいと思う。相手がどんなに強い人でも偉い人でも、立ち向かっていかなきゃいけないと思う」

「怖くないの?」

「怖いよ、だけど、がんばって言ってみた」

 あのとき少年は声が震え、血の気が引いていたことを郁馬は思い出した。この子も怖かったのだ。しかし、勇気を出して立ち向かっていった。

「それで、二人ともこんなになっちゃった」

 相手は泥だらけの郁馬を見て、「ふふっ」と声を漏らした。

 二人は笑いだした。腹の底から笑いが噴きあげてきて、大声を上げていつまでも笑った。それがふたりの出会いだった。相手の少年は大友大二郎、のちの大友海伊である。

 話すうち、たまたまおなじ美月藩の子で、齢もおなじだとわかった。しかも、ふたりとも二男坊だった。

 大友家に生まれた大二郎は、幼い頃から学問が好きで、藩校の経書の素読だけでは飽きたらず、藤井宗庵という国学者の私塾にも通っていた。私塾は日比野道場とおなじ日本橋松島町にあり、郁馬と出会ったその日も、塾からの帰りだったのだ。

 この日をきっかけに二人は急速に親しくなっていった。

 跡目を継いだ大二郎の兄はそのとき大小姓頭で、いずれ執政に上がると思われた。一方、郁馬の父親は勘定方の下役だったから家格も住まいも違うが、大二郎はそれを鼻にかけることなく、親しく接してくれた。

 いつも勉学ばかりで家に引きごもりがちの大二郎を魚釣り、虫取り、凧揚げ、竹馬遊びとおもてに連れ出した。ふたりはよく遊び、語り、よく笑った。

「生真面目で笑顔など見せたことのない大二郎さんが、よく笑うようになりました」

 と大二郎の兄嫁にこっそり感謝のことばをかけられたこともあった。

 大二郎も郁馬の家をたびたび訪れるようになった。三歳年下の妹の雪乃は引っ込み思案で人見知りなのだが、なぜか大二郎と会ったときだけは隠れることはなかった。話しかけてくる大二郎に、はにかみながらも訥々と答える妹の姿は、いじらしく愛らしかった。

 いじめにあってふさぎがちだった郁馬も、本来の闊達さを取り戻してきた。

 いじめっ子たちとの確執はつづいていたが、毅然と対応するようになった。理不尽な要求や誹謗には口舌で言い負かし、暴力を振るわれそうになったときには手向かう姿勢を見せた。思わぬ抵抗に彼らは当惑し、そのうちなにも言わなくなった。

 すべては大二郎がくれた勇気のおかげだと郁馬は感じていたし、感謝していた。

 こうして、二人は真の友として友情を育んでいったのだった。



 秋の頃だったと思う。

 暗い空に白い月がぼんやりと浮かんでいた。

 二十六歳になった郁馬と海伊は海伊の家の濡れ縁で静かに酒を酌み交わしていた。数か月ぶりの再会だった。

 二十歳を過ぎるとなにかと世事にとらわれ、子供の頃のように頻繁に会うことはなくなっていた。

 酒を酌み交わすとはいえ、海伊は妻女が気を利かせて持ってきた茶にすぐに手を伸ばした。酒が身体に合わないのか、猪口一杯で真っ赤になり、のぼせてしまうのだ。

 郁馬は妻女に声をかけた。

「久しぶりだの、息災か」

「はい」

「夫婦仲良くやっておるか」

「はい」

「くだらんことを聞くな」

 海伊が横から口を挟む。

「よいではないか、おのが妹が幸せかどうか心配するのは兄としてあたりまえのことだ。亭主がろくでなしで苦労しているやもしれん」

 郁馬の冗談口に、海伊はやわらかな笑みをこぼす。

 海伊の妻は、郁馬の妹の雪乃だった。

 郁馬は振り返り、立ち去る妹の後ろ姿を見やった。その穏やかな空気に心は和む。妹は、よき夫のもとへ嫁いだのだ。

 雪乃と海伊が夫婦となって七年になる。二人が強く望んだのである。家格の違いが障害となったが、二人の思いを知った海伊の兄があちこちに手を回し、工作してなんとか婚儀までこぎ着けたのだった。

 雪乃は、家長でもある長兄とは齢が離れているせいもあり、次兄の郁馬によく懐いた。とくに幼い頃は川遊び、魚とり、木登り、虫取りといっしょによく遊んだ。

 剣道場に通いはじめて遊ぶことも少なくなったが、それでも仲のよいことにかわりはなかった。

 そんなある日、道場から帰ってくると、雪乃が縁先にたたずみ、泣いていた。どうしたと訊ねると、おずおずと手のひらを広げて見せた。小さな手のひらのうえに、死んだ金魚がいた。

