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ケルウス国の王子がかつてレピュス人以外と婚姻したことは無いらしい。僕の唯一知る王子様はその伝統を無視し、歴史的な事を起こそうとしているようだった。
「つまり私は貴方の愛人になるっていう事?」
ティダがようやく正気を取り戻し、冷静に自分の置かれた状況を理解しようとしている。
族長は「ティダを王族になどやらん」と言って、自室にこもってしまった。
「愛人?正妻に決まっているだろう」
王子は手紙を書くと言って、紙とペンを用意をゼノ達に用意させ、ペン先に集中しながらそう素直に答えた。
「い、嫌よ。絶対イヤ」
「拒否権は無い。あんたは今回の事に関わっているから好都合なんだ。歳も近そうだし」
「私は今日の事はもう忘れたいの。他の人にして」
「脱獄計画に加担していたと言いふらしてもいいが?」
この国では脱獄幇助はかなり重い罪で、もし身分の低いゼノがその罪を犯せば、一族根絶やしにもなりかねない。
「私達の命と天秤にかけるなんて、こんなの卑怯だわ」
「卑怯で結構。そうでもしないと俺は生きていけないからな」
王子は手紙を書きあげると、側近に早馬でどこかに届けるように告げる。そして側近は頷くと、足早にゼノの集落を去って行った。
「そう言えば、あんた名前は?」
「テイダ」
「ティダか。覚えた」
ゼノは名前を呼びやすいように縮めて呼ぶことが多い。王子はその文化を知っているようだった。
「で、貴方はなんて呼んだらいいの?」
「好きにしろ」
「なら、キャノね」
キアノだから少し縮めてキャノ。レピュス人の王子がゼノ風に呼ばれているの見ると、どこか違和感があって面白い。
「キャノって、どこかで聞いたような気が……」
この二日間で王子を名前で呼んでいる人はほとんどいない。恐れ多いという事もあるし、王子は「殿下」と呼ばれることが通例だからだ。
ならば誰が彼を「キャノ」と呼んだのか。
僕が記憶を掘り返していると、王子が僕の方を向いて「おい、そこのルシオラ」と呼びつけた。
「なんですか?」
「ルシオラの長にはディアン・アルスメールは他界したと告げろ。そして魂は第三王子が回収したと」
「分かりました。僕が歌ったという事でいいんですか?」
「ああ、そうでなくては困る」
この嘘は多くの人が信じるだろう。まさか首を切られた人間が蘇生するなど想像もしないはずだ。
「ずいぶん顔色が良くなったわ。ゼノの魔法ってすごいのね」
ダリアの言う通り、ディアンさんの顔色は生気の宿った澄んだ肌色に戻っている。峠を越えたのか、ゼノ達は魔法を使う人を一人ずつにして、交代で治療を始めている。僕の歌の出番は無くなったわけだ。
「一番すごいのはダリアだと思うけどな」
「あら、ジュニア。褒めてくれるの。嬉しいわ」
褒めると言うよりは、怖ろしいと言う方が近い感覚かもしれない。普通の人と違うのは髪の色だけではないらしい。
「取り敢えず、僕たちはジュニアの家に帰ろうか。拍子様に報告をした方がいい」
リドがそう言うと、ティダは「あの王子を残して行かないで」と僕に縋りついいてきたが、あまりに帰りが遅いと怪しまりたり、勘繰られたりするかもしれない。
「ジュニアということは、拍子の息子か。なら、また会うことになるだろうな」
帰り支度を始めた僕に王子は予言めいたことを言った。
「断頭台はごめんです」
「そうだな。なんとかやってみるよ」
初めて王子が少し微笑んだ。その表情はとても好感が持て、親しみやすさを覚えた。もしかしたらそんなに嫌な人でもないかもしれない。
僕たちはひとまず、家に帰ることにした。昨日から寝ていないダリアとリドは疲れの色が見える。地下道を通って、外に出ると見慣れた風景に心が落ち着いた。まるで夢物語の中にいるような一日だった。
閑散とした街を歩いて家に着くころには、日が沈み夜に差し掛かっていた。
「ただいま」
部屋に明かりがついていないので、拍子様は留守のようだった。
「やっと一息付けるわね」
ダリアが入り口付近の椅子に腰かけ、深いため息を吐いた。そして僕は家中の燭台に火を点していく。
「ジュニア、何かがおかしい」
真っ先に違和感に気づいたのはリドで、彼は家中を警戒しながら歩き回る。そして勝手口の前で立ち止まった。
「リド、どうかした?」
僕がランプを持って近づくと、そこには血を流して横たわる女性の姿があった。
彼女は近所に住む幼馴染で、いつも用がある時は勝手口から入ってくる。
「どうしてこんなことに……」
僕が目の前の光景を理解できず、固まっていると、リドが扉を開けて外に飛び出る。
「ダリアはこの子を治療できないかやってみてくれ」
「分かったわ」
ダリアがうつ伏せに倒れた女性の腹部に手を当てて傷口を確認する。
「ジュニア、ルシオラが住んでいる家に案内してくれ」
リドが外から僕を呼んでいるが、足が動こうとしない。この一歩を踏み出せば嫌なことが待っているような予感がする。
僕があまりに動こうとしないので、ダリアが無理矢理に勝手口の外に押し出した。
勢いを付けられ、ようやく歩を進めるともう、止まらない。全ての家を見て回らなくては怖くて、怖くて仕方ないのだ。
「リド、こっち」
僕たちはこの辺りに住むすべてのルシオラ人宅を見て回った。
全ての家の扉に光は無く、扉には鍵もかかっていない。そして家の中では住人が血を流して倒れていた。
最後に辿り着いた楽譜や歴史書を保管している書類庫の前で父が倒れているのを発見した。
「拍子様、父さん!」
揺すっても抱き起しても反応が無く、脇腹から流れ出た血液は乾いて黒く変色していた。
「ジュニア、まだ死んでいない。ダリアに診てもらおう」
華奢なリドが父を背負うと、膝を曲げたまま早くはない走りで唯一明かりのついた家を目指した。
「ダリア、拍子様を頼む。まだ息があるんだ」
「分かったわ」
ダリアも父が悲惨な姿をしていることに眉をひそめたが、気を強く持って治療を始める。
「他の人も早く連れてきて」
「ダリア、どうして他の人がまだ生きているって思うの?」
どこの家も広がった血だまりに人が倒れていて、その胸を潰されるような光景に僕はすっかり気が弱ってしまって、その場に力なくへたり込んでしまう。
「どうしてって決まっているでしょう。ジュニアがレクイエムを歌っていないからよ」
そう言えば、歌っていない。
死者が近くに居れば必ず歌いたくなってしまうのがルシオラという人種で、僕がレクイエムを歌おうとしていないという事は、この集落でまだ死者が出ていないという事になる。
「早く行きなさい!」
僕は力の入らない足を殴りながら立たせて、再び民家を回った。
どうしよう、どうしよう。頭の中でこの言葉がぐるぐる回る。
中には呼び掛ければ起き上がれる者もいて、全員が瀕死という訳ではなさそうだった。
会話ができる人に事情を聞くと、夕方前に仮面をつけた騎士が数人乗り込んできて、ルシオラの家を回ったそうだ。
ルシオラ人なら容赦なく剣で切り付けられ、頭部を殴られたという。
「全員傷口は浅いわ。気を失っていたのは殴打のせいみたい」
重症者を治療するダリアの額には汗が滲んでいて呼吸も荒く、とても辛そうに見える。
「殺すつもりじゃないという事か。どうしてこんなことを」
他国から来たリドには分からないのだろう。どうしてこんな事が起きたのかを。
「どうしよう僕のせいだ。僕が仕事をちゃんとしなかったから、連帯責任で皆に酷いことをされた」
大声での歌唱は認められていないのに、大声で歌った。罪人が望んでいない歌を、しかも魂を呼び出すレクイエムではなく、魂を留まらせる鎮魂の歌を歌った。役人の言うことを聞かなかったからこうなったんだ。
僕のように勝手なことを二度と起こさせないように、命など簡単に奪えるのだという恐怖を植え付けに来た。すべて僕のせいなんだ。
皆の心に恐怖を与えてしまった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
両目から大粒の涙がとめどなく溢れ出てきて、鼻水もたれ続ける。
僕は床に突っ伏して、謝罪の言葉を永遠と吐きながら泣き続けた。
涙くらいでこの罪悪感は、僕の体から流れ出たりはしない。
震えは収まらない。
「あんた何者だ」
ダリアの治療が一通り済んだ時、血で汚れた服の男が近づいて来た。
「私は、ダリアよ」
「そうじゃない。あんたのこの技は何なんだ?あんたはゼノなのか?」
男の声音には不安の色が溢れている。理解できない奇跡的な技に、治療が済んだ人々が困ったような顔をしている。
「私はアピス人よ、たぶんね」
「アピス人は魔法が使えるのか?」
「たぶん、使えないと思うわ」
「なら、あんたのこれは何なんだ?」
「そんなの私も分からないわ。気づいたら出来るようになっていたの」
何を言っているんだ?と男は首を左右に振っていて理解できていないようだった。
「みんな完璧にではないけど、良くなったんだからいいじゃない」
「良くない!」
男が急に大声を出すので、ダリアは驚いてぐっと身を縮めた。
「余計な事を。もし今日来た騎士がもう一度ここに来てみろ、傷口が塞がった俺たちを見て何と思う?気味が悪いとか、可笑しな技を使う奴がいるとか、あらぬ疑いをかけられて、また命を狙われかねない」
「……」
「こっちは王家に目を付けられないように理不尽な事にも従ってきたんだ。どんな時も文句も悪口も言わず、生活していく為に耐えて来たんだ。いつもと違うことが起きてはいけないんだ」
魔法が失われた数百年前、東のルシオラ達はケルウス王国の民になることを選んだ。
当時の王、統一帝と呼ばれていた王と交わした約束が、「市民権をやる代わりに、王家に忠誠を誓え」というものだった。それから東のルシオラは王家の犬と言われる程、従順に耐え抜く生活を強いられていた。
「出て行ってくれ。二度とこの土地には近寄るな」
誰も男の言葉に異議は唱えなかった。おそらく同じような考えなのだろう。
「ダリア、行こう」
リドが俯いて黙ったままのダリアの腕を掴んで立ち上がらせるが、ダリアの膝が力なく床に突き刺さる。力を使い過ぎて足に力が入らないらしい。彼女は立ち上がろうとするが上手くいかず、リドが体を支えて立たせた。
「お世話になりました。僕たちはこれで失礼します。拍子様が目覚めたらよろしくお伝えください。ジュニア、いろいろありがとう。元気で」
ダリアを支えたままリドはルシオラ達に頭を下げると、自分たちの荷物を掴んで家を出て行った。
「僕も出て行く」
涙を拭って僕も立ち上がると、手近にあった袋に着替えなどを詰め込んでいく。
「ジュニア、お前はあの二人に唆されたんだ、出て行くことは無い」
近所の老婆が僕を止めるが、そんな言葉は受け入れない。
「唆されたんじゃない。僕も同罪だよ。それに皆おかしいよ。ダリアもリドも皆を助けてくれたのに、お礼も言わないで追い出すなんて。悪いのは全部僕なんだ。だから僕が出て行く」
ディアンさんに貰った皿も袋に入れて、秋冬用の外套に袖を通す。
「そんなこと許されるわけがない。ジュニアは将来ここの族長を継ぐ。それを放棄することは許されない」
「誰かやりたい人が継げばいいよ」
この家に集まった人が僕の名前を呼んで「考え直せ」という。しかし、僕はもうここに居てはいけないような気がするんだ。
ディアンさんの蘇生が見つかればきっと僕はディアンさんを処刑に追い込んだ誰かに狙われるだろう。もしそうなれば、この街に住むルシオラは皆殺しになるかもしれない。
僕はきっと早々にここを出て行った方がいいのだ。
「行きなさい。自分の人生だ。好きなように生きればいい」
玄関扉に手をかざした時、拍子様の声がして一同がその声に耳を傾けた。
「皆の者、このバカ息子の好きにさせてやってくれないか」
「父さん」
「ジュニア、一つだけ忘れてはならんことがある。今日の罪を決して忘れるな。己の我儘で人々を傷付け、恐怖心を与えたこと、決して忘れず、胸に刻んでおくのだ」
行動的で元気な父が弱っている所を始めて見た。いつもより声音も覇気が無く、目にも力を感じられない。
「はい。決して忘れません」
僕は奥歯を噛みしめて頷いた。
「そして、あの二人に心から礼を申す、助けてくれてありがとうと伝えてくれ」
「はい。必ず伝えます」
「いつか、すべてが丸く収まったなら帰っておいで」
父は僕が不穏な事柄に足を突っ込んでしまった事を知っているような言い方をした。
そして僕は荷物を胸の前でぎゅっと抱えて、別れの言葉も、出かける時の挨拶もせずに、家を飛び出した。振り返らずに、夜空の下、夏の生ぬるい空気を掻き分けて走ったのだった。
リドとダリアはゼノの集落に身を寄せていて、僕もそこに合流した。
ディアンさんの治療は一通り済んでいるようで、彼は寝台で胸を上下に動かしながら穏やかに眠っている。
「二人はこれからどうするの?」
「王子が研究者を紹介してくれると言うから、その人に会ったらここノックスを出るよ」
王子との約束は明日らしく、研究者と会うとなると首都ノックスを出るにはしばらくかかるのかもしれない。その間、二人に身の危険が及ばなければいいのだが。
「ジュニアはどうするの?家出なんて青春ね」
「西のルシオラに会いに行こうと思ってるんだ」
ディアンさんが西のルシオラは大声で歌っていたと言っていたので、僕もその歌声を聴いてみたくなった。自由な歌声を。
「旅費はどうするんだい?」
「お皿を売るから大丈夫だよ」
せっかく綺麗に復元できた皿なのだから手元に置いておこうとも思ったが、僕にはこんな高級皿は必要が無いから。
「ジュニア、これを持っていきなさい」
ティダが旅に必要な物をいろいろ用意してくれた。小型のランプや水筒、小刀など金属でできた上等なものが並んだ。
「全部金属だ」
「ゼノは金属加工が得意なの。売らないでよ、貸してあげるだけだからね」
「うん、分かった。ありがとう」
「あと、これも」
最後に手渡されたのは、陶器で出来た青いカエルの人形だった。
「これは?」
「私ね、ディアンさんにこれを貰ったの。でも、これ以上奇跡は起きなくていいから、ジュニアに貸してあげる」
やっぱりくれる訳ではなくあくまで貸与なのだった。
「青いカエルってどういう意味があるの?」
「黄金の瞳を持つ瑠璃色カエルは、奇跡を起こすと言われているのよ。ジュニアが知らないってことはこのお伽話はゼノだけに伝わっているのね」
ならばどうしてレピュス人であるディアンさんは瑠璃色カエルを持っていたのだろうか。また一つ、謎が深まったような気がした。
「じゃあ、僕行くね」
瑠璃色カエルを胸のポケットにしまうと、僕は荷物を背負ってランプを手にした。
「もう行くのね」
「ダリア、皆を治してくれてありがとう」
「余計な事しちゃったわね」
「ううん。そんなことない。だってダリアの言う通り、人の命は一番諦めてはいけないから」
ダリアの顔はとても疲れ切っていて、少しやつれて見える。人の体を癒す技はとても体力を奪うようだった。
「気をつけて。またどこかで会えるよ」
「うん。リドも皆を助けてくれてありがとう。その本が読めるようになるといいね」
僕はリドが体に隠しているエアルの手記と呼ばれる本のを指さした。
「きっとこの本がこの世界を救ってくれるから」
世界を何から救うのか。きっと僕には分からない難しい話なのだろう。
「元気でね」
大きく手を振って僕は三人と別れた。
夜はますます深まって、星のきらめきが明るく見える。夜風もやや涼しくなり、夏は終わろうとしているようだった。
僕はずっと痛みつづけている胸を抱えながら、夜道を歩いていく。
馴染んだ道を通り、知っている町並みを通り抜けた時、急に寂しさが襲ってきて、引き返したくなった。
「行くって決めたんだ」
この一歩が日常を変える。もう後には引き返せない。
ポケットの中の瑠璃色カエルを握りしめて、歩を進めた。
寂しくても悲しくても辛くても進むしかない。ここから僕の逃亡が始まる。あらゆることから逃げることを選択した情けない僕の、宛の無い旅が。
歌を歌おう。自分が自分でいられるように心を保つ歌を。僕はそれしかできないから。
瑠璃色カエルは真鍮の蝶に出会いました。それはとても運命的で、誰かが仕組んだ宿命のようでもありました。
蝶はひら、ひら、ひらと太陽の光を反射させながら空を飛びます。カエルの目には輝いて見え、憧れを抱きました。
しかしカエルは蝶に出会って奇跡を起こすことが出来なくなりました。
蝶は奇跡を奪う事ができるのです。カエルは奇跡を起こせなくなり、とうとう人々から嫌われるようになりました。
黄金の瞳から涙が流れます。奇跡を起こせないカエルは必要ないと人々は声をそろえて言いました。
そしてカエルは蝶と一緒に人々の前から姿を消したのでした。
こうして人々の許に奇跡が起きなくなったのです。
童話「瑠璃色カエル」より。