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同悪相助

 助手席に座る芽依菜(めいな)との間に流れる空気が少し気まずい。といっても居心地が悪くて悪くて仕方がないというような気まずさじゃない。ただ、なんとも不思議に感じてしまうのだ。休日に車に乗って少し遠出するなど、まるで恋人のようではないか。

 隣同士で歩くことはいくらでもあったが、車内という密室空間に肩を並べていると、どうにもいつもと違う心持ちにさせられる。出発に当たって、俺がうっかりと芽依菜の手を握ってしまったのでなおさらだ。くれぐれも言っておくが、故意ではない。

 俺が運転出来るようになって、その助手席に芽依菜が乗っている。近所の公園にタイムカプセルなど埋めて喜んでいたあの頃から、それくらいの時間が流れたのだということを実感せざるをえない。俺などまだまだ若造であるとは自覚しているが、あの頃に比べると出来ることも増えたし、やってはいけないことはもっと増えた。

 こうして俺たちが車に乗って西に走っているのは、ある頼まれごとのためである。子供のお使いほどに簡単な依頼だ。依頼主は、俺の行きつけのカフェで店主を務める志賀(しが)香織(かおり)その人だ。

 短いワンピースの裾から覗く芽依菜の白い太ももから意識を逸らすようにして、俺は一昨日『ロコ』で交わされた会話を思い出していた。



 芽依菜と塾外で会うことに、大した理由づけや言い訳がなくなってきていることを感じた、六月初旬の金曜日だった。前日の授業終わりに「またあのお店にいきたい」と芽依菜にねだられた。「いけばいいじゃん」とそっけなく言ってみれば、芽依菜は頬を膨らませる。

「一人じゃ入りづらいんだもん」

 そういうものか、と納得した俺は芽依菜に言われるがまま、翌日に『密会』する約束を交わした。細かい待ち合わせは塾内ですることを(はばか)られて、メールで済ませた。

 自宅から歩いて一旦『ロコ』を通り過ぎ、立川駅で芽依菜を拾って再び『ロコ』に戻ってみれば、店の前には(りょう)さんがいた。ダークブラウンの木製ドアを片手で開いて、中を(うかが)い見るようにしている。

「遼さん」

 こちらには気づいてない様子だったので、控えめに声をかける。

「ん、泰慶(たいけい)か。逆ナンされたのかと思った」

「いい加減慣れてくださいよ」

 そのやり取りに、芽依菜は一歩引いて笑っている。

 なにしてるんですか? と問う前に、遼さんが開いているドアの内側から、杖をついた老人が出てきた。注文の声が耳障りなあの老人だ。

「またのお越しをー」

「いつも調子がいいの、われ」

「俺とじいさんの仲じゃん」

「ふん」

 へらへらと応対しながら、遼さんは老人の背中を見送る。右手で杖をつきながら老人は、ひょこひょこと足取り悪く立川通りを歩きだす。

「帰り道()かれんなよ。この辺車からだと見えづらいからな、歩行者」

 老人の背中に向けて遼さんは投げかけた。聞こえているのかいないのか、老人はそれを無視して進む。立川通りは車が多く、歩道には自転車も絶えず行き交うので確かに危ない。

「お待たせ。そんでいらっしゃいませ」

 開けたドアをそのままに、遼さんは芽依菜と俺を店内に招き入れた。

「あら、表でやけに親しげにしてると思ったら。いらっしゃい寿秋くん……と、お友達?」

 店内には店主、志賀香織がいた。芽依菜は香織さんに向けてぺこりと頭を下げる。

「ほら、あれだよ。泰慶の生徒」

 名乗ろうと口を開いた芽依菜に先回りして、後ろ手でドアを閉めながら遼さんが言う。

「あ! あなたがそうなの? 初めまして。店主の志賀です」

「初めまして。綿谷(わたや)芽依菜です」

 一介のカフェ店主と客が名乗り合う光景は、なんだか可笑しい。先日と同じようにテーブル席に座ろうとしたが、遼さんにカウンターを勧められる。

「こっちに来てくれよ。香織ちゃんと話してるのも飽きたよ」

「酷いこと言うのね、井土くん」

 香織さんは苦く笑った。

「仕事してください、遼さん」

「仕事しながらでも話せるように、カウンター勧めてるんじゃん」

 真面目なのか不真面目なのかよくわからない主張だった。

「二人きりで(むつ)み言を交わしたいってことなら無理強いはしないが」

 拗ねたように遼さんが言うので、赤面して俯く芽依菜と共にカウンター席についたのだった。

「今日は香織さんもいるんですね」

 初来店のときのように例外はあるが、朝から夕方の時間帯は遼さんが店を切り盛りしているイメージだった。それに、二人が同時に店にいるのは少し珍しい。

「明日と明後日、連日で急な貸切の予定が入っちゃってるの。料理とかお酒に注文が多くって、その準備に忙しいのよ」

手を動かしながら香織さんは言う。てきぱきとしているのに、忙しなさがあまり感じられない、優雅な仕事ぶりだった。

「よりによってこのタイミングじゃなくても、とは思うんだけど」

 ぼやくように香織さんが言った。おそらく誰に向けて放った言葉でもなかったのだろうが、話のタネにと思って俺は訊いた。

「何か予定があったんですか?」

 俺の問いに、香織さんは少し困ったような笑みを浮かべた。

「特に用ってほどじゃないんだけど、毎年この辺の日取りでお墓参りに行ってるものだから」

「お墓参り?」

「うん、明日が命日なのよ。主人の」

こうして話しているとつい忘れてしまう。香織さんが五十歳手前だということを。見た目だけで判断すると彼女はせいぜい未だ三十代の後半くらいに見える。とてもじゃないが、連れ合いに先立たれた経験を持つ女性には見えない。

 とは言っても、やはり未亡人となるにはどちらにしろ早すぎる年齢だ。旦那がいくつで亡くなったのかは知らないが、単純に老衰だったというわけではないだろう。

「……変なこと聞いてすみませんでした」

「いやいやいいのよ、気にしなくて。もう何年も前の話なんだし、今更暗くなったりしないわよ」

香織さんの様子に無理をしているようなところはない。それがポーズなのかそうでないのか、俺に判断することはできない。ふと横を見ると、芽依菜はどこ吹く風で、香織さんに出されたアップルティーに砂糖を入れているところだった。右手でティースプーンを取り、かき混ぜる。