「動かないの」

 二人で祭りに出かけたとき、郁馬が露店で見つけ、自分の小遣いで買ってやった三匹のうちの一匹だった。雪乃はそれに「松」「竹」「梅」と名前を付け、沓脱石の脇に水を満たした桶を置いて毎日餌をやりかわいがっていたのだ。死んだのは梅だった。

 庭の隅に埋めてやったが、それからも雪乃は死んだ梅を思ってか、元気のない日が続いた。数日後、金魚の墓のまえで泣いている雪乃を見て、郁馬は言った。

「死んだ命は生き返らない。それが命というものだ。しかし雪乃、泣くことはないぞ。死んだ人はまたこの世に帰ってくる」

「……どういうこと?」

「命は何度も死んで何度も生き返るんだ」

「金魚も?」

「そうだ。輪廻転生といってな、何度も生まれ変わる」

 自分でも信じているわけではなかったし、金魚も生まれ変わりを繰り返すのかどうかわからなかったが、雪乃を元気づけるためにやっとの思いで絞り出した知恵だった。

「ほら、梅が生き返った」

 顔の前と尻に手のひらを当ててひらひらさせ、金魚のまねをして動き回った。

 その滑稽さに、雪乃ははははと無邪気な笑い声を上げた。

「元気を出せ。梅にはまた会える」

 雪乃が郁馬を見て重大事のようにいった。

「雪乃は、兄様の妹に生まれてまことに幸せです」

 そんな妹が今、二十五になった。そして、愛する夫のもとで安らぎに満ちた日々を送っている。その幸せそうな姿を見ると、郁馬は安堵につつまれ、思わず笑みをこぼしてしまうのだった。

「つい先だって、御家老の平山様から召しあげがあって、お屋敷にあがった」海伊が突然切り出した。「中小姓として召し出すと言われた」

「海伊が中小姓だと?」

「うむ。殿から直々の御下知だそうだ」

「いったいどういうことだ」

 老中を務める藩主の栗田成篤が幕臣の相沢政智と雑談をしていて、たまたま成篤の家中のことに話がおよんだ。

「公の御家中の大友海伊なる者は、すこぶる文名が高いと聞きますが、今はどの役職にある者で?」

 と聞かれ、成篤はその名を知らなかったので、さっそく屋敷にもどって家老の平山重久に尋ねた。

「おお、その者なら、ただいま当家におります」

 海伊は二十歳の頃から重久家に寄寓して子弟の教育にあたっていた。海伊の師でもある藤井宗庵が重久と親しく、藤井の推挙で教育係に入ったのである。

 重久は姓名事歴人柄を詳しく報告した。成篤は、海伊を中小姓として召し出し、三十俵三人扶持を給した。

「そりゃめでたい。青天の霹靂とはこのことだ」郁馬は自分のことのように嬉しかった。「そうなると、いずれは美月藩の家老ということか」

「出世は望みではない。和歌や学問の道を目指したかったのだ」

 海伊はこの栄えある異例の抜擢を、心から喜んではいないようだった。郁馬には理解しがたいが、海伊はもともと学者肌で、二六時中書物と向き合い、あるいは人やこの世の真理に意想めぐらすのが好きなのだ。

 海伊が聞いてきた。

「そっちのほうは近頃どうなのだ」

「んー」

 郁馬は曖昧に頷き、言葉を呑んだ。

「なにか厄介ごとでも?」

「いや、そうではないのだが……」

 郁馬は十九の時、日本橋村松町の刀屋に婿に入った。武士を捨てて町人になったのである。身を落としたとは思わなかった。この先厄介者となって朽ちてゆくよりは家を出た方が良かったし、藩の下役である後藤家にはいつまでも次男を置いておく余裕もない。

 嫁の亜弥は家付き娘だが、郁馬より二歳年上で前にも婿を取っていた。婿がよそに女をつくって家に帰らず、商いにも不熱心だったので離縁したということだった。

 娘が傷物とはいえ、剣術しか取り得がない郁馬には、縁談があっただけでも幸運といえた。店主である父親が、仕事を覚えたらすぐに隠居して郁馬に跡を継がせると確約した。

「商いはつまらん」

 郁馬が言った。

「性に合わぬか」

「まあ、そうだ。竹刀を振り回しているほうがどれほど楽しいか」

「おまえらしい」

 海伊は笑った。

 正直に言うと、心を重くしているのはそれだけではなかった。

 婿入りしてみれば、刀屋「一文字屋」が扱っているのは数打物とか束刀などといわれるものだった。目利きなどできなくてもわかる鈍刀である。客は、暮らしに貧して先祖伝来の業物を売り払い、代わりに竹光というわけにもいかないので、駄物を買い求めにくる浪人たちだった。

