04 - 公開処刑パーティ
そういえばね、ツッコミ損ねていたと思ったんですよ。
喉に包帯を巻いている侍女さん――名前はメリーさん――に着替えを手伝ってもらいながら、フツフツと湧きあがる怒りを必死で堪える。
おかしいなって、思うべきだったんだよね。
オルフェが選んだワンピースが、ぴったりわたしにハマった時点でさ。
「なんでオルフェも、ジャンさんも、わたしの服のサイズ知ってるわけ!?」
肩と胸のラインに出来た皺を手直ししていたメリーさんが、わたしの突然の発狂にびくっと手を引いた。目がこぼれおちそうなくらい大きく見開かれていて、余程びっくりしたんだろうとおもう。
「ごめんなさい、メリーさん。違うんです。ちょっと色々思うところがあっただけで。メリーさんが悪いわけじゃないんです」
メリーさんは笑って頷いてくれる。その笑顔がなんだか儚げで、わたしよりもはるかに華奢な身体も相まって、思わずぎゅーっとしたくなる。ウチの旅仲間に欲しいくらいだ。
「はああ……鬱だあ。なんでわたしが『こんな格好』……。あ、そんな顔しないでください。メリーさんのお仕事っぷりは完璧だと思いますよ。わたしには勿体ないくらいです。わたし、若葉マークなんですよ。いや、その前に免許を取れる年齢に達していないというか。五年待って欲しかったというか。えーっと、つまり……『こんな格好』するの初めてなんです」
『こんな格好』、とは。
フレデリクの置いていった、ジャンさんからの贈り物――ドレスに身を包んだ姿のこと。
そのドレスのシルエットは、まんま物語に出てくるお姫様ドレスのよう。
肩のラインと襟ぐりにたっぷりとドレープを使ってボリューミーな感じ。バストのところに大きな花飾り。スカートの部分には、花園を眺めているような華やかなレースが段をつくり、星屑をばらまいたみたいな小粒の宝石が散りばめられている。……これちょっと、乙女チックすぎませんかね。
サラサラしたシルクみたいな生地が肌に気持ちがいい。これは高級品だ、間違いない。
ホントにわたしが着ていいのかなあ。すっごい悪いことしてる気分なんだけど。わたし、小市民ですよ。現代日本出身、フッツーの女子高生ですよ。コスプレしてんじゃねーんだからさー。
引っかけて破いたり、食べ物こぼして汚したり、わたしのそそっかしさへの当てつけなのか? 泣くぞ?
このドレス着てるうちは気を張っていなきゃなあ。汚したくないし……。気分が鬱々してきた。
なぜわたしが、身分不相応なお姫様コスプレをさせられているかと申しますと。
話は昨日の夜、フレデリク(忍者)がわたしが監禁されている部屋にやってきたところに遡る。
伝言という名の一行メモを読み、わたしに事情を説明してくれたフレデリクは、帰ろうとしたところで、ジャンさんから贈り物があったと、このドレスを渡してくれたのだった。
なぜドレスが必要なのか。
オルフェにパーティ招待状が届いたからだ。主人がルイの協力者だということは周知の事実。さらに、届けたのがマルクさんなんだから、本当の差出人が誰かなんて、すぐに分かるだろう。
簡単に言えば、ルイがパーティ会場でオトシマエをつけよーと、知り合いに頼んでオルフェに果たし状を書いてもらった、ってこと。
決戦の場はパーティ会場だ。
「んで、おまえもきっとその場に呼ばれるだろ。『餌』なんだもんな。パーティってのは、正装ってのをしなくちゃいけねーんだ。正装くらいおまえにも分かるよな。パーティにふさわしい服装ってやつだ」
「分かるよ、分かるけど……」
「分かんなら、なんでんなイヤそーな顔してんだよ。変装だと思えばいーだろー。俺なんか、小間使いのまんまだぞ」
「もっと大人しいドレスなかったの? こんなの派手すぎるよ」
「そりゃー、『目印』だからな。トンズラする時におまえの位置わかんねーと困んだよ。乱闘になるかもしれねえし。目を離さないようにすっけどさ、絶対できっかどーかわかんねえし。っていうか、お前に似合うって! 絶対似合うから着とけ! な? 着とけって。お願いだから。お前のためにもなるし、俺のためにもなるんだ。頼むっ!」
こんな必死に頼まれたら、頷かざるを得ない。わたしがこのドレスを着てなかったら、フレデリクが組長オルフェ、参謀ジャンさんに怒られてしまうんだろう。舎弟って大変だな。
今朝、予定発表中のマルクさんに「ドレスならありますんで!」と言った時の、あの銀縁メガネの奥の目。あれは疑ってる目だったなあ。
もともとこっちに来る時に、大量の服を袋のまま持ってきていたから、ドレスぐらい紛れててもおかしくないでしょ、とか思ってたんだけど。……やっぱりおかしいかな?