 確か香織さんの亡き夫は、医者だったと聞いた。遼さんから聞いた話だ。元は遼さんも香織さんのご主人を掛かり付けの医者にしていたという。

「医者の不養生(ふようじょう)よね、まったく。本当に馬鹿なんだから」

 つい昨日を懐かしむような口調で、微笑みながら香織さんはいう。掛け値なしに、その佇まいは綺麗だった。

「もうちょっと長生きして欲しかったよな、志賀先生。俺、志賀先生以外の医者に診られるの未だにすっげえ緊張するから嫌なんだけど」

遼さんは苦い顔をする。治験バイトで入院した折、隣のベッドで聴診器を当てられていた時の遼さんの強張った顔を思い出して笑ってしまった。

「遼さんっていつから、その……志賀先生? と知り合いだったんですか?」

 俺自身は志賀先生と全く面識がないので、彼の名を口にするのに違和感がある。

「いやもう覚えてねえよ。俺がほんのガキの頃からだからな」

「井土くん、あのときはほんとにかわいかったのになあ。今は生意気になっちゃって」

「香織ちゃんはほんと変わんねーよな。マジで」

「悪うござんしたね」

 年こそ離れているが、本当に息の合った二人だ。両者とも俺より年上だが、見ているだけで微笑ましくなる。それは芽依菜も同じようで、口に手を当ててくすくすとしている。

 志賀先生は開業医で、香織さんは元々看護師だったらしい。開業といっても病院を一から立てたわけではなく、クリニックビルの一角を間借りしていたそうだ。二人の間に子供はなく後継ぎもなかったので、志賀先生が亡くなるのと同時に病院は閉められた。テナントを引き払い、香織さんは彼の残した財産で、こうしてカフェバーを営み日銭を稼いでいる。こういうお店をやることに、前々から憧れがあったのだと言っていた。

「ふらふらしてる井土くんを雇ってあげたのはどこの誰よ」

「雇ってよかっただろ?」

「ほんとにもう」

 嘆息しつつもきびきび働く香織さんと遼さんの間には、時に洗練された関係があるのだと感じられた。

「まあ確かに、店をやっていけてるのは今までの知り合いの人たちが助けあってのものだけどね」

「そうなんですか?」

「うん。昔の患者さんがお客さんとして来てくれたりね」

志賀先生は、多くの人に慕われていたのだろう。それだけではなく、香織さんも同様に慕われていたのだということだ。

「さっきのじいさんもそうだぞ」

「えっ」

 なんのことはないと遼さんは言うが、少しびっくりだ。

「あのいつも不機嫌そうな人ですか?」

「そう言うな。声はでけーが、あれはあれで良い人だ」

「はあ」

 良い人という風には見えないのだが、しかし彼も彼で志賀先生を慕っていた一人ということになる。

 と、目の前に二つ皿が置かれた。モンブランとフルーツタルトがそれぞれ乗っている。

「なんですか? これ」

「ケーキ」

 皿を置いた本人である遼さんは、平然と言う。

「見りゃ分かります。注文してませんよ」

「サービスだよ」

「そんな、悪いです!」

 声を上げたのは芽依菜だ。ただし視線はケーキのほうに向かっている。遠慮する気持ちはあるのだろうが、心の中ではそれを欲しているようだ。ケーキに向かって話しているようで、少し滑稽(こっけい)な姿である。

「あっ、それ私のやつじゃない!」

 遼さんの後ろから目を見張って香織さんが言う。

「俺が買ってきたやつじゃん。また後で買ってくるからさ」

 出されたものは、どうやら店で提供している品ではないらしい。

「まあいいけどさー、うー」

 後ろで唸る香織さんがあまりにも可愛らしくて噴き出してしまいそうだった。

「俺、甘いもの苦手なんで芽依菜の分だけで良いですよ。一つお返しします」

「あれ、そうだっけ?」

 遼さんが首を捻る。本当は苦手ではない。だが今ここで無理に食べたいわけではないのも事実だ。

「ほら、芽依菜ちゃんどっちがいい?」

 二つのケーキと香織さんの顔を見比べながら、芽依菜はおずおずと一つを指さす。フルーツタルトである。甘い物の誘惑には勝てなかったようだ。

 モンブランの皿を引いて、遼さんはそれをそのまま香織さんに手渡した。

「奥のほうで食ってきなよ」

 皿を受け取りつつ、香織さんは困惑する。

「仕事中……」

「なに堅いこと言ってんの。もう皿に盛っちゃったし、いちいち戻すの面倒でしょ。それに夜になって忙しくなったら、食ってる暇もないんだから」

「いいの?」

「いいって」

 ぱっと明るい顔になって、香織さんはバックヤードに引っ込んだ。

 いくつになっても女性にはこういうところがあるものなんだな、と妙に感心する。

「ありがとうございます。(つつし)んでいただきます」

軽く頭を下げた芽依菜は、左手でとったフォークを右手に持ち替えてフルーツタルトに切り込んだ。彼女の満足げな表情を確認して、遼さんは仕事に戻った。

おいしいおいしいと、フォークを動かす芽依菜をしばらく見ていた。いかにも幸せそうに目を細めている。裏でモンブランを頬張る香織さんも同じような表情をしているのだろうか。

 芽依菜がタルトを平らげた後、紅茶を(すす)る俺たちの前に遼さんが立った。

「お、食ったな」

 空になった皿を見てにんまりと笑う彼の姿に、嫌な予感がした。

「ところで泰慶、ちょっと頼みがあるんだが」

 俺は「やっぱりか」と独りごちた。このフルーツタルトは、その頼みごとのための『エサ』だったというわけだ。

「なんですか? 一体」

「なに、大したことじゃない。ちょっとその辺まで取りに行ってほしいものがある」

「その辺?」

「あきる()あたり」

「ちょっとその辺じゃないじゃないですか!」

「高々二十キロくらいだよ」

 あきる野市と言えば、立川(たちかわ)市のお隣である昭島(あきしま)市を超えた先だ。多摩川(たまがわ)最大の支流である秋川(あきがわ)の流域に位置し、アウトドアレジャー施設で有名な場所である。

