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親の心子知らずか、子の心親知らずか

 よもや同姓同名の人違いだなんてことはあるまい。そう思って、ある程度の心の準備はしてきたつもりだった。だが実際に目の前に現れた綿谷(わたや)芽依菜(めいな)は、俺の想像を超えて大人らしく成長し、より美しくなっていた。三日会わざれば括目(かつもく)してみよ、とはまさにこのことだ。俺と芽依菜の場合は三日どころか、およそ三年も会っていなかったのだ。担当生徒ファイルを見たときに「これはおそらくあの芽依菜なのではなかろうか」と頭を(よぎ)ったくらいでは、この再会の心の準備には、到底不十分だった。

 芽依菜も芽依菜で目を白黒させていた。品よくブレザーの制服を(まと)い、肩口で細い黒髪を揺らしながら口に手を当てている。彼女も今日この場に来るまでに、少なくとも一度くらいは、自分の担当講師の名前を聞いただろう。ならばそのときに思ったはずなのだ。おそらく俺に輪をかけて確信的であったに違いない。「わたしの担当講師の寿秋(すあき)泰慶(たいけい)というのは、まず間違いなく幼なじみであった寿秋泰慶のことだろう」と。寿秋という姓も泰慶という名も、そうそう巷に溢れているわけではない。

 それなのに俺たちは数秒、互いを見つめたまま馬鹿みたいに固まっていた。頭では分かっていても、やはり心のどこかで「そんなまさか」と思っていた。そんなまさか、芽依菜が俺の生徒として入塾してくるなんて。

「あの、確認したいんですが」

 先に口を開いたのは芽依菜の方だった。緊張しているのか、皮のスクールバッグを握る両手に力が入ったように見える。

「たいく――寿秋先生ですか?」

 つい昔の呼び名である『たいくん』が零れそうになったのだろう。芽依菜は恥ずかしそうに、再び口元を抑えた。

「ああ、うん。綿谷芽依菜……だよな?」

 十三歳が十六歳になったからと言って、人相が分からなくなるようなことはもちろんない。答えの分かりきっている問いだが、それでもやはり確認せずにはいられない。

芽依菜は大きく頷いた。

「すごい! すごいね! 本当にたいくんだ! 三年ぶりだよね」

「俺も驚いた……芽依菜、お前高校生になったんだ」

「そりゃ誰だって、この年頃は高校生だよ。花の女子高生だよ」

 自分で「花の」と言ってしまうところが芽依菜らしい。あまりの懐かしさにだらしなく頬が弛みそうになる。その反面、心の片隅で暗い劣等感と焦燥感が頭をもたげるのを感じていた。

「立ち話もなんだし、こっち座ろうか」

 誰もいない個別指導用の教室の一角、手近にあったブースの椅子を引いて、俺は芽依菜を座らせた。その隣、教員用の丸椅子に自分も腰かける。

「東京に戻ってきてたんだな」

「うん、一年前に。わたしだけだけど……あっ――」

 そこで芽依菜は思い出したように口に手を当てた。何かあると口元を覆うようにするのは芽依菜の癖だが、こんなに乱発していただろうか。やはり少し緊張しているのかもしれない。

「あの、えっと……敬語で話したほうがいいですよね? やっぱり」

 今更な気づきだった。

この塾に限らず、一対一の個別指導において、生徒が講師にため口で話すというのはそう珍しいことではない。講師と生徒の距離が近いというのを売りに据える個別指導において、言葉遣いをあれこれうるさく言う塾はあまりない。その旨を伝えると、芽依菜はたおやかに首を振った。

「でも、やっぱりけじめはつけるべきだと思います。ね、寿秋せんせ」

 そう言って芽依菜はいたずらっぽく微笑んだ。その表情に心を惹かれそうになる。それは一二もなくまずいことだ。けじめはつけるべき、と言われたそばからこんな有様でどうするのか。

「まあ敬語でもなんでもいいけどさ。『わたしだけ』ってのはどういうこと?」

「今の高校、学生寮があるんです」

 芽依菜の来ている制服は、国立(くにたち)にある有名進学校のものだった。

「ああ、倖月(こうづき)学園か」

「はい。よく知ってますね」

「いや、仮にも塾講師だから」

 俺が担当している中等部の生徒の中にも、倖月学園を志望校に据えている者はいくらかいる。西東京地区では有数の偏差値を誇る倖月学園へと芽依菜が通っていることに、俺は微塵も疑問を感じなかった。どちらかというと、芽依菜が塾通いを始めようというほうが数倍驚きである。芽依菜が中学一年生の頃から会っていなかったが、それでも芽依菜が高校レベルの学業で苦心する様など、想像もできない。

芽依菜は頭がいい。ものすごく、頭がいい。

「俺の担当ってことは国語だけど……芽依菜国語苦手なのか?」

 言外に「そんなことはないだろう」という響きを含ませている。

「相対的には苦手ですけど……ほら、高二になると受験とか意識しちゃって」

 受験――芽依菜が大学受験に(のぞ)ような年頃になっている。光陰(こういん)矢のごとしだ。

「すでに説明されてるとは思うけど、うち個別指導って言っても、そんなみっちりマンツーマンであれやれこれやれって感じじゃないぞ。担当講師も飾りみたいなもんで。いつでも質問に答えてくれる人みたいな感覚」

言って気づく。少し口が滑ったかもしれない。相手が見知った人間だと思って余計なことを言ってしまった気がする。しかしこれは真実だ。それどころか、塾長自らがこう言って触れ込むので、別にやましい気持ちになる必要もないのだが――

 中等部の生徒には、それなりに指導らしい指導をする。単元スケジュールを作成して、指導要綱なんかもアルバイト講師自身が考える。だが高等部の生徒相手にそうはいかない。

そもそも塾長が、アルバイト講師にそれを求めてはいないのだ。

 この『永井(ながい)英語ゼミナール』の主たる講義は、その名に表わされているように、永井塾長による大学受験対策英語の講義だ。もともとはそれだけのための塾だったと言ってよい。過去、大手予備校にて人気講師を務めていた永井先生は、予備校の運営陣上層部と(いさか)いを起こしてその予備校を去った。予備校から離反してすぐに、自ら立ち上げたのがこの『永井英語ゼミナール』なのだ。

開校当初は個別指導どころか、中等部すら存在していなかった。完全に、大学受験英語に特化した塾だったのだ。にも関わらず、有名講師の名は多くの生徒を集め、『永井英語ゼミナール』は大層繁盛した。

人が多くなれば、さまざまな要望が出てくるのが世の常である。中学生のうちから、永井先生の塾に通わせたい。英語以外も学べるようにして欲しい。その声に答えるようにして、永井塾長は中等部を開設。アルバイト講師を雇い、種々の科目を指導する体制を整えた。

 とは言っても、もともと個人の経営する塾だ。いかにカリスマ性があろうと、大手の学習塾とまったく同じような指導体制が採れるわけではない。あくまでもメインは永井塾長が教鞭をとる英語の集団授業。その他はまあ、おまけ程度のものと言っても差し支えはない。この塾には英語以外の集団授業はない。あとは個別指導のみだ。

「いつでも疑問に答えてくれる環境って貴重だと思いますよ。それにほら、月謝も安い」

「まあサポート内容を考えたらべらぼうな月謝は取れないしな」

 こんなこと言ってたって、他の先生には言わないでくれよと釘を刺しておく。芽依菜は笑ってそれに応えた。

「っていうか英語はとらなくていいのか。それが売りなんだけど」

「んー、英語は特に、心配ないです」

 本当に心配ないのだろう。芽依菜の声は二人だけの教室に良く通った。

「貸切ですね」

「この曜日の今の時間は唯一、永井先生が中等部の英語の授業をやるからな」

 個別指導のメインターゲットである中等部の生徒は、現在その貴重な一コマのために出払っている状態だ。

「高等部の人は?」

「高等部の子はそもそも、ほとんど個別を取らない」

 本格的に大学受験に挑まんとする高校生は、よしんば個別授業を望んだとしてもこの塾を選ぶことはない。大学受験対策をしっかりと想定した個別指導をやっている他の塾に行くだろう。この塾に来ている高校生の九割は、永井英語のみを取る。この塾で個別指導を取っている高校生は珍しく、働き始めて半年の俺でもその全員を把握できるほどに数が少ない。

 ふと芽依菜が椅子ごとぐいと身体を寄せてきた。なにごとかと俺は反射的に身を引く。

「へへ」

 芽依菜は口元を弛ませ、俺の顔を見上げている。

ああ、そうだった――こいつはこういうやつなんだよな。

 他意があるのかないのか判別しがたいような、そんな人懐っこさ。人の心をくすぐるような言動――白状するまでもないが、昔の俺は芽依菜に惚れていた。

「敬語使うとか言うから、何事かと思ったぞ」

「いやけじめをつけるのは大事だって、それは本心ですよ。せんせ」

「いいからちゃんと座れ。狭い」

「再会できたのが嬉しくって」

 芽依菜は元の位置に椅子を引きずり戻して座った。

 芽依菜には、すこしきつめに言っておいたほうがいいかもしれない。

「なあ芽依菜、ここは塾だから」

 それだけ言うと芽依菜はこちらの意図を察したようで神妙に頷く。

殊勝にも、いつの間にか机の上には国語の参考書が開かれていた。

「せんせ、塾終わったらお話できますか?」

「授業中なら、お話はいつでもできるけどな」

「でも、せっかく幼なじみと再会できたんですよ」

 芽依菜が暗に何を言いたいのかはわかる。塾では真面目に生徒と講師でやっていきましょう。でも、それ以外の場所で昔みたいに、仲良くすることはできませんか?