知らんふりしてるだけで、バレてるのかもしれないけどね。ドレスを着ることは許してくれたから、フレデリクが怒られることはない。やったね。
ま。脱ぎたい心境ではありますけどね!
お姫様コスプレ精神的にキツイよ、親友。頑張ったから、脱いでいいかな、わたし。
「ヒールは高いし、スカートは長くて重いし。コケたくないー。汚したくないー。浮きたくないぜよー」
甘えるようにメリーさんに言うと、彼女は「頑張って」と言うように、ぎゅっと手を握ってくれた。
優しい頬笑みに、弱気になっていたわたしの気持ちがぐんぐん上昇する。
ちゃんと心遣いもできて、ドレスの着付けの仕事もできて、そしてかわいくて上品。なんて完璧な女性なんだろう。尊敬するなあ。
「お姉さまと呼ばせてください」
わたしがそう言うと、きょとん、としたあとに、くすくすと笑われた。冗談っぽいニュアンス、伝わったのかな?
「メリーさん、お姉さまっていうのはですねえ、心から溢れ出る尊敬と憧れのパッションを表現する言葉なんですよっ。つまり、わたしが言いたいのは、メリーさんに出会えてよかったなあ、っていうことなんです」
恥じらうように笑って、小さく頷いてくれるメリーさん。ぎゅっぎゅっとわたしの手を二度握る。同意してくれたのかな。「私もです」みたいな意味だったら、嬉しいなー、えへへ。
メリーさんは、喋ることができない。
先天的にそうだというわけではなさそうなのが、首に巻かれた包帯から伺える。
なぜ喋れない彼女をわたしにつけたのかって、わたしに余計な情報を漏らさないためだろう。
じゃあなぜそもそも彼女を雇っているのか。わたしみたいな監禁者の世話のため? そんなの、常時いるとは思えない。なにかバレたくない、後ろめたいことがあるんだと思う。
バレたくないことって、何? それってオルフェに関係していることかな?
「メリーさん。わたし、知りたいことがあるんです。あの……ルイ様がなぜオルフェ様を追っているか、なんですけど。知りませんか?」
メリーさんは困ったように笑って、小さく首を振った。
言えない、なのか、知らない、なのか。
くそー、お姉さま、妹に教えてくださいー。わたし、知りたいんです。オルフェたちのために、何か情報が欲しい。
「じゃあ……ルイ様がわたしを監禁してること、この屋敷のご主人様は知っているんですか? 知ってて、見逃しているんですか?」
この質問は実はすごくアブない。だってわたしは、ここがどこだか、誰の屋敷か分からない、ってことになっているから。
表向きは、わたし、昨日ルイとマルクさんにしか会ってない、ってことになってるんだもんね。フレデリクが忍び込んできたことなんて知らないはず。彼から入手した情報は、ホントは秘密にしなきゃいけない。
知られたら、マルクさんにきっと情報源やなぜそう思ったのか、根掘り葉掘り尋ねられるだろう。フレデリクの侵入もバレて、ルイ側の警戒度が高まる可能性もある。
でも、わたしはメリーさんなら大丈夫だって、思ってる。いい人だなって思ったから、彼女が好きだから――信じたい。
けど。メリーさんは、寂しそうに目を伏せただけだった。
……あ。
「ごめんなさい、無理に聞きたいわけじゃないんです」
お姉さまにそんな顔をさせるつもりじゃなかった。ごめんなさい。
わたしは監禁されてる『餌』にしか過ぎない。
そんなわたしに、ルイだってマルクさんだって話さないような「秘密」を教えてくれ、なんて、メリーさんに雇い主を裏切れって言ってるのと同じだ。
彼女がわたしに対してすごく誠実なのは、彼女の性格もあるだろうけど、雇い主に対する忠誠心が強いってことのあらわれなんだろう。
そんな真面目なメリーさんに対して、わたし、何考えてた?
