巫山の夢
「連絡先、交換しましょう」
そう言って芽依菜にせっつかれたとき、さてどうしたものかと俺は頭を悩ませた。
芽依菜が俺と両親の確執に隠された真実を解き明かした一件以来、俺の中にある芽依菜へのジレンマめいた苦悩は次第に薄れてきていた。長年悩まされ続けてきた心労を取り除いてくれた芽依菜に対する純粋な感謝と、昔から変わらぬ芽依菜の思いやり深い性格がそうさせた。
だが、だからと言って俺たちの今の関係性が変化したわけではない。なんと言っても、俺と芽依菜は講師と生徒なのだ。
永井塾長と飲みの席で話をしたときのことを反芻しつつ、連絡先交換の是非について、俺はしばらく葛藤した。
◆
その日最後の担当生徒を見送った後、俺は講師デスクに座って、小テストのデータ入力作業に勤しんでいた。これを終わらせれば仕事を切り上げられるので、疲れ身に鞭打ちながらも迅速に入力を済ませた。
一日の達成感からか、座ったまま自然と伸びをしてしまう。はっと我に返って周囲を見回したが、そこに生徒の姿はなかった。先ほど俺が担当していたのが本日の最終コマだった。時刻は二十二時を少し回っている。
生徒は一人もいなかったが、大人の影はあった。飯田先生と永井塾長だ。
「お疲れですね」
テキストを棚に返しながら飯田先生が微笑んで言う。
「あ、いえ……なんかすみません」
俺と飯田先生は同い年だったはずだ。大学は違うが、学年も一緒だったはずである。大学入学と同時に講師を始めたという話だから、この塾に勤務し始めた時期は飯田先生の方が半年ほど早い。
「こき使ってわりいな」
ぽん、と後ろから肩を叩かれる。いつのまにか永井塾長が背後に立っていた。
「給料あげてくれます?」
振り返りながらおどけてそう言う。
「まだ足りねえのかよ」
そんなことはない。永井英語ゼミナールの勤務待遇はなかなかのものだ。それもあって俺はこの塾に講師として籍を置くことに決めたのだ。しかし一番の理由は勤務するにあたっての気安さである。
ことさらに前の職場を貶すつもりはないのだが、大手塾の勤務環境はどうにも肌に合わなかった。
人様の御子を預かるのだから多少の思想統一は当然のことなのかもしれないが、それでも前の職場の『体裁第一』という雰囲気にはほとほと嫌気がさしていた。
子供のためには自身の利を考えるなと言わんばかりの風潮、給料の出ない残業や模擬授業の時間。ドラマで見るような熱血講師を作り出すための社訓。
その一つ一つが俺の双肩に重くのしかかっていた。社会で働くとはそういうことなのだと言われれば納得できなくもない。会社の掲げる理想は正しくまっすぐだった。内部にいる人間の身体がねじ曲がってしまうのではないかというくらいに。
何より我慢ならなかったのは、周りの人間がその雰囲気にいささかの疑念も抱いていないことだった。彼らは俺からすれば比べようもなく立派である。自分の使命と会社の思想を一致させ、子供のため、ひいては会社のためにあくせくと働いていた。まるで洗脳でも受けているのではないかというくらい、同僚たちの思想と理想は互いにぴったりと一致していた。俺だけがそこに馴染めなかった。
「飲みにいかんか。寿秋くん、飯田さん」
妙にかしこまって塾長が言う。俺はそれを二つ返事で了承した。飯田先生も同じだ。
立川はすずらん通りの安居酒屋に三人で入る。バイトの俺と飯田先生がスーツなのに対して、塾長であり一番年長の永井先生がポロシャツに綿パンというラフな格好であるのは少し面白いところだ。
「そんな厳しくしなくてもいいぞ」
運ばれてきたジョッキを煽って永井塾長が言う。何の話だろうと思った俺は軽く首を傾げる。
「綿谷、昔からの知り合いなんだってな」
「ああ」
合点がいった。一時のことではあったが、先日芽依菜に少し辛くあたってしまったのを思い出した。あの時俺たちの傍らには飯田先生と雨宮がいた。思わず隣に座っていた飯田先生を一瞥する。
「だって寿秋先生、ものすごい剣幕だったから。ちょっと綿谷さんがかわいそうだったかなって」
「俺、そんなに怒ってるように見えました?」
「怒ってるっていうか、冷たい感じ」
飯田先生にとってそれなりに驚くような出来事だったのだろう。あの後、永井塾長にその件を喋ったのだと予想した。報告という堅苦しいものではなく、雑談の合間にでもぽろっと。
「寿秋先生の持ち味ってフレンドリーさじゃないですか」
「そんな味を持っている自覚はありませんけど」
枝豆を上品に口に運びながら飯田先生は笑う。講師をやるのに相応しい範囲で茶色く染められた長い髪が揺れる。
「知り合いを受け持つってケースはそうそうあることじゃないけどな。あんまり意識しすぎるとかえって生徒にもよくない」
「いやそう言われても結構難しいっす」
「気の知れた友達と接することが寿秋には難しいのか?」
「気がしれてるからこそ難しいんですよ」
「そりゃ今までと違う態度で接しようとするからだ。気楽にやれ気楽に」
つくねの串を振りながらなげやりに永井塾長は言う。
「寿秋は堅いところがあるからな。公私混同しないようにとかなんとか考えてるんだろうけど、それで塾辞められでもしたら本末転倒だ」
「最近はそれなりに優しくしてるつもりですけど」
自分の発言が、まるで恋人の話をしているかのようなセリフだな、と感じて可笑しくなった。
「めいな、って呼ぶ声が慈しみに溢れてましたもんね」
飯田先生がからかうように言った。思わず顔をしかめる。飯田先生とは、前回の芽依菜の授業ででも顔を合わせた。芽依菜が律儀に時間的余裕をもって塾に顔を出すため、前のコマの授業に遭遇するのだ。
「もちろん、不要に生徒と仲良くなるのはあまり良くないとは俺も思うがな。だけど、もともと仲が良い所を無理矢理気を張ってつんけんする必要はどこにもあるまいよ」
「はあ……頑張ります」
気のない返事をした。なにをどう頑張るのかは自分でもわからない。
「というかやけに綿谷に気をかけますね」
どうしてですか? と問う。
「そりゃ、塾としてはあいつは手放せんからな。入塾テストであいつが何点取ったか知ってるか?」
塾長の口から出た点数に、俺と飯田先生は仰天した。実力差が出やすいようにわざと難しめに作ってあるあのテストでそんな点数を取れるのか。
「いやらしい話だけどな、優秀な生徒は貴重な広告塔だよ。在籍しててくれりゃ、再来年度の初めには『東大早慶合格者何人』って触れ込みの数字が一つ増える」
それはなんともまあ、即物的な話である。
「そんなわけで綿谷のことはお前に任せるからな。頑張ってくれよ」
こんな話を聞かされた後じゃ、少したじろいでしまう。芽依菜は永井英語ゼミナール期待の星だ。
「俺にできますかね。絶対に辞めさせないですむとか、そんな自信はないんですけど」
それを聞いて永井塾長はふふんと鼻で笑う。
「綿谷がうちに初めて電話かけてきたとき、開口一番なんて言ったと思う?」
「なんて言ったんですか?」
永井塾長は、ビールジョッキを干して意味ありげな声色で言う。
「『どうしても寿秋先生の授業を受けたいんですけど、大丈夫でしょうか』だとさ」
◆
心中で散々押し問答をした末に、俺は芽依菜と連絡先を交換することにした。もともと仲が良いのに無理する必要もあるまいという塾長の言葉が決め手になった。
まさか授業中に和気藹々と携帯を取りだすわけにもいかなかったので、俺は授業が終わった後、電話番号とメールアドレスをノートの切れ端に書いて芽依菜に手渡した。教室には俺と芽依菜しかいなかったとは言え、多少の後ろめたさが俺の動作を無愛想なものにさせた。照れがあってそうしてしまったことも否定はしない。
「ふへへ」
そんな俺の態度を気にした様子もなく、芽依菜はしばらくの間、締まりのない笑みを浮かべてそのメモを見つめていた。
「秘密だからな」
「うん」
重々わかってます。と芽依菜は返事をして、メモを可愛らしいデザインのペンケースにしまう。そうしてもう一度、俺のほうを見て微笑んだ。
その時唐突に個別指導室の引き戸がガラリと開いた。
今しがた内緒の連絡先交換をしていた俺と芽依菜は驚いて飛び跳ねる。
「あれ? まだ授業してた?」
心臓が口から出そうになったこちらの気も知らず、呑気なことを言いながら個別指導室に入ってきたのは雨宮逢だった。
「雨宮、まだ帰ってなかったのか」
「自習室にいた」
高い位置でまとめられたポニーテールをぴょんぴょんと揺らしながら雨宮が近づいてくる。
「あ、もしかしてアレ持ってきてくれたの?」
そう言って表情を明るくしたのは芽依菜である。
「そうそう。早く読んで欲しくてさー」
雨宮は鞄から一冊の本を取り出す。随分シンプルな表紙だ。藍色の夜空にまばらな星が浮かんでいる写真。裏表紙は燃えるようなオレンジ色の夕景だ。夕景の下部には逆光で真っ黒になった山々の稜線がはっきりと見える。カバーはない。厚紙の表紙にそのまま写真がプリントされている。これは、本というより……
「文芸誌か?」
「うちの部で発行してるやつね。春季号。なかなか本格的な造りでしょ」
そう言って雨宮は胸を張る。雨宮が文芸部だったとは知らなかった。
言われて見れば文芸誌のクオリティは、なかなかのものだった。少なくとも外側を見る限り、高校生が作ったものとは思えない。中学高校の文芸誌なんて、学校の印刷機で大量印刷された更紙を、部員が手ずからホッチキスで製本したようなものばかりだと思っていた。しかし雨宮の持ってきたそれは、しっかりとした書籍の体裁を整えている。おそらく製本も業者に発注して行っているに違いない。
「寿秋先生もちょっと見てみてよ」
そう言って押し付けられた文芸誌を受け取る。一ページ開くとその右側には目次があり、左側には編集長なる人物によって書かれたまえがきがあった。目次のレイアウトを見る限り、なるほど確かにこれは本格的だ。
目次にある項目によれば、載っているのは小説や詩ばかりではない。コラム、エッセイ、部員たちの対談企画や座談会など、さまざまな趣向が凝らされているのがわかる。実際に存在する商業誌を意識した作りなのだろう。ぱらぱらと全体を捲ってみる。
「芽依菜、これ毎号もらってるのか?」
「ううん、もらってはないです。というかこれも貸してもらうだけなんですけど。逢ちゃんが、すっごくいい小説が今号に載ってるからって……」
「そう!」
それだよ! と言わんばかりに雨宮は拳を握って息巻いた。
「ああ! 寿秋先生にも読んで欲しい! なんで一冊しか持ってこなかったんだろう……」
一息に言って、雨宮はがくんと頭を垂れた。息巻いたり落ち込んだりと忙しいやつだ。
「あ、それならちょっと待ってくれればわたし今ここで読んじゃうよ」
え、と呆気にとられたのは俺と雨宮だった。
「わたし読むの早い方だし、これくらいなら五分もかからないから。『ダイアリー』だっけ?」
俺の手から文芸誌を受け取って、芽依菜はページを開いた。『ダイアリー』というのは件の小説のタイトルらしい。
学生文芸誌に乗っている大体の小説はその一篇が短い。芽依菜なら五分かからないというのも嘘ではないだろう。