「就業規則の中に服務(ふくむ)規律ってのがあってな」

「服務規律?」

「講師は塾外で生徒との接触はできない」

 当たり前のことだ。特にこのご時世、万が一のことがあった場合、ただ塾を追われるだけでは済まない。

「メールとか電話は?」

「徹底的に禁止」

 驚いた! と芽依菜は目を丸くした。

「こんな感じの個人塾でもそういうのあるんだ!」

 実を言えば、俺はこの永井英語ゼミナールの就業規則をろくに確認してない。だからこの塾にどんな服務規律があるのかも正確に把握していない。今芽依菜に吹いた規律は、俺が前に勤めていた職場のものだった。

「あれ、じゃあこの再会のしかたって、かなり不運なんじゃ」

「まあ、そうかもな」

 ――そんなことはない。芽依菜が俺と親しくしたいのなら、この講師と生徒という関係性はそれなりに幸運なものだったと言える。なぜなら、もし別の場所で俺と芽依菜が再会していたら、俺は芽依菜を拒絶しただろう。だが、仕事として芽依菜の相手をしなくてはならないならそれは致し方のないことだ。俺に芽依菜を拒絶する権利はない。だからこの再会は、芽依菜にとっては紛れもない幸運で、俺にとっては紛れもない不運――アクシデントなのだった。



 俺は短パンを履かない。夏でも足首を出すようなファッションをすることがない。しないというべきかできないというべきなのかは微妙なところだが、とにかく俺は人前に素足を晒すような洋服を着ない。特に寒がりなわけでもない。俺の脚に毛がないからだ。無毛症だとか、そういう体質的な由来があるわけではない。もともと毛深い方ではないが、放っておけば人並みに体毛は生えてくる。俺はそれらをいちいち脱毛している。

 先に言ったことと矛盾すると思われるかもしれないが、俺はスカートを履くことがある。この時ばかりは足首どころか時には膝上までも素足をさらけ出す。タイツを履くこともあるが、夏場などはさすがに生足を出していることのほうが多い。ブラジャーをつけたりもする。さすがに女性ものの下着は履かない。外見にほぼ影響しないからだ。

 つまりはそういうことだ。

 俺が初めて女の格好をしたのは中学三年生の頃だった。ややあって、男であることに嫌気が差した俺はほんの思いつきでそれを実行した。自宅に一人でいるときに、母親の洋服を持ち出して着てみたのだ。当然、見れたものではなかった。成長期の最中にある(いびつ)な身体を、着こなしも良く知らぬ衣服が覆って、とても気持ち悪い具合になった。しかしそこには不思議な昂揚感(こうようかん)があった。いろいろなしがらみや情念に捕らわれている自分とは全く別の、新しく生まれ変わった自分がそこにいる気がした。俺の女装の原体験はそこにある。

 そこから俺は徐々に女装にのめり込んでいった。小遣いの中から少しずつ、女装に必要なものを買い足していった。まず手を出したのはウィッグだった。短髪というほどでもないが特に女性的というわけでもない髪型をどうにかすれば、一気に女の子らしくなるのではないかと考えた。ウィッグというのはあれでなかなか値が張るもので、中学生だった自分には過ぎた代物だったのだが、他の物欲を抑え込みなんとかそれを手に入れることができた。初めてウィッグを(かぶ)って鏡の前に立ったあの時の気持ちを、俺は未だに覚えている。今振り返ってみれば、母の服を着てウィッグを被ったところでそこにいたのはやはり気色の悪い男子中学生だったのだが、しかし当時の俺はえも言えぬ充足感を感じていた。その後大型の量販店で安物の女服を買い、化粧品に手を出すまでにさほどの時間はかからなかった。当時服を買うと言えば、母親が金を出してくれていたように思うが、「チュニックを買いたいから小遣いをくれ」とはどうしても言えなかった。

 情熱の甲斐あってというべきか、高校生になるかならないかというころには、俺の女装はなかなかのものになっていた。幸いにも成長期は早々に終わり、俺の身体は男としては少し小柄なくらいで落ち着いた。身長は170センチに届かず、筋肉もさほどつかず、肩幅は貧相なままだった。普通の男なら嘆くところだが、俺はそのことをすごく喜んだ。綺麗にウィッグを取り付け、雑誌で研究した流行りの着こなしをし、ネットで学んだメイクを施した俺の姿は、自分で言うのもなんだが、そこそこに美人な女の子になっていたと思う。女の子にしては身長も高く、また足も長めだったので、すらりとしたモデル体型に見えたかもしれない。

 その頃にはもう女装姿で外を出歩くこともしていたのだが、その折に立川(たちかわ)の駅前で大学生らしき男に声をかけられたことも何度かある。ただ女声で上手い具合に喋る術はまだ持ち合わせていなかったので、ただ無言で走って逃げることしかできなかったのだが。今はもっとうまくナンパをかわすことだってできる。

 部屋を出る前に姿見でもう一度自分の装いをチェックした。淡い色のトップスにネイビーのロングスカートを合わせている。あまりごてごてした服は好きじゃない。上も下もシンプルにまとまっている。それでいて少し華がある。特にスカートはスウェット生地の肌触りが良く、お気に入りの一着だ。

 廊下に出て一応周りをチェックした。階下の玄関までに人がいる様子はない。父は仕事で間違いないだろうが、今日は母親も出勤の日だっただろうか。いまいち覚えていない。もたもたして母親に出くわしてもつまらないので、さっさと家を出ることにした。

 家を出ると、外はもうすっかり春の陽気だった。ウィッグの毛を揺らす風は緑の匂いがして安らぎを与えてくれる。京王線(けいおうせん)の線路沿いを歩きながら多摩(たま)モノレールの高幡不動(たかはたふどう)駅に向かって歩く。もうすぐこの街を離れてしまうのだと思うと、少し名残惜しい気もする。でもそれ以上に、今はあの家を出たくて仕方がないのだ。

 正直な話、寿秋家の家族仲はあまり上手くいっていない。冷戦状態と言ってもいいかもしれない。事情は簡単ではないのだが、決定的に亀裂が生じたのは俺が高校に上がってすぐの頃だ。俺の女装癖が両親に知られてしまったのだ。非は多分に俺にある、と思う。息子が変態的な行為に没頭していると知れば、両親としては情けなくもなるだろう。羞恥に身悶えするかもしれない。自分たちの息子が女の格好をして往来を出歩いていると、ある日突然知った時の動揺は如何ほどだったろうか。でもだからって、いきなり殴ることはないんじゃないかと思う。

 あれは時期も悪かったのかもしれない。なにせ、兄貴が死んで間もないころだったから。


 多摩モノレールの車窓から下界を見下ろす。この辺は東京って感じがあまりしない。西東京は東京にあって東京に(あら)ずとはよく言ったもので、八王子(はちおうじ)以西ともなると当たり前のように田畑がひしめく風景を目にすることができる。もちろんどの駅で降りるかにもよるけれど。高幡不動に住んでいると、とりあえず何をするにも若者は立川にまで出向くことになる。人によっては多摩センターに行ったり、京王線に乗ったりもするだろうけど、この辺じゃやはり中央線の通っている立川が一番繁華だ。

 立川北駅で降りてまっすぐ駅ビルに向かった。特に欲しいものがあるわけではないが、女装して服や小物を物色するのは大好きな暇つぶしの一つだった。

 下階から順に店を回って春夏ものの洋服を見る。店員が作りつけた笑顔で話しかけてくるが、こちらは微笑んで会釈をしてそれをかわす。特に目についた品がなければ、店員と話をするのは面倒くさい。ハスキーな女声ならばさほど苦労せずとも出せるのだが、やはりむやみやたらに口を開きたいとは思わない。どこからぼろが出るか分かったものではないからだ。

 五階の生活雑貨店で気になるものを見つけた。何処かの広告で見かけて気になっていたリキッドファンデーションだ。手に取ってそれをしげしげと見つめる。今使っているリキッドファンデも相当お気に入りのもので、もう数年は愛用している。そのことを思えば、『今わざわざ冒険する必要もないか』と思い、商品を棚に戻した。一人暮らしを始めるにあたっては諸々の出費が必要になる。出ていくものはしっかりと抑えて、倹約に努めたいところだ。

 引っ越しの日取りが差し迫っていた。高幡不動から立川に移り住むだけなので、距離で考えるならばそう大した引っ越しではない。まだまだ残っている部屋の片づけと荷造りを考えると気は重くなるが、それ以上にやはり一人暮らしは楽しみだった。買い物に行くのにも外食をするのにも便利は良いだろう。バイト先の塾も立川にある。それにもう、あの両親と顔を合わせなくていい。

 この四年間、俺たち家族の間に流れ続けた冷たく重い空気を思い返す。父親が俺の頬を張り飛ばしてからというもの、俺と両親はろくに口も利かなくなった。両親が寵愛(ちょうあい)していた兄貴が事故で死に、残った出来損ないの弟は実は変態で……両親の口から溜息の漏れる音が聞こえてくるようだった。お前の方が死ねばよかったのに、とさえ思われているかもしれない。さすがにそれはないだろうか。でも、そう思われたって仕方がないと俺自身は思う。

 なにせ、兄貴は本当によくできる人だった。月並みな言葉が並ぶが、文武両道、眉目秀麗(びもくしゅうれい)、才色兼備、秀外恵中(しゅうがいけいちゅう)。その性質は自由闊達(かったつ)にして泰然自若(たいぜんじじゃく)。非の打ちどころがないとはまさに兄貴のことだった。俺が兄貴に張り合える学科と言えば国語ぐらいのもので、あとは到底、何一つとしてその才に敵うものはなかった。

 元はと言えば女装を始めたきっかけはそこにあった。歳も近く性別も同じ兄貴と比べられるのは俺にとって耐えがたい苦痛だった。女に生まれればよかったと何度も思った。もし女としてこの世に生を受けていれば、こんな劣等感とは無縁の常を過ごすことができただろうと考えた。俺と兄貴が比べられるのは、俺も兄貴も男だからだ。俺と兄貴が兄弟だからだ、と。

 それでは女装をするようになってそんな気持ちが少しでも安らいだのかと言うと、実際はそうでもなかった。いくら外見を女にしてみたところで、やはり俺は俺であって他の何者にもなれなかった。おまけに俺の身近には、もう一人天才がいて、都合が悪いことにそいつは女の子だったのだ。

 駅ビルの二階から立川駅のコンコースを北に抜け、向かって左、モノレールの駅へと歩いていたら肩を叩かれた。跳ね上がる身体を抑えて振り返ると、その人物の顔は予想以上に近くにあった。俺より少し低いくらいの背丈で、女としては高身長なほうだろう。それでいてその全体は華奢で、細部まで品よく女らしい。こういう女装ができたらな、と思わされる容姿だ。

 そこにいたのは芽依菜だった。

「すみません、ちょっといいですか」

 なんと返事をしようか、いやそもそも返事をしようかどうか迷った。

 どうしてここに芽依菜がいるのだろう。国立に住んでいるというなら、立川に買い物くらいには来るだろうか。しかしどうして声をかけてきたかが分からない。俺の女装を見てすぐに俺だと気付いたのだろうか。それにしては少し他人行儀な気もする。まるで道行く人にちょっと道を尋ねるかのような口ぶりである。

 走って逃げてしまおうかとも思った。だがそれをするのは少しリスキーだ。あからさまに怪しすぎる。万が一走って追いかけられた場合逃げきれる自信がない。今日はヒールのついた靴を履いている。それに確か芽依菜は、結構足が速い。瓜田(かでん)(くつ)を入れるような行為は慎むべきだ。