仲良くなった、嬉しいな、ちょっと教えてくれないかな。
ルイ側の事情を知ることで、オルフェたちの役に立てたら。
……ばかだ。わたし何考えてんの。彼女の気持ちも考えないで。なんて独りよがりで自分勝手だったんだろう。自分がよけりゃいーの?
わたし、超イヤな奴だ。こんなんじゃオルフェの俺様のこと言えないじゃない。
「わたし、自分のことばかり考えていました。本当にごめんなさい。メリーさんは、わたしに教えてはいけないって言われているんですね」
わずかなためらいの後、ふるふる、とメリーさんが首を振った。あれっ?
「えっ? 教えてはいけないって命令されていたんじゃないんですか?」
また、ふるふるとメリーさんが首を振る。どういうことだ?
「『命令された』けど……『言われてない』ってこと、ですか?」
こくり、とメリーさんがやっと頷いてくれた。正解したものの、すごく矛盾しているんですけど……。これ、どういうこと?
待って。前後の文章が違うのか。
「主語が違うんだ! 誰かには命令されたけど、もうひとりには言われてない。メリーさんに命令する人が二人いるんですね。ルイ様とマルクさん?」
今度のメリーさんの反応は、こくり、と、ふるふる。ひとつは正解、もうひとつは不正解か……。
「もしかして、メリーさんを雇っているのは、ルイ様じゃない?」
メリーさんからの答えは、正解。
じゃあ、マルクさんかな。マルクさんが反旗を翻して私用の秘書を置いたとか!? と聞いたらこれは不正解。ありゃ、違うのか。
あー、でもマルクさんはそんな時間の無駄だとか思いそうか。ルイは裏切りを許さないだろうし、裏をかくのが難しそう。時間ぴっちりで仕事をしそうなマルクさんが、余計な仕事を増やすとすぐバレるだろうな。
ってことは、残るは。
「このお屋敷のご主人様……」
こくり、とメリーさん。
わたしに教えるなって『命令』したのはルイだよね。あの鬼畜美少年なら「その方が楽しい」とか言うもん。
彼女はルイの『命令』の及ぶ範囲だけを忠実に守っている。
それって、わたしを元気づけてくれるような、柔軟に物事を考えられるやさしいメリーさんにしては、すっごく変。
彼女が忠誠を誓っているのは、ルイじゃなくて、あくまでもこの屋敷のご主人様だけ、なんじゃないかな? つまり、ご主人様が不利な立場にならないように、自らルイの『命令』を守っていたってこと。こっちのほうが、メリーさんらしい。
そして、ギリギリのラインでわたしに教えてくれた……。ううう、なんて優しいんだ、メリーさん。
「ありがとう、メリーさ……」
「支度は終わりましたか?」
出たな、銀縁メガネ野郎。
マルクさんは、ノックもなしに部屋にずかずか入ってきて、わたしの正面に立った。メリーさんに抱きつこうとしていたわたしは、抱きつきキャンセルをしてファイティングポーズをとった。警戒心マックスだ。
メガネ野郎は何のリアクションもなく、上から下までわたしの姿を眺めた。それは例えるなら道具に不備がないか確認するときのよう。
ドレス姿でファイティングポーズ取ってることに不快感覚えるとかしてよ。わたし、マルクさんの中身がロボットでも驚かないかもしれない。
「パーティは始まっています。殿下の御登壇まで一時もありません。早くしなさい」
わたしの髪型が崩れているのと、アクセサリーをつけてないのを指摘し、メリーさんに指示を出す声は感情のない冷たい響きだ。なんなんだ、このメガネ。時間を気にするくらいなら、人間の機微とかにも気を配ろうとか思わないもんかね。
わたしはメリーさんが髪型をいじりやすいようにと、ドレスを踏まないよう細心の注意を払いながら椅子に腰かけた。
メリーさんがふわっと笑って櫛を使って整えてくれる。幸せ。フフフ。
「こちらに足を出しなさい」
「はっ!?」
幸せに浸っていたわたしの前に、マルクさんは片膝を立てて跪いた。
この状態で足を出せって、何。
ぎょっとして動けないでいると、時間を惜しんだのか、マルクさんの冷たい手がわたしの足首を掴んで引き寄せた。
ドレスに着替える前、湯浴みをする段階で、わたしの足を固定していた拘束具は取り外されていたから、素肌を掴まれたことになる。
「右足首内側の、ここ」
「ぎゃあ」
「擦れていますね」
マルクさんがつつつっと拘束具で擦れて赤くなっているところを指先でなぞった。セクハラじゃねえのかっ、と思うくらいにねっとりとなぞられて、ぞわぞわと鳥肌が立つ。
三往復。たっぷりなぞったあと、マルクさんはどこからともなく、足枷を取り出した。げっ、またかよ。
なぜか、わたしの足に出来た擦り傷にぴったり合致するようにわざわざ調節して嵌める。……擦り傷をもっと濃くしたいとか? え、マルクさんもドSだったりします?