 女房の亜弥に対しても、情が湧いてこかなかった。面立ちが整い清楚な印象だが、実際に暮らしてみると、口の利き方がはすっぱで、男ならだれにでも狎れ狎れしくするふしだらさのようなものが、いちいち気持ちを逆なでするのだった。

「何もかも面白くないのだ」

 郁馬は心の奥にしまい込んでいたものを吐きだした。真の友には、強がりも虚栄も取り払ってしまおうと思った。

 それを聞いて、無言で白い月を見あげていた海伊が口を開いた。

「新しき 年のはじめの初春の 今日降る雪の いや吉事よごと

「……なんだ、いきなり」

大伴家持おおとものやかもちの歌だ」海伊は言った。「万葉集四千五百首の最後に収められている」

「どういう意味だ」

「今降りしきる雪のように、いいこともますますわが身に降り積もりますように」

 郁馬は海伊の意図がわからず、黙ってつぎの言葉を待った。

「そのころ、大伴家持は重職を解かれ、万葉集の編纂に関わることも叶わず、左遷先の因幡国で失意のどん底にあった。そんななかで詠んだ短歌だ。辛いときこそ、吉事を待とうと」

「どん底にあれば、あとは昇るしかないということか」

「……すこし違う気がするが……ま、それでもいい」

「新しき年の始の初春の、今日降る雪のいや重け吉事、か」

「その短歌をおまえに贈ろう」

 そういって笑みを向け、持っていた茶飲みを乾杯でもするように掲げた。

 あとで知ったことだが、この歌が詠まれた奈良の時代、正月の大雪は豊年を知らせる吉祥とされていた。降りしきる新年の雪を前に、家持は心から願いを込めてこの短歌を詠んだのだった。

「来年の正月は雪が降るといいな」

 海伊が遠くを見て言った。

「そうだな」

 顔を見合わせ、二人は静かに笑った。

 それから時は流れ、年が明けて正月を迎えたが、雪は降らなかった。

 その後の二人の行く手にはさまざまな試練が待ち受けていた。翻弄され、もがき苦しんだ。だから、三十歳を迎えるまでの四年間は、かれらにとって長くもあり、また短くもあった。

 運命の荒波に呑み込まれ、混沌と暗澹の中で針路を見失いかけた二人は、本意とは異なる方向へ舵を切ってしまったことに、そのときまだ気づいていなかった。



「兄様、おいでですか?」

 女の声がして腰高障子が開いた。妹の雪乃だった。

 戸口に立ち、おどおどした落ち着かない目で薄暗い部屋を覗き込んだ。

「おう、入れ」

 刀の手入れをしていた郁馬はさやにもどすと、声を返した。

 おずおずと足を踏み入れた雪乃は、手みやげらしい風呂敷包みを抱いたまま、九尺二間の狭い部屋を見回した。

 郁馬が移ってきた愛宕下あたごした善右衛門町の裏長屋は、古びていてみすぼらしかった。

「いったい、どういうことなのです? 海伊様もいたく心配なさっていましたよ」

「手紙に書いた通りだ。離縁したのだ」

「どうしてまた……」

 そのことも手紙に書いたはずだが、雪乃はいまだに信じられないようすだった。

「いつまでそこに立っている。あがれ」

 雪乃があがって座ると、郁馬は火桶から鉄瓶をとって茶を淹れながら話し始めた。

「亜弥に男がいたのだ。どこの馬の骨ともわからぬ遊び人で、おれが婿入りするまえからだった」

「あの亜弥さんが?」

「ああ、十五のときからというから、前の亭主を婿に入れたときもおれのときも、その男と手が切れていなかった」

「情夫がいて、その方と密会をかさねながら、二度も婿を取ったのですか?」

「そうだ。聞かされていた話とはまったく逆で、前の婿は真面目で働き者で、よそに女をつくるなどとんでもない。不義密通をしていたのは女房のほうだった。亜弥にぞっこんだった婿は、それがわかって、泣く泣く離縁したのだ」

「前のお婿さんは、情夫と別れろといわなかったのですか?」

「別れてくれと懇願したんだそうだ。亜弥は別れますと約束したが、はじめからその気はなく、不義をつづけた」

「まあ……」

「おれは、もともと女房にもしゅうとにも商いにも嫌気がさしていたからな、さっさと別れることにした」

 雪乃は、畳の上に置かれている刀にあらためて気づいて聞いた。

「この刀は?」

つぐない金(慰謝料)だ」

 妻の不義密通は、その場で斬り捨てても罪に問われないが、町人の場合、そうもいかず、示談で済ませることが多かった。

「一文字屋が店に置いているのは無銘の数打ちばかりだが、そうでないものを一振り、蔵の奥で見つけた。舅が後生大事に隠し持っていたのだ。そいつを償い金の代わりだといって頂戴してきた」