活字の世界に没頭し始めた芽依菜を尻目に雨宮は、俺と芽依菜が座っているブースの隣に腰を落ち着ける。
「これってレイアウトとかデザインとかも部員でやってんの?」
高校生離れした創作技術が気になって俺は雨宮に聞く。
「ううん。内容は部員全員で執筆してるけど、本作りは専ら部長の手柄。部長すごいんだよ」
「部長って、編集長?」
「そうそう。フォント選びとかのセンスも良くってさー」
少し中身を覗いた程度だが、雨宮の部の文芸誌がマルチフォント構成になっていることには気づいていた。マルチフォントとは、掲載されている小説や詩にそれぞれ異なるフォントを適用する手法である。世界観や文体にマッチしたフォントを選ぶことで、見栄えの面から作品を支えることができる。書店で売られているような文芸誌にも、マルチフォント構成のものは多い。もちろん、誰にでも出来る技術じゃない。
「扉絵のデザイン案とか部員も考えたりはするけど、それを実際に形にできるのは部長くらいでねー。あたしもなんとか部長の技術を後継したいって思ってるんだけどそれがなかなか」
そう語る雨宮の目は光り輝いていた。自分のお気に入りのおもちゃを大人に見せびらかす子供のようだった。文芸部での活動が本当に楽しいのだろう。
「その、すっごくいい小説を書いたのは部長とはまた別のやつなのか?」
俺の問いに対し、雨宮はわざとらしく眉根を寄せて唸って見せた。なにか含みのある態度だ。
「それがさ、わかんないんだよね」
「わかんない?」
「そ。一体誰がその小説を書いたのかわかんないの」
「部員が書いたんじゃないのか?」
雨宮はゆっくりとかぶりを振った。
「寄稿だったんだ。その原稿」
『ダイアリー』の原稿データは、編集作業も大詰めの時期、印刷所への持ち込みスケジュールを考えると、かなりぎりぎりのタイミングで文芸部に到着したそうだ。コンピューター教室で編集作業に勤しむ部員たちの中に、それを持ち込んだのは部長だった。曰く「クラスの友人が提供してくれた原稿なんだ」と。
「あたしを含めた部員たちはみんな、その原稿を今号に差し込むのに反対だったんだよ。最初はね。部員以外の原稿だからってわけじゃないよ。むしろ寄稿は大歓迎。毎号編集後記のページで募ってるくらいだから。掲載を反対したのは単純に、部誌発行までのスケジュールがきつかったからってだけ。今回は掲載を見送って、次の号でもいいんじゃないかってね」
だが、その寄稿原稿は掲載された。文芸部誌春季号に、ぎりぎりのスケジュールで。
「部員みんな、原稿に目を通して何も言えなくなったよ。そりゃ高校生の書くものだから、プロの作家が書いたものとは比べようもないんだけど、それでもあの小説は魅力的だったなー。粗が目立つからこそ、余計に真に迫ってるっていうかさ。くさい表現をすると、等身大のその人の気持ちがそのまま表現されてるって感じで」
「だったらむしろ、やっぱり余裕をもって万全な状態でそれを掲載するほうがよかったんじゃないのか? 次号にまわされたからって特になにが変わるってわけでもないんだろ?」
「ううん」
俺の言葉を否定して、雨宮は頭を横に振った。
「今号に載るのと次号に載るのでは、全然違う。春季号は今の部長が手掛ける、最後の文芸誌なんだ」
少し憂いを帯びた瞳で雨宮はこう続ける。
「部長の気持ち、みんな分かっちゃったからね。自分が編集を手掛けていられる最後の時間に、あの小説をなんとしてでも掲載したいって思ったんだろね。いやはやお恥ずかしいことに、うちの部員たちはこの一年、寄稿された『ダイアリー』を超える作品を書けてなかったからさ。引退して受験勉強一本になる前に、外装も内容も兼ね備えた最高傑作を作っておきたかったってことなのかな」
つまり今芽依菜が手にしている春季号は、部を引退する部長の遺作というわけだ。部員全員が部長の無理を了承したのは、彼の部への貢献をねぎらう意味もあったのかもしれない。
「めちゃくちゃ大変だったけど完成して良かったよ。部長、教室で原稿データ受け取った後飛んでやってきたみたいでさ。めっちゃ息切らしてんの。これ、今号に載せるから! って」
雨宮は部長とやらを本気で尊敬しているようだった。部長のことを語る声色に、誇らしさが満ち溢れている。
「あたし次期部長だもん」
「そうなのか?」
「うん。だから編集の技術とか、今叩き込まれてる最中だよ。普段は優しいんだけど、そういうときはほんとにスパルタなんだよね、部長。あーあ、あたしの家にもマック欲しいなあ」
そう言ってブースの机にうなだれる雨宮。
「マクドナルド?」
「寿秋先生、わかって言ってるでしょ」
「そりゃまあ。なんだ、編集作業ってウィンドウズじゃできないの?」
「いやできるけどさ。部長がマックユーザーなんだもん。使ってるソフトも操作方法もマック前提なんだよね。だからいまいち技術の引き継ぎがスムーズにいかない」
説明するまでもないが、マックやウィンドウズというのはパソコンのOS名だ。俺はあまり詳しく知らないが、クリエイティブな作業にはマックが向いていると聞いたことがある。
「やれインデザインがどうとかフォトショップがどうとか言われても、もうさっぱりだよ。ウィンドウズ版とマック版で全然操作違うし……引退までに間に合うのかなー。マックが嫌いになりそうだよ。ほとんど編集作業完了して落ち着いてるところに持ち込まれた原稿がこれまたマック制作だったから、余計に」
「OSに罪はないだろ」
「愚痴りたくもなるよー。結局最後にみんなで編集作業するときは学校のウィンドウズ使うしさ。互換性がないものをマックからウィンドウズに取り込んだりするとトラブるし。その修正に追われていっつも締切前にはてんやわんやだよ。今回も部長、それでぎりぎりまであたふたしてたのに、どうしてあそこまでマックにこだわるかなあ」
マックユーザーのマックに対する愛は並々ならぬものがある。きっと部長もそのクチなのだろう。
そうしてしばらく雨宮がぶちぶちと言っているのを聞いていたが、ふと雨宮の反対側から鼻をすするような音が聞こえてきた。そう言えばとっくに五分は経過している。芽依菜はまだ読書中なのだろうか。
「うおっ!」
「えっ! なになに?」
俺の声に反応して、机に突っ伏していた雨宮が身体を起こす。俺の視線の先には芽依菜がいた。目にいっぱいの涙を浮かべていた。
「なんで泣いてんだお前!」
「な、泣いてないっ……」
「いやどう見ても泣いてんだろ!」
ぐすぐす言いながら芽依菜は文芸誌を閉じて、雨宮のほうに差し出した。
「良かったでしょ」
「良かった……一回読んで、他の小説とかコラムも気になって読んじゃって、結局もう一回『ダイアリー』読んだ……」
俺と雨宮が話し込んでいる間にそこまで読書に没頭していたのか。
芽依菜は感じ入りやすいところがある。映画や漫画を見て泣くことなんてしょっちゅうで、時には道端を歩いているときにもふと思い出し感涙することがある。なにかふと目についたものがトリガーとなって、記憶の中の感動シーンに結びついたりするのだそうだ。小学生のときから何も変わっていない。感受性が豊か、と言えば聞こえはいいだろうか。
ハンカチを目に当ててすんすんと鼻を鳴らす雨宮から文芸誌を受け取って、雨宮はそれをぱらぱらと開く。
「わたちゃんならそう言ってくれると思ったよ。やー、いいよね、青春。いろいろ思い出すし、共感しちゃう」
「うぇっ?」
涙声で芽依菜は雨宮に聞く。
「逢ちゃん、そういう経験あるの?」
「おいおい失礼だねキミは。そりゃわたちゃんみたいに沈魚落雁閉月羞花ってわけじゃないけど、あたしにだって恋愛経験の一つや二つはあるんだからね」
雨宮は頬を膨らませておどけるように言った。さすが文芸部、というべきか。なかなか一般には耳慣れない言葉を知っている。
「ちんぎょらくがん……? なにそれお経?」
「魚は水の底に沈んで身を隠し、雁は列を乱して落ちる。月は雲に隠れ、花は恥ずかしがってしぼんでしまう。それくらい美人だってこと」
国語講師らしく説明してやると、芽依菜は首を傾げた。
「ほんとにそういう意味なんですか?」
「ほんとだけど、なんで?」
「だって魚が沈んで雁が落ちて月が隠れて花がしぼむんでしょ? それってもうほとんど、この世の終わりみたいな風景なんじゃ」
それを聞いて俺と雨宮は笑った。
「ま、確かにわたちゃんはこの世を滅ぼすくらい美人かもね」
雨宮が意地悪く言う。
その段になってようやく芽依菜は、恥ずかしそうに頬を染めて俯いた。
「あのさ」
帰り支度を整えていた芽依菜が雨宮の声に振り返る。
「これ、書いた人探せないかな。わたちゃん」
未だに文芸誌のページを繰っていた雨宮がぽつりと言う。なにかを慈しむような、そんな表情だった。本当に『ダイアリー』が好きなのだろう。
「寄稿者は部長の知り合いなんだろ? 部長に名前聞いたりしなかったのか」
「聞いたよ。こんなの書ける人が同じ学校にいるなら、是非知り合いになりたかったし。まあ三年生だろうから、勧誘は難しそうだけど。でも名前は教えてもらえなかったよ。『絶対匿名』を条件に提供してもらった原稿なんだってさ」
そう言って雨宮は苦笑した。
「やっぱ無理かな?」
諦めたように言う雨宮に、芽依菜は沈痛な面持ちで答えた。
「そうだね。難しいと思う……さすがに」
申し訳ないという気持ちが声音に滲んでいた。
「そうだよね。藁山の中から針を探すようなものだもんね。変なこと言ってごめん。『名探偵』のわたちゃんなら、もしかしたらーとか思っちゃった」
はいこれ、と雨宮は俺に文芸誌を渡す。
「ちゃんと読んでね、先生。『ダイアリー』だけでいいからさ」
そう言って雨宮は椅子を立った。芽依菜に近づいたかと思うと、座っている芽依菜の髪をわしゃわしゃと撫でる。慌てたのは芽依菜だ。
「ななな、なになに?」
「んー? なんでもないよー。わたちゃんはほんとにかわいいなあと思って」
「そ、そんなことないって! わ……やめてよもー」
言いつつもされるがままになっている芽依菜を見て、微笑ましくなる。二人は本当に仲がいいのだろう。期待に応えられないと言った芽依菜を、気に病ませないために雨宮はこんな行動をとったのかもしれない。
ブレザーから除くワイシャツの首元には青いリボンが巻かれている。二つのリボンが、じゃれる二人の動きに合わせて揺れていた。
「じゃお先に。またね二人とも」
ひとしきり芽依菜を撫で終わると、雨宮はあっけらかんと個別指導室を出て行った。残された芽依菜に、気になったことを聞いてみる。
「芽依菜、学校で名探偵って呼ばれてんの?」
「あ、小学校のときの友達が同じ学校にいるんですよ。ほらわたし探偵ごっことかして遊んでたじゃないですか。そのときのことを知ってる子がいて、それで」
その時芽依菜の傍らには兄貴がいたはずだ。無意識的にか、芽依菜はそのことに触れはしない。
確かに二人は『少年探偵団ごっこ』なる遊びをやっていた。近所の小学生の家で飼っていた犬が脱走した際、二人はその犬を探し当てることに見事成功した。ただ闇雲に周辺を探したのではなく、目撃情報や犬の習性心理などを考慮に入れてスマートにそれをやってのけたので、二人は一時『名探偵』のあだ名を冠していた。