足枷の鎖は、移動に合わせてか、歩幅制限させる枷同士を繋ぐ鎖のみになっている。
慣れないヒールを履かせる上に、鎖で両足拘束とか……わたしのことをどうしてもコケさせたいらしい。コケてもいいのかよ。知らねーぞ、恥かいても。まず恥かくのはわたしだけど。
「そして、こちらも」
「げっ」
えー、銀縁メガネのマジシャンが取り出しましたるは、鎖付き首輪でございます。
ああそうですか。足枷の次は首輪ですか。どんだけ拘束具が好きなんですか。ルイ言ってたもんなあ、首輪と迷ったって。どっちも採用するんですね。ハハハ。
「逃げないですよ、わたし」
「疑っていません。突発的な事故を防ぐためです。あなたも間違って切り捨てられたくはないでしょう?」
「切り捨て御免!? どこのサムライだ!?」
っていうかオルフェあぶねーっぽいんだが!?
「迎えに来たぞ」とか言ってオルフェがパーティに意気揚々と来たもののサムライの集団に囲まれて「オルフェ、危ないっ」ザクーッ「オルフェェェー!」……とかいう展開、わたしヤなんだけど!
ヤバい。マジでヤバいよ、こいつら。初対面で蹴ってきたオルフェのほうがマシかも。
首輪は革製のチョーカータイプ。緩くもなく、苦しくもないピッタリサイズに調整される。汗をかいたら絞まりますとかじゃないよね……大丈夫だよね?
首輪から伸びる小さめの鎖の先は、取っ手になるらしく、表面に布を巻かれた鎖が大きな輪をつくっていた。犬のリードかっつーの。
「メリー。つけなさい」
マルクさんがじゃらじゃらと鎖を持って離れて行った。
入れ代わりでわたしの傍にメリーさんが立ち、震える手でネックレスやイヤリングを取りつけてくれる。ホント、ないよね、この状況。せっかく綺麗にしてくれてるのに、彼女がどれだけわたしを飾ってくれても、この首の異様さだけはカモフラージュできない。
もはやドレスが似合ってないとかいう問題じゃない。わたしのドレスデビュー、変態お姫様のコスプレのようです! くそ、どうしてくれるんだ。泣きたい。
「着替えたね」
メリーさんの手を借りて、わたしが立ちあがったちょうどそのとき、天使のさえずりとともに、ひらりとマントを纏った美少年がドア口に現れた。鬼畜系俺様王子、ルイだ。
機嫌よさそうに微笑むルイは、彼自身が光源であるかのようにキラキラと輝いている。メリーさんなんて、頭を垂れて直視しようとしないもん。
美少年が自ら発光する性質がある、というわけではない。彼が着ているのが、この世界の人間じゃないわたしにもわかるくらいの、厳かな、そしてまばゆい格好だったからだ。
すっっごく高級な布で作った詰襟の学生服に、金糸、朱糸、白糸で細かな草花や天使の羽根の図が刺繍されている。三つ編みの金の飾り緒を左肩と左胸の二か所で留め、ひらがなの『ひ』みたいに垂らしているのが目をひく。フリンジ付きの肩飾りがマントの留め具も兼ねてるらしく、そこからマントが垂れている。マントは純白でなにか大きな図柄の刺繍が施されているようだ。王家の紋章だろうか。
それは、似合っているなんて言ったら失礼だ。似合っていて当然の――ルイのためだけに仕立てられた、最高級の芸術品。