「中央線に乗るには、東改札と西改札どっちから入ったらいいんでしょうか?」

 なんだ、やっぱりそういう用件か。俺が女装しているなんて気づきもしないよな、普通。

 胸を撫で下ろしかけて――ちょっと待てよと思った。

 立川駅のコンコースには東改札と西改札が向かい合って設置されていて、その距離は目と鼻の先だ。中央線のホームは立川駅のど真ん中にあってそこを目的地にするならば、両改札の違いは、東に向かって構内に入るかそれとも西に向かって構内に入るかというだけのものだ。駅中で買い物をしたいならばまた微妙に入る改札は変わってくるのだが。

 つまり芽依菜の問いは、この辺に住んでいる人間からしたら馬鹿馬鹿しいくらいのものだ。そして芽依菜はもう一年も国立に住んでいるという。立川と一駅しか離れていない国立に住む芽依菜が、わざわざ路傍で人を呼び止めこんな質問をするだろうか。

 少し上目遣いにこちらを見る芽依菜の様子を見て、俺は芽依菜の意図を察した。今の発言は、おどけた芽依菜の茶目っ気に過ぎない。

「すごく、綺麗」

 俺の全身を見回してから芽依菜が口を開いた。もうあたふたしても仕方がない。俺は観念して(はら)を決めた。

「どうしてわかった?」

 芽依菜の言葉に答えず俺は聞く。芽依菜はさも可笑しそうに言った。

「だって、わたしだよ。たいくんがどんな格好してても、わかるよ」

「自分では結構別人になれてると思ってるんだけど」

「うん、すごい。わたしが男だったら声かけてる」

「お前女なのに声かけてんじゃねえか」

 俺はいつも通りの声色で突っ込みを入れた。必要に迫られない限り知り合いに女声を披露するのは、どうにも恥ずかしすぎる。

「なにしてるの?」

「買い物だよ」

「ふうん」

 芽依菜はもう一度、今度は興味深げに俺の全身を見回した。

「女の子の買い物?」

 女の子の買い物、という響きが小恥ずかしくて俺は顔をしかめた。なんと言って返せばいいか逡巡(しゅんじゅん)している間の沈黙を、芽依菜は肯定の意に解した。

「わたしもわたしも!」

 飛び跳ねるように(せわ)しなくはしゃいだ様子で、芽依菜は嬉しそうに言った。こういうところはまだ幼さが残っているな、と思う。

「敬語で話さないのか?」

「だってここ、塾じゃないもん」

 妙にしっかりと区別をつけている芽依菜が可笑しくて、俺は思わず苦笑する。

「ねえどこか入ろうよ。わたし喉渇いてるんだ」

 袖を引くようにして、芽依菜が提案する。俺は先日塾で芽依菜に言ったことを思い出していた。

「それは駄目だって」

「どうして?」

「講師で、生徒だろ」

 自分と芽依菜を順に指さして、(さと)すように言う。

 芽依菜はいかにも面白くないという風に眉を寄せた。

「ふうん」

 それからあの、いたずらっぽい笑みを口に浮かべてささやくようにこう言った。

「まだそんな意地悪言うんだ」

 意地悪もなにも、講師と生徒がプライベートを共に過ごすというのは当たり前にまずい。俺は今の職場をかなり気に入っているので、無用なトラブルは絶対に抱えたくない。

「俺クビになっちゃうよ」

「なっちゃえなっちゃえ! というのは冗談だけど」

 芽依菜はそこで一度、思わせぶりに言葉をためてから続ける。

「こういうことになった以上、わたしには優しくしておいたほうがいいと思うんだけど」

「どういうこと?」

 芽依菜が何を言いたいのか測りかねて、俺は問い返した。

「永井英語ゼミナールって、女装趣味という文化には理解があるところなの?」

 そう聞き返されてようやく、俺は自分が脅しを受けているのだということに気が付いた。

 つまり芽依菜は、こう言っているのだ。わたしに付き合わないと、職場にたいくんが女装して街を出歩く変態だってこと、バラしちゃうよ。

「待て。それだけはやめてくれ」

「いやまあ、今後の対応次第だよね」

 俺は口を(つぐ)んだ。塾講師だって人間だ。塾や生徒に関係のない範囲でなら、そのプライベートでどんなことをしていても構わない。それは前に働いていた学習塾でも、永井英語ゼミナールでも言われていた。しかしだからといって、俺の趣味が職場に知れ渡ることが俺の勤務環境にまったく影響を及ぼさないと断言できるだろうか。

「それに……わたしには気づかれちゃったけど、たいくんのその姿、本当にかわいいと思うよ。知り合いが見たって、この綺麗な女の子がたいくんだなんてまさか思わない、はず。それならプライベートで生徒と一緒にいる危険もそこまでのものじゃないと思わない?」

立場が逆転してしまった。まるで諭すように芽依菜は俺にそんなことを言う。俺に選択肢はなかった。

「……どこに行く?」

 芽依菜の顔がぱっと明るく咲く。

 実に不本意だ。不本意なのだと思う。塾だけでなく、プライベートでまで芽依菜に付き合う理由ができてしまうとは。

俺たちはコンコースを南に抜けて、すずらん通りにあるチェーンのコーヒーショップを目指した。

「ごめんね」

 目を伏せ口元だけで笑みを作った芽依菜が、呟くように言った。それは何に対しての「ごめんね」だったのか、俺にはよくわからなかった。



 十年前芽依菜に声をかけたのは俺と兄貴、どっちだったか。

 当時俺は小学四年生に、兄貴は六年生になったばかりだった。ちょうど今くらいの季節、年度初めの頃だった。高幡不動の住宅地にある公園の一角で、俺たち兄弟と芽依菜は出会った。

 春らしく温和な陽光が降り注ぐ児童公園は、今現在もそうであるようによく整備されていて、近所に住む子供たちの姿があちらそちらにあった。

あの日、俺と兄貴のお気に入りの場所だった簡易アスレチックの天辺にはすでに先客がいた。砂場の近くで立ち話をしている母親集団から離れて、ぽつりと俯いているその姿が印象的だった。なにをしているのかと思えば、一心不乱に膝の上に乗せた児童書のページを()っている。自分たちよりいくつか年下だということは見て取れた。少なくともこの辺りじゃ見かけない顔だった。

 本など家で読んでいればいいものをと思ったが、あれはもしかしたら誰かに声をかけてもらえるかもという期待を胸に、あそこに座っていたのかもしれない。

 何の本を読んでるの? という兄貴の問いに、幼き日の芽依菜は無言で背表紙を見せることで応えた。ショートカットの柔らかそうな髪にくすぐられていた唇は、笑みを浮かべているようにも見えたし、緊張しているようにも見えた。友達が欲しかったのだと思う。

 芽依菜が読んでいたハードカバーは児童書と言っても高学年向けのもので、漢字も出てくるし簡単なことわざも使われているものだった。兄貴はそれを読んだことがあると言ったが、その時の俺はその本の題名すら初見だった。内容を知っているのは、その後内緒でその本を図書室で借りたからだ。

 芽依菜の持っていた本の裏表紙には、図書室の蔵書管理ラベルが貼られていた。そのラベルは俺と兄貴の通う小学校のものだったので、芽依菜が俺たちと同じ小学校に通っているとわかった。

 聞けば彼女は高幡に越してきたばかりで、この春に入学した小学校にまだ馴染めていないのだという。芽依菜は特に内向的な性格をしているわけではないので、放っておいてもそのうち上手く友達を作っていったのだろうが、しかしとにかくこういう経緯があって、俺と兄貴は芽依菜の一番の友達となった。順番的にもそうだったし、仲の良さもそうだった。知的好奇心が旺盛だった芽依菜は、物知りだった兄貴の話す雑学を夢中で聞いていたし、自分が読了した書籍の面白さを大仰な仕種でもって俺に語ってくれた。俺もそれなりに本は好きなつもりだったが、兄貴や芽依菜の読書量には及ぶべくもなかった。

 話の合う友を見つけた芽依菜はとても活き活きとしていて、魅力的だった。すぐに俺は芽依菜を好きになった。黒々として美しい髪も、上を向いた長い睫毛も、すぐに日焼けする白い肌も、そのすべてが幼い俺の胸を高鳴らせた。あの日芽依菜に出会えた幸運に感謝した。それくらい、俺は芽依菜のことが好きだった。



「なんか不思議」

 ハニーカフェオレをちびちびと(すす)りながら、目の前の芽依菜がこぼした。

「なにが?」

「こうしてまた二人でいることが」

「ああ」

 確かに不思議と言えば不思議だ。高校生くらいの頃には、こうして芽依菜と話す機会なんてもう二度と訪れないと思っていた。人生どこでどういう縁があるかわからない。

「しかもたいくんがわたしの先生だってさ」

 くすぐったそうに目を細める芽依菜を見て、俺は自分のなかでなにかが(うごめ)くのを感じた。俺はこうなりたかったんだ。美しい女性の姿になりたい、かわいい格好がしたいとそう考えたとき、俺にとって手本となる女の子は芽依菜だ。

「また会えてよかった」

「そうだな」

 しみじみと言う芽依菜にそう答える俺は、心中で自分の言葉を否定した。

 あれほど焦がれた女の子に再び縁があったというのに、俺にはそれを素直に喜ぶことができない。芽依菜と離れていた数年のうちに何か内心の変化があったというわけではない。幼い頃からずっと感じていたものが、今もなお自分のなかに根を張っていることを確信した。

 芽依菜を想えば想うほど、俺の中に黒くどろりとしたものが広がっていく。劣等感と、焦燥感と、諦念(ていねん)。それが純粋な恋心と混ざり合ってコールタールのような物質になる。汚物をはらんだ俺の身体と心はとても重たい。

「まあたいくんが女の子になっちゃってるとは思わなかったけど」

「言いふらすの、やめてくれよ」

「あれ、信用ないな。わたしそんなことする女に見える?」

 さっきめちゃくちゃ脅してきただろう。

 芽依菜は俺がなぜこんな格好をするようになったのかについて特に触れては来なかった。一朝一夕(いっちょういっせき)の思いつきでとか、罰ゲームでやらされているとか、そんな風に思っている様子もなかった。これが俺にとって日常的で普通のことなのだということを把握した上で、芽依菜はその理由を聞こうとはしなかった。もしかしたら、なんとなく感づいているのかもしれない。俺がどうしてこんな趣味を持つようになったのか。芽依菜はとても勘のいい、鋭い人間だから。

「大学生だよね。こっちの大学に行ったんだ?」

「東京に住んでて、地方の大学に行くって話あんまり聞かないしな」

「大学当てる! 都内以外の大学に行ってるってことはない?」

 俺は頷いた。

 あい分かったと芽依菜も頷いて、腕組みをする。視線は中空をさまよっている。多分どこを見ているというわけでもないのだろう。芽依菜がこの一連の動作をするのを、俺は久しぶりに見た。芽依菜は普段何の気なしに腕を組むということをしない。芽依菜が腕組みをしているときは、芽依菜が何事かについて本気で考えているときだ。

 腕組みは十秒かそこらで解かれた。

 それから芽依菜は多摩モノレール沿いにある大学の名前をいくつか挙げた。見事に、そのうちの一つが俺の通っている大学だ。

「どうしてわかったんだ?」

 あてずっぽうかもしれない。だが西東京には大学がごまんとある。それにしてはスムーズに通っている大学を当てられたので俺は不思議に思い聞いた。

「たまたまだよ」

 あっけらかんと答える芽依菜。

「女の勘?」

「勘っていうのも少し違うけど」

 少しだけ困ったような表情をして、芽依菜は人差し指を立てた。

 すっ、と瞳の色が濃くなる。

「まずさっきわたしがたいくんに声かけたときね、モノレールの駅の方に向かってたでしょ?」

「そうだな」

「今思えばあれ、帰るところだったんだよね。呼び止めちゃってごめんね。それで、女装してるってことは今日は大学お休みなんでしょ?」

 今日は授業のない日だ。芽依菜の言うことは当たっている。確かに女装して大学に出向くわけにはいかない。俺は無言で頷く。

「だからまあ大体、実家暮らしなんだろうなって思ったの。そういう仮定」

 立川からモノレールに乗る目的なんて、言われてみれば自宅に帰るくらいしか思いつかない。高幡からモノレールに乗るのとは話が違う。

「それを踏まえて……ここからは不確かな推定と伝聞がほとんどで、あまり正確な推理じゃないんだけど」

 そう言って芽依菜は中指を、もともと立っていた人差し指の横に並べた。

「どうして立川で塾講師してるんだろって思ったの。塾なら高幡の周辺にも結構あるよね」

 そういえばなんでだっけ、と理由を思い出す前に芽依菜が続けた。

「塾講師の配属先って、生活圏内にならないことが多いらしいって話を聞いたことがあるの」

ああ、そうだった。今の職場は個人塾だから関係ないが、前に働いていた大手の学習塾にはそういう原則が存在した。その関係で、俺は立川校に配属されることになったのだ。

 勤務先の塾と生活圏内が被ると、いろいろ気苦労が多い。基本的に学習塾の生徒はその塾の近辺に住んでいるし、もちろん保護者だってそうだ。勤務外の気の抜けた姿をいつどこで彼らに目撃されるかわからない。そんな環境に講師を置きたくないというのは、塾側としても当然のことだろう。下手をすれば塾の信用問題に関わる事項だ。例外はいくらでもあるが、決して軽んじられるべき原則ではない。

「自宅周りとか、大学までの定期券圏内は避けて配属先が決まるって。この法則が、たいくんに当てはまるかどうかの保証はないけど、もし仮に当てはまるとしたらたいくんの通学定期券圏内に立川は含まれないってことになるから」

その通りだ。俺の持っている定期券は自宅最寄りの高幡不動から南に数駅分までしかない。

「これでほとんど立川を含む中央線沿い、ついでに南武線(なんぶせん)沿いの大学は除外できるの。高幡不動から考えれば後は多摩モノレールか京王線の沿線……だから適当にモノレール沿いの大学の名前を言ったの。これで外れてたら今度は京王線沿いの大学を挙げていくつもりだったよ」

高幡不動から中央線に乗り換えようとするなら、立川駅で乗り換えるより他はない。定期券の圏内に立川駅が含まれていないなら、俺の通っている大学は中央線の沿線には存在しないという道理だ。立川は南武線へのターミナルにもなっているので、同時に南武線沿線の大学に通っているという線も消える。

言い終わると、芽依菜は立てていた指と共に右手を下ろした。なんのことはないと、再びカフェオレに取り掛かる。

 俺は素直に感心した。芽依菜の推理そのものに驚嘆(きょうたん)したというより、あの一瞬でそれだけの理屈を組み立てることができる芽依菜の頭の回転に舌を巻いた。

「さすが」

 思わず(うめ)いたのだが、芽依菜は静かに首を振った。

「いや当たったのはほんとたまたま。理屈でできたのは、中央線沿いの大学群を除外することくらいだし、そもそもたいくんがバイクとか車通学だったらもう定期とかなんの関係もないし」

 照れくさそうに芽依菜は謙遜してみせる。その表情は(よわい)十六の女の子にとても相応しいものだった。

「考えるときに腕組むの、変わってないんだな」

 花も恥じらう女の子には少し不似合いな動作をからかうように言った。芽依菜は顔をしかめる。

「わたし、そんなことしてた?」

 どうやら無意識の行動らしい。

「でも実家暮らしも今月中には終わるよ」

「えっ!」

 なんとはなしの世間話感覚で口にした言葉だったのだが、芽依菜の反応は予想を上回って過剰だった。

 ことさらに驚いた様子で芽依菜はストローから口を離す。

「引っ越すの? どこに? どうして?」

「立川にだよ。まあ、一人暮らしがしたくなって」

「男の子はそういうものなの?」

「そういうものなんだよ。家族と暮らしてると嫌なこととか出てくるだろ」

 予想以上に芽依菜が驚いているので、余計なことを口走ってしまったような気分になる。

「でも、あんなに家族仲良かったのに」

 ひやり、と心臓が冷えた。俺は今どういう表情をしているだろう。なんて言って、芽依菜に取り繕えばいいだろう。

 そうか。考えてみれば芽依菜は俺の家族に何が起こったのかを知らない。芽依菜の知っている寿秋家は、四年前までの寿秋家だ。そこでぱったりと時は途絶えてしまっている。四年前に兄貴が死んで、それ以来芽依菜にはほとんど会わなくなって、そして三年前に芽依菜は家族と共に東京を出て行ってしまった。

 芽依菜のまっすぐな視線に晒されているなかで、俺は嘘をつくことができなかった。なにも取り繕うことができなかった。芽依菜に嘘をつきたくない、なんて高尚な誠実さがあったわけではない。俺は怯えたのだ。

「今は、仲良くないよ――てか、悪い」

 嘘をついたって、そんなの芽依菜は見通すに決まってる。俺は嘘をつくことができなかった。芽依菜に、俺は怯えたのだ。

 そうして芽依菜に聞かれるまま、俺は自らの家内に生じた不和を、ぽつりぽつりと告白し始めた。



 すべての始まりは兄貴の死だった。

 兄貴は一人旅に出かけたその先で、崖から転落して死んだ。場所は山梨、野生の桜に彩られた絶景が広がる山渓で、一人孤独に死んでしまった。そもそもそこはあまり車も通らない寂しい所で、発見者がすぐに現れただけでも半ば奇跡に近いことだった。山中で行方不明扱いになって、散々捜索に手がかけられた上に死体で発見、という具合にならなかっただけまだマシだったかもしれない。

 兄貴が死体となって帰ってきて、俺の両親は壊れてしまった。人として、人間として壊れてしまった。そういう風に見えた。実際彼らは二ヶ月ほどかけて徐々に立ち直っていったのだが、その最中(さなか)にいたときの俺はもう、いろいろなことを諦めてしまっていた。父親はもう二度と俺の目を見ないだろうし、母親はもう二度と俺に食事を作ってくれないだろうな、ということをぼんやりと考えていた。

 もちろん俺も悲しんだ。これ以上泣けないのではないかと思うくらいに泣いた。脱水症状で頭が割れるように痛くなったが、それでも涙は止まらなかった。しかしそれを上回って俺を支配した感情があった。両親に対する不気味な恐怖だ。

 居間のソファに沈み込んで何もせず、両親揃っているのに一言も発さず、二日も三日も動かない二人を見て俺は震えた。人間の狂気に触れたと言えば、あれ以上の瞬間はなかっただろう。狂気とは激情の渦の中にあるのではない、コンクリートに囲まれた暗い部屋の中で延々と自らの髪の毛を抜き口に入れるような、そんな気味の悪いものこそが真の狂気足りうるのだということを俺は知った。

 人として動かない、動けない両親を尻目にして俺は自分を奮い立たせた。通夜や告別式の手配も、実質的に俺がやった。あちこち折れて凄惨な姿になった兄貴の死体を焼くことを、両親はこの上なく惜しんだ。その様子を見て俺は、少しずつ冷静さを取り戻していった。悲しいくらいに、冷静になっていった。

 光のない目、ほとんど聞こえないほどの浅い息。気分を紛らわせようとつけたテレビのスイッチも無言で切られる。それでも意地になって電源を入れリモコンを抱えれば、今度はコンセントを抜かれる。何も言わず、こっちを一瞥(いちべつ)もせず。

 そんな自宅での空気に耐えかねて、俺は家を飛び出した。女の格好をして家を出た。兄貴が死んでから一ヶ月と少しが経ったくらいの日だった。兄貴が死んで以来にした、初めての女装だった。皮肉にもその日の女装は、それまでにないくらいに上出来だった。

 あの家にいたくなかった。余所(よそ)の家の子になりたかった。自分が自分じゃなかったら、兄貴の弟じゃなかったらどんなにいいだろう。

 少ない小遣いでモノレールに乗った。行先はどこでもよかった。上北台(かみきただい)行なのか、多摩センター行なのか、自分がどっちの方面に向かうモノレールに乗ったのかすらわからなかった。ふと顔を上げると多摩動物公園駅(たまどうぶつこうえんえき)についていた。なんとなく、そこで降りることにした。

 夕方の多摩動物公園前には、たくさんの人がいた。そのほとんどが家族連れだった。みんな一様に幸せそうな顔をしていた。俺がただ一人不幸でいる中で、父親も母親も、子供たちも、みんな笑っていた。寿秋家も何年か前は、この素敵な光景を形成する一つの家族だったのだということを思い出すと、もう涙が止まらなかった。蟻も、象も、カメレオンも、グッズコーナーのかわいくない猿のぬいぐるみも、銀色の大きなバッタのオブジェクトももうみんな消えてしまえばいい。涙が止まらなかった。疲れて眠る帰りのモノレールも、半分飲みかけたアクエリアスのペットボトルも、まどろむ子供の手のひらを包む母親の手ももう、皆まとめて烏有(うゆう)に帰せばいいのに。涙が止まらなかった。せっかくうまく出来たメイクも全部、台無しになった。

 人目につかないように隠れて泣いているうちにふと、芽依菜に会いたくなった。芽依菜と会えばこのやり場のない気持ちも少しはおさまるのではないかと思った。でもすぐにそんな考えはうち消えた。芽依菜もひどく悲しんでいるだろう。兄貴の死を端的に伝えて背を向けて以来、芽依菜とは会っていなかった。あの時俺の背中の後ろで、芽依菜はどんな顔をしていただろう。知るのが怖かった。今芽依菜はどんな顔をしているだろう。知りたくもなかった。もしかしたらうちの両親のような状態になってしまっているかもしれない。芽依菜はきっと俺よりも、兄貴の死を嘆いているだろう。

 その頃にはさすがに気づいていた。芽依菜が兄貴を想っていたことを。だから、顔を合わせるのが怖かった。両親のように壊れていなくても、兄貴を想って泣く芽依菜を見るのは辛いことだった。芽依菜のことを思い出すと、より一層の涙が溢れた。その涙は、さっきまでの涙と少し違うものだということを、俺は良くわかっていた。


 ひとしきり泣きつくして、駅のトイレで化粧を直した。高幡に帰り着いて玄関を開けたときの俺は完全に油断していた。両親はともに未だ居間のソファで壊れているままだろうと思っていたのだ。玄関から伸びる廊下に、父がいた。あまりに自然に出くわしたので、俺はそれが夢であるかのような錯覚を受けた。あ、居間から出てきたんだ――そんな間抜けな言葉が脳裏を過ぎった。

 我に返ったのは数瞬後のことである。俺は女の格好をしていた。

 無感動な視線で俺の帰宅を見つめていた父親の顔の筋肉が動いた。みるみるうちにその形相は鬼のものとなっていく。鬼と違うところと言えば、目尻に涙が浮かんでいたところぐらいだろうか。

 ずんずんと大股に差し迫ってくる父を前にして、俺は動くことができなかった。こんなに父はでかかっただろうか。俺よりふたまわりも大きな手でぐいと胸倉を掴まれた。ブラウスのボタンが引きちぎれた。土足のまま玄関を超えて廊下のほうに引き上げられる。

 次に気づいた時には再び玄関側にいた。散らばった靴とともに転がっている俺は呆然としていた。左頬に鈍痛があってようやく、自分は殴られたのだと気付いた。

――慶秀(けいしゅう)が死んだってときに、お前はふざけてるのか!

 父親の怒号は遠くから響いてくるようだった。口の中に血の味が広がっていく。どうも容赦なく本気で殴られたらしかった。

 父は俺を怒鳴りつけた後、肩で息をしながら、伏した俺を睨んでいたが、やがて居間のほうへ取って返していった。

 ふざけてねえよ、と俺は呻いた。

ふざけてない。兄貴が死んだことがそんなに悲しいか。悲しいんだろう。俺もそうだ。でもあんたたちの息子はまだここにいるんだよ。そんな、もうすべて失った、みたいな顔するんじゃねえよ。しないでくれよ。確かに俺は兄貴より出来はよくないけどさ。定期試験で上位四分の一に入ったこともないけどさ。マラソン大会も大体真ん中のほうだしさ。近所のおばさんに「うちの子にも爪の垢を煎じて飲ませてやりたいわ」なんて言われないけどさ。兄貴みたいになんでもはできないけどさ。兄貴みたいに芽依菜に好きになってもらえなかったけどさ。

 俺は、ここにいていいんだろうか。

 俺じゃ、駄目なんだろうか。

 たまらなくなって階段を昇った。左頬が死ぬほど痛い。虫歯なんてしたことないが、なったらこんな感じなんだろうなと思った。痛いけど、手を当てるともっと痛いから触ることもできなかった。自室に入ってベッドに倒れ込む。もう涙は出なくなっていた。



「そりゃキレるよな。状況が状況だもん」

 感傷的な思い出を反芻(はんすう)しながら、俺の芽依菜への語り口は実に淡々としたものだったと思う。なにが起こって誰がどう言った。だから俺はこう返した。あれはちょっと失敗だったかな、とか、俺って馬鹿だよな、とかそんな軽口を挟みながら、芽依菜の知らない状況をあくまで客観的に説明していく。芽依菜が兄貴を好いていたことや、俺が芽依菜に会いたくなったことなんてこの場で言う必要はない。思い出は思い出だ。

 俺が言葉を切ると、それまで一切口を挟まなかった芽依菜は俺の手元を見ていた視線を上げた。

「続きは?」

 芽依菜の表情は複雑だ。寂しそうにも見えるし、何も感じていないようにも見える。要するに、何を考えているのかよくわからない。

 あるよ、と芽依菜の言葉に頷いて俺は語りを続ける。



 兄貴が死んで二年と少し、芽依菜が引っ越して行って一年と三か月、俺が高校三年生になった年の初夏の出来事だった。

 ある夜自室で一人受験勉強をしていたところ、なにやら両親の寝室から大きな声が聞こえてきた。声は二人分あって、すぐにそれが両親のものであると判別がついた。何事か言い争っているようにも聞こえるが、内容は判然としない。俺は暗い気分になった。もしかしたら俺のことについて言い争っているのかもしれない、と。

 父に殴られても、俺は女装をやめはしなかった。やめることができなかった。両親に見つからないようにこれまで以上に細心の注意を払うようになっていたのだが、それでも母親とばったりと廊下で出くわしてしまうことも幾度かあった。そんなとき決まって母は狼狽(うろた)える。足の毛を剃ってスカートを履いた息子に、なんという言葉をかけるべきなのかわからなかったからだろう。俺は別に何と言って欲しいわけでもなかった。ただ見なかったふりをしてくれるのが一番ありがたいと思っていた。それでも母親が何事かを口にしようとする様子を見て、俺は足早に母の前から去るのだった。

 一際大きな声が寝室から響いてきた。父の声だ。


――もっとうまくやってくれよ!


 胸がぎゅうとなった。聞き取れたのはただ一言、その言葉だけだったが、俺は父親が何を主張しているのかが手に取るように分かった。


 もっと、泰慶をうまく育ててくれよ。

 できのいい兄みたいになれるように、弟のほうもうまく扱ってくれよ。


 育児失敗。失敗作。そんな言葉が頭に浮かんだ。怒りとかを通り越してもはや可笑しくなってくる。まるで少年漫画かなにかに出てきそうなシチュエーションだ。漫画やアニメならこんなとき、なんて反応するだろう。やっぱり「僕は失敗作じゃない!」と叫んで出ていくのが通例だろうか。

 もう勝手にしてくれ。なんとでも言ってくれ。俺は兄貴みたいにはなれない。ばっちり女装して街に出、馬鹿な男たちの視線を惹いてストレス発散しているような変態だ。そういう適度な遊びさえできるなら、それで満足だ。


 だがそんなささやかな趣味すら脅かす出来事が起こった。数か月後のことである。

 学校に残り自習していた上、夕食を外で済ませて来たので帰りが遅くなった。頭はすっかりと疲れていて、もうさっさと寝てしまいたかった。帰宅して靴を脱ぎ、居間の前を通り過ぎてまっすぐと浴室に向かう。しかしそこには先客がいた。

 洗面所と一体になった脱衣所のドアには簡易ロックが掛かっていた。いち早く入浴を済ませてしまいたいというときに限って、これだ。いつもならこんな時間に入浴する人たちじゃないのにな、と思いながら、諦めて二階の自室へと上がる。

 自室のドアを開けたとき、信じられない光景が目に飛び込んできた。姿見の前に母親がいたのだ。

 姿見は部屋の入口から見て向かって正面に設置している。姿見の前に膝を着いている母親が、こちらに背を向けて鏡台の下に手を入れていた。

 初めは母が何をしているのかわからなかった。もうかなり長いこと母親は俺の部屋に入らなかったので、そこに母がいることそれ自体にとても驚いた。俺が何も言えずそこに(たたず)んでいると、母親がふいとこちらを見返った。そして俺の顔を見て、しまった! というような表情になった。

 鏡台の下、そこにはバスケットに入れた数々の化粧品を収めていたはずだ。その考えに行き当たったのは、母親の(ゆが)んだ顔を見てすぐのことだった。母親は漁っていたバスケットから手を引っ込めて、取り繕うように言った。

「おかえりなさい」

 蚊の鳴くような弱々しい声だった。母の背中は細く頼りないものに見えた。正座した母の膝の傍らに、ビニール袋があった。近所のドラッグストアで買い物をしたときにもらえる店名の入った半透明の袋だ。子供の頃に母から「捨てないでね」と口うるさく言われたあのビニール袋だ。なんでも、半透明のビニール袋はゴミ出しに使えるからだとかなんとか。そして母の足元の袋にはすでに何か入っている。俺は良く目を凝らして、それが何であるのか確かめようとした。

 それはリキッドファンデーションだった。今もなお愛用している、俺のお気に入りのものだ。

「でていけよ!」

 俺は激昂(げっこう)した。一体自分の何処からこんな大きな声が出るのかとびっくりした。それくらい俺は憤慨していた。

 父と母は、俺から女装を奪おうとしている。その事実が急に現実味を伴って俺にのしかかってきた。もっとうまくやってくれよ、と父は母に言った。うまくやるとはなんなのか。俺に女装をやめさせることか。やめてくれ。もう放っておいてくれよ。

 俺の大声に飛び上がった母は、いそいそと立ち上がり俺の脇を抜けて部屋を出て行った。その手にはゴミ袋として使えるドラッグストアのプラスチックバッグがあった。

 母親が出て行った後、俺は鏡台に飛びついてバスケットの中身を確認した。二回三回と数えなおして、そこから無くなったものはないということを確認できた。母は出がけにビニール袋から化粧品を置いていったのだろうか。とにかく、失われたものがないと分かって俺はほっと一息をついた。

 それから俺は部屋を見回してみた。何か大きな変化がある様子はない。ただかなり前から、誰かが勝手に俺の部屋に入っているのではないかという疑念を抱くことはあった。部屋の電気がつきっぱなしになっていたり、微妙に化粧品の位置が変わっていたりというささいな痕跡が俺に不安を抱かせた。その度に、そんなまさか、と頭を振って忘れていたが、この時俺は考えを改めた。両親がこの部屋に勝手に立ち入っている。服を捨て、ウィッグを捨て、化粧品を捨て、俺に女装を辞めさせようとしている。

 させるものか。俺は固く決心した。

 大学生になったらバイトして金を貯めて、この家を出て行ってやる。

 あんな親共とはもう、一緒に住んでいられない。



 その決心の時から一年半が過ぎ、やっとの思いで十分な貯金を作ることができた。今月中には完全に引っ越しを終えることができるだろう。春休み中にすべてが完了しないのは少し面倒なところだったが、金銭的な都合と不動産仲介業者との手続きの関係で、入居が少し遅れてしまったのは仕方がないことだった。

 俺の話はこれで終わりだ。にも関わらず芽依菜は依然として静かだった。俺の顔を見ているようで、きっと彼女の視線対象はこの世のどこにも存在しないのだろう。

「芽依菜?」

「…………」

「おい」

「ふぁい」

 生返事もいい所だった。

「具合でも悪いのか?」

「ん? ううん、そんなことないよ」

 二、三言葉をやりとりするうちに、自然と芽依菜は通常を取り戻した。「大変だったね」と芽依菜はそれだけ言って、もう特に俺の話には触れなかった。俺の方も特に何か慰めを期待していたわけではないので、その話はそれで切り上げた。

俺はむしろほっとしたくらいのものだった。俺たち家族の間に修復し難い亀裂が走ってしまったことを芽依菜は深く悲しむかもしれない、と予想していたからだ。場合によっては感情的に、和解を勧められるかも知れないとすら思っていた。だが芽依菜はそうしなかった。芽依菜は情に厚いところがある。情に熱い、と換言しても良いかもしれない。そんな芽依菜だからだからこそ、口を(つぐ)んだのかもしれない。俺がどういう思いで両親と暮らしてきたか。それを(かんが)みた上で、芽依菜は何も言わないという選択をとったのではないだろうか。

 その後俺たちは店を出て、少し駅前をぶらついた。互いに確固たる目的はなく、人混みを器用に避けながら、雑多な街に軒を連ねる店舗を冷かしてまわった。講師と生徒がデートまがいに散策をしているということに対して罪悪感はあったが、自分は今女の姿をしている自分なのであって、講師をしている自分とは別人であるという意識が少し気持ちを楽にしてくれていた。芽依菜の脅迫が効果的に作用していたとも言える。

 少し大きめのドラッグストアに立ち入った際、芽依菜に引っ張られる形で、俺たちはメイク用品のコーナーに足を進めた。

 年頃の女子の例に漏れず、芽依菜も最近化粧品に興味を持ち始めたらしい。今の芽依菜には化粧っ気がほとんどない。薄くリップを塗っているのかな? という程度だ。

「なんかいっぱいあって、どういうの買っていいのか全然わからなくて」

 恥ずかしそうに頭に手をやって芽依菜ははにかんだ。

「芽依菜にはまだ早いよ」

「子供扱いだ」

「いやそういうんじゃなくてさ」

 正直な話、芽依菜に化粧は必要ないと思う。言いかけて、やめた。

「わたしだってもう十六歳なんだからね」

 ずらりとメイク用品が並ぶ棚から一つ手に取って、くるくると瓶を回し見ながら芽依菜は言う。二メートルほど離れてマスカラのパッケージとにらめっこしていた俺は苦笑する。

「化粧の仕方、たいくんに教えて欲しいなーなんて」

「また今度な」

 適当にはぐらかした。

ヒールを履いた足がそろそろ辛い。帰ろうか、というつもりで芽依菜のほうを向く。

「それ……」

 芽依菜の手にある瓶が目についた。

「ん?」

 底面に張られたラベルを眺めていた芽依菜が顔を上げる。

「俺が使ってるやつだ」

 その言葉に芽依菜は目を輝かせた。ぱっと表情が明るくなる。

「これ? これがたいくんの使ってるやつ? わあ」

「長いこと愛用してる。結構長持ちするし」

 普通の女性に比べて化粧をする頻度が圧倒的に少ない俺にとって、化粧品の使用期限は重要だ。

「どれくらい?」

「さあ……数年くらい」

「おすすめ? おすすめ?」

 小瓶を掲げて忙しなく聞いてくる芽依菜の姿が微笑ましい。

「おすすめだけど、芽依菜にはおすすめしない」

 芽依菜の手から小瓶を取り上げて、棚に戻す。そのまま芽依菜の背後を通り過ぎる。

「帰ろう」

「えー……買おうと思ったのに」

「だめ。化粧は大学生になってから」

 男の俺が中学三年生のときに化粧を始めたことは、棚上げにしておく。

「……なんか今の、お姉さんっぽくてよかった」

 陶然(とうぜん)たる面持ちで芽依菜が俺を見たので、急に恥ずかしくなった。

「ほら、行くぞ」


 立川駅の西改札口で芽依菜を見送った後、俺は自宅に戻った。

 自室に入ってすぐに女の姿から男の姿へと変わる。夕方のニュースでも見ようかという気になって、階下の居間へと向かう。その途中で喉の渇きを覚えて、キッチンに立ち寄った。

 母がいた。流しに立って夕飯の準備をしている。とって返したくなる衝動を抑えて、冷蔵庫から麦茶を取り出す。

「おかえり」

 俺を返り見て母が言う。言葉は返さない。

 母の目は、何かに怯えているようだった。例の一件があって以来一年以上が経過しているというのに、母の俺を見る目はもうずっとこんな感じだ。それが息子を見る目かよ、と心の中で毒づく。そのままキッチンを抜けて居間のソファに座った。

 今日は母のいる日だったのか、とぼんやり思う。黒い枠に切り取られたニュース番組をカーステレオから聞こえてくるラジオのように聞き流して、俺は無為に時を過ごす。

 そうしているうちに父親が帰ってきて、夕食の時間となった。

 丸テーブルを三人で囲んで箸を持つ。いただきますも、合掌もない。機械のようにひたすら自分の分の焼き魚を口に運ぶだけだ。自分が親に対して不躾(ぶしつけ)な態度をとっていることは重々承知している。でも俺はこういう態度しかとれない。

 父が、俺をじっと見ている気がした。

 早々に夕食を食べ終えて、食器を流しに持っていく。そのまま居間に戻らず階段を昇って自室に入った。両親と同じ空間にできるだけ居ないようにするため、夕食は手早くとるようにしている。こんな習慣が身についてしまう境遇とも、あと少しでお別れだ。

 食事の途中、父は俺に何か言おうとしていたのかもしれない。そう思ったからこそ、それが実現しないようにそそくさと席を立った。なにを言われるにしたってどうせ、ろくなことではないだろう。どんな些細なことであっても俺はそれを聞く気になれなかった。

 ベッドに倒れ込む。今日あったできごとを反芻する。

 芽依菜と過ごした時間を、自分はどう感じていたのだろうか。

 楽しいと感じた、それは嘘じゃない。数年前のこととはいえ、想い人だった芽依菜と過ごしたひと時が、単純にやぶさかなるものだったとはとても言えない。しかしだからこそ、芽依菜が俺にとって好ましい人間であるからこそ、俺は彼女との時間に心地の悪いものを感じざるをえない。

 好意と劣等感は表裏一体だ。芽依菜みたいに優秀な人間に対しては特にそうだ。兄貴に感じた尊敬の念や、芽依菜に抱いた情愛は、彼らに及ぶべくもない俺を締め付け続ける。芽依菜の視線が追っていたのは兄貴だった。出来る人間は出来る人間を愛する。

 兄貴と芽依菜が仲睦(むつ)まじくしているのを見るたびに、死にたくなっていた昔の自分を思い出す。でも実際に死んだのは兄貴だった。

 気を引き締めねばなるまい。移住を機に新しい生活を始めなくてはならない。過去に起こった出来事にとらわれ過ぎている気がする。好意に比例して膨らむ劣等感とも、居心地の悪い家庭とも決別しなくては。芽依菜と仲良くしすぎないようにしなくては。今は所詮(しょせん)講師と生徒だ。一番の友達であったあの頃とは違うのだ。

 せめて塾で会ったときには、もう少し厳格な心持ちで芽依菜と接することにしよう。そう決めた。

 ベッドに寝転んだまま手を伸ばす。鏡台の下からバスケットを引っ張ってきてこちらに寄せた。上から望むようにその中身を見る。

 大小さまざまな形をした瓶、クリームのチューブ、パレット、面相筆(めんそうふで)、ビューラー……さながら宝石箱のようだ。これが今手元にないという状況を想像して、ぞっとした。逃避で始めた女装も、今ではすっかり自分を構成する要素の一つとなっている。俺にとって最上の趣味だ。

 リキッドファンデの小瓶を取り出して、身体の上に掲げる。ドラッグストアで芽依菜が(もてあそ)んでいたのと同じものだ。自分が試してきた化粧品のなかで一番の当たりだった。

 女装はほとんど休日にしかやらない。だから化粧品の減りは遅いほうだと思う。頻繁に買い足すこともない。引っ越し資金のためにいろいろ切り詰めている自分にとってそれは喜ばしいことなのだが、だからと言って開封した化粧品を何年にも渡って使い続けるということはできない。

 ものにもよるが、化粧品に厳密な消費期限はない。だが化粧品は経年によって劣化する。あまりに古い化粧品を使っていると、肌にも良くない。マスカラなんかは固まって使い物にならなくなったりもする。使用時に違和感を覚えるようになったら残量に関わらずその化粧品は買い替えるべきで、さらに言うならそうなる少し前に買い替えるのがベストだ。マスカラの買い替え時は俗に二ヶ月と言われる。リキッドファンデーションなら一年と少し、長くて二年くらいだろうか。保存状態にもかなり左右されるので、結局のところは『使用感で判断する』というところに落ち着く。

 この経年劣化にはよく泣かされてきた。まだ買っていくらも使っていない化粧品を断腸の思いで捨てたことは何度もある。倹約中の俺にとっては辛い瞬間だ。

 結構長いこと使っていても化粧ノリに違和感が出ない優秀なファンデーションを再びバスケットに戻す。肌にも財布にも優しいなんて、完璧だ。

 バスケットをもう一度眺めてから鏡台の下に戻す。そうして俺はバイトのための予習に手をつけるのだった。



 芽依菜と再会を果たしてちょうど一週間が経った。律儀にも芽依菜は授業開始の十五分前に塾にやってきた。講師たちのデスクがあるスペースで芽依菜を迎えて、そのまま共に個別指導室に入る。

 入口にほど近いブースで、一組の講師と生徒が数学の授業をしていた。俺と芽依菜の入室に顔を上げた講師と目が合ったので軽く会釈する。芽依菜もそれに(なら)った。

 先週この個別指導室は貸切状態だった。この数学の授業は俺と芽依菜の授業よりも一コマ前のものだろう。奥を見ればもう二組ほど個別指導を受けている生徒がいる。どちらも中学生だ。おそらくこの後永井塾長の英語講義を受けにいくのだろう。

 対して入口で指導を受けている生徒は高校生だった。倖月学園の校章が入った制服を着ている。その顔に見覚えがあった。個別を取っている高校生はこの塾じゃ珍しいのだ。

 担当講師がそうしたのに遅れて、数学の問題集を睨んでいた雨宮(あまみや)(あい)もこちらを見た。

「あっ、わたちゃん!」

 芽依菜の顔を見るなり雨宮は声を上げる。芽依菜はそれに応えて手を振った。

「本当に個別入ったんだ! 担当寿秋先生?」

「うん、先週から。同じ曜日だったんだー」

「知り合い?」

 わたちゃん、という呼び名は綿谷芽依菜の綿谷から来ているのだろう。

「一年の時からの友達です」

 学外で友人に会って心が弾んだのだろう。きゃいきゃいと少しかしましい雰囲気になる。気持ちは分からなくもない、が。

「綿谷、雨宮と飯田(いいだ)先生今授業中」

 思いのほか冷たい声が出た。自分でも少し焦ってしまうくらいに。

 (たしな)められて芽依菜は少し俯いてしまった。雨宮も飯田先生も意外なものを見たという風に俺を見つめている。空気を読めない発言だったかもしれない。ばつが悪くなった俺は、飯田先生に再び会釈してそそくさと離れたブースに向かう。

 どうにも意識してしまう。厳格に接するといっても、どういう線引きをすればいいのかいまいちよくわからない。先週は芽依菜と呼び捨てにしていた名も、人目があると呼ぶのを憚ってしまった。個別指導において生徒を呼び捨てにすることはままあることなのだが。やはりよく見知った相手が生徒だというのは難しい。

 芽依菜と並んで座る。さっきので萎縮してしまったのか、芽依菜の動作は妙にしおらしい。しょんぼりしながら現代文の参考書を用意している姿を見て、気の毒になってしまった。

「芽依菜」

 芽依菜の肩が跳ねた。

「あのまあ、さっきはああ言ったけど、別に授業外なら友達と何話そうと好きにしていいから」

 フォローするつもりが、全然上手くいかなかった。芽依菜は「はい」と頷いて、まだ授業時間になってもいないのに国立大の現代文過去問に目を通し始めてしまった。

 芽依菜は速読が得意なタイプだ。本を読む速度も並大抵のものじゃない。本当にそれ読めてるのかよという頻度でページを(めく)る。そして実際ちゃんと内容が頭に入っている。どういう頭の造りになっているのだろうか。

 一まとまりの問題群を順調に消化していく合間で、芽依菜は俺にいくつか質問をしてきた。おぼろげにしか知らない慣用句の厳密な意味、故事成語の由来、ある四字熟語にどんな類語が存在するかといったような質問が多かった。目の前の問題を解くために訊いているというより、知的好奇心を満たすために訊いているような印象を受けた。幼少期よりことわざ辞典や四字熟語辞典をぱらぱらと眺めるのが好きだった俺にとって、芽依菜の質問に答えることは快然たるものだった。

 上下左右に忙しく動いていた芽依菜の視線がふと止まった。担当生徒ファイルの記入をしていた俺は気になって、芽依菜の視線の先にある文章を見てみた。平易な口語体で書かれている文章で、特に難解な表現もない。芽依菜はそのあたりの何行かを繰り返して読んでいるようだった。

「どうした?」

 (いぶか)しく思って聞いてみたが、芽依菜はこちらをちらりとも見ない。

 少しの沈黙があって、芽依菜はぽつりと言った。

「質問してもいいですか?」

「そりゃもちろんいいけど」

 不自然な前置きに眉をひそめる俺を見、それから芽依菜は教室中を見回した。

 雨宮は数十分前、芽依菜に手を振って教室を出ていた。飯田先生や中学生たち、彼らの担当講師もすでに授業を終え、個別指導室からは去ってしまっている。ここにいるのは俺と芽依菜の二人だけだ。

「授業とは関係のないことでも?」

 どんな質問をされるんだろうか、という興味もあった。しかしなにより、先ほど芽依菜に辛く当たってしまった引け目があって、俺は芽依菜がその質問をすることを許可した。

「えと、怒らないでくださいね」

「なにを?」

「この前先生に教えてもらったファンデーションなんですけど」

 俺は目を丸くした。まさかここでそんな話がでてくるとは。確かに授業にはまったく関係がない。

「どれくらい長持ちするんですか?」

 芽依菜はなぜそんなことを知りたいのだろう。本当に購入を検討しているということなのか。戸惑いながらも、とりあえず俺は質問に答えることにした。

 あのリキッドファンデを初めて買ったのは確か高校一年生の半ばのころだったか。大体三年半前ということになる。そこからそれをしばらく使って、同じものを買い替えたはずだ。買い替えをしたのはいつごろか。えーと、確か――――

「……あれ?」

 記憶を探る俺の横顔を、隣に座った芽依菜がじっと見つめている。芽依菜は問いを言い換えた。

「前に、あのファンデを買い替えたのはいつですか?」

 買い替えた記憶がない。

 そんな馬鹿な話があるだろうか。もし仮に本当に買い替えてないとすれば、俺はあのリキッドファンデをもう三年半以上も使い続けているということになる。いくら長持ちするとはいえ、開封後三年半以上を経過したファンデーションの使用感に異常がないというのは、どう考えてもおかしい。

 軽く混乱する俺に芽依菜は言った。

「もう一つ質問させてください」

 まだあるのか。俺は頷いた。

「先生のお父さんはいつも、何時くらいにお風呂に入るんですか?」

 芽依菜の意図がいよいよわからない。俺の父親の入浴時間を知ってなんになるというのだ。いやそもそも、芽依菜は一体なにを目的としてこんな質問をしているのだろうか。

 俺の父親は規則正しい生活をする人間で、食事や入浴は大体決まった時刻に行う。入浴はだいたい夕食の前後にしているから、その時刻は十八時半から遅くて二十時の間といったところだろうか。

「夕方の六時半から八時ってところだけど、それがなにか……」

 言いかけて思い出した。そういえばその例に漏れる出来事もあった。例えば、俺が高校三年生から大学一年生だった頃だろうか。日付が変わる頃、風呂に入ろうとして脱衣所に向かうと、すでに誰かが入っていることがあった。それが父親だった。俺の家の脱衣所と洗面台は一体になっていて、内から簡易ロックがかかるようになっている。その鍵がかかっていたのだ。母親はその時家内の別の場所にいたので、必然中に入っているのは父親ということになる。

 いつも早い時間に入浴を済ませる父にしては珍しいと思ったのを覚えている。そんな出来事が数回あった。入浴の時間など気まぐれでいくらでも前後するものだろうと、特には気に留めていなかったのだが――

そのことを芽依菜に話す。

「それじゃあやっぱり……」

 そう呟いたきり、芽依菜はしばらく沈黙した。いや、ただ沈黙したのではない。芽依菜は腕を組んでいた。視線は参考書の上、中空を見つめている。

 ふっと、芽依菜が相好(そうごう)を崩した。腕組みも解かれる。そして真剣な表情になり、俺に向き直ってこう言った。

「せんせ――(ここ)じゃできないお話がしたいです」



 芽依菜の二回目の授業を受け持った日から二日後の夕刻、俺は自室で一人緊張していた。今日の夕食の場にて、両親と話をするつもりだったからだ。

 昨日金曜日、芽依菜は俺に一つの『推理』を話してくれた。その推理が俺に一大決心をさせたのである。させたのではあるが。

 ここまで凝り固まった家族関係の中でどういう風に話を切り出したらいいのか、俺は途方に暮れていた。何も言わずに、はいさようならと家を出てしまおうかとも思った。引っ越しの日はもう明日に迫っていた。したがって今日の夕食が、この家でとる最後の夕食となる。

 いつも通り口を開かず、淡々と食事を終えて部屋に上がり、一夜を越して家を出ていく。そうすることはどんなにか気楽なことだろう。だが芽依菜はきっと、俺がそういう選択をすることをひどく悲しむだろう。芽依菜が俺に推理を話したのは、そういう展開を望んでのことではないことを俺は分かっていた。分かっているのだ。俺には、芽依菜の推理が正しいのかどうか、それを確認する義務がある。

 重い足取りで階下に降りる。居間の丸テーブルにはすでに父親がいた。母親はキッチンとテーブルをせかせかと行き来して夕食の準備を進めている。二人はきっといつも通り、俺が黙って食事を終えて二階に上がると思っているだろう。俺は席についた。そして芽依菜の話を思い出す。俺一人では思いつきもしなかったであろう、寿秋家に起こった真実にまつわる推理である。



 (ここ)じゃできない話がしたい。

 真剣な芽依菜の様子に気圧される形で、俺と芽依菜は授業のあった木曜日の翌日に立川で密会する約束を交わした。講師と生徒の密会に相応しく、俺は変装をしていた。いや、それはいつも通りの単なる女装だったのだが。

 終業後に直接出てきたのか、芽依菜は制服だった。俺たちは先日にも訪れた南口のコーヒーショップで話をすることにした。

「たいくんは自分のお父さんとお母さんのことを誤解してる……かもしれない」

 お気に入りのメニューなのか、芽依菜の目の前には今日もハニーカフェオレがある。はちみつをストローでかき混ぜながら芽依菜はそう切り出した。

「どういうことだ?」

 俺があの両親について何を誤解しているというのだろう。

「たいくんのお父さんとお母さんはきっと、たいくんから女装を取り上げようなんてつもりはなかったんだよ」

 俺は目を丸くした。俺の話を聞いて、どうしてそういう結論になるのか。

「おかしいなあって思った点はいくつかあるんだけど、まず一つ」

 先日もそうしたように、芽依菜は人差し指を立てる。

「たいくんの部屋にお母さんが勝手に入ってたって話があったよね。化粧品捨てられそうだったって。その直後、どうして化粧品は揃った状態でバスケットの中にあったのかな」

「俺に見つかった母親が、やばい、と思って置いて行ったんだろ?」

「ビニール袋から出してバスケットに戻して行ったと……そんな暇あったの?」

もう一度記憶を掘り起こす。俺に怒鳴りつけられて飛び上がった母親は、急いで俺の横を通り抜けて部屋から出て行った。言われてみれば、その動作の最中には化粧品を置いていく余裕はなかったかもしれない。

「でも俺の記憶が曖昧なところもあるからなあ」

「それにしてもおかしいよ。だって本当に化粧品を捨てたいなら、それより前にとっくに捨てられてると思うの。それまでにも、部屋に入られた痕跡はあったんでしょ?」

消したはずの電気がついていた。化粧品の位置が微妙に変わっていた。そういうことは確かにあった。記憶違いではない。

「たいくんの居ないときに部屋に入ることに成功してるのに、化粧品とか女物の服とかはそのまま。捨てるチャンスはいくらでもあった。けどたいくんの部屋から無くなったものは一つだってない」

つまり、化粧品を捨てることが母親の目的ではなかったということだろうか――それにしても腑に落ちない点がある。

「母さんがビニール袋に入れたものを置いて行かなかったって言うなら、あのビニール袋に入ってたのは実はファンデじゃなかったのか? 俺の見間違い?」

そんなことはないはずだ。ゴミ袋としても使えるビニール袋のなかに、俺のお気に入りのファンデの瓶が見えたからこそ、俺は怒り狂ったのだ。

 芽依菜は首を振って俺の見間違いだという説を否定した。そして言う。

「たいくんが見たのは正真正銘、たいくんが持ってたファンデの瓶だよ」

「それじゃあなんで」

「ファンデの瓶は、二つあったの」

「え?」

 間抜けな声が出てしまった。

「要するに、こういうこと。たいくんが使っていたファンデはほんとに持ち去られてた。でも代わりに別のファンデがそこに置かれてたんだよ」

「俺が使っていたファンデはあの時にすり替わってたってことか?」

「そうだと思う。ファンデの使用年数の話からしても、それが妥当かなって」

 使用年数――俺はあのファンデを買い替えた記憶がない。三年半以上同じファンデを使い続けているのだと思っていた。だがあのファンデにはほとんど目立った劣化を感じない。思わず自分の頬に触れる。

「そのタイミングでたいくんのファンデが新しいものにすり替わっていたとすれば、今現在たいくんが使ってるファンデの使用年数はせいぜい一年半と少し。そんなに劣化を感じなくても不思議じゃないよね」

まあわたし化粧品のことはあまりよくわかりませんけど、と恨みがましく芽依菜が言う。たいくんが教えてくれないからね。そう言って意地悪っぽく舌を出す。

「でも待てよ。俺の使ってるファンデ、開封済みだったぞ。普通に使った跡もあった。少なくとも新品じゃなかった」

 化粧品が瓶にどれくらい残ってたかなんてあまり気にはしない。俺のリキッドファンデの瓶くらい小さいものだと、特にその変化には気がつきにくい。それでも使用品が新品と入れ替わっていれば、化粧をする機会が少ない俺でもさすがに気づくはずだ。

「新しいものではあるけど、すでにちょっと使われたものを置いていったんだろうね」

「誰が使ったってんだ? 母さんか?」

 母親は確かパウダーファンデを愛用していたはずだ。リキッドタイプのものを試してみたくなったということなのだろうか。

「半分正解」

「半分?」

「ファンデを使ったのは、たいくんのお母さんと……お父さん」

「はあ!?」

 あの父親がファンデを? 突拍子もない芽依菜の言葉に驚愕する。

「俺の父さんが何にファンデを使うって?」

「それは当然、お化粧に使ったんでしょ。お母さんに化粧してもらってたんじゃないかな」

 芽依菜は二本目の指を立てる。

「不審に思ったことその二。もっとうまくやってくれよ、って言い回し」

 話が飛んだように感じたが、俺は芽依菜の言いたいことをなんとなく察した。芽依菜が続ける。

「子育てをどうにか云々って話なら普通、『もっとうまくやれよ!』って言わない? 微妙な違いだけど、わたしはそこに違和感を感じたの」

 言われてみればそうだ。もっとうまくやってくれよの「やってくれよ」という表現には、懇願(こんがん)のニュアンスが含まれているのだと思っていた。だが教育において父親が母親に懇願するような表現を使うのは、少し不自然だ。教育に関してではないとすると、あの「〜してくれよ」という表現は何に由来するものだったのか。

 考えられるケースがもう一つ。父親は、母親に対してなにかしら受身の状態であったということだ。

「お父さんはお母さんになにかしてもらっていた。多分、お化粧してもらってたんじゃないかな。それならわざわざ新しくリキッドファンデを買ったことと辻褄が合う」

母親が持っていたビニール袋に、ドラッグストアの店名が入っていたことを思い出す。あれはおそらく、そのリキッドファンデを買ったときにドラッグストアでもらった袋だったのだ。

「その三。お風呂の時間のことね」

 芽依菜は薬指をまっすぐ立てる。

「いつも決まって早い時間にお風呂に入るお父さんが、深夜にお風呂場に行く理由。説明するまでもないかな」

風呂にまで入っていたかどうかは定かではない。だが脱衣所には洗面台もある。そこには歯磨き粉やら洗顔料なんかも置いてある。当然、クレンジングオイルも。

「……メイクを落とすためだったんだな」

 芽依菜が大きく頷く。芽依菜は三本の指を下ろした。推理はここまでということだろうか。いや、でもまだ最大の疑問が残っている。

「でも、そうだとしたらさ、なんで……なんで父さんはメイクなんか――」

 口に出してみると、その言葉はひどく白々しい。薄々とだが、俺は感づいていた。ただそれをどうにも、信じることができなかっただけだ。

「なんでだと思う?」

 そう言う芽依菜の言葉は、とても優しく響いた。

 気づきもしなかった。

 母さんが幾度か俺の部屋に入っていたのは、おそらく俺の好みをチェックするためだ。服やウィッグを見ていたかどうかは知らないが、化粧品は調査の対象だっただろう。だからこそ母親は、俺が使っているのと同じファンデを買ってきたのだ。父親とそれを試した後、俺がそれを引き継いで使えるように。一人暮らしをするために倹約をしていた俺の助けになればいいと思ってくれたのかもしれない。

 気づこうともしなかった。

 父親はきっと、俺を理解しようとしてくれたのだろう。息子のことを知ろうとしてくれたのだろう。自分の息子が夢中になっている女装ってのは、一体どんなものなんだろうか。自分でもちょっとやってみよう。自分が怒鳴り上げた息子の趣味を、少し体験してみよう。そうすれば、息子の心境が理解できるのかもしれない。そんな気持ちだったんじゃないだろうか。

 寝室で二人で大きな声をあげながら、ああでもないこうでもないと言って化粧をしていたのだ。まったく知識のない父を母が助けながら。あらやだお父さん全然似合わないわね、なんて笑ったりもしながら。

二人は自分たちの子に歩み寄ろうとしてくれていたのではないか。

 俺は、どうだっただろう。

 少しでも父と母に歩み寄ろうとしただろうか。いいや――

 ただ逃げていただけだった。どうせ俺は兄貴とは違うから、なんて見当違いも(はなは)だしい言い訳を振りかざして、ただひたすら自分の世界に埋没していただけだった。父と母が何事か言おうとしても、そこから立ち去ることで耳を塞いだ。

俺は何をしていたんだろう。俺は一体なにを拒絶しようとしていたのだろう。

あの堅物な父親が化粧をしてまで近づこうとしてくれていたことを、俺は気づきもしなかった。

 不器用すぎるよ。それだけは言わせて欲しい。もうちょっと分かりやすく伝えてくれれば――いや、伝えさせなかったのは俺のほうか。



 母の作ってくれたハンバーグを咀嚼(そしゃく)するが、まったく味が分からない。それくらい緊張していた。父親も母親も横目でテレビを見ているだけで、まったく喋らない。

 自分を奮い立たせねば。俺が二人から言葉を奪ったのだ。ならば俺から口を開くべきなのだ。俺が伝えなくてはならないのだ。言葉がまとまらない。声が声にならない。構うものか。今日が最後の晩餐(ばんさん)だ。内容なんて後からついてくるだろう。ここで話さずしていつ話せるって言うんだ――

「あのさ」

 二人の視線がこちらを向いた。双方目を丸くしている。

「今まで、ありがとう」

 情けないことに、本当に情けないことに、それしか言えなかった。昨晩からいろいろと考えていた言葉は一気に吹き飛んでしまった。テレビの音も、今は聞こえない。時が止まったようだった。止まった時の中で俺は目を伏せる。十九の男の言葉じゃない。わけわかんないよな、こんな言葉じゃ。

「なに言ってるんだ」

 静止した時の中、頭上から降ってきた声に顔を上げる。

 俺の父親は、こんなにでかかっただろうか。


「お前は俺たちの息子だろう」


 止まっていた時が動き出した。

 こちらを見もせずに、父親は茶を啜った。

 父親の右手に握られた塗り箸の先が微かに震えている。父は、それもすぐに握りつぶしてしまった。

「死ぬわけじゃなし、いつでも帰ってくればいいじゃないの」

 そう言ったのは母親だった。

 こんなに簡単なことだったのに。どうして俺は気づかなかったんだろう。

 ああ、そう言えばな、と前置きして父が言う。

「殴って悪かった。それをずっと、言わなきゃならんと思ってた」

 そうして父は箸を置いて、頭を下げた。深く、深く。

 そんなことあったような気がするね。全然気にしてないよ。なんて俺は(うそぶ)いて席を立った。

 俺は何を拒絶していたのだろう。

「それじゃ、明日の準備あるから」

 食器を片づけて、階段を昇った。あれ以上二人といたら、もう我慢できそうになかったからだ。自室に戻って俺は枕に顔を埋める。十九年も過ごした家がこんな匂いだったのだということを、俺は最後の日に初めて知った。


 次の日、二人は俺を家の前で見送ってくれた。荷物はすでに必要な分を立川に送ってあるので、存外身軽なものである。まだ完璧には移送が済んでいないので、もう何回かは荷物を取りに戻ってくる必要があるだろう。

 俺は女の格好をしていた。

「どう?」

 二人の前で気取ってくるりと回る。かなり恥ずかしかった。

 ううんと唸って母親が一言。

「チークが濃すぎなんじゃない?」

 母の言葉に、父が声をあげて笑った。


 三回目の授業で顔を合わせたとき、芽依菜はやけに心配そうな表情をしていた。どういう成り行きになったのか、とこちらを窺うようにしている割に、そのことに触れてこようとはしない。あまり立ち入ったことを聞くのも悪いと思っているのだろう。

「芽依菜」

「はい?」

「ありがとな」

 穏やかな声でそう言った。それだけで芽依菜は察してくれた。本当に鋭いやつだ。一気に芽依菜の表情が明るくなる。

 傍目にもわかるほどの上機嫌で、芽依菜は現代文の参考書を開く。先週芽依菜が見つめていた文章が視界に飛び込んでくる。

夏目(なつめ)漱石(そうせき)の妻である夏目鏡子(きょうこ)の口述を、鏡子の義理の息子である松岡(まつおか)(ゆずる)が記したものだ。書名は『漱石の思い出』。その一部が現代文の問題文として抜粋されている。

 芽依菜が集中して読み返していたのは確かこのあたり。


“長女が生まれましたのは、五月の末のことでありました。私が字がへただから、せめてこの子は少し字をじょうずにしてやりたいというので、夏目の意見に従いまして「筆」と命名いたしました。ところが皮肉なことに私以上の悪筆になってしまったのはお笑い草です。で、いまではそんな欲張った名はつけるものではない、そんな名をつけるからこんなに字がへたになったのだなどと、当人の筆子はこの話が出るたびにかえって私たちを恨んでいるのです。親の心子知らずか、子の心親知らずか、ともかくお笑い草には違いありません”


 『親の心子知らずか、子の心親知らずか』というところに蛍光色のペンでラインが引かれている。俺は苦笑するしかなかった。


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