「懐かしいな」
「そうですね」
俺は亡き兄貴のことを思い出していた。芽依菜も、そうだったのではないかと思う。
◆
未だ段ボール箱の残るワンルームに帰着し、スーツを脱いだ時にはもう二十二時半を過ぎていた。永井英語ゼミナールは立川駅の南口、ほどなくしたところにある。俺の新しい根城であるワンルームはそこから徒歩二十数分、立川駅北口を抜け、そのまま立川通りをしばらく北上すればたどり着く。通勤時間はさほど短縮されていないが、間に公共交通機関を挟まないというだけで心持ちは大分違う。
ネット販売で買った安物のアームチェアに腰かけて、俺は雨宮に貸し出された文芸誌を開いた。文芸誌そのものには『文芸群青』という誌名がつけられている。
件の小説を探そうと目次を開いたとき、反対側のページにかかれているまえがきに目が行った。
『挑戦者であれ。
かのスティーブ・ジョブズは、“Stay hungry, Stay foolish”(貪欲であれ、馬鹿であれ)という言葉を好んで使った。貪欲で、馬鹿だというのはどういうことだろう。それは、「何かを強く追い求めよ」ということだと、私は考える。
そして文芸群青は、最高の文芸誌として、世界を変えていくことを追い求める挑戦者でありたい。』
そのような文句から始まったまえがきは、雄々しくも簡潔に高校文芸誌のあり方を世に問い、商業文芸誌すらも相手に戦わねばならないのだという論を主張する文章に繋がれる。熱意とやる気は若者らしく、大言壮語は高校生らしからぬ前口上は、ノベルスサイズの一ページを埋め尽くしたところで結ばれていた。編集長の名前とともに。
編集長、八雲宗一。
本名なのだろうか? もしかしたらペンネームかもしれない。目次の中に『執筆者紹介』なる項目を見つけたので、そのページを開いてみる。だがいまいち判然としない。八雲宗一は執筆者紹介の筆頭を占めていた。その下には部員のものであろう名前たちが、十近く並んでいた。八雲宗一含め、その名前群が果たして本名なのかペンネームなのか、決定的に判断する材料はない。○○院だの△△衛門だのといった明らかに雅名っぽいものと、そうでないものが入り混じっている。まあ八雲が本名かペンネームかなどどうでもいいか、と思い始めたあたりで偶然にもそれは知れた。奥付けに学年付きで制作に関わった生徒の一覧がまとめられていたのだ。
執筆 Ⅲ 八雲宗一
原村裕樹(ペンネーム 二穂塚真)
竹中 修(ペンネーム 豪堂院典明)
高辺彩夏(ペンネーム ベーコン)
相馬美里
Ⅱ 雨宮 逢
高峰亮真(ペンネーム 宵蔵清衛門)
山口幸助(ペンネーム DomiNo)
北条晶子(ペンネーム ぼにふぁ)
寄稿 匿 名 (ペンネーム 巫山夢)
これによるとどうやら、八雲宗一というのはペンネームでなく本名であるらしい。ペンネーム使用者は本名の下にペンネームを記されている。ペンネームを使わずに本名で制作に携わっている人間にはそれがないということだろう。
雨宮もペンネームを使わず本名で執筆に当たっているのは、尊敬する編集長を倣ってのことだろうかと邪推したが、それはいくら考えても詮無いことだ。俺は再び目次に戻って目的のページを検索した後、いよいよ『ダイアリー』に目を通し始めた。
四月十五日㈰ 曇り後晴れ
もう少し田舎の高校に行ってたらなあと、僕は思う。
ファミレスとかファストフードに入って駄弁るに困ることはないけれど、できることなら川原とかあぜ道とかでのんびりと過ごすほうが、僕の好みだ。あの子とするなら、なおさらそっちのほうがいい。でも田舎の、マクドナルドすらない田舎の高校生には、僕たちの過ごした休日が羨ましく見えるのかな。
少し贅沢を言い過ぎた。なにせ、今日は本当に幸せだった。授業のない休日に、あの子と会うことができたんだから。
前に話したCDを貸したいから、なんて誘い方は今思えば少し不器用だったかもしれない。というか、下手くそだ。二人とも同じ高校に通っているんだから、CDなんていつでも貸せる。我ながら不自然な誘いだ。
でもあの子は首を縦に振ってくれた。その時の彼女の表情といったらもう、その場で抱きしめてしまいたいほどだった。当然、そんなことはできないのだけれど。
明日からまた学校が始まる。あの子と話をすることはできるだろうか。そんなことばかり考えている自分が少し恥ずかしい。
四月二十二日㈰ 晴れ
前回の失敗から僕は何も学べなかった。今回彼女を誘った言葉――先週貸したCD、返して欲しい。今度の日曜とかどう? ――だからなんでわざわざ日曜なんだよ、って話だ。
貸したCDさっさと返せなんて、見ようによっては心の狭い要求にも、笑顔で「いいよ」なんて言ってくれるんだから、僕はもうますますあの子のことばかり考えずにはいられない。
彼女はモテるから、うかうかしてはいられない。と言っても、僕は少し焦り過ぎだろうか。今日会ってるときだって、何度告白してしまおうと思ったか分からない。でもいざってときには、そんな簡単にはできないんだろうな。大体僕にとっては、告白どころか恋をすることだって初めてなのに。
明日学校で話をすることができたら、またCDを貸す提案をしてみよう。一方的過ぎるかな? 気持ち悪いと思われるかもしれない。でも僕はこんな方法でしか、彼女と継続的に接点を持ち続けることができない。
ジャンルは恋愛小説だった。区切りの初めに日付が書かれている。いわゆる日記体小説という形式だ。それでタイトルが『ダイアリー』というわけか。なんとも直球なネーミングである。
文章自体は平易で難解な言い回しも慣用表現もないが、だからといって稚拙な感じはしない。むしろ、高校生の日記として書かれているこの小説の雰囲気にはぴったりだろう。胡散臭い文語体で書かれるよりはよっぽど、感情表現に説得力がある。それが作者の意図なのかどうかは判別のしようはないのだが。
軽妙な文体に引き込まれるようにして、その先を頭に入れていく。日記の日付は四月二十九日、五月六日、五月十三日と続いていく。
『僕』が『彼女』とデートできた休日をピックアップして書かれている小説なのだと、初めは思っていた。しかしどうやらそうではないらしい。四月二十九日と五月六日の間にはゴールデンウィークがある。五月六日の日記によれば、『僕』はゴールデンウィークにも『彼女』と逢瀬を楽しんだらしい。だがその日の日記は本文中にない。逆に五月十三日の日記には、その日、『僕』は『彼女』に会うことができなかったとある。
小説に描かれる日にちの法則性にはすぐに気が付いた。四月十五日の日曜日からちょうど七日置き、日付はすべて一週間おきになっている。この小説に登場する日記の日付はすべて日曜日のものなのだ。
そしてそれに込められた洒落も、じきに察せられた。タイトルの『ダイアリー』――『日記』とはすなわち日曜日を記したもの、というわけだ。直球なネーミングの裏に、些細ではあるが簡素なエスプリが効いていると感じられ、俺はどことなく『ダイアリー』の作者に好感を抱く。雨宮もこんな気持ちだったのだろう。
『僕』と『彼女』の都会的青春は、五月二十日の日曜日に転機を迎える。
五月二十日㈰ 曇りのち雨
すごく可愛い傘だった。パステルの水色と黄緑色が溶け合っていて、不思議な色合いの傘だった。でももしかしたら、彼女の差している傘だからそう見えただけであって、全く別の他人があれを持っていても僕は何も感じなかったかもしれない。
その可愛い傘に僕は入れてもらった。夕方から雨が降るだろうって予報を、実は見ていた。だけど僕は傘を持って行かなかった。出がけに雨は降っていなかったから? 傘を持って歩くのが面倒だから? それもある。でも真の目的とか算段はそんなところにはなくて、要するに僕は、彼女と相合傘ができるかもしれないと思ったのだ。
店から出て雨が降っていた時、僕が傘を持っていないと知れば彼女はきっと、僕を自分の傍らに招いてくれるだろうと、そこまで考えていた。彼女は優しいから、きっとそうするだろうなって。口では「しょうがないなあ」なんて言いながら、「そっちが持ってよね」と僕に傘の柄を差し出しながら。
自分の思っていた通りになったのに、いざ二人で傘に入ろうとなると僕は少し罪悪感を感じた。彼女を騙しているような気分になった。騙しているような、じゃなくて騙してるんだよそれは、と言われれば僕は否定することができないだろう。でもその後ろめたさが僕の決心をより強くした。
改札で彼女と別れるとき、まさに最後のチャンスだというときになって僕はようやく、彼女に告白した。今日、あの告白のときほど都会に生まれたことを呪った瞬間はないと思う。あれが田舎の駅だったら、駅前にはもっと人がいないはずで、そうすればもっと早くに踏ん切りがついていただろうから。
でもそんなことはもうどうでもいいや。今はもう、これが夢であることだけが怖い。それ以外は別にどうだっていいくらい、幸せだ。
僕の告白に彼女がどう反応してなんと言ったか、それはここには書けない。書かない。
僕の記憶の中にだけ、留めておきたいと思う。
物語はここで折り返し地点を回る。
結果から言うならばこの話は、悲恋ものだった。大逆転の結末も、蜃気楼のようにうっすらと見える不確かな救いらしきものもない。『僕』は『彼女』に別れを告げる。抑えきれぬ恋心を、艱難辛苦の末に抑えつけて『僕』は『彼女』を手放す。
別れを告げるのは、それを望む側からとは限らない。『僕』と『彼女』の間に生まれた微妙な軋轢の積み重ねを感じてなお、『僕』は『彼女』と別れたくなかった。ただ、『彼女』がそうではなかっただけだ。
二人の間に描かれている不和を、一口で言い表すことはできない。それが複雑に入り組んだ過程だからというわけではない。むしろそれはごく単純なものから発生し、当たり前に膨らみ、予想外なく落着した。大抵の人間に理解可能な機微の堆積でしかなかった。誰にとっても得心するに易しい感情の揺れ動きを、共通意識のなかにある感覚を、改めて言葉にするという作業はなかなか一筋縄ではいかない。
以下は『ダイアリー』の中にある『僕』の持論を抜粋したものだ。
この子いいな、とかあの人素敵だな、と思う機会は少ないようでいて、思い返せばそれなりの数がある。じゃあその中から、恋愛と呼ぶに相応しい感情はどう決定づけられるのだろうか。
僕が思うにそれは、より多くの愛情だとかそういったものではない。どれだけその人を愛しているかというその多寡で、恋愛とそれ以外をより分けることはできない。ことはもっと単純だと思う。それが恋愛であるかどうかの分岐は、そこに嫉妬があるかどうかだ。
真の愛、とか言い出したら少し恥ずかしいやつみたいになるだろうか。でも他に良い表現が思いつかないのでその言葉を使うことにする。真の愛なんて高尚なものは、正の感情によってよりも、負の感情によって明確に浮き彫りになる――というのが僕の持論だ。
『彼女』はモテるから――『真の愛』に悩む『僕』の気苦労はなかなかのものだった。