『王家の正装』を目の前にして、改めて思う。ルイは王子だったんだな、って。ただの鬼畜王子じゃないんだなーって。
「ああ、いいね。首輪。君。似合ってる」
うっわー。嬉しくもなんともねえ褒め言葉ぁー。王家の教育方針に物申したい。
変態的お姫様コスプレとはいえ、ドレスアップしたレディーですよ。褒めるとこ『首輪』って。ないわ。変態お姫様なら喜ぶかもしれませんが、コスプレですからね、わたし。勘違いしないでもらいたい。わたしが変態なわけじゃねえっつーの。
「わたし、首輪じゃなくて、ドレスを着たつもりだったんでございます。ドレスは褒めて下さらないので?」
「なにそれ。無意味。無価値。服なんてただの飾りだ。装飾品もね。首輪は違う。実用的だから。拘束。束縛。無力化。素晴らしいよ」
「……ゆ、歪んでいらっしゃいますこと」
美しい王子の口が紡ぐ言葉が堂々と鬼畜すぎて、開いた口が塞がらぬ。ルイの服も似合ってますよーとか言おうかと思ったけどやめた。嬉しくないんだろうしっ。
王家の教育が問題とかじゃない、現在ルイが王子であること自体を問題にすべきだって、これ。
第一王子と第四王子が俺様なのは分かった。第二王子と第三王子も俺様なんだろうか。やっべえ、王になれる奴いなくない? クインス王国終わってない?
「行くよ。準備して」
「本当にこれで行くんですか」
「行く。僕を待たせないで。さっさと歩いて」
はいはい、分かってますよっ。だからその鎖をぐいぐい引っ張るな。首絞まるからっ。
メリーさんに「いってきます」と言って、小さく手を振ってもらってから部屋を出た。
ルイの後に続き、ガツッガツッとヒールを無作法承知で鳴らしながら歩く。速さ重視だから仕方がない。床を清掃する業者の方すみません。傷がついていたら、弁償はオルフェがします。
ルイはオルフェよりか背が近いから、ついて行けない早さじゃなかった。こんなこと言ったら、ルイ怒るだろうけどね。
廊下を歩いた先には大きな扉があった。立ち止まったルイの前に、恭しく、無表情のマルクさんがドアに手を掛けた。ついてきてたのか、音しなかったぞ。こわっ。
ギイ、と開いたそこは、パーティ会場――というわけではなく、天井が高く横に広い部屋だった。ソファや椅子が隅に並び、壁やテーブルに色とりどりの花々が活けられている。なんだろ、ここ。控室?
壁に半分埋め込められた、大きな柱時計を眺めていた大柄な男性が、つかつかとこちらに歩いてくる。見た目ゴツイ筋肉オヤジだ。
「ルイ王子殿下。本日はご尊顔拝しまして、我が身に余る光栄に存じます」
筋肉オヤジから飛び出すにはカタい言葉だ。がばっと大ぶりで礼をしたけど、粗野な印象はない。やりなれているって感じだ。
筋肉オヤジさんの顔をよくよく見れば、彫りが深く、ダンディーだ。口回りに整えられたヒゲが生えている。さっきのカタい言葉づかいも併せて、軍人ってイメージかもしれない。
でも、すっごく日焼けしてるんだよなー。海の街だし、海の男か? でもそしたらあの言葉づかいが説明できない。
いったい誰なんだろう?
「改めて心よりの忠誠を」
「好きにせよ」
ルイは尊大に言い放ち、純白のマントの裾を筋肉オヤジに差しだした。オヤジさんは跪いてそこに口づける。謎の儀式である。忠誠を誓う、ってヤツ?