「そこに何があるんですか?」

「志賀先生の墓」

「……墓持って来いとか言うんじゃないでしょうね」

「お前俺のことなんだと思ってんだよ。持って帰ってほしいのは、花だよ」

「花?」

「ああ。お前明日か明後日、暇か?」

「暇ですけど」

「芽依菜ちゃんは?」

 遼さんは視線とともに芽依菜に水を向ける。きょとんとしながらも顎に指を当てて、芽依菜は答えた。

「特に……予定はありませんね」

「そいつは良かった」

 嬉しそうに頷くと、遼さんは振り向いてバックヤードの方に向かって声を大きくした。

「香織ちゃーん! 泰慶たちが墓の花とってきてくれるってー!」

「ええっ!?」

 驚いた顔で、香織さんがパタパタと足音を立てながらカウンター内に出てくる。

「そんなまた、どうして?」

「いや俺たちもなにがなにやらなんですが」

「井土くん?」

 眉根を寄せて、香織さんが遼さんを睨む。そんな彼女の様子を意に介さず、遼さんは俺たちに向かって説明する。

「毎年命日に、律儀にも志賀先生の墓に花束と煙草を置いてくやつがいるんだ」

「誰なんですか?」

「それがわかんねーんだよ。まあ昔からの知り合いだろうと思うんだけど」

「どうして昔の知り合いだと?」

 芽依菜が口を挟む。

「花と一緒に置いてある煙草が、先生の好きだった銘柄のものだからな。先生、身体を壊してからは禁煙してたんだよ。だから先生が喫煙者だったことは、昔からの知り合いしか知らない」

「身体に悪いから辞めなさいってよく言ったんだけど、なかなか辞めなくてね、あの人。体調悪くなってから辞めても遅いのに」

まったく、と香織さんは鼻から息を吐く。志賀先生がすでに故人であるというのが信じられないくらい、香織さんの動作は何気ないものに感じられる。

つまり俺たちに、その花と煙草を取ってきてほしいというわけだ。だがしかし、なぜ俺たちに?

「さっきも言ったと思うけど、香織ちゃんは明日明後日忙しくて店を開けられない。本来ならアヤメの花くらい数日放っておいたところでどうってことないんだけど、供えられてるのがそれだけじゃないからな」

「煙草ですか?」

「いや、別に煙草のことじゃない。金だよ」

「金?」

「ああ。毎年その花束の中に金の入った封筒が紛れててな」

 香織さんが困ったような表情を見せる。

「どなたがそうしてくれてるのか分からないからねえ。受け取れもしないけど、かといって捨てるわけにもいかないし」

「今まで一度も鉢合わせたことはないんですか?」

「どうも結構早い時間帯に来てるらしいの。大体毎年命日の朝には墓参りに行くんだけど、そのときにはすでに供えられてるから」

「今年も多分供えられるんじゃねえかな。少なくない金を、何日も放っておくのはさすがにできないだろ? それにこんなこと頼めるの、ある程度信頼のおけるやつにだけだし」

そう言われると少し断りづらい。どうしようかと逡巡(しゅんじゅん)していると、遼さんが俺の耳に口を寄せてきた。

「二人でドライブして来いって言ってんだよ。車は貸してやる」

 言われて顔が熱くなった。そういう意図だったのか。

「まあ、全然良いですよ。暇な休日でしたし」

「わたしもわたしも! ケーキいただいちゃったのわたしだしね」

 遼さんの耳打ちは聞こえていないだろう芽依菜は無邪気に声を上げる。

「香織ちゃんも別にいいだろ?」

「でも、やっぱり悪いわ」

「そんなこと言ったって、誰かには頼まないといけないんだから」

「そうだけど……」

 しばらく悩んだ末に香織さんは首を縦に振った。

「なんか、ごめんなさいね。お客さんにこんなこと頼んじゃって」

「気にしないでください。ケーキのお返しですし」

「大体ハナショウブかカキツバタかクレマチスの花束だから。すぐ分かると思う」

 どの花も名前だけ聞いたことがあるばかりで、よく分からなかった。

こうして、日曜日の予定が決まったのである。



 わざわざ遼さんに車を借りる必要はなかった。実家に戻れば車を借りることくらい簡単にできたからである。母親には、ちょっと友達とドライブしてくるという風に告げた。

「彼女じゃないの?」

 そんな勘繰りに「そんなんじゃないよ」と返さざるをえなかったのが少し悲しい。残念ながら、本当に『そんなんじゃない』からだ。

 寮まで迎えに行くよという提案は、芽依菜によって丁重に断られた。休日に男が寮まで迎えにくるところなど見られれば、友達になんと言ってからかわれるかわからないという理由だそうだ。

 国立(くにたち)へと少し遠回りして芽依菜を拾う。助手席に乗り込んできた芽依菜は、淡い色のトップスに水色のワンピースを合わせていた。膝上まであるハイソックスとワンピースの間に覗く脚に女を感じて思わず目を奪われる。左肩から前に垂らした黒髪をまとめているのは、控えめな大きさの花飾りがついた髪ゴムだ。横から見ると、その睫毛の長さがよくわかる。惚れた者のひいき目を引いても、その私服姿はめちゃくちゃに可愛かった。

 駅のロータリーに停めた車を出そうと、ギアシフトレバーに手を伸ばす。

 しかし俺の手に触れたのは、シフトレバーではなかった。柔らかくて、暖かい感触。

 怪訝に思ってそちらを見やると、芽依菜と目が合った。

「あ」

「う」

 どうやら芽依菜は車のあちこちが気になっていたらしく、目につくものを思いつくままにいじくっていたようだ。そうしてシフトレバーに手を乗せているところに、俺が手を伸ばした。

 俺の手はしっかりと、レバーの上にある芽依菜の手を握っていた。

「ごっ! ごめん!」

「やっ……! わ、わたしも! なんか車に乗るのも久しぶりだなあって色々気になっちゃって!」

思わず両者手を引っ込めた。先日などは手を繋いだというのに、この体たらくである。思えばあの時俺は女装をしていたが、今日は男の姿なので、少し意識が違っているのかもしれない。

 そう――今日の俺は女装をしていなかった。塾外で芽依菜に会うというのに、だ。目的地が立川より離れた場所にあるし、大体車に乗って移動するので、そこまで人目を気にする必要はないだろうという判断だ。男の姿で芽依菜に会うのは、塾以外では実に三年以上ぶりだ。自然と少し、緊張した。

 見慣れた市街地を抜け、昭島を超えて秋川あたりまで来ると、だいぶ郊外の色が強くなってくる。遠目には田畑も見えるし、山の稜線もはっきりとしてくる。

「車は速いねー」

 馬鹿みたいにのんびりとした呟きが妙に愛おしく、笑ってしまう。

「びゅーん」

 応えずにいたらなにやら効果音らしきものまで呟きだしたので、とうとう噴き出してしまった。

「あ、笑った」

 恨みがましく言われたので言い返す。

「笑わせにきてただろ、それ」

 うふふ、と笑うだけで芽依菜は答えない。代わりにこんなことを言った。

「なんだか楽しくって。いつもと違う感じがするの。変かな?」

 浮き足立っているのが俺だけじゃないと知って、無性に嬉しくなる。だからつい、意地悪を言いたくなる。

「今から山に捨てられるってのに、呑気なもんだな」

「えっ」

 芽依菜が面食らった顔をする。

「わたし捨てられようとしてるの?」

「熊が出るような山奥にな」

 わざと神妙な顔を作って、残念そうな声色で言う。

今際(いまわ)の言葉があるなら聞くぞ」

「犯人は寿秋泰慶って人です」

「本人に言ってどうする」

 いつの間にか、眼前に秋川の流れが見えていた。

 近辺にはキャンプ場やバーベキューの出来る場所がいくらか設けられている。

「楽しそー」

 窓に張り付くようにして、芽依菜はそれを眺める。河原にはあちこちで、フリスビーやボールなどを投げ合う子供たちがいた。バドミントンをしている中学生らしき姿も見える。

「なんか、昔を思い出す」

 ふと、芽依菜の言葉に暗いものが混じったような気がした。

「昔?」

「ああいう風にして遊んでたよね。わたしたち」

 わたしたち、というのが誰を指すのか分からないほど鈍感ではない。俺と、芽依菜と、そして兄貴だ。寿秋慶秀のことだ。

「そういや記憶曖昧なんだけどさ、俺たちタイムカプセルとか埋めなかったっけ?」

 なんとはなしに今朝方思い出した記憶の破片を投げかけてみる。目の端で捉えた芽依菜の背中が少し、跳ねたような気がした。

「どうした?」

「あ、えっと……覚えてたの?」

「なんとなくだけど」

「ふうん……」

「今度、掘ってみる?」

 確か、こういう話にありがちな『未来の自分への手紙』なんてのを埋めたはずだ。俺たち三人がしたためた文章――何を書いたのか、もうすっかり忘れてしまった。

「うーん、気が向いたら」

 食いつくかと思ったら、意外と反応は淡白だった。やはり兄貴の想い出に触れることは、憂鬱なのかもしれない。

 初めの緊張から解けてはしゃいでいた芽依菜だったが、それ以来少し静かになった。物憂げとまではいかないが、どこかぼんやりして窓の外の景色を追っている。俺は俺でそんな芽依菜にかまう余裕が消えていた。道がいきなり細くなったからだ。

 都道三十三号線、檜原(ひはら)街道に入ると、目に入るのは民家と川と木々ばかりで、幅員は車一台分といったところが珍しくなくなってきた。それでも遼さんに聞いた住所に向かって進んでいくと、いよいよ道は山へと分け入っていく。車の通りがそこまで多くないのが救いだが、それでもたまに対向車がぬっと現れると辟易(へきえき)せずにはいられない。

 土砂崩れ防止の金網が張られた山肌の傍を走っているうちに、本当にこの道であっているのか不安になってくる。芽依菜が目で追っている川の幅もだいぶ狭くなってきた。清流釣りをしている人間をちらほら見かけるくらいだ。

「このへんだと思うんだけど」

 カーナビゲーションシステムの案内はとっくに終了していて、もう役には立たない。車を道の端に停め、カーナビの地図を何とはなしに操作する。

「もしかしてあれじゃないかな?」

 車窓から頭を出して四方に巡らせていた芽依菜が、空を指さしていた。正確にはその手前――切り立った山肌の上に何やら開けた場所があるように見える。

「え、この上?」

「墓石っぽいものも見えるよ」

 芽依菜が指した場所は、俺の背丈の五倍はありそうな崖の上だ。どうやってあそこまで昇るというのか。

 難しい顔をした俺の袖を芽依菜が引く。

「あそこから昇るんじゃない?」

 芽依菜が示す方向を見てみれば、車より数メートル前方の山肌に人の手が入った場所があった。車から降りて近づいてみる。

「これを昇るのか……」

 斜面の急な山肌に、いかにも急ごしらえのコンクリート道があった。もともとはただのけもの道だったと言われても驚かない。脇の藪からは今にも蛇が飛び出して来そうだ。そして特筆すべきは、その急傾斜である。もういっそ階段にしてしまえよと思うような坂道なのだ。俺たちの目指す集合墓地はこの上にあるらしかった。

 手すりもないので、転がり落ちると危ないと思い、芽依菜を先に行かせたのがまずかった。坂が急過ぎて、少し距離を取るとワンピースの裾の中が見えそうになるのだ。ずんずんと歩く芽依菜の身を案じる余裕などなく、俺は必死に下を向いて壁のような坂道を歩くことになった。

 本格的に山に入る手前で、右手側に墓地が表れた。墓石は全部で十そこそこあるが、それぞれ墓標に刻まれた性は、同一のものが多い。全部で三種類しかない。親類同士で管理しているのだと香織さんは言っていた。

 探さなくとも目的の墓石はすぐに見つかった。その御前に供えられていた紫色のアヤメが、実に鮮やかだったからである。

『志賀家之墓』と掘られた石碑の前には、石造りのろうそく立てやら供物台(くもつだい)があり、さらに手前に飛石(とびいし)が二枚敷かれている。奥の方の飛石の上にはそのまま、見事な花束が置かれていた。向かって右手の方に花を向けて横たえられている。供物台の上には二箱の煙草があった。大学で先輩が吸っているのを見たことがある。『クール』という銘柄だ。

 持参した線香に火を点け、墓前に立てて手を合わせる。芽依菜も同じようにした。


 墓参りを終えて振り返ってみれば、開けた景色があった。ただでさえ山の上の、切り立った小高い場所にいるのだ。あきる野の町が一望できた。いや、もしかしたらあきる野どころか昭島、立川のほうまで見えているのかもしれない。気持ちよく晴れた日だった。もう少しで梅雨が来るなど、信じられない。

 横で同じ景色を見る芽依菜は、目を細めて眩しそうにしていた。未だ追想に(ふけ)っているのかもしれない。どれくらいの時間だか、二人でそうやって景色を眺めていた。

「帰ろうか」

 そう声をかけてから、墓前の花束を抱える。その時に、何か違和感を感じた。ほんの些細なそれだったのだが、結局その正体はわからない。

 胸に抱えた花の中から、一応の確認として封筒を探す。ほどなくしてそれは見つかった。片手で花束を抱え直し、右手に封筒を取る。表には何も書かれていない。真っ白な何の変哲もない長型四号の封筒だ。中にはお金が入っているということだが、外から見ただけではいまいちその多寡(たか)は知れない。

 何気なく裏返してみた。

「なんだこれ?」

 そこには文字が書かれていたのである。

 細い毛筆で書かれたもののようで、えらく達筆である。


『同惡愛扶けて 志賀郁男に之を貽る』


 志賀郁男(いくお)とは、おそらく件の志賀先生のことだろう。

「何て読むの?」

 いつの間にか横から覗きこんでいた芽依菜が、顔の横で髪を抑えながら俺に訊く。

「どうあく……あいたすけて、かなこれは。どうあくあいたすけて、志賀郁男にこれをおくる。だと思うけど」

「旧字体?」

「悪と贈るが旧字だな。同悪相助けるってことわざがある」

「どういう意味なの?」

「悪人は助け合って悪事を働くってことだな」

「ふうん……何かのメッセージかな」

「さあ、どうだろう。皆目見当がつかないな」

最近はことわざだとか故事成語に縁があるな、とぼんやり考えた。生活の端々にそういった国語的知識が見え隠れすると、なんだか兄貴のことを思い出す。兄貴も、そういうのが好きな人だった。


――お前が(よもぎ)だとばかり思っていたけど案外蓬はあの子のほうで――


「たいくん?」

 芽依菜の言葉で、はっと現実に引き戻された。いつのまにか芽依菜は坂のほうへと歩きだしている。慌ててそれを追った。

 そう言えば兄貴は事故で死ぬちょっと前、国語以外の学問からもなにかしら俺に説教をしてくれたっけ。なんだか不自然にいきなりそんなことを言いだしたので、印象に残っている。あれにはなにか意図があったのだろうか。


――泰慶、俺の座右の銘を教えてやる。よく聞けよ。そんで、覚えろ

――なんだよいきなり

――『文章は、用いる言葉の選択で決まる』

――意味わかんないんだけど

――そのうちわかるさ


 思い出してみればあの頃の兄貴は少し変だった。途端に意味ありげなことを言ったかと思えば詳細を教えてくれなかったり、今までそんなそぶりもなかったのに「欲しいものがある」とかで唐突にバイトを始めてみたり。そして、一人旅に出かけてみたり――あんなことしなければ、未だに彼は健在だったに違いないのだ。芽依菜の胸に焼きつくほどの感情を残すことも、なかったに違いない。

 ずるいよ兄貴。俺はそう思わずにはいられない。死んでなお恨まれるとは、兄貴も思ってなかっただろうな。あんたはいつまでも色あせずに、死んだときのままで、芽依菜の心の一部を独占したままだ。


 後部座席に花束と封筒、煙草を置いて再度運転席に座る。狭い車内に置くと、花の香りが一層強く感じられる。

 シフトレバーを確認してみたが、そこに芽依菜の手が乗っていることはなかった。

 車を出してすぐ、芽依菜が心配そうな顔で俺の顔を覗き込んできた。

「なんかぼうっとしてたけど、大丈夫? 運転疲れた? 休んでく?」

「ん、大丈夫。芽依菜が運転変わってくれたら嬉しいけど」

「ちょっとやってみたいかも。これ、がちゃがちゃすればいいんでしょ?」

 そう言ってシフトレバーに手を置く芽依菜。

「絶対にやめて」

 背筋が凍る思いだった。


 行きは山道を運転する緊張と、迷わないかの心配があったのだが、帰りはもうすっかり慣れたものだった。小一時間ほどで国立まで芽依菜を送り届けることができるだろう。

 安心は退屈に変わり、眠気に変わった。芽依菜も行きの道程ほどにははしゃがなくなっていて、窓の外の風景を見るともなく眺めている。

「誰がこんな花束置いてってるんだろうな。それも毎年」

 退屈しのぎに振った、答えを期待していない戯言だった。誰だろうね、なんて適当な言葉を交わしつつ眠気を紛らわせるつもりだった。だから、芽依菜から帰ってきた確信めいた返答に俺は少なからず面食らった。

「んー、井土さんかな。多分」

 窓の外を見つめたまま、こともなげに言う芽依菜に俺は思わず聞き返した。

「え、なんだって?」

「花束を置いてったのは井土さんだと思う」

「どうしてそうなる?」

芽依菜は口元に手を当てて視線を巡らせた。なにから言おうか考えているのかもしれない。ちらっと後部座席を見た後に、口を開く。

「あの花束、向かって右側に花が向くように置かれてたでしょ? あれって左利きの人が置いたんだと思うんだ」

 先ほどのことを思い返す。確かに花が右になるように花束は置かれていた。

「右利きの人は普通、花束の根元を右手で持って左手で花の側を抱えるよね。たいくんがそうしてたように。その状態から花を供えれば花は左側にくるはず」

花を持ち帰ろうと抱えたときに感じた、不自然な感覚を思い出す。俺は反射的に右手を出して、花束の根元を掴んだ。その時花は身体の外側にあったのだ。だから抱えるのに一手間かかった。違和感の正体はそれだったのだ。

「それはそうだとしても、遼さんって左利きだったの? 初耳なんだけど」

 彼の利き手は、半年ほど付き合っていた俺も知らない。彼の利き手を知るような場面に出くわしてないからだ。どっちかというと、あの声の大きい老人になら心あたりがある。彼は先日『ロコ』を去る時、右手で杖をついていた。

「紅茶を出されたときとケーキを出されたときに思ったの。ティースプーンもフォークも、ヘッドを右に向けて出されたから」

そう言えば、芽依菜があの店で不自然な動きをするのを二度見ている。スプーンを一度左手で取り、改めて右手に持ち替える。ヘッドが右側に来ているスプーンやフォークをそのままの向きで持ち上げることはできない。右利きの人間は、それを正しい向きに持ち直す必要がある。

 紅茶にもコーヒーにも砂糖を入れない俺は、その些細な不自然さに、言われるまで気が付かなかった。

「ティースプーンに関してはマナー的に正規の置き場所ってないから、もしかしたらお店の方針なのかなーとかも考えてみたけど、香織さんに紅茶出してもらったときはそのまま右手で持てたんだよね。だからあれは、井土さん特有だって分かったの。自分の癖がそのまま出ちゃったんだろうね」

「杖はどっちの利き手で持つとかってあるの?」

 ふと気になった疑問をそのまま口にしてみる。

「杖? あ、あのおじいちゃんのことね。えーと、確か杖に利き手は関係ないよ。健脚側の手で持つんだったかな。その方が安定するとかで」

 なるほど。つまりあの老人は左足が悪いということだ。

「でも左利きだけで、花束置いたのは遼さんだって言うのは早計なんじゃないか? 左利きなんてごまんといるぞ」

 俺の追及にも怯まず、芽依菜は流暢に続ける。

「もちろん、まだ理由はあるよ。というかこっちが決定的なんだけど」

「相変わらず焦らすね」

 俺の言葉に芽依菜は眉を(ひそ)めた。

「焦らす、ってなんかあれだね。えっちだね」

「アホか。で、他の理由って?」

「うん、井土さん言ってたでしょ。『アヤメの花くらい数日放っておいたところで』みたいなこと」

 先日の遼さんの言葉を思い出す。確かにそんなことを言っていた。

「なんで供えられてるのがアヤメだって思ったのかなって。毎年香織さんがお墓参りに来て花を持って帰ってるなら、それが井土さんの目に触れることはないはずなのに」

「そんなの、香織さんが話したんじゃないの? 今年はアヤメだった、とか今年は……なんだっけ、カキツバタ? だったとか」

「今までの志賀先生の命日に、アヤメが供えられてたことはないと思うんだけどな」

「え、なんで?」

「時期が少し外れてるの、アヤメは五月中旬くらいまでしか咲いてない。数本だけならまだしも、あれだけ立派な花束を作るんだったら、もうちょっと旬な花を選ぶよ」

そこまで聞いて、思わず後部座席を振り返りそうになった。そこには立派なアヤメの花束があるはずだ。紫色の、華やかな塊が。

「現にそこにあるのはアヤメだろ? 有名な花だし、俺も知ってるぞ」

「ううん、これはハナショウブだよ。アヤメによく似てて間違えられるけどね。開花時期はちょうど今頃で、六月半ばくらいまで咲いてる」

「え、そうなの? どう見てもアヤメにしか見えないんだけど」

「結局同じアヤメ科だからね。よく見ればアヤメと違って、ハナショウブの花には筋があるよ。あと葉脈でも見分けられるけど」

芽依菜と俺のこの知識の差は、単純に男女の差というわけではないだろう。改めて彼女の博識に舌を巻く。

「えーっと、つまりどういうことだ?」

「井土さんは、存在しないアヤメを見てるってこと。おそらく、このハナショウブを見てアヤメだと思ったんだろうね。カキツバタを見た年もあれば、クレマチスを見た年もあるはずなんだけど……そう考えると、香織さんはいちいち花の名前を井土さんに伝えるようなことはしてなかったのかもね、やっぱり」

カキツバタを供えた年に、「今年はカキツバタが供えられていた」と聞かされれば、さすがにカキツバタの花を覚えるだろう。クレマチスも、ハナショウブも同様だ。

だがしかし、遼さんはアヤメという花の名を口に出した。アヤメが供えられた年はないというのに。

「実際に供えられた花を見ていなければ、こんな勘違いは起こるはずがないんだよ」

「香織さんに植物の知識があんまりなくて、ハナショウブが供えられた年に『今年はアヤメが供えられてた』って遼さんに伝えたとしたらどう?」

大元の認識がずれているという線はなくもなさそうだった。が、それはあっさりと否定された。

「あんまりなさそう。香織さん、ハナショウブかカキツバタかーって言ってたでしょ? このカキツバタって花もアヤメ科でね。これがまたアヤメにめちゃくちゃ似てるのね。この二つを区別してる香織さんが、アヤメとハナショウブを混同することはないと思う」

「なるほどなあ。でもなんかいまいち納得しきれない感がある」

この漠然とした違和感は何に起因しているのか、自分でもよくわからない。その正体はあっさりと芽依菜によって白日の下に晒される。

「ここまでで半分だからね」

「半分?」

「どうして花を供えた張本人が、花の名前も知らないんだろうって思わなかった?」

 ――その通りだ。得体の知れなかった違和感がみるみるうちに輪郭を現す。

「花を用意した人が別にいるからだよ。井土さんはあくまで運び屋だったってことね」

「なんか話が入り組んできたな……どうしてそう思う?」

「封筒の裏にあった字がすごく綺麗な毛筆だったからね。とめはねはらいも、完璧だった。毛筆の書き方って基本的に右利きを前提に考えられてるから、左利きじゃああ上手くはいかないよ」

『同惡愛扶けて 志賀郁男に之を貽る』だったか。

 確かにあれは立派な行書だった。一朝一夕で書けるものとは思わない。

 それに加えて、遼さんが旧字体を使うというのもどこかおかしな感じがした。

「じゃあいったい誰が遼さんに運び屋をやらせたんだろう」

「……さあ?」

「さあ、て」

「なんとなく、こんな人じゃないかなってのはあるけどあまり確定的じゃなくて」

「どんな人なんだよ」

 ここ最近の出来事を通じて知ったが、芽依菜は確信的でない出来事を口にするのを悪いことだと思っている節が少々ある。

「……足が悪い人」

 それを聞いてすぐに一人、思い当る人物があった。恐らく芽依菜も同様なのだろう。

「どうしてわざわざ井土さんにお墓参りを代行させるかってことを考えたの。ここに来る時間も取れないくらいに忙しいのか、それとも別の理由があるのか。状況的に一番可能性がありそうなのは、身体的な理由かなって」

「身体的?」

「あのお墓に行くまでの道って結構険しかったでしょ? わたしたちは平気だったけど、ちょっと足が悪かったりする人だと、あの坂は上れない」

確かに若者である自分でも、最近の運動不足が祟ったのか、あの坂はなかなかにきつかった。

「封筒の裏に使われていた文字が旧字だったことと併せると、井土さんにお墓参りを頼んだのは、自分では墓地にたどり着けなくて、旧字に親しみのある年配の人って線が一番濃厚かなって。それだけ」

芽依菜の考察はそれで終わりのようだった。どっちから話しかけるということもなく沈黙の(とばり)が降りた。なぜ遼さんたちは、匿名での墓参りと献金など行っていたのだろう。その鍵となる理由は、推測できるようなできないような。

 結局、真実のところは本人たちにしかわからない。


 車が市街地に入ったあたりから、芽依菜が急にそわそわし始めた。何か言いたいことでもあるのか、こちらをちらちらと見ては口を開きかける。

「どうかした?」

 助け船を出したつもりだったのだが、俺の声に芽依菜はびくりと肩を震わせた。なにかしら心の準備が必要なことを言おうと思っていたのかもしれない。だとしたら少し気の毒なことをした。しかしそんな態度を横で続けられると、俺の方も落ち着かなくなってくる。

「ろ、『ロコ』って素敵な名前だよね!」

「は?」

 芽依菜の口から飛び出した言葉は、およそ話のきっかけにもならない、着地点不明な一言であった。



 芽依菜を国立に送り届け、実家に車を返し終えてモノレールに乗り、立川に戻ってきた頃にはすでに日が暮れていた。花束を抱えながら、家路に着くために駅へと向かう人の流れに逆らって立川通りを北上する。途中で『ロコ』に行きがかったが、中は貸切の客で賑わっており、とても暇そうには見えなかったので、花束とお金と煙草の件は、とりあえず見送ることにした。

 自室に戻って花束をデスクに置くと、運転の疲れを感じたのでそのままベッドに横たわった。目を瞑ってなにも考えずにいればそのまま眠ってしまえそうだったが、それはあくまで『なにも考えずにいれば』の話だ。

 瞼の裏に浮かんでくるのは、今日の芽依菜の姿だ。水色のワンピースと、肌が透けそうな黒いニーソックスと、ヒールのあるパンプスと。さらさらと動く前髪も、すうっと通った鼻筋も、薄く引かれた淡いリップの艶も――なにもかもが浮かんでは、消えることなく(おり)となって沈み、俺の胸を詰まらせる。

 こんなことを考えている時点でもう手遅れなのだろうと自覚せざるをえない。自嘲するばかりだ。もう、過去の話だなどと言い訳することもできない。やはり俺には、芽依菜を好きにならないことなどできない。

 別れ際になってもなお、芽依菜は俺に言いたいことを言えなかったようだ。国立駅のロータリーに次々と入ってくる車両を気にしながら、名残惜しそうにこう言ったのだった。

「また、メールする」

 状況的に、少しは期待してもいいのだろうか。何かしら嬉しくなるような言葉が届くことを期待してもいいのだろうか。芽依菜の俺に対する態度は、誰にでもああなのだろうか。決してそうじゃない、といいな。心からそう願う。


 午前一時半になってから、俺は再び花束を抱えて部屋を出た。

 『ロコ』の営業は一時までだが、この時間ならまだ店に人がいないということはあるまい。花束を返すのは別に後日でもいいと言われていたのだが、どうにも気が高じて眠れないので、今日の終わらぬうちに俺は役目を終えてしまうことにした。加えて、自分の部屋に生花(せいか)があるというのはなんとなく落ち着かない。今にも枯れてしまうのではないかと不安になるのだ。俺は生花の最適な保存方法など知らない。

 『CLOSE』と札のかかった木ドアに、鍵は掛かっていなかった。

「どうも」

 入ってすぐに、カウンターの内で洗い物をしていた遼さんと目が合った。反射的に「もう閉店です」ということを言おうとしていたのか、遼さんの口は開きかけていた。俺の腕の中にある花束を見て、開きかけた口は笑みの形になる。

「律儀だねえ、お前」

「花の扱いはよくわかりません。あんまり手元に置いておくのも不安なので」

「俺も一緒だよ」

 そう言って遼さんは洗い物の手を止める。

「なんか飲むか?」

「アールグレイを」

「おいおい午後のティータイムじゃねえんだからさ」

 遼さんの言葉に俺は笑った。

「それじゃあジントニック」

「あいよ」

 遼さんはジントニックを二つ作って、一つを俺の目の前に置いた。花束は、片づけられたテーブルの上に置いてある。

「香織さんは?」

「先に帰ってもらったよ。明日早番だからな。俺もこれ片づけたら帰るところだった。お前、運が良かったな」

 それは確かに運が良かった。香織さんがいないというなら、気兼ねをする必要はない。

「そこの花束を供えたのは、遼さんじゃないかって芽依菜は言ってました」

「へえ?」

 遼さんはグラスを口に運びながら、興味深いという声を上げた。

「いろいろ理由はあるんですが、まあその辺は割愛してもいいですか? あ、ちなみにあの花はハナショウブだそうですよ。アヤメではないそうです」

 遼さんは苦笑する。

「いや、余計なことを口走ったと思ったんだよなあ。あの後さりげなく香織ちゃんに訂正されたときにさ」


――大体ハナショウブかカキツバタかクレマチスの花束だから――


 まさか今更しらばっくれられはしないだろう。そう思ったからこそ、単刀直入に聞いた。

「花と封筒を用意したのは、あのおじいさんですか?」

「うん、そうだよ。それも芽依菜ちゃんの入れ知恵?」

「ええ、まあ」

「ただもんじゃねーな、あの子」

くつくつと笑う遼さんは、どこか楽しそうだった。俺はその姿を見て、自分の推測が正しかったのだということを確信した。訊くまでもなかったが、訊くことにした。きっと遼さんは、話したがっているだろうから。

「香織さんのこと、好きなんですか?」

「ああ、愛してるよ」

 恥ずかしげもなく言う遼さんに、こっちが恥ずかしくなった。

「どうしてそう思った?」

「香織さんに告げずにするお墓参りは、なにか彼女のことが絡んだ『罪滅ぼし』のためなんじゃないかと思ったんです。お世話になった志賀先生へ、彼の配偶者に恋をしてしまったことに対しての『罪滅ぼし』」

「よくそんな突拍子もない推測がでてきたもんだな」

「前に遼さんが『三歳差ぽっちで、大人と子供がどうとか関係ない』って鼻で笑ったでしょう。でもそれが二十歳以上の差だったら、さすがになにか感じるところはあったんじゃないですか」

 遼さんのあの言葉は、自分に言い聞かせるところがあったのかもしれない。

 香織さんに好意を寄せる男性はもう一人いる。

「あのおじいさんも、香織さんのことが好きなんですか?」

「それ、絶対余所で言うんじゃねえぞ。俺とじいさんだけの秘密なんだからな」

つまり香織さんは、二十歳前後年下の男に好意を寄せられているだけに留まらず、二十歳前後年上の男にまで愛されているのだ。

「なんか壮大ですね」

「なにが壮大だよ。やってることはお前らの色恋と何一つ変わりゃしねえ」

 遼さんもかの老人も、かつては志賀先生の患者であり、彼に恩義を感じる身である。その二人ともが、志賀香織に恋をしている。かつての恩人の妻に恋をしている。後ろめたさを共有する仲なのだろう。それゆえに二人は助け合って、毎年匿名の墓参りを遂行するのだ。そう、まさに『同悪相助(どうあくそうじょ)』だ。

 『同悪相助』には他にも類する語がある。『同病相(あわ)れむ』『同類相憐れむ』などがそれにあたる。それらではなく『同悪相助』を選び記したのは、後ろめたさの表れだ。あの老人は自分たちを『悪』と表現した。恋の病に冒されたものたちではなく、同じ穴の(むじな)でもなく、ただただ同悪だと。『相』という字を『愛』に置き換えた老人の洒落っ気に、親しみを感じてしまう。

「まあ俺が香織ちゃんに惚れてるってことは、じいさんの側にゃ内緒にしてあるから少しフェアじゃねーとは思ってるんだけどな」

「え、そうなんですか?」

「だって、恋敵と協力し合ってこんなことしてるなんて微妙な心境だろ? 俺の気持ちは隠しておいたほうがなにかとスムーズかと思って」

驚いた。遼さんは自分の気持ちを隠し通せているつもりなのだ。老人の前では、単なる善意の協力者でいるつもりなのだ。

「じいさんとまさか恋話するような機会もないしな」

 続けて喋る遼さんの声を聞きながら、俺は席を立って花束に挟まった封筒を手に取った。それをカウンター越しに遼さんに手渡す。妙に大人ぶった彼の鼻を明かしてやろうという、意地悪な気持ちがあったことを否定はしない。

「裏を見てみてください」

「裏? ああ、あの『(すね)に傷を持ちて、志賀郁男に』ってやつだろ? 毎年同じ文句だから覚えちまったよ。大方、自分の足が悪いことと掛けてるんだろうけど――」

 脛に傷を持つ――なるほど、それも後ろめたいことがある者に特有の慣用句だ。

 だが今年の文言はそれではない。封筒の裏面を見つめる遼さんの言葉が止まった。

同悪(どうあく)相助(そうたす)く――悪人は助け合って悪事を働くって意味です」

「同悪……」

「遼さんの気持ちなんて、バレバレだってことですね」

しばらく固まって、老人の書いた文言を見つめていた遼さんだったが、やがて目を覆ってくっくと笑いだした。

「あのじいさん、食えねえよなあ」

 その口調は、本当に嬉しそうだった。

 人は誰しも、自分の恋愛のこととなると口が軽くなる。

 誰にでも言えることではないが、それを言えるタイミングと相手さえあれば、今にも話したくって仕方がないという感情に支配される。

 恋愛という感情は、一人で抱え込むには大きくて、辛くて、そして幸せに過ぎるものだ。


 『ロコ』を出て一度店を振り返った時、帰路の車内でした芽依菜とのやりとりを思い出した。『ロコ』の店名が書かれた木製看板が目に留まったからだ。

――『ロコ』って素敵な名前だよね。

 『LOKO』というのは、ハワイの言葉である『loco』を(もじ)ったものだと思っていた。常連も多く、地元に密着したカフェという意味合いなのかと思っていた。芽依菜に言わせればそれはどうやら違うらしい。

 志賀郁男の墓に供えられていた煙草。彼が好きだったという銘柄の煙草。

 『クール』という煙草の(つづ)りは『KOOL』だ。『ロコ』の店名に使われている文字がCではなくKであるのは、『LOKO』が『KOOL』のアナグラムだからということだ。

 この推測が正しいかどうかは、香織さん本人にしかわからない。だが仮に正しいとすれば、彼女はどんな思いをもってこの店名を付けたのだろうか。

 散々辞めなさいと口を酸っぱくした煙草。それを店名に冠する店で今は生活を送っている。夫がいなくなっても、夫の好きだった名は看板に生き続けている。

 夫婦の愛情というのは、良くわからない。少なくとも今の俺には、いくら考えても詮無いことであろう。そんな想いと共に、人気の少なくなった深夜の立川通りを一人で歩く。



 それから四日後の木曜日のことである。

いつもように早めに塾に来た芽依菜は、先日から引き続いて落ち着かない様子だった。国立駅のロータリーで車を降りたときから、ずっとそのままの調子で今日までを過ごしてきましたといった感じである。

 結局あの後、いくら待っても携帯に芽依菜からのメールが着信することはなかった。「またメールする」と言われ、その瞬間を今か今かと待っているうちに、芽依菜の授業日になってしまった。あの言葉は別れ際の社交辞令だったのだろうと思い直していたところなのだが、芽依菜が未だにそわそわしているのを見る限り、やはりどうもそうではないように思える。明らかに芽依菜は、俺に何かを切り出そうとしているのだ。

 その内容をようやく聞けたのは、授業が終わった後のことである。膝に乗せた拳を軽く握りしめ、意を決したように芽依菜が口を開く。

「せんせ」

 すでに耳慣れた、芽依菜特有の舌っ足らずな「先生」だ。その後を続ける芽依菜の瞳の中で、光がゆらりと揺れた。

「見てもらいたいものがあります」

三話目です。ゴールデンウィークが終わるまでには完結話を投稿できればいいなと思っています。あなたのお暇つぶしにならんことを願います。

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