入れ代わり、立ち代わり
アキと連れ立って音楽室へ行くとき、三組の片桐さんとすれ違った。なんだかいつもと様子が違うように思われた。
そうか。片桐さんはいつも立見さんと一緒なのに、今日は片桐さん一人だったからだ。それくらいにしか思っていなかった。
音楽の授業が終わって自分の教室へ戻るとき、なんとなく三組の教室の中へ目がいった。
片桐さんは教室のほぼ中央の席で、休み時間だと言うのに黒板を眺めたままだった。
立見さんはと言うと、教室の後ろの方でほかの子たちと楽しそうに騒いでいた。
片桐さんは学年の中でも成績が優秀で、お金持ちのお嬢さんだと噂されていた。その端正な顔立ちは、皆の注意を引かずにはいられなかった。
立見さんは、…よく知らないけれど一年生のときも二人は同じクラスで、いつも一緒だったような気がする。
喧嘩でもしたのだろうか?
数日経っても様子は変わらなかった。
立見さんはほかの子たちと連れ立って、片桐さんは一人だった。
立見さんに遠ざけられてはいるんだけど、イジメられているという様子はなくって…、まあ、喧嘩するのは仲が良い証拠だったりもするから。
クラスが違うってだけで、見えないことも多くあるしね。
いつもだったらアキと一緒に帰るんだけど、今日は日直当番で、先生からいろんなことを言付かってすっかり晩くなってしまった。まあ、今日は塾もピアノもないからいいんだけど。
あれ、片桐さん…、まだ黒板を眺めてる?
私はもう声をかけずにはいられなかった。
「片桐さん?」
あれ、聞こえてないのかな?よし、もっとおっきい声で。
「片桐さん!」
片桐さんはゆっくりと私の方に顔を向けた。その表情からは一切の感情が読み取れなかったけれど、長い睫毛に保護されながらもパッチリと開かれた大きなつぶらな瞳は潤っていて、美しいという以外に形容することはできなかった。
片桐さんは私を見たままなにも言わずにいたので、変な間ができてしまった。
「もう四時よ。帰らないの?」
「あ、ええ、そうね。帰らなくちゃ。」
「おウチ、ニュータウンの方だっけ?」
「あ、ええ、…うん。」
「じゃ、途中まで一緒に帰ろう。」
「あ、えーと…」
「二組の木山。」
「…木山さん。」
やっぱり、私のことなんて知らないか。
校門を出て、駅へ向かい始めた。
片桐さんはなんだかぼうっとしていた。だからまた、私は聞かずにはいられなかった。
「立見さんと喧嘩でもした?」
「えっ?」
「前はいつも一緒だったでしょう?」
「あ、…うん。」
片桐さんはそう答えたきり黙ってしまった。私はそれ以上どう話しかけたらいいのか、分からずにいた。
「橋、渡ろう。」
「ん、でも、この橋長いし、渡っちゃうと向こう側の駅まで行くの遠いよね。」
私の答えも聞かずに片桐さんはドンドンと進んで行ってしまった。まさか片桐さんを一人で行かせる訳にもいかず、私は後を追った。
片桐さんは随分早足で、私は息を切らしながら、やっとの思いでついていった。
橋の袂で土手へと曲がった。土手は随分長いけれど、伝って歩いていった。
「ねえ、帰れなくならない?」
片桐さんは私の言葉など聞いていない様子でドンドンと進んでいった。
「ねえ!片桐さん!」
片桐さんはやっと止まってくれた。そして振り向きもせずにこう言った。
「スミレ。」
「へ?」
「スミレって呼んで。」
「あ、じゃあ、私はミコ。」
スミレと私は笑顔を取り交わした。
「あ、ここ、廃園になっちゃったんだってねー。」
目の前には遊園地が広がっていた。
「行ったことある?」
「ううん。…なんか、変な噂聞いてたし。」
「どんな?」
「ドリームキャッスルの地下の方から変な声が聞こえてくるとか、ジェットコースターで事故があったとか…。スミレは?」
「え?」
「スミレは?行ったことあるの?」
「あるよ、一度だけ。」
「怖くなかった?」
「全然。…行く?」
「え?」
「行こうよ、今。」
「いや、だって、もう閉まっちゃってるし…」
「平気よ、私たち二人くらい。」
スミレは私の腕を引っ張った。物凄く強い力で腕を引っ張られ、土手を駆け下り、裏門の近くに金網の一部が蹴破られていた。中学生の私たちなら難なく通り抜けられる大きさだった。
スミレと私とが金網に開かれた穴を通り抜けた瞬間、気のせいだろうか、裏野ドリームランド全体がほんのりと明るく色づいたように思われた。
スミレはそのか細い右腕で私の左腕を力強く絡めた。決して私が逃れられないように。
「どこ行くの?」
「あっち。」
私には皆目検討がつかなかった。自分たち以外には誰もいるはずのない遊園地は確かに不気味ではあったけれど、スミレと二人でこんな楽しい時間を過ごせるとは思いも寄らなかった。
強引に私を引っ張ってきたスミレの足が止まった。私たちの目の前には、きらびやかな建物がそびえ立っていた。入り口に掲げられた看板は傾いていたけれど、「MIRROR HOUSE」という文字はかろうじて読むことができた。
看板の下にはピエロが立っていた。白と黒のストライプのシャツ、赤い蝶リボン、吊りのついた短めの青いズボン。禿げ上がったよな爆発頭、開かれた赤い唇から剥き出しにされた白い歯が描かれていた。やけに白い手袋の手が振り続けられ、人形とは思えないほどの生身な感じが気色悪いことこの上なかった。
スミレは私の腕を力強くつかんだまま、建物の中へと進んだ。
「止めようよ。」
「大丈夫よ。」
「でも…、コワイよ。」
私は必死に歩みを止めようとした。
「ミコは私が守るから。」
スミレはずるい。こんな美しい瞳で、人々を意のままに操る、そんな星の下に生まれてきたんだろう。
ミラーハウスの中は明るかった。いや、眩しかったという方が正確だろうか。
最初の鏡は私たちを縦に長く映し、次の鏡は私たちを横に幅広く映した。その次の鏡は私たちが波打って映され、さらにその次は私たちが真っ逆さまに映された。
ここまでくると私たちはもう楽しくなって、キャッキャと声をあげて笑いつつ、はしゃいで駆け回っていた。
この間もスミレは決して私の手を放すことはなかった。
そして、不意に、スミレの手に再び力が込められた。
「ミコ。ここに立っててね。」
「え?スミレは?」
「私は向こう側に。」
私には意味がよく分からなかった。私の目の前には一枚の大きな鏡が置かれていて、私の全身が映っていた。なんの仕掛けもなく、ただ普通に私自身が映っているようだった。
「スミレ?いるの?」
遠くから返事があった。
「いるよー、反対側。ミコ、目を閉じてー。」
「分かった。」
「じゃあ、今から三つ数えたら、一緒に目を開けてね。」
「え?」
「分かったー?」
「あ、うん。」
「じゃあ、イチ、二、サン!」
目を開けたとき、目の前の鏡には、印象的な美しいスミレの瞳が映っていた。さっきまで私の全身が映っていた鏡には、片桐菫の全身が映っていたのだ。
合わせ鏡というのか?ああ、向こう側の人が自分の方に映るようになっているのか、なんとも不思議な気分だった。
私は鏡の脇から向こう側を覗き込むようにした。そこには私がいた。
「スミレ?」
「さ、帰ろう。」
「うん。」
スミレはまた足早に進んだ。入ってきた金網の穴をくぐり抜けて、すっかり暗くなった土手を突っ切って、長い長い橋を渡って、学校の方じゃなくって駅へと向かった。
私は乗り換えをしようと電車を降りようとしたとき、スミレは降ろしてくれなかった。
「お願い。お父さんに送ってもらうから、ウチまで来て。」
もうどのみち十分に遅くなってしまっていたし、いっそのことスミレのお父さんにウチまで送ってもらうほうが安全だと考えた私は、そのままスミレのウチへとついて行った。
立派な門構えの豪華な邸宅に辿り着いたとき、スミレは立ち止まった。
「いい?スミレはあなた。」
「え?」
「あなたが片桐菫よ。」
木山奈美子は鞄から手鏡を取り出し、私に見せつけた。
私は頬をつねった。痛い。これは、片桐菫の顔。いま、つねっているのは私の手で、つねられているのは私の、片桐菫の顔。
「ね、あなたは片桐菫。ここがあなたの家。」
スミレは強引に私の鞄を奪い、スミレの鞄を私に持たせた。
「さ、ウチへ入って。」
と言うや否や、スミレはインターホンを押した。奥の玄関からお手伝いさんらしき人が現れたのを認め、スミレはお辞儀をして走り出してしまった。
取り残された私は、訳がわからないまま片桐家へ入るしかなかった。
私は私の身になにが起きたのかまったく分からず、眠ることもできず、それでも次の日も学校に行くしかなかった。
二組の自分の席に座ろうとしたら、そこにはすでに木山奈美子が座っていた。
「片桐さん、ここは二組。三組はお隣り。」
クラスの皆が、アキまでが私を笑った。
私は教室を出るしかなかった。
立見茂子はなにかに気づいたらしかった。
かといって、なにをどうしたらいいのか私は分からずにいた。
ただ、昨日までの片桐菫がぼんやりと黒板を眺めていた気持ちが分かったような気がした。
気がつくと、放課後で、教室には…、三組の教室、私の前の席に立見茂子が椅子を私の方に向けて座っていた。
「誰?」
「片桐菫でも、立見茂子でもないでしょう?」
立見茂子が私にそう聞いたのだった。私の目からは涙がこぼれ落ちた。
私は自分が、見かけはどうであろうと二組の木山奈美子であること、そして、昨日の出来事洗いざらいをすべて目の前の立見茂子に伝えた。
「茂子はウチが窮屈だと分かったのね。」
立見茂子の姿になった片桐菫は、立見茂子の生活を楽しんでいると語った。片桐家ほど裕福ではないけれど、父も母も優しく、楽しい日々が送れているのだと。しかも、一人っ子だった菫は心優しい兄をもつことができたと。この兄とずっと一緒にいられるのならば、元の自分の姿や生活などいらないというのだ。
「私は元の私に戻りたい!」
立見茂子は私に冷たく言い放った。
「それは、あなたとシゲの問題よ。」
私は自宅に、木山家へ帰った。玄関の鍵が閉まっていて、お母さんが出てきた。
「奈美子のお友達?」
お母さんには私が分からないという事実があまりにも悲しかった。
しどろもどろの作り話をしながら、なんとか奈美子に取り次いでもらった。
母は私の姿をした立見茂子にこう言っていた。
「お友達はなんだか様子がおかしいから、今日はウチに泊めてあげなさい。」
立見茂子が私の部屋に戻ってくるや、私はできる限り声を抑えてこういった。
「元に戻して!」
「私も元に戻りたいのよ、立見茂子に。」
つまり、元の立見茂子に戻りたいのに片桐菫が応じてくれない。だから私にスミレを説得してくれというのだった。
こんなときだというのに、私(奈美子)のスマホは何回も鳴っていた。
「いいの、出なくて?岡田晶子さんからだよ。」
私は頼むから出ないでくれと言った。
そして、茂子のスマホからスミレにメッセージを送ってもらった。
「明朝六時、裏野ドリームランドのミラーハウスの入り口に来て。来ないと何もかも、皆にバラす。」
木山奈美子の姿をしたシゲと、片桐菫の姿をしたミコは五時前に家を出て、遊園地へと向かった。長い橋を渡って、土手伝いに進み、裏野ドリームランドの裏門の金網の穴をくぐって、ミラーハウスに辿り着いた。
六時ちょうどには、立見茂子の姿をしたスミレが到着した。
シゲとミコは力づくでスミレをミラーハウスの中へと連れ込んだ。
スミレがどんなに大きな声で泣こうが喚こうが、シゲとミコの決心は固かった。
そして例の鏡の前、まず、ミコはスミレを羽交い締めにして立たせた。そしてシゲは向こう側へと廻った。
スミレは暴れた。ミコは抑えつけた。元の自分に戻るためだ。スミレに手を噛みつかれようとも怯むことなく、後ろ頭を引っ叩いてやった。シゲもわざわざ戻ってきて、スミレを引っ叩いた。
スミレは唾だけでなく、暴言まで吐いた。
「シゲ、してみたかったんでしょう、贅沢な暮らし。」
「そういう問題じゃないのよ!」
スミレを怒鳴りつけたのは私だったが、シゲの怒りの鉄拳がスミレの腹の中央に突き刺さった。
スミレはいよいよ観念したらしかったが、どうしても目をつぶらなかった。
目をつぶって、イチ、ニのサンで同時に見開いて目を見合わせる、これが入れ替わりのきっかけのはず。
スミレはどうしても目をつぶらなかったので、私はなんとか両手でスミレの目を覆った。膝でスミレの身体を抑えつけて。
「じゃあ、いくわよ。イチ、二、」
「やめてー!」
「サン!」
私が手を開いた瞬間、私は押し倒された。
もちろんスミレも横倒しになった。
鏡の向こう側のシゲと目を合わせたのは、アキだった。
前日、ミコの様子が奇妙であったことと、電話に応答してもらえなかったこともあって、あんまりに心配になって朝早くからウチに迎えに来ようとしたところ、シゲとミコが出てきたのでつけて来たらしかった。
これで、木山奈美子の姿をしたアキと、岡田晶子のシゲと、立見茂子のスミレと、片桐菫のアタシが居て…。
もう、なにをどうしたらいいのかなんて、どうすればいいのか…、私は全身から力が抜けていくのを感じた。
スミレだけは嬉しそうに、嬉々としてすっくと立ち上がった。
「さ、学校行こう。遅刻しちゃうよ。」