「デーメル卿。オルフェ兄上は来た?」
「はっ、まだお見えになりません」
「ふーん。来てないのに話し掛けたのか。いい度胸だね、無能が」
ルイはその美しい顔を歪めて苛立たしげに呟いた。ぐいっと強くリードを引っ張られ、首が変な方向に曲がってしまう。
ちょいちょい、オルフェが遅いからって、わたしに当たらないで欲しいんですけど。怒った『俺様王子』なる人種がヤバいのは百も承知なので、口には出さない。
「もういい。君はそこで番犬でもしていて」
「はっ」
ルイに引っ張られるようにして歩きだす。筋肉オヤジ――デーメル卿の前を通りすぎるとき、会釈とともにちらっと目をやると、彼もこちらを見ていたらしくて、ぱっと目が合った。ぐっと眉を寄せて難しい顔をし、すぐに目を逸らされてしまったけれど。
なに?
わたしの格好の変態姫っぷりに衝撃を受けたわけじゃないだろう。引くなら、わたしが目に入った時点で引いているだろう。ルイの傍に立っていたわたしが目に入らないはずない。彼はなにも驚いていなかった。
まるで『知っていた』みたいに。
「ルイ様……、あの、さっきの方は」
直っすぐに伸びる長い廊下を競歩しつつ、ルイに尋ねると、ここの持ち主、と短い返答があった。へー、あの人がメリーさんのご主人様なんだ、イメージと違ったなあ。
「……どうしてそんなことを聞くの?」
「あ、いえ……気になっただけです」
「ふーん」
ぴたり、と立ち止まり、ルイがわたしを振りかえり、不機嫌そうなアメジストの瞳がわたしを映した。ヤバ、そんなにデーメル卿に関心持つの、不自然だったかな?
不審そうに観察され、縮こまって顔を伏せる。き、気になっただけじゃん。アヤシクナイヨー。メリーさんから話なんて聞いてないよー。
「早く開けなさい。どなたか分からないわけではないでしょう」
「は、はっ」
「た、大変御無礼を。お許し下さいっ」
マルクさんが、大扉を挟んで立つ二人一組の警備用私兵に声を掛けた。銀縁メガネの冷たい視線に晒されて、筋肉自慢っぽい男どもが冷や汗をダラダラ流して無礼を詫びた。力関係がハッキリしてるなあ。いやあの冷たい目が怖かったのかもしれないけど。
兵士たちは、ルイを直視しないように顔を伏せ、重厚な扉をぐぐっと力を込めて引いた。
ガコン……と鈍い音がして、扉が開く。かなり明るいらしく、さっと視界が白く染まった。
ゴクリ、と思わず喉が鳴る。
まず初めに目に入ったのは、階段の手すり。驚きの新事実。ここは二階だったらしい。それとも地下ぶち抜きでホールを作ったんだろうか。
天井からシャンデリアと花飾りがぶら下がっている。宝石やレース、刺繍なんかで植物や羽根が表現されたものが壁に垂れ幕の要領で取り付けられている。パターン化しているものだったり、ワンポイントのものだったり。うーむ、国旗なのか家紋なのか、それともただの絵画の代わりなのかはわたしにはよくわからない。
飼い犬の散歩のごとく、リードを引っ張られて一歩踏み出して、ふかっと柔らかいなにかに足を取られた。コケそうになったが耐える。あぶねえ、床も違うんだ。見れば、入り口から階段下まで紺の長いカーペットが続いていた。
どこからともなく湧いて出た黒子……じゃなくて使用人さんたちが、階段の上から下までざざっと列になって頭を垂れた。教育が行き届いている。
階段の下は、だだっ広いホールのようになっていた。ダンスはしないのか、中央から放射線上に丸テーブルが置いてあって、大勢の紳士淑女が思い思いに散らばり御歓談召されていた。
立食パーティってやつなのか、テーブルには料理がどーんと載っている。
さすが海の街、巨大な魚の姿焼き。湯気を放つほかほかスープにはきっと魚のつみれが入ってる。さっと表面を炙った刺身の握りっぽいもの。イカスミパスタ。タコのマリネ。パエリア。エビシューマイにエビチリ。……すっげえ、日本のバイキングよりごっちゃごちゃ。これでもかっ、と言うくらいのパンチのあるにおいが漂ってくる。おいしそう。おれを食べろとあいつらが言っている。
ぐうっとお腹が鳴った。朝もパンみたいなのしか食べてないからなあ。
「……第四王子殿下」