「お値打ち物なのですか?」

「大和守安定の業物わざものだぞ。切れ味は申し分なし」

 にやりと笑って雪乃を見た。

 不義密通の示談金は七両二分が世間の相場らしいが、その刀はその何倍かの価値があるらしかった。

「兄様は、お侍にもどるのですか?」

「さあな」

 郁馬の答えは曖昧だった。

 着流しに総髪の今の郁馬はいかにも浪人者で、一文字屋にいたころの商人の面影は片鱗も残ってはいなかった。

「そのお歳で独り身になられるとは……」

 雪乃はいかにも切なそうにうなだれた。

「なあに、嘆くほどのことではない。江戸では、死ぬまで妻を持てない男も掃いて捨てるほどいる」

「それはそうかもしれませんが……」

 まだ何か言われそうなので、郁馬は話を変えた。

「そういえば海伊と長く会っておらぬ。息災か」

「はい……」

 今から一年ほど前、海伊は美月藩の江戸留守居役を拝命した。中小姓にあがってわずか三年目のことで、異例の出世といえた。

 これまでにも何度か会おうと誘ったが、いつも断られていた。江戸留守居役とはそれほど多忙なものなのかと呆れたし、親友と会うわずかな時間もつくれないのかと、いささか臍を曲げてもいたのだった。

 目を落とし言いよどむ雪乃を見て、郁馬は聞いた。

「なにかあったか」

「ちかごろ、ご様子がおかしいのです。ふさぎ込んだり、不機嫌だったり」

「なにかあったのか」

「何も話してくれません……。それがわたくしは悲しくて、寂しくて」

「男には、女には話せないこともある」

「わたくしは妻ですよ。それなのに、なんの力にもなれないのです」

 抑えていた気持ちが噴き出したのか、雪乃はうっと声を漏らし目頭を押さえた。

「わかった、おれが話してみよう。なにかできることがあるかもしれない」

「お願いできますか?」

「うむ」

「どうか海伊様の力になってさしあげてください。わたくしも辛うございます」

「二十年来の親友だ。任せておけ」

「お願い致します」

「おれに会えば、元気を取り戻すさ」

 安心させるためにそう言ったが、胸の曇りはますます広がるばかりだった。



 川面をわたる春の風が、桜の花びらを雪のように舞い散らした。

 湯呑みを手にしていた海伊は、盃に落ちたひとひらの花びらを見やって、花びらごとぐいっと飲み干した。

 汐留川の川辺に座り、郁馬と海伊は花見酒を楽しんでいた。

 海伊が、雪乃から言づてを聞いて、早速善右衛門町の裏店を訪ねてきたのだ。

「おまえと飲もうと思ってな」

 久方ぶりに見る友の姿だった。戸口に立ち、春の日を背にして部屋を覗くその顔からは、心配していたような暗さはうかがえなかった。

 雪乃に持たされたという提重さげじゅうを開けると、初重には若鮎、鮑のかまぼこ、竹の子とわらびなど旬のものが、二重には桜鯛の押し寿司、蒸しがれい、三重には平目やサヨリの刺身とぜいを尽くした料理が詰められてあった。

「これはまた豪勢な。雪乃が?」

「二人で食せと」

「こんな料理、嫁に行くまえはつくったことがなかったぞ」

 提重には、徳利も二本入っている。

「酒はたっぷりある」

 海伊がそういって持参の一升徳利をどんと置いた。

「そうだ」郁馬は思いついて言った。「すぐそこの川っぷちに桜が一本だけ咲いている。いま満開だから、そこで花見酒といこうではないか」

 そうして、ふたりは汐留川の大きな桜の木の下で飲むこととなったのだった。

「これからどうするのだ」海伊が訊いた。「おまえが離縁して一文字屋を出たと聞いたときには、驚いたぞ」

「あらたに商いをはじめるほどの財力も無し、さりとて兄のところにもどるわけにもいかず、とりあえず、浪々の身ということか」

「どうやって食ってゆく」

「以前より顔見知りの御旗本がおってな、そちらの屋敷で子弟に剣術の稽古をつけることになった。それとは別に、存じ寄りの武家に出稽古の口利きをしてくださった。それでしばらくは食いつなげるだろう」

 久しぶりの再会で、昔話に花が咲き、楽しい酒となった。

 立て続けに湯呑み酒を呷る海伊を見て、

「ずいぶん飲めるようになったな」

 驚いて言った。

「鍛えられた。否でも応でも飲まされるのだ」

「だれに?」

「江戸留守居組合のお偉方たちに」

「なにかと大変そうだの」

「おれのような新参は、宴がはじまると、出席者全員を回って盃を頂戴するのがしきたりだ。しかし、酒が飲めないおれは、早くも二人目あたりで辛くなってくる。それを見て芸者が酌をする振りだけして助けてくれることもある。それでも、飲む量はかなりのものだ。吐いては飲み、吐いては飲みしていれば、いやがうえでも強くなるさ」

「おれが言うのもなんだが、飲み過ぎは身体に毒だぞ」

「これも仕事だ。いたしかたない」

 海伊はよほど鍛えられたらしく、以前とは別人のように飲んだが、話すことも呂律が乱れることもなかった。

「留守居の寄合に列席する者はおおむね羽織袴の略装だが、新参にかぎっては麻上下紋付と決められている」

 あまりのばかばかしさに、郁馬は思わず失笑をもらした。

「しかも、酒を受けるときは、天子からたまわるように盃を掲げもち、頭を深々と下げろというんだ。下らんことこの上ない」

「新参はなにかと難儀だの」

 幕府諸役所や藩の役所で新参の教育指導にあたる師匠番とよばれる上司は、それを口実に、新参に無理難題を吹きかけ、饗応など無益な失費を強いるだけでなく、傲慢不遜な態度で痛めつける。よくある話である。しかし、留守居組合の新参が受ける虐めは、そんな生やさしいものではない。留守居組合の古参の権威はまさに絶対的で、その関係は主人と下僕同然で、病的なまでに執拗で陰湿で度を越していると海伊は嘆息した。

「そもそも」と海伊は言った。「留守居の寄合そのものが、くだらんのだ。藩の運営を円滑に図るために、幕府との調整や情報交換をするのが本来の主眼なのだが、席上でそんな話は出たことがない。芝居見物や相撲見物、ときには吉原に繰り出す行楽遊興の集まりだ。料理茶屋の集まりでも、花魁おいらんの品評など、話題は公務どころか知性教養からも縁遠い低俗なことばかりだ」

 学者肌で生真面目な海伊には堪えがたいのかも知れなかった。

 さすがに酔いがまわってきたのか、急にうつむいて黙り込んだ。

「殺してしまうかもしれん」

 海伊が沈黙を破って唐突に口走った。

 郁馬は訳がわからず、驚いて振り返った。

「殺したい衝動に駆られることがある。おれは、ほんとうにやってしまうかもしれん」

 目が据わっていた。酔いのせいだけではなさそうだった。

「……海伊、なにを言っているのだ」

「夢にも見た。あれは正夢だ」

「誰のことだ」

「どいつもこいつもだ。とくに吉川金四郎、上杉頼母、山下助左衛門」

「皆、組合内の者か」

「吉川金四郎は長津藩。酒の飲み過ぎか不摂生か、いつも顔に吹き出物をつくっておる。上杉頼母は豊前戸倉藩。冷酷無比のいけ好かない男だ。山下助左衛門は相模小野原藩。組合の最古参で大先生と呼ばれている」

「組合の長までもがか」

「ある夜、助左衛門から急の呼び出しがあった。みなが芝の売茶亭という御留守居茶屋に集まっているのでおまえも来いと。こんな夜中何事かと駆けつけたら、なんのことはない、いつものように飲んで騒いでいるだけだった。そのまま翌日までとどまって飲み明かした。つぎの日の夕方まで居続けで、夜はまた河岸をかえて飲んだ。明日は殿の登城で御先詰めしなければならないと訴えたが聞いてもらえない。だからといって、重大な議題があるでもなく、いつものくだらぬ話ばかりだ。たまらず不満をもらすと、皆が口々に責めたて、口論になりそうになった。その場は何とか収まったが、古株たちから、新参のくせに生意気だと、苛められるようになった。ことあるごとにおれをもてあそび、慰みごとにするのだ」

 また、歌舞伎見物に行ったとき、あまりにも浅薄で誤った知識をふりかざし演劇論をぶつので正したら、知識をひけらかして得意面するなと盃を投げつけられたこともあるという。

 数え上げればきりがない。

 品川の妓楼に呼びだされ、すぐさま駕籠でかけつけたところ、遅いと叱責された。取るものもとりあえず駆けつけたと訴えると、「嘘を申せ、駕籠代を惜しんだのであろう。貧乏藩の留守居役の役立たずめが」と吉川金四郎に侮言を浴びせられた。さすがにそのときは、刀に手をかけそうになったと海伊は告白した。

「刀を抜けばただでは済まぬぞ」

「わかっている。だからこらえた」

「どうしてそんなことになったのだ」

「そもそも新参は虫けら同様の扱いで、先達からいじめの洗礼を受けることになっているらしい。その上、おれは組合の連中から嫌われている。あまりにも正論を吐いて人に折れないところが、皆おもしろくないようだから気をつけろと、稲垣藩の依田謙之亮から忠告を受けたことがある」

「なにか手だてはないのか。たとえば上の者に訴えるとか」

「他藩の江戸留守居役を誹謗ひぼうするわけにはいかぬ。組合内の悶着ではなく、藩と藩との紛争になりかねない」

 海伊の言う通りかもしれなかった。おおやけに訴えれば、事が大きくなって、藩同士の関係を円滑にするための組合が、かえって障壁となってしまうかもしれない。

「たとえ訴えても、それが組合の習いなら甘受するのが道理と言われて終わりだ」

 救いの手を差し伸べたくても、浪人者の無力な自分に出来ることは何もなかった。「頑張れ」の言葉など、かえって苦しめることになるだけだろう。郁馬は助言どころか、励ますことばさえ見つからなかった。

 そのとき、ふと思い浮かんだ詩句が口をついて出ていた。海伊が郁馬に餞の言葉として贈ってくれた大伴家持の短歌である。

「新しき年の始の初春の、今日降る雪のいや重け吉事」

「そうだな。それを励みのことばとして今は堪え忍ぼう」

 郁馬は微笑み無言で友の盃に酒を注いだ。

 胸のなかではまだ必死に励ましの言葉を探していたのだが、見つからなかったのだ。

 その日の花見酒は、苦い、苦い酒となった。



 海伊が死んだと報せがあったのは、秋の気配が色濃くなりはじめた頃のことである。

 雪乃から報せがあって急いで駆けつけると、暗い座敷にのべられた布団に、すでに亡骸となった海伊が横たわっていた。

 かたわらに寄り添うように座る雪乃はむせび泣くばかりで、なにを訊ねてもまともに答えられない有り様だった。かわりに下男の老人が語った。

 浅草花川戸の料理茶屋で留守居役の寄合があり、例によって飲めない酒をよってたかって飲まされ、助左衛門たちからさんざん侮辱を受けた。

 そのとき、海伊のなにかがぷつんと切れた。

 勘弁ならぬ、もはや我慢もこれまでと脇差しを抜き助左衛門に斬りかかった。

 しかし、上杉頼母が脇差しを鞘がらみに抜き上げ、その刀を叩き落とし、まわりの者が取り押さえた。

 依田謙之亮と笠原飯山が別室へ連れて行こうとしたのだが、廊下に出たところで暴れだし、わけのわからぬ雄叫びをあげて飛び出して行ってしまった。

 そのまま海伊は吾妻橋の欄干を乗り越え、大川に身を投げてしまったのだった。追いかけていった依田たちも止める間がなかったという。

 騒ぎを聞きつけて出てきた近所の町人たちによってまもなく引き上げられたが、すでに息絶えて甦ることはなかった。したたか酒を飲んでいたため、あっけなく溺れ死んでしまったようだった。

 取り急ぎ依田謙之亮と笠原飯山が美月藩邸に走って家老と面談し、事件を内分に済ますよう進言した。しかし、届け出の遅れなど不手際が重なり、大友家の親類から病死の届け出が提出されたときにはすでに手遅れだった。事件は露見し、大友家は取り潰しとなった。

 海伊は、郁馬の前で「殺してしまうかもしれん」と口走ったあの日から半年もの間、ひとり奥歯を噛みしめ堪え忍んだのだった。

 雪乃は実家の兄のもとに戻った。

 海伊が身投げをしてひと月も経たぬころ、さらなる悲報が届いた。雪乃が夫のあとを追って自害したのだ。かつて暮らした屋敷に忍び入り、仏間で喉を突いて果てたのだった。

 傍らには兄二人に宛てた遺書があり、雪乃はその中で、苦悶のなかにある夫の力になれなかったこと、救えなかったみずからの不徳を責めていた。

 遺書の最後の一文を目にしたとき、郁馬の胸は締め付けられた。

「覚えておいでですか? いつか金魚の梅が死んで打ちひしがれていたとき、兄様は梅の真似をして笑わせて下さいました。あのとき、兄様の妹に生まれてほんとうに幸せ者だとあらためて感慨したものでした。兄様は、命は何度も死んで何度も生き返るとおっしゃいましたが、生まれ変わって海伊様とふたたび会えるのはいつの日のことなのでしょうか。せっかちなわたしにはとても待ち切れません。今すぐ会いとうございます。いつも海伊様のおそばにいたいのです」

 雪乃にとって海伊は、最愛の人であり生き甲斐であり、すべてだったのだ。いつも寄り添い、愛する人の魂のぬくもりを、魂で感じていたいのだ。

 おれは、あそこまで追い込まれもがき苦しんでいた海伊を前にして、なぜゆえ救おうとしなかったのか。結果として、雪乃までも死に追いやってしまった。

 おれはあのとき何としても海伊を救うべきだった。郁馬はなんども自分を責めた。それは、永遠にえない深いきずとなってさいなんだ。

 郁馬は、海伊をいじめ抜いた留守居たちの動向を探りはじめた。いつどこに現れるか。間違いなく仕留められるまたとない機会はいつ、どこか。




      四


 先日の雪がまだ溶けきらず残っている坂道に、明け方から降り出した新たな雪が路面を白く染めはじめた。

 門の扉が開き、警護の侍たちに囲まれて、網代漆塗あじろうるしぬりの乗物が神楽坂の表通りに出てきた。皆の吐く息が白い。

 待ちかまえていたのだろう、行列の前に飛び出し、雪の坂道にひれ伏した者がある。痩身だが堅固そうな体つきの浪人者である。

「お願い申す!」

 乗物が止まり、警護の侍たちが、だっと前に出て立ちはだかり、刀の柄に手をかけた。警護を四人もつけるなど、厳しい警備を敷いているのがわかる。

 ひれ伏した浪人は、それでもなお大音声でつづけた。

「小野原藩御留守居役、山下助左衛門様の乗物とお見受け致す。どうか、それがしの願いをお聞き入れくだされ。どうか!」

 黒と弁柄色の豪華な乗物の引き戸は閉じたままである。

「おまえか」警護の頭らしき男がひれ伏す浪人者を見下ろして侮蔑の表情を浮かべた。「先刻も申したであろう。不浄役人の身内の者など雇い入れる気はない。ただちに立ち去れ」

 それでも浪人者はかまわず、乗物に向かって語りかけた。

「こちらのお方に取り次ぎを願いましたが、叶えていただけず、やむなくこうして推参つかまつった。ご無礼は平にご容赦を」

「吉田、どういうことだ」

 助左衛門に問われ、吉田と呼ばれた警護の頭が乗物に歩み寄って声を返した。

「先刻、あの者が当屋敷に参りまして、召し抱え願いたいと」

「このご時世に仕官願いと?」

「は。まったくの笑止。どこやらの免許取りで剣の腕は折り紙付きであるから、是非とも殿の警護隊に加えてほしいと」

 ふんと鼻で嗤う声をもらして、助左衛門は「行け」と命じた。

 ひれ伏す浪人をよけて乗物が進みはじめた。

 それでもあきらめず、浪人は助左衛門に大声で訴える。

「拙者、北町奉行与力川島圭吾の弟で川島次郎之助と申す。浪々の身にて、たびたび兄の用命を受けて探索の手伝いをしております。こたびは長津藩の御留守居役、吉川金四郎様の一件について」

「待て」

 助左衛門の声で駕籠者たちが乗物を止めた。

 次郎之助がつづける。

「拙者、下手人を突き止めました」

 引き戸が薄く開いて、助左衛門が半分だけ顔を覗かせた。

「下手人を?」

「はい。拙者の探索に手抜かりはございません。相違なく」

「下手人は誰だ」

「後藤郁馬という浪人者にございます」

「なぜ、その者が?」

「大友海伊殿の幼なじみで二十年来の友にございます。つまり、盟友の敵討ちということでございましょう」

「浪人者か」

「神田鍛冶町の道場に乗り込み戸倉藩御留守居役上杉頼母様を打ち殺したのも、その男にございます」

「なに? 頼母殿も?」

「左様に」

 剣術の他流試合で命を落としたと聞いていた助左衛門は、新たに知った事実に内心慄おののいた。

「頼母様は中居道場の本目録を受けており、師範代も務めた名うての剣豪。それを破るなど、桁外れの強さでございます。次に後藤郁馬が狙うのは、山下助左衛門様、あなた様でございましょう。そうしないと友の仇討ちは完結しないからでございます。もし郁馬が襲ってきたとき、返り討ちにできるのはそれがし以外におり申さん。御身のためにも、何卒お召し抱えを」

「近う」

 助左衛門があたりをはばかって手招きする。

 警護の者たちが気構えて阻もうとしたが、助左衛門が、彼らを追い払うように閉じた扇子を振った。

 次郎之助が立ち上がり、会釈して乗物に近づく。

「仇討ちがわしで完結するとはどういう意味じゃ」

「江戸留守居役組合の方々がよってたかって海伊殿をいたぶり、虐め抜いたという事実を突き止めました。よって、海伊は自害するにいたったのです。とりわけ山下助左衛門様、上杉頼母様、吉川金四郎様の虐めは目に余るものがあったと聞きおよびます。狙われて当然至極」

 ぶしつけな言い方に、助左衛門は不快を露わにして次郎之助を見た。

 それを睨み返して、次郎之助が、

「それは、海伊をなぶり殺しにしたとなんら変わるところがありませんぞ。大先生」低い声で囁きかけた。「人をいたぶり、なぶり、虐めて弄ぶなど、武士のすることか。お主、武士としての矜持は持ち合わせていないようだの」

「なにぃ!」

 そのとき、次郎之助の脇差しが鞘走った。

 助左衛門の喉に脇差しが深く突き込まれた。

「何を隠そう、おれがその後藤郁馬だ」

 突き込んだ脇差しをぐいとねじり、えぐり上げて刀身を抜いた。

 鮮血がほとばしり、助左衛門の鮫小紋の羽織と仙台平の袴を濡らした。

 大量の返り血を浴びた郁馬が脇差しを捨てて向き直り、太刀を抜いて仁王立ちになった。

 一瞬、何が起こったかわからず立ちつくしていた警護の者たちが我に返り、いっせいに抜刀した。

「斬れ、斬れ!」

 警護頭の怒号が飛んだ。

 斬りこんできた一人目を袈裟懸けに斬り下げ、二人目を横に薙いで飛び、だっと走り出し、警護頭に斬りかかっていった。

 郁馬の心に、あの歌が、くり返しくり返し聞こえていた。

「新しき年の始の初春の 今日降る雪の いや重け吉事」

 わかっている、友よ、それはおまえが愛した大伴家持とかいう歌人の歌だ。

 だが、絶望のふちにあったときも、おまえはこの歌のように明日に明るい望みを見ることができたのだろうか。おまえの無念を晴らさんとおれは働きはじめたが、この先、吉事が雪のように降り積もることなど決してないだろう。

 雪が激しくなってきた。

 警護の四人はつぎつぎと討ち倒され、ある者は息絶え、ある者は深傷を負って雪の上でうめき声を上げながらのたうち回っていた。道の端に逃げた駕籠者や供揃いの者たちが震えながら凝視している。

 郁馬はきびすを返し、血濡れた大和守安定を右手にだらりとさげたまま、降りしきる雪の坂道をゆっくりと下っていった。

 ぐらりと傾いて雪の上に膝をついたが、すぐに立ち上がり、ふたたび歩き出した。

 総身に深傷を負っていた。からだがよろめき、視界が揺れ、霞む。左脇腹から流れ出る鮮血が袴を重く濡らし、歩をすすめるたびに、雪の上に点々と真紅の跡を残してゆく。

 おれは死なぬぞ。死が怖いのではない。命にしがみついているのでもない。おれは海伊と雪乃のために義を通したのだ。死ねば義がすたる。海伊と雪乃が嘆き悲しむ。だから、何があっても死ぬわけにはいかぬ。

 雪乃、黄泉よみの国では海伊と会えたか。この降りしきる雪のように、これから黄泉の国で寄り添い生きてゆくことが、おまえにとって何よりの吉事なのかもしれない。

 海伊、雪乃を頼む。幸せに暮らせ。

 雪乃、生まれ変わって現世にもどってくるときは、またおれの妹に生まれてこい。

 海伊、ふたたび無二の友として友誼をあたためようではないか。こんどは、ともに老いさらばえるまで。

 ぐらっと郁馬の身体が揺れ、沈むように崩れ落ちると、白く覆われた坂道を、ゆっくりと転がっていった。

 降りつのる雪が、江戸の町を音もなく白一色に塗り染めて行く。


     了





(参考図書)


「学海日録」学海日録研究会/岩波書店

「最後の江戸留守居役」白石良夫/筑摩書房

「江戸お留守居役の日記」山本博文/読売新聞社

「大名留守居の研究」服藤弘司/創文社

「江戸三〇〇年普通の武士はこう生きた」八幡和郎・臼井喜法/ベスト新書

「近世武家社会の政治構造」笠谷和比古/吉川弘文館

「花の万葉秀歌」中西進監修/山と渓谷社

「面白くてよくわかる万葉集」根本浩/アスペクト



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