二人がどのようにして別れへと向かって行ったのか、これ以上それを事細かに説明していく必要はないと思うので割愛する。
『ダイアリー』を最後まで読み終えて、僕は文芸誌を閉じた。不覚だ。高校生の書く文章に多少なりともセンチな心持ちにさせられてしまった。アームチェアを降りて、そのままベッドに仰向けになる。
『ダイアリー』を書いたという巫山夢なる高校生に思いを馳せる。
巫山夢というペンネームの由来はまず間違いなく、『巫山の夢』に由来しているのだろう。
巫山の夢――中国の戦国時代、楚の懐王が高唐にて遊んだときのことである。高唐の屋敷にて王が昼寝をした際、王の夢に女が現れた。曰く女は、嫁ぐよりも先に死してしまい、ゆえに男を知らぬのだという。死したその霊は巫山というところに祭られているが、懐王が高唐に足を入れたと聞いて、こうして夢に出てきた。どうか私と共に寝ていただけませんか。そう言って女は懐王に希った。
そうして王と巫山の女は夢の中で情を交わした。たった一度きりの情愛だった。
転じて『巫山の夢』とは、男女の仲がこまやかなことを指す。小説の内容に則しているともそうでないとも言えないペンネームだった。
雨宮や芽依菜は、ペンネームのもとになったこの故事成語を知っていただろうか。知らなかったのなら、今度教えてやろうと思った。知っていると知らぬとでは、この『ダイアリー』の見え方もまた変わるに違いない。これも国語の授業の一環だ。
デスクの上に『文芸群青』をうっちゃっておき、俺はシャワーを浴びようと浴室に向かった。
◆
三限目の講義を終え、大学を後にする。
前日に読んだ恋愛短編の後遺症がまだ残っているのか、妙に人恋しい気持ちに煽られて、俺の所属しているサークルの部室に顔を出してみたが運悪く誰もいなかった。返した踵でそのまま、大学と直結しているモノレール駅の改札を通る。
立川北駅で降りて書店に寄り、立川通りを北上する道すがらでふと妙案が浮かんだ。
そうだ、あの店に寄ろう。
まっすぐ帰るのにも微妙な時間帯で、なおかつ今は誰かと会話をしたいという願望が俺を『ロコ』に向かわせた。
個人経営のダイニングカフェである『ロコ』は、立川駅と我が住処を結ぶ立川通りの沿いに所在している。立川駅からまっすぐ北に歩くところ十分、周辺に古びたミシン屋や小さな花屋が並ぶ商店に紛れるようにして、ダークブラウンの木目が印象的なそのダイニングカフェはある。壁やドアと同じ素材で作られている木製の立て看板は『LOKO』という店名を控えめに主張していた。恐らくはハワイで使われる『loco』、つまり『地元』という意味の単語を捩ったものだろう。確か『loco』という言葉自体、英語の『local』という単語が変化したものだったはずだ。
勝手知ったるというほどではないが、それなりに通い詰めたカフェのドアを開くと仄かにコーヒーの香りがする。入口より右手には二人掛けのテーブル席が三つ。左手にはエル字型のバーカウンター席が七つ。ごく小さい店構えだ。店内も外装と同じようにダークブラウンで統一されている。暗くはあるが陰気ではない。色調は渋いが、店自体はそれなりに新しいので清潔感もある。
テーブル席にいる老人には見覚えがある。現在いる唯一の客らしい。ある意味印象的な人物であるが、正直なところあまり関わり合いになりたくはない。話したこともないし、知り合いというわけでもないのでそちらを見ないようにしてカウンター席に着く。
カウンターの中を覗き込むようにすると、一人の男がしゃがみ込んで何事か作業をしているのが見えた。カウンター下の棚にある在庫のチェックでもしているのだろう。
俺が来店したことに気づいていない様子だったので、その頭上から声をかける。
「こんにちは、遼さん」
名を呼ばれた男、井土遼は頭だけで上を向いて挨拶を返した。
「おお、お前か。いらっしゃい」
手を止めて遼さんは立ち上がった。彼は比較的長身で、僕を見下ろすような形になる。ジーンズに白いシャツ、その上から黒いエプロンを腰に巻きつけている姿は、店員としてはラフ過ぎるきらいがあるが、それでもなかなか絵になる。
「大学は」
「もう終わりました。今日は遼さん、閉店までですか」
「いんや、今日は朝から働いてるからな。夜になったら香織ちゃんと交代だ」
香織ちゃん、とは言うが彼女はもう齢五十近い。若くは見えるが、間違っても二十代半ばの遼さんにちゃん付けされるような年齢ではない。
遼さんは店員であって、ロコの店主ではない。店主は志賀香織という女性である。
「この時間にお前が来るのは珍しいな」
「ええ、まあ。なんかどうにも一人でいるのが虚しくなって」
「なんだそりゃ」
「人恋しくなったって感じですかね」
「おいおい気持ち悪いこと言うな。俺にそっちの気はねえぞ。お前が女の格好してるときならともかく」
そう言って遼さんはカウンターに手をついて笑った。
遼さんと香織さんは、俺の女装癖について知っている。女装するようになった経緯などは話していないが、それを趣味としているということについては俺の口から話をした。そのいきさつはこうだ。
俺がロコを知ったのは半年ほど前だ。そして俺が遼さんと知り合ったのがそれよりほんのわずか前。遼さんが自分の働いている場所としてロコを俺に紹介したのだ。
遼さんとの出会いは神奈川県相模原市、某大学病院施設内でのことだった。俺と遼さんがそこに居合わせたのは、医者に掛かるためではなかった。俺と遼さんを含む男性たち数十名は、医療ボランティアと呼ばれるアルバイトのためにそこへ集まっていた。
世の中では治験とも呼ばれるそのボランティアの内容はというと、つまりは製薬過程における人体実験の被検体になるというものだ。アルバイトと言ったのは、その検体になるにあたっていくらかの謝礼金をもらえるからだ。
治験においてその参加者に支払われる金は『負担軽減費』という名称をとる。実験において身体にかかる負担、実験場所へと赴く交通費など、そういったものをフォローするために支払われる金だ。労働の対価として支払われるわけではない。だから医療ボランティアと公称されるのだ。謝礼金の性質上、税も掛からない。
しかし病院や公の意図がどうであろうと、参加者の立場からすればそれは、拘束時間に対して金が支払われるというものでしかなく、結局のところ意識としてはアルバイトをしに行くのとなんら変わりはない。人体実験というダークな響きから想像されるような危険はまず無いし、入院が必要なものならその間の食事は提供されるので食費も浮く。募集にもよるが、払われる負担軽減費は破格なものが多い。当時引っ越し資金を貯めていた俺にとって、治験バイトは体験しておかなければならないものの一つだった。
健康診断の結果は良好、晴れて検体として合格した俺には相模原の病院内部、治験センターにあるベッドの一つを割り当てられた。そして同じ病室、隣のベッドを割り当てられたのが遼さんだった。
「なあお前」
入院初日、病院について説明を受け、院内着に着替えていた俺に隣の男が声をかけてきた。
「さっき説明受けながら同意書みたいなん書いてたときにちらっと見えちまったんだけどさ。お前高幡のあたりに住んでるんだよな」
たまたまちらっと見えちまったんだよ、とばつが悪そうに言いながら男は頭を掻く。別に大まかな住所を覗き見られてしまったくらいでまずいことは何もないので、俺は特に気にもせず肯定の返事をした。
「俺も西東京のあたりに住んでんだ。だからなんだって感じだけどさ、まあ、よろしく頼むよ。俺治験やるのなんて初めてで、若干心細いんだよ」
じゃあなんで応募したんだよと思わないでもなかったが、その男は不躾な割にどこか憎めない雰囲気と表情を持っていたので、角を立てる必要もないかと俺は考えた。
「俺も初めてですよ。西東京のあたりって、具体的にどの辺ですか?」
「立川ってわかる?」
「おお。分かるも何も、ちょっと前までそこでバイトしてましたよ」
「えっ! マジかよ! 俺も今職場立川なんだ」
その後思い出したように俺たちは互いに名乗り合った。それが俺と遼さんの出会いである。俺が前の大手塾を辞め、永井英語ゼミナールで働き始めるまでの、隙間の日々にあった出来事だった。
十日足らずとは言え、四六時中近くにいて寝食を共にしたこともあって、僕と遼さんは随分と仲良くなった。遼さんは大学卒業後、アルバイトで食いつなぎ自由きままに生活しているということだった。フリーターの鑑とでも言うべき奔放な生活を送っているようだったが、今はもう数年、同じカフェで雇われバリスタ兼バーテンダーを務めている。
治験の全日程を終えて一週間かそこらだったろうか、立川の街をそぞろ歩いていると偶然にも、遼さんが口にしていた店名を見かけた。ああ、ここだったのか、と頭に浮かんだときにはすでにもうドアに手をかけていた。
店内にはサラリーマンや杖を傍らに置いた老人、大学生のカップルがいた。みんな一様に静かで落ち着いていた。カップル同士で言葉を交わすその語調もうるさくなく、その空間はゆるりとした空気に包まれていた。
いい雰囲気だな、と綻ぶ気持ちで、俺は端のカウンター席に腰かけようと歩を進めた。カウンターの中にいるのは遼さんではなく、四十手前ほどに見える女性だった。長い髪を後ろで一括りにして背を伸ばす痩せた姿は凛としていて、綺麗だった。それなりに歳である女性が店主だという話は、遼さんから聞いて知っていた。
席に座って奥にちらりと目をやった。そこに見えたものに、俺はぎくりとした。
店の奥には鏡があった。その右手に仕切られた通路の先には手洗いがあるのだろう。小さな洒落た丸鏡に映る自分の姿を見て、俺は自分の失態に気づいた。俺は女装をしていたのである。
思いつきで行動したのがまずかった。店番をしていたのが遼さんでなかったのが唯一の救いである。仮にも知り合いの店に行こうというときに、女の格好をしていてどうする。自分の間抜けさに呆れた。
「いらっしゃいませ」
メニューを差し出しながら、店主は俺に柔らかく笑んだ。時に洗練された魅力的な表情であったが、俺はそれに対してひきつった顔で返す。
「初めての方ですよね? 昼間はメニューが少なくて、すみません。うちは主に夜をメインに店をやってまして」
「ああ、いえ」
焦りからか、女声を出すのに少し苦労した。幸いにも怪しまれた様子はない。
「若い女の子が一人で来てくれるのって、珍しいんです。ちょっと嬉しくなっちゃいます」
「そうなんですか。素敵なお店なのに」
「ありがとうございます。店構えが辛気臭いかなとは思うんですけど」
「いえいえ、落ち着いていて良いと思います。あの、常連さんが多いんですかここは」
「そうですね。お昼は特に」
先ほど俺を見て店主は即座に「初めての方ですよね?」と聞いた。馴染みのない顔がすぐに分かるということは、その逆も然りというわけだ。
困ったことになったな、と思った。若い女のおひとり様が珍しいということは、俺の顔もすでに記憶されてしまったかもしれない。店そのものも感じが良いし、遼さんにも会えなかったのだからまた来店したかったのだが、女装の時の顔を覚えられたとなるとちょっとやりづらい。会話まで交わしてしまった。男の状態で来ればバレないだろうという自信もある反面、万が一バレたらどう身を振ればいいのかと思う気持ちもある。
しかしこの時はまだ、とても「俺は男です。これは女装です」と告白するような気にはなっていなかった。当然、いくらなんでもそんな必要はないと考えたからだ。俺が店主にカミングアウトすることを決心したのは、この後である。
注文したアールグレイを口にしながら店主と会話するうち、俺はトイレに行きたくなった。紅茶の利尿作用にやられたのか、結構な尿意であった。後ろめたいながらも店主との世間話は楽しく弾み「ちょっとトイレに」というのが言えなかった。ようやく話の切れたタイミングを見計らって、俺はトイレに立った。鏡の前に立ち、仕切られた通路を覗いたとき、俺に迷いが生じた。厠は、男性用と女性用に分かれていたのだ。
女だと思われているのだから、さっさと婦人トイレに入って用を足してしまえばよかったのだが、それはどうにも気が引けた。これが別の店だったら躊躇なくそうすることもできただろう。しかしここは知人の働くカフェで、そこを経営する女性も感じがよく、あまつさえ先ほどまでその女性と楽しくおしゃべりしていたのである。その彼女を欺いて女性用トイレに侵入するという不届きをするには、俺の良心は繊細すぎた。
踵を返して、店主に声をかけた。顔を寄せねば聞こえないような小声だったので、何事かと店主は神妙な顔をする。
「あのう」
「はい」
「驚かないでくださいね」
「なんでしょう?」
「わたし、男なんですけど」
驚くな、と言ったがさすがに無理があった。店主は大層驚いた。言葉を失う店主を見て、店を追い出されることすら覚悟した。変態の烙印を押された挙句通報されたりしたらちょっと困るな、と冷や汗をかいた。
「それでですね、トイレ……どっち使ったらいいかなと思って」
いろいろな心配はしたが、しかし聞くことは聞かねばなるまい。すでにこの時、俺の尿意は限界近くまで来ていた。女装癖をカミングアウトしてまでおいて、さらに店内で失禁するわけにはいかない。
真剣そのもので聞く俺に、店主は硬直から解けて、そして大笑した。
◆
店主――香織さんの口から遼さんへとその話が伝わり、二人は俺の女装癖を知るところとなった。失敗談ではあるが、あれがあったからこそ今では気兼ねなくロコに通うことができているので、結果オーライといったところである。
「大学のある日はさすがに女装してませんよ」
「なんか面倒くさそうだよな。そういうの」
「別に。趣味ですし」
「微妙に気になってたんだけど、やっぱり恋愛対象は女なの?」
思わず芽依菜の姿を浮かべてしまった。不覚である。
「当たり前でしょう」
「いやそれが当たり前かどうかの感覚は俺にはねえよ。『趣味:女装』って人間は在野に溢れてるわけじゃねえんだからさ」
俺の女装癖は、別に肉体と精神の乖離に由来しているわけではない。いわゆる性同一性障害と呼ばれるものの性質は、俺の中に欠片もない。
「遼さんはかわいい女の子好きですか」
「好きだが」
「それですよ」
「いやわかんねえよ」
「かわいい女の子が好きだと、自分もかわいい女の子になりたくなるでしょう」
「それマジで特殊な思考プロセスだからなお前。自覚しろよ」
冗談めいた応酬の合間に、俺は出されたアールグレイを啜る。遼さんはカップについた水滴を一つ一つふき取っていた。
その合間で、不意打ち気味に遼さんが俺に向かって言う。
「お前、好きな女でもできたか」
口に含んでいた紅茶を吹き出しそうになる。先ほど苦労して芽依菜に対する空想をかき消したばかりだと言うのに、この男は何を言ってくれちゃっているのか。
「溢すんじゃねえぞ。仕事増えるから」
「すみません……いえ、そうじゃなくてですね。なんでそんなことをいきなり聞きますか」
「お前は小学生男子か。大袈裟に反応しすぎだ。こんなの世間話じゃねえか」
大人の感覚は良くわからない。いや、歳の問題ではないのかもしれない。俺は恋愛経験というものに乏しい。もっと直截的に言うならば、芽依菜以外の人間に恋心を抱いたことがない。つまり現在の俺にとって恋愛とはイコールで芽依菜への感情を指すものであり、個別具体的な例でしか語れないものなのだ。体験例が増えれば、恋愛という言葉は一つのカテゴリを指す意味合いに昇華され、抽象的な感情論理を用いて語られるべきものになるのだろうが、残念ながら俺は今、自分の身に起こっている感情の渦を客観的に眺める術を持たない。恋の話を統計学的に考えることができない。曖昧にできない。すべてが生々しく、具体的で、それゆえに気恥ずかしい。
「いかにもな反応だな」
「いえ、そんなに言うことの程じゃ。昔ちょっと気になってた子に最近再会しただけで」
「なんだよそれ、すげえ青春っぽいじゃん。羨ましい」
「そんなにいいもんじゃないですよ」
「ちょっと惚気てみろよ。幸せを分けろ」
言われて苦笑した。惚気もなにも、俺と芽依菜はそんな間柄にない。薄れてきたとは言え、芽依菜に対する婉曲した劣等感と焦燥感も完全に消え失せたわけではない。好意と嫌悪が前は二対八の割合であったところが、今は七対三くらいになった感じである。
それでも遼さんが話せと迫るので、俺は芽依菜との再会についてを説明した。関係性の後ろめたさからか、自然と声が潜まる。客が少なく暇なのか、遼さんは手を止めて俺の話を静かに聞いていた。
「なんか、思ったより苦労しそうだな」
俺が話し終えて開口一番に、遼さんは言った。
「苦労?」
「もうちょっと甘ったるい話を期待してたんだけどな。ほんとただ『偶然に再会しただけ』って感じだ。お前の話」
そう言われても、と思う。
「苦労ってそういうことですか。苦労もなにも、俺は今積極的に彼女とどうなりたいかなんて考えてるわけじゃないんだし」
「欲がないねえ」
「生徒と講師だって言ってるでしょう。欲があるほうが問題ですよ」
「んー。でもそう考えると、別にお前の例に限らず、塾講師の職場環境ってかなり危うい前提の上になりたってるよな」
「どうしてですか?」
「だって歳も近い人間が、親しくすることを制限されないで長期に渡って一緒にいるんだぜ? そこから恋愛が発生するのは半ば当然のことだろ?」
「歳が近いって言っても、やっぱり子供と大人ですからね」
「その認識が甘いんだよ。お前とその、芽依菜ちゃんだっけ? 何歳差よ」
「三年違いますね」
「十六と十九か。そこに『大人』と『子供』っていう明確な差はあるか?」
「あるんじゃないですか。仮にも俺、社会人として働いてるんですよ」
「ねえよ、阿呆か。お前十六のときと比べてどれだけ精神的に成長したって実感してる?」
考えてみた。十六歳の自分と今の自分を比べてみる。今の俺は、十六歳の俺を『子供』だと言って笑い飛ばせるほどに成長しているだろうか。自信はなかった。
「個人差はあるだろうけどな。俺もねえよ。正直人間って、十五を超えたあたりからは精神的な成長ってそんなにしないんじゃないかと思う。何かしらの経験を経て価値観が変わることはあるだろうし、性格が百八十度真逆のものになることもあるだろう。けどそれはあくまで『変容・変質』であって『成長』じゃない。平行方向に切り替わってるだけなんだよ。垂直方向への伸びじゃあない」
「大人っぽい人、とか子供っぽい人ってのはいるんじゃないですか」
「大人っぽい性格と子供っぽい性格があるだけだよ。単なる性質の違いであって、優劣で語られるべきじゃない。社会という曖昧な空間において、好ましい性質を大人っぽいと呼ぶだけ」
遼さんの言葉にいまいち実感を持てなかった。そんな頭の中は俺の表情を通じて伝わったらしい。
「俺、今年で二十七になるんだけど。お前から見て俺は『大人っぽい』か?」
にやりとして聞いてくる。俺は即答した。
「全然そんなことないっすね」
「正直だなこの野郎。泣かすぞ」
「何の話でしたっけ?」
やや脱線しかけた話題をもとに戻すことにする。
「とにかく、塾講師って危ういよなって話。三歳差くらいで、大人と子供がどうとかって言えねえよ実際。会社勤めの人間が職場恋愛する確率と同じくらいの頻度で、恋愛関係ができあがりそうなもんだが」
「そこはまあ、社会の眼差しが持つ抑止力はすごいね、って話なんじゃないですか」
「かわいそうに。意中の相手と狭い空間に閉じ込められて恋心を抱くな、とはね」
「だから別に、どうなりたいとかでもないんですってば」
「お前はな。向こうはどうかな」
含みを持たせるように遼さんは笑う。そんなの知りませんよ、と俺は返した。
「でも今日はやけに口が回るな、お前。こういう話、嫌いじゃなかったか」
「別に嫌いではありませんでしたけど」
今までは単に、芽依菜に抱いている感情の割合に負のものが多く含まれていたために、そういった話題を口にし辛かっただけだ。それがある程度改善されたとなれば、今度は逆に口が軽くなる。再会によって、風化しかけていた感情が再燃しつつあることも無関係ではない。自らの恋の話を口にするというのは気恥ずかしいながらも、実は結構楽しいことなのだと知った。それに加えて俺の感情を刺激したのはおそらく、あの短編小説だ。
その考えに行き当たったとき、俺は少し遼さんの言葉に納得した。
高校生でも、多少の心得があれば大学生の心を揺らす文章が書ける。あの小説に絶対的な評価価値があるわけではないだろう。あれを好むものがいれば、そうではないものもいるはずだ。だけど少なくとも、俺は好んだ。芽依菜に多少の恋心を抱く俺は、あの文章群を親身になって読むことができた。高校生の書くものだ、と斜めに読むことができなかった。遼さんの言っていることはきっと、そういうことなのだ。
少年と青年に絶対的な差はない。あるのは性質の違いだけ。好むか好まざるかだけ。
そう言えば、俺はあの小説を読むにあたって数度、頭に芽依菜のことが過ぎった。雨宮にもそういう相手がいたのだろうか。そして芽依菜は、どうだっただろう。もしかしたら、兄貴のことを思い出しただろうか。
暗澹たる気持ちに沈みそうな精神を寸でのところで引き戻す。自分の内々に注意が向いていたので、次の瞬間に聞こえてきた怒声には呼吸が止まるかと思った。
「おい! コーヒー!」
潰れた声帯を無理矢理に震わせているようなガラガラ声だった。声の主はテーブル席にいた御老人だった。薄い白髪に黒いウィンドブレーカーのコントラスト、腰こそ曲がっていて猫背だが、それでも大柄な部類に入るだろう。傍らの席には杖が立てかけてある。俺が入店時に見て見ぬ振りを決め込んだ男だ。
何がそんなに面白くないのか、いつ見ても苦虫を目いっぱい噛み潰したような顔をしてコーヒーを飲んでいる。昼間はよくこの店にいるようで、俺が彼の怒号を聞いたのは一度や二度ではない。
「あいよ、じいさん。そんな大声出さなくっても聞こえるよ」
遼さんや香織さんはこの老人の対応には慣れっこといった感じで、彼の不愉快な物言いにはもう何も感じないようだ。遼さんは手際よくブレンドを白磁のカップに注いで、テーブル席に持っていく。
「まあたここのコーヒーは不味いの。薄いわ。白湯でも出しとるんか」
「あんまりカフェイン摂り過ぎるとじいさんの身体によくねえと思ってさ」
「よう言うわい。他の客に出しとるもんと変わらんじゃろ」
「あれ、バレてた?」
これだけ聞くと気の知れた仲ゆえのやりとりにも見えなくないが、老人はこの間にも本当に不機嫌な顔をしている。見ていてあまり気持ちのいい人物ではない。飄々(ひょうひょう)と応対している遼さんの気持ちがよくわからない。
「悪いな」
カウンター内に戻った遼さんは、本人に聞こえているであろうことも気にせず俺に詫びる。その顔には苦笑が浮かんでいる。
「出禁とかにならないんですか」
出来るだけ小さな声でそう訊くが、この静かな店内においてそれが老人に聞かれなかったかは怪しいところだ。
「雀荘じゃねえんだから。それに、客が多いときには自重するよあのじいさん」
「そうなんですか。俺、そういうところ見たことないんですけど」
「お前のことは客として認識してねえのかもな」
俺もそうだもん、と遼さんは笑う。
「せっかく遼さんの暇つぶしになるだろうと思って来てあげてるのに」
「お前が人恋しくなっただけだろうが」
遼さんと小一時間ほど談笑して、俺は店を後にした。その間に、俺と老人以外の客は一人も店を訪れなかった。これでやっていけているのか少し心配になったが、ロコのメイン集客時間帯は酒を提供する夜になってからのことなので、昼間は案外そういうものなのだろう。
「次は件の彼女と一緒に来いよ」と出がけになって遼さんは言った。それは存外早くに現実となる。具体的には、そう言われた日の三日後、芽依菜の学校が終業してからのことだった。
◆
この約束の取り付け方はタイムリーだな、なんてぼんやりと思った。
俺と芽依菜が初めて交わしたメールは『文芸群青』のことについてだった。ただしそれはその内容についてのメールではなく、本そのものの処遇についてのことである。つまり俺が雨宮から借りた『文芸群青』をどう返すか、ということについての話だ。このまま来週の芽依菜の授業に就くまで俺が保管しておいて、その時に芽依菜を通じて返せばよかろうと思っていたのだが、すでに目的の小説を読了したのであればさっさと返して欲しい、というのが雨宮の意思であるらしく、結局俺はその意思に応えるために授業外で芽依菜に会うことになったのだ。
《たいくんさえ良かったら、明日学校終わったあとにわたしが立川まで行くね》
日曜の夜に芽依菜からもらったメールを眺めながら、俺は『ダイアリー』の一節を思い出した。
“前回の失敗から僕は何も学べなかった。今回彼女を誘った言葉――先週貸したCD、返して欲しい。今度の日曜とかどう? ――だからなんでわざわざ日曜なんだよ、って話だ。
貸したCDさっさと返せなんて、見ようによっては心の狭い要求にも、笑顔で「いいよ」なんて言ってくれるんだから、僕はもうますますあの子のことばかり考えずにはいられない”
なるほど。物の貸し借りはデートの約束を取り付けるのに鉄板の常套手段だ。ただ、芽依菜には俺に対する淡い恋心なんてないのだろうけど。
芽依菜との約束の日、俺は律儀にも女装して立川の街に出た。ネズミ色のチュニックにデニムのショートパンツ、濃い紫色のタイツを履いた。首元半ばまでの長さを持ったショートカットのウィッグは、暗い栗色だ。
立川駅のコンコースは地上高より上にあり、大体二階の高さに位置する。コンコースと駅ビルの連絡口にあるセレクトショップの前で俺と芽依菜は待ち合わせた。
人混みの向こうから俺を見つけて近づいてくる芽依菜は制服姿だった。時刻は十六時半。紛うことなく学校帰りだ。日に日に増す温暖な空気を感じてか、上着であるブレザーを脱いで左腕に掛けている。ワイシャツの上から濃紺のニットベストを着たその姿は、いかにも育ちが良いですよといった風である。着崩さずきっちりと締めた喉元のリボンが、実に可愛らしい。
芽依菜が歩を進めるにつれ、その視線がなにやら熱っぽくなっていくのを俺は感じた。彼女の視線の先にいるのは俺だけだ。
「……かわいい」
俺の目の前で立ち止まった芽依菜が第一声に放った言葉がそれだ。かわいい制服をかわいく着たかわいい芽依菜が「かわいい」とうっとり呟く。
「もしかして俺のこと?」
「他に誰がいるの」
どうやら今日の女装は芽依菜の好みにばっちりと合っていたようだ。
「ショートも似合うねえ」
じっくりと俺の全身を見回してそんなことを言う。女の子に女の姿を褒められるのは、とてもむず痒い。その相手が好きな女の子となればなおさらだ。
放っていればいつまでも俺を見つめていそうな芽依菜を引いて、俺はロコを目指した。もともと本を返すだけが目的なのだから、その場で渡して「はい、さようなら」とすればいいだけなのだが、そんな無粋なことはどちらの口からも言い出さない。その空気感がやっぱり少しだけむず痒い。
「どこ行くの?」
「俺の好きなカフェ」
「おすすめ?」
「おすすめ」
二人で『ロコ』に入ると、カウンターの内からうやうやしい「いらっしゃいませ」が放たれた。今日の昼も遼さんが店番だった。
おそらくは俺を寿秋泰慶だと認識していない遼さんに向かって「俺ですよ」と投げかける。すると遼さんは一気に気の抜けた顔になった。
「相変わらず詐欺だな。それで男って」
遼さんはちらりと、俺の後ろに目をやった。そこには芽依菜がいる。
「もしかして、それがあの例の子?」
「ええまあ」
答えながらじろりと遼さんを睨む。余計なことは言わないように。
俺の視線に遼さんは鼻で笑った。はいはいわかってますよ、と。
入口付近のテーブル席に、俺と芽依菜は向かい合って座った。すぐさま遼さんがお冷のグラスと手拭きを持ってくる。
「メニューが少なくて悪いね。うち、夜に酒を出すのが本業みたいなもんでさ」
営業用のスマイルを浮かべた顔で、遼さんは芽依菜に詫びる。非営業用の口調なのは、店内に俺たち以外の客が見えないからだ。
「いえ、紅茶好きですから。素敵なお店ですね」
どっちが店員なのか分からなくなるほどに丁寧な物腰で芽依菜は応える。
俺がアールグレイ、芽依菜はアップルティーを注文した。
「めちゃくちゃ良い子そうじゃん」
本人を目の前にして、遼さんはそんなことを言う。不思議な顔をして芽依菜は訊いた。
「わたしのことご存じなんですか?」
「ああ、うん。泰慶から聞いてた。最近昔馴染みが生徒になったってさ」
「そういうことでしたか」
「しっかりしてるね。顔つきからして賢そうだ」
「わたしなんか全然。付け焼刃にもならない形ばかりで」
「そういう意識があることが肝要だ。俺が高校生のときなんて、本当に頭からっぽだった」
そこで遼さんは俺をちらっと見る。
「そこの男みたいに。いや、今は男じゃないのかもしれんが」
「ひどいな遼さん。俺のどこが頭からっぽだって言うんですか」
「早々に自分から壁際の席に座りやがって。レディファーストで奥側の席に通すくらいはしてやれよ」
「随分フェミニンなことを言うんですね」
「男の嗜みだ」
意外な一面である。
「生憎今の俺は、男というには非常に中途半端な格好ですから」
そう言って肩を竦めると、芽依菜と遼さんは笑い声を上げた。
俺と芽依菜の前に紅茶を置いて、遼さんはカウンター内に戻った。エスプレッソマシーンの内部を洗浄したりしている。そろそろ昼の部は締めるということだ。
芽依菜は小瓶に入った角砂糖を一つ取り出し、自分の紅茶に入れた。ティースプーンをソーサーから左手で取り、右手に持ち替えてからカップの中をかき回す。
「これ、忘れないうちに」
バッグから取り出した『文芸群青』の天地を合わせて芽依菜の前に置く。ティースプーンを置いた芽依菜はそれを手に取る。
「はい、確かに。わたしから逢ちゃんに返しておくね」
受け取った文芸誌をぱらぱらと繰る芽依菜。ページを弄んでいるだけに見える手つきだが、もしかしたらそれで十分内容を追うことができているのかもしれない。
「ふざんむ、って読むのかな」
書面に目を落としながら芽依菜が呟くように言った。『ダイアリー』の著者が称するペンネームのことだ。俺は芽依菜にしようと思っていた話を思い出す。
「それで合ってるんじゃない。芽依菜は、巫山の夢って知ってるか?」
「え、なにそれ? 知らない」
「多分、そのペンネームの元ネタになった故事成語だよ」
俺は巫山の夢について、持ち合わせている知識を芽依菜に話した。芽依菜はそれを興味深そうに、ふんふんと頷きながら聞いていた。じっと目を見るようにされたので、俺は気恥ずかしくて視線を少し下にやる。芽依菜の胸元あたり、リボンの下にはカッターシャツを押し上げる膨らみが二つある。成長したな、と密かに思う。
「巫山の夢って、他にもいろんな言い回しがいっぱいあるんだよな。陽台不帰の雲、とか、巫山の雨とかさ。全部同じ意味なんだけど」
邪な考えを打ち払うようにして、国語雑学が口をつく。いくら女の格好をしていても、心まで女にとはいかない。悲しい性だ。
ふと気づくと、芽依菜の相槌が止まっていた。どうしたんだろうと視線を上げて見やると、彼女はどこか上の空だった。いつのまにか、腕を組んでいる。
「どうした?」
返事はない。仕方ないのでこちらも口を噤む。
しばらくそうしていると、芽依菜は意を決したように俺に向き直って口を開いた。
と思ったら閉じた。どうも何かを言いあぐねているらしかった。
「どうしたんだよ」
「えっと、あのね。ちょっとお願いがあるんだけど」
ようやくといった感じで切り出す。
「たいくん、コスプレに興味ない?」
困り笑顔でわけのわからないことを言いだす芽依菜だった。
◆
俺の『コスプレ』は早速その翌日に決行された。
何を着せられるのかと思ってびくびくしている俺に芽依菜が手渡したのは、学生服だった。しかも女子用のものだ。さらに言うならそれは倖月学園の制服で、正真正銘本物の女子高生服だった。パーティーグッズとして売られているようなまがい物ではない。
倖月学園の校門付近で、手提げの紙袋に入ったそれを芽依菜から受け取る。
「うん、ちゃんと薄化粧で来たね」
俺の顔を見て真剣な顔で芽依菜は頷く。
「あの、芽依菜さん。俺はこれから何をやらされるんでしょうか」
コスプレに興味はないか。昨日俺はその問いに対して「いや、まあまあ」というなんとも曖昧な問いを返したのだが、芽依菜は俺の返答などどちらでもよかったらしい。わけがわからぬというのを前面に押し出した俺の表情を前に芽依菜はこう言ったのだった。
「巫山夢さんに会いたくない?」
五百人を超える倖月学園生、三年生にあたりをつけたところで百八十人超いる人間の中から、匿名の著者を探し当てることなど不可能だと言ったのは、他ならぬ芽依菜である。それがこの手のひら返しは一体どういうことか。そしてなにより、巫山夢を突き止めた報告をするべき相手は俺でなく雨宮だろうと思うのだが、その辺の説明は一切無しに、芽依菜は俺をあっさりと事態に巻き込んでしまった。
「ついてきてくれれば分かるよ。ちょっと説明するのが面倒だから、それは後でもいい?」
一抹の興味に惹かれて芽依菜と待ち合わせた場所に来てみれば、この調子である。ここに突っ込んで訊いてみても「未だ確信はないから話せない」の一点張りなので、特になにも詳細の分からぬまま、俺は芽依菜に協力を申し出る他なかったのである。
「どこか近場でこの制服に着替えたら、またここに来てね。わたし待ってるから」
そう言われて背中を押された。どこか近場で、と言われても。
久しぶりに降り立った国立の地で、着替えに使える場所を探すのは苦労した。ただ単に着替えるだけならそこらの公衆トイレを使えばいいのだが、俺の場合そうはいかない。俺の見てくれは女だが、中身は男であるので、紳士用に入るにも婦人用に入るにも、とかく気を使う。極端に使用者の少ない公衆トイレか、男女の別ないトイレが望ましい。
たまたま近くのコンビニのトイレが後者の条件を満たしていたので、そこで着替えを済ませる。トイレだけ使って退店するのは気が引けるが、かと言って今細かい買い物をする余裕は俺にはない。
クリーニングの袋から出したばかりの予備制服は、それでも芽依菜の匂いがするようだった。ブレザーから、ワイシャツから、リボンから、スカートから――全身を芽依菜に包まれているようでもう大変だった。
落ち着かない心情が顕現するかのようにして、歩調が自然と速くなる。今の状態で、芽依菜とじっくり顔を合わせることには耐えられそうにない。照れくさすぎる。もしかして俺は興奮しているのか。いくらなんでも変態が過ぎるだろう、俺。
着てきた服を畳んで入れた紙袋を揺らしながらも足早に歩いたせいで、大した心の準備もできないままに再び校門の前に帰ってきてしまった。門柱に寄り掛かった芽依菜が俺を見て花が咲いたように笑う。頼むからそんな顔しないでくれ。
「やばい。めちゃくちゃかわいいね」
芽依菜にそんなことを言われて、多少なりとも浮き足立つ自分が情けなくて死にたくなる。好きな女の子に「かわいい」なんて言われたら、立ち直れないという男はたくさんいるだろうに。
「まだまだ女子高生で通るよ」
「いや、女子高生で通ってたことがそもそもないんだけど」
下校途中の学生がわらわらといることもあって、俺の男声は勝手に封印された。今にも彼らに変装がバレて取り押さえられるんじゃないかとひやひやしたが、バレるどころか大勢の学生たちは一人たりとてこちらを一瞥することもない。
「それじゃ、行こっか」
慣れない場所と状況におどおどする俺を勇気づけるようにして、芽依菜は俺の手をとった。そのまま俺を引いて行こうとするが、俺はびっくりし過ぎて固まってしまっている。
「どうしたの?」
「いや、手を繋ぐ必要はないんじゃないかと」
そう言うと芽依菜は赤くなって俯いた。
「な、なんかたいくんかわいかったからつい……。いやなら、離すけど」
こいつは俺をどうしたいのか。殺す気なのか。
女子高生と偽女子高生は、家路に着く帰宅部学生の波に逆らって、倖月学園本棟のエントランスを目指し歩くのだった。
いくらなんでも制服を着たくらいで高校に侵入するというのは、無茶苦茶だろうと思っていたのだが、どうやらそこまで大袈裟に考える必要はなかったらしい。廊下ですれ違う学生たちは予想をはるかに超えて俺と芽依菜に無頓着だった。教諭らしき人物ともすれ違ったが、それは同じことだった。よくよく考えてみれば、自分が逆の立場でも今の俺の状況を看破することなどできそうもない。高等学校という空間において、そこの制服を着ているということは、まず間違いなく当校の生徒であろうという記号的認識はとても根強い。教室に机を一つ増やして潜入し授業を受けているというならともかくとして、ただ単に廊下を歩いているだけなら、そうそう俺の立場が露呈するということもなさそうだった。制服効果恐るべしだ。
「これ、どこに向かってるの?」
繋いだ手はそのままに、少し先を歩く芽依菜は振り返らずに答える。
「文芸部の部長さんのところ」
「それって編集長?」
「うん、そう。やっぱり部長さんに訊くのが一番手っ取り早いみたい」
芽依菜の声は涼しげだが、ちらと盗み見たその表情は少し堅い。
部員である雨宮に対しても口を割らないのだから、部外者である俺たちにおいそれと巫山夢の正体を明かしてくれる道理はないと思うのだが、芽依菜にはなにか策があるのかもしれない。
「部長ってのはどこにいるの?」
「文芸部の部室で待ってもらってるよ。部室って言ってもただの小教室なんだけど」
すでにアポは取っているらしい。周到な準備に感心しつつ、そろそろ握り合っている手が本格的に汗ばんできた。嬉し恥ずかしの時間が早く終わってほしいような、そうでないような。
「ここ」
そんなことを考えている矢先に、芽依菜は俺の手を解放した。本棟三階、廊下の東端、その教室に掲げられているプラスチックのプレートには『第四教室』と書かれている。その教室に設置された引き戸は二つあるが、その間隔はここにくるまでに見た教室のものと比べて半分ほどの距離しかない。入室せずとも、通常の教室よりだいぶ狭いであろうことが見て取れた。
二回ノックをして、芽依菜は引き戸を開けた。教室へと立ち入る芽依菜に俺も続く。
無機質な部屋だった。俺たちが入った側、教室前方にはチョーク後も残らぬ綺麗な黒板。床は廊下と異なり木製だ。その上に規則正しく整列した机たちは一般的な教室を想起させるが、数はその半分しかない。この小教室のキャパシティは約二十人といったところだろうか。ホームルームが行われるような通常教室に溢れている活気が、この教室にはない。生活感と称するべき断片が見られないのだ。部室というのはこんなに無骨なものなのか。
俺たちが入ったドアから見て対角に、男子学生がいた。線が細く、背もそんなに高くはない。俺と同じくらいだろう。
窓に着いて外を見ていた男子学生は、俺たちの来訪に気づき振り返った。黒いメガネフレームの奥から覗く双眸には、穏やかな光が宿っていた。
これは意外だ、と俺は思った。『文芸群青』の初めを飾るまえがき、そこに踊る猛々しい言葉は、いかにも優男といった風体であるこの男の文句なのだ。雨宮の言うような『スパルタ』という言葉も、目の前の彼には似つかわしくないように思えた。
「わざわざお呼び立てして申し訳ございません、八雲先輩。二年C組の綿谷芽依菜です」
礼儀正しく言って、芽依菜が腰を折る。俺もその横でそれに倣った。
「なんだか、えらく慇懃な子だよね、綿谷さんって。僕を呼びに来たときから思ってたんだけど」
可笑しそうに笑って、部長――八雲宗一は俺たちに席を勧めた。
「なにもなくて悪いね。部室って言っても名ばかりでさ。活動は大体別の場所でやることが多いんだ。部誌の体裁を打ち合わせるときとかにしか、ここは使わなくって」
手近な椅子を引きながら、部長は言った。腰を下ろして、机の上で指を組み居住まいを正す。
「で、話ってなにかな。うちの部誌を読んでくれたみたいだけど。感銘して入部を決めてくれたとかだったら嬉しいなあ。でも僕はもうじき引退だから、そういう件なら時期部長の雨宮――雨宮の友達だったよね、綿谷さん――雨宮に言ったほうがいいと思うよ」
こちら二人も椅子を引いて座る。正位置ではなく、椅子の向きを変えて座ることになる。部長に向き合うためだ。部長との距離は机二つ分ほど空いている。芽依菜が座っている席の左隣に、俺も腰を落ち着けた。
「文芸群青、素晴らしいものでした。内容だけでなく、外装も凝っていて。八雲先輩のお力の賜物なんでしょうね」
たおやかな笑みを浮かべて言う芽依菜に対して、部長は照れくさそうに頭を掻く。
「ここに来た用件は『ダイアリー』を書いた人が、一体どなたかなのかを、八雲先輩にお尋ねするためです」
それを聞いた部長は目を細めて眉根を寄せた。困ったような顔をして、申し訳なさそうに言う。
「残念だけど、それについては僕も著者本人から固く口止めをされていてね。うちの部員たちも知りたがってるんだけど、言えないんだ」
難色を示す部長にも怯まず、芽依菜はこう続けた。
「ええ、八雲先輩の立場は重々承知しているつもりです。ですので、ここから先は後輩の戯言と思ってどうかお聞きください」
一体なにかな? と部長は首を傾げる。俺も同じような気持ちだ。
「マックで制作された文書を、ウィンドウズで編集しなおすというのは一手間です。制作ソフトの差異、拡張子の問題、レイアウトのズレなどなどいろいろ原因はあると思います。機種依存文字が使われていれば、それの置き換えも必要です」
俺と雨宮の会話内容を踏まえた言葉だった。読書に没頭しているように見えたが、しっかりと聞いていたのか。
「説明する必要もないと思いますが、一応。機種依存文字、またの名を環境依存文字とも言いますが、それらの文字は読んで字の如く、環境に表示が依存する文字のことです。携帯電話の絵文字だったり、フォント固有の文字だったり、OS固有の文字だったり」
訥々(とつとつ)と語る芽依菜に対して、部長は静かだ。興味深い、とでも言うようにその顔には微笑が浮かんでいる。
「この文芸群青にも、それらは使われています。たとえば奥付けにあるⅡやⅢの文字がそれですね」
言うが早いか芽依菜は、持ってきたスクールバッグから『文芸群青』を取り出し、該当のページを開く。
「これらの文字は、マック上では正しく表示されていても、ウィンドウズにデータを入れると別の文字として表示されたり、酷い時には文字化けしたりします。その修正作業なんかも、印刷所の締切間近では大変なんだそうですね。雨宮さんからの伝え聞きなんですけど」
「なるほど、君の言いたいことが分かってきたよ」
「お察しいただけて助かります。わたしはこう考えています。『ダイアリー』を書いたのは、八雲先輩、あなた自身ですね」
横で口を挟まずに聞いていた俺だったが、これには声をあげずにはいられなかった。
「え、どういうこと? 全然話が見えないんだけど」
驚きで目を丸くする俺に、芽依菜は文芸群青のあるページを開いて俺に見せた。『ダイアリー』の冒頭だ。
「四月十五日㈰……この㈰って文字も、環境依存文字なの。この小説の原稿は、マックで書かれたものだったって逢ちゃん言ってたでしょ? マックで書かれたこの原稿をそのままウィンドウズで表示しても、この㈰って文字は正しく表示されないの」
「それがなんで、部長がその、巫山夢さんだって結論になるの?」
「文字化けしたり、置き換えられたりした文字を正しく原文に修正するには、原文を知っている必要があるからだよ」
「そんなの、部長もマックユーザーなんだから自分のマックで原稿データ確認すればいいだけじゃないの?」
俺の疑問に、芽依菜は首を横に振った。
「もっともだと思うけど、状況的にそれはできないんだよ。この原稿はどういう経緯で文芸部に来たかをってところを考えれば、きっと分かると思う」
『ダイアリー』の原稿が上がったのは、印刷所のスケジュールからしてギリギリのタイミングだったろう。部長はそのデータを手にしたその日に、それを文芸部に持ち込んだに違いない。早くせねば掲載に間に合わない。クラスの友人から、USBメモリだかSDカードだかを受け取る。
「ああ、この学校のパソコンは全部ウィンドウズなんだっけ」
一応この学校の生徒という体でここにいるのに、いかにも部外者然とした発言をしてしまう。部長は訝しげに俺を見た。が、すぐに表情はもとに戻った。危ないところだ。
「ちなみに学校にノートパソコンとかも持ち込めないからね」
「部長がマックでその原稿データを確認するタイミングはなかったってこと?」
芽依菜は頷いて、部長のほうに向きなおる。部長はくつくつと笑いながら言った。
「原文を知ってないと修正作業のしようがない、か。環境依存文字からそういう風にアプローチするなんて面白い推理だけど、穴がないこともないね」
「穴、と言いますと?」
小首を傾げたのは芽依菜だ。
「文字化けを原文に変換しなおしたり、文字の置き換えをもとに戻したりする方法はいくらかある。そういうソフトウェアを使ったりね」
「えっ! そんなのあるんですか?」
知らなかった、と芽依菜は呟く。
「うん。文芸部の部長なんてやってるから、そういうソフトを使うのは日常茶飯事だよ。原文なんて知らなくっても、修正作業は出来る」
便利なものがあるんですね、と芽依菜は呑気に感心している。
「そういうわけだから、綿谷さんの推理は白紙に戻ることになるね。これで終わりかい?」
切り上げようとする部長に、芽依菜は慌てて手を振った。
「あ、いえ、終わりじゃありません」
「え? まだなにか?」
「はい。環境依存文字云々は言わばきっかけみたいなものなので。決定的な話は別にあるんです」
「名探偵だね。話のもったいつけ方が様になってる。君を題材にして、うちの部員にミステリを書かせたいくらいだ」
浮かせかけた腰を再び置いて、部長は芽依菜を促す。
「聞こうか」
そういって指を組みなおす部長の微笑が、何を表しているのかようやく分かった。
彼は、諦めている。
「編集作業は原文を知らなくてもできるかもしれません。でもそれを部員の方たちに勧めることは、その内容を知らずに出来ませんよね」
原稿を受け取って、コンピューター室に飛び込んできたという部長。部屋に入るなり、彼が『ダイアリー』の掲載にあたって熱弁を振るえたのは、その内容を知っていたからだ。コンピューター室では部員たちが作業をしていた。校内で原稿を受け取ったという部長が、部員たちに気づかれずにその内容を確認することはできない。その著者が、部長本人でない限りは。
彼は知人から原稿データを受け取ることなどしていない。それは元から、部長の手の中にあったのだ。
「うん、それを言われれば降参するより他にない。巫山夢は僕だよ」
ずっと言いたかったことをようやく言えたような、すがすがしい顔で部長は白状した。彼に吐かせたことを、特に誇らしげにもせず芽依菜は彼にこう告げた。
「雨宮さんは、巫山夢が誰なのか突き止められないか、とわたしに話しました」
それを聞くと部長は眉根を寄せて、腕を組んだ。
「うーん、それはちょっと困ったな……出来ればこのことは内緒にしておいて欲しいんだけど」
その言葉に芽依菜は「分かってます。ご安心ください」と頷いた。状況がよく飲み込めていないのは俺一人である。困惑する俺を尻目に、芽依菜は部長に向けて提案した。
「余計なお世話かとは思ったのですが」
そう前置きして、芽依菜は続ける。手のひらを上に向けて俺を指す。
「こっちで一人、適任を見繕いました。彼女を偽巫山夢として雨宮さんに紹介するのはいかがでしょう?」
急に矛先を向けられて、俺は慌てる。俺が巫山夢の代役をやるだって? 一体どうしてそんなことに? ふざけているのかと思ったが、芽依菜の横顔は真剣そのものだ。部長に向けて推理を披露しているときよりも、心なしか緊張しているように見える。
「彼女はここの生徒ではありません。それどころか、この姿も変装です。世を忍ぶ仮の姿です。役を終えれば、彼女はぱっと存在しない人間になります」
それを聞いて部長は噴き出した。あははははと、実に可笑しそうに笑っている。
「そいつは良い。怪人二十面相……いや、明智小五郎かな? とにかく、良い助手を連れているんだね、綿谷さんは」
江戸川乱歩の生み出した名探偵である明智小五郎は、作品によっては自ら変装をして周りを欺く。稀代の名探偵に例えられて俺は恐縮した。なんといっても俺は、未だにこの状況を飲み込めていないのだ。名探偵明智小五郎の名は、俺に重すぎる。
「この案に乗るかどうかは、八雲先輩ご自身でお決めになってください。もちろん、無理強いは致しません」
「いや、助かるよ。是非乗ろう。せっかく見立ててくれたんだ」
二つ返事で部長は芽依菜の提案を受け入れた。
芽依菜が携帯電話取り出したのは、雨宮を呼ぶためだろう。その様子を見ながら部長は右手のひらで自らの顔を包むようにした。
「参ったなあ。全部お見通しとは」
そう呟いた声色には、自嘲の色が混ざっていた。
◆
俺たち三人のいる第四教室に入ってきた雨宮の反応は、実に淡白なものだった。探していた『ダイアリー』の著者が見つかったと聞かされたのだから、もっと興奮して根掘り葉掘り聞かれるのではないかと構えていたのだが、雨宮は俺の本名すら聞こうとはしなかった。登場から一貫して、雨宮は心ここにあらずといった様子だった。部長のほうをちらちらと気にしながら、女装した俺に向かって「小説、すごく良かったです」「また書けたら是非寄稿してください」なんて言葉をかけてきただけだ。
「ねえ、あれは結局どういうことだったの?」
校門へと向かう道すがら、横を歩く芽依菜に向かって俺は問いかける。男っぽい口調にならないようにしなければならないのが少しもどかしい。
「んー、何から話そうかな」
口元に手を当てて芽依菜は中空をぼんやりと見る。
「できるだけわかりやすく」
「うん、わかった。でもあくまで想像の域をでないんだけどね」
少し憂いを含んだ声色で、芽依菜は語り始める。
「『ダイアリー』は恐らく、ある程度実体験に基づいて書かれているんだと思う」
「ノンフィクションってこと?」
「全部が全部本当にあったことってわけじゃないかもだけどね。それで、あの小説のモデルになった恋愛の相手方は逢ちゃんね」
「えっ? あの二人付き合ってたの?」
「今はどうだか知らないよ? でも『ダイアリー』の結末から察するに、多分……」
その先を芽依菜は言わなかった。あの物語は、悲恋のままに幕を閉じた。
「それでね、逢ちゃんはあれを部長が書いたものだって最初から気づいてたと思うよ」
「じゃあなんで芽依菜に、これ書いた人探せないかー、なんて訊いたの?」
「信じたくなかったんじゃないかなあ。あれを書いたのが部長だっていうこと」
雨宮の気持ちを推察する。すでに終わってしまった恋愛にそっくりな小説を見たときの、雨宮の気持ちを。その小説は悲恋のままに終わり、救いはなく、未練がましく、それゆえに心を打つ。それを書いたのが、かつての自分の恋人だったとしたら。彼女は『ダイアリー』の著者が、八雲宗一ではないことに一縷の望みをかけようとした。
「あれで良かったのかな、わたし。やっぱり余計なことした気がしてきた」
その言葉に対して俺は何も言えない。俺と言葉を交わしながら、横目で部長を見ていた雨宮のあの目を見たからだ。きっと雨宮は、すべてわかっていた。自分のせいで深く落ち込んだ人間がいることも、それをバネに部長が『ダイアリー』を書いたことも。
「部長は雨宮を非難したかったのかな」
「そうじゃないよ、きっと。思いがけず良い小説が書けちゃったものだから、どうしても文芸誌に載せたかったんじゃないかな。逢ちゃんが言ってた『外装も内容も兼ね備えた最高傑作を』って気持ちは、実際にあったんだと思う」
編集者として、並々ならぬ熱意を持っていた部長。彼の書いたまえがきを思い出す。自分の書いた小説は、かつての恋人を傷つけるかもしれない。しかしそれでもそれが良いものなら、是が非でも掲載したい。天秤は、編集者としての威信に向けて振れた。
「それに、逢ちゃんを非難するつもりならわたしの提案には乗らないよ」
「あれって……つまり、『ダイアリー』を書いたのは俺じゃないですよ、って意思表明なんだよな。部長からの」
「少しでも逢ちゃんの気を軽くしてあげるには、あれしかないと思ったの」
俺と芽依菜、そして八雲宗一の三人は結託して嘘をついたことになる。そしてその嘘は、別にバレようがそうでなかろうがどっちでもよかったのだ。ただ、部長は雨宮を責めるつもりはない、というその事実のみ伝わればよかったのだ。
雨宮にはそのメッセージが届いただろうか。代役として巫山夢を名乗った俺は、倖月学園の制服を着た俺は、この世に存在しない俺だ。その姿が、今後雨宮の目の前に晒されることはない。雨宮を脅かす巫山夢はもう存在しない。
「でもなんで、あの二人が小説のモデルだろうって見当ついたの? 雨宮はともかく、部長とは面識なかったんでしょ?」
「それは、たいくんが教えてくれたみたいなものなんだけど」
「え、私?」
「巫山の夢には、類語がたくさんあるって話」
そういえばロコでそんな話もしたなあと思い出す。
「わたし、自分でも調べてみたんだ。巫山の夢の類語。陽台不帰の雲、巫山の雨、巫山の雲、雲雨巫山――雲と雨っていう字が含まれてるものが多かった」
「あ」
ね? と芽依菜は俺の顔を覗き込んだ。
八"雲"宗一と、"雨"宮逢。
この一致は偶然ではないだろう。
未練たらたらじゃないか、八雲宗一。
芽依菜のことを沈魚落雁閉月羞花と形容した雨宮なら、巫山夢というペンネームが巫山の夢に由来することも、巫山の夢にたくさんの類語があることも知っていた可能性は十分にある。巫山夢という雅名は、こんなにも雄弁に、二人の想い出を主張していたのだ。
自らの想いを綴った小説に、雨宮の名を織り交ぜたペンネームを使った八雲宗一。
雨宮に「お前を責めてはいないよ」というメッセージを送った八雲宗一。
どちらが本当の彼の想いだったのか。
どちらも本当の彼の想いだったのか。
雨と雲の間にあった、暖かい日の記述――それが『ダイアリー』だったのだ。
こんなにも複雑な内情を抱えてなお彼は、それに蓋をした。雨宮を、諦める決断をした。それを大人と呼ぶのかどうか、俺にはよくわからない。遼さんの言葉を思い出す。十五を過ぎたら、精神的な成長はほとんど望めない。裏を返せば、人は皆、それくらいの年齢には精神的に成熟しきっているということだ。
俺に並んで歩くこの少女はどうだろうか。そしてなにより、俺はどうだろうか。
「そう言えば、よく機種依存文字がどうとか知ってたね」
「ああ、うん。わたしもマックユーザーだから。たまに苦労させられるの」
目の前で淡く笑うこの少女が、巫山の女の如く、夢と消えてしまいませんように。
俺としては、そう祈ることしかできなかった。
全四話予定です。
縦書きで執筆したものを貼り付けて投稿しているため、ルビや改行、文字化けなどお見苦しいところがあればご指摘いただけると幸いです。感想や批評も随時受付中です。
あなたのお暇つぶしになれば嬉しいです。