誰かがぽつりとつぶやいた声が響いた。いつのまにか、会場がしんと静まりかえっていたのだ。あぶね、もっと早く静まってたらわたしの腹の音も響いてたよ。
会場の紳士淑女たちは、突然のルイの登場に言葉を失っていたのだ。……そうか、彼らは今からここで何が行われるか知らないんだ。いや、中には数人驚いていないやつもいるのかもしれないけど、数が多すぎるのと遠いのとでリアクションの違いを一人一人観察するなんて無理だった。
もとからルイの顔を知っている人たちはどのくらいいたのだろうか。話し声が止むまでに時間が掛かったから、そんなに多くなかったのかもしれない。でも、こんなキラキラしい美少年、ほかにいないだろう。一目でわかる。
白いマントをひらひらさせながら、ルイは静かなホールのなかを歩いて行く。マントをしている人間は他にもいたけれど、白はルイだけだ。……王家の証なのかもしれない。
もちろん、ルイにリードを引っ張られているわたしも、彼らの前を歩かなきゃいけないわけで。ものすごい量の視線がわたしにグサグサとつきささる。ぐあああ、見世物です。公開処刑です。
キラキラ王子の後ろに、首輪をつけたお姫様コスプレの女がいるんだもん、そら見ますよ。ええ、ええ、わかります。変態ですよね。わたしの趣味じゃありません。
いくら世界が違うっつったって、これがフツーなわけじゃなくてよかった。自分が実験台になって確かめたくなかったけどなっ。
「君はこっちね」
おいしそうな料理がずらり並ぶテーブル群を抜けて、ホールの奥にあるステージにルイとともに登壇した。
ステージ上にはルイのために用意されたらしいゴテゴテした椅子があって、わたしはその傍に敷いてあったシートの上に座らされた。うわああ、なにこれ。わたし椅子も用意されないの!?
「ちょ、ルイ様、わたしここですか?」
「そうだよ。お似合いだね。首輪をつけて逃げられない。まるでペットだ」
「え、っちょ、わたしルイ様のペットじゃないですよ!? 人間扱いしてください」
「面白くない。却下」
「……ええ……。じゃ、じゃあ、ペットならペットでいいですが。餌をくださいませんかっ、マトモな餌を要求します、ペットの権利としてっ」
「なにそれ。無益。君。餌要らないんじゃなかったの? 毎食残しているの知らないとでも」
「うっ、だ、だって」
「というか、君が『餌』だよね。餌が餌を食べるなんて。共食いだね?」
誰がうまいこと言えと……。
違うんだよーっ、お腹空いたんだよおお。夜も朝も昼もハンガーストライキしてごめんてば。だってマトモな食事かどうか分からなかったんだもんっ。最初に飲み物に変な薬混ぜたのそっちだろ! そりゃ警戒するだろうがっ。
ルイは食べものを取りに行くのも、黒子(使用人)さんに頼んで取って来てもらうのも許可してくれなかった。わたしをゆるやかに殺す気かっ。
食べ物も食べられず、ルイと話をする気にもなれなかったわたしは、ホールの中を観察するくらいしかすることがない。
ステージ上からはホールの中が一望できた。
やっぱりわたしが来たところは二階みたいだった。階段下にも少し小さめの両開きの扉があって、そこから一般客たちが出入りしている。
ルイは椅子に身体を預けきり、だるそうに足をぷらぷらさせて、一般客用の入り口をじーっと見つめていた。
その思い詰めた表情はこの世の無情さを嘆く美少年そのもの……なんだけど、たぶん実際に思ってることは、「早く来い無能」とかそういうことなんだろう。
ぐっ、思い出したみたいにリード引っ張って遊ばないでよ、ルイ。暇つぶしの道具としてわたしを使うな! オルフェ、来るなら早く来いよ! このままじゃわたしうっかり絞殺されるっ。
「あれ?」
ふと、一般客用扉のすぐ隣に小さな扉があるのに気づいた。使っているのは黒子――使用人だけだ。使用人専用の出入り口ってことなのかな。思った以上に、上下関係きっちりしてるんだ。上の一番大きな扉からはルイが、大きめの扉は客が、小さな扉を使用人だけが使っている、と。
その頻繁に開け閉めされる小さな扉の近くに、見覚えのあるイヌ耳を見つける。動物の耳を持った人は紳士淑女たちのなかにも、使用人のなかにも大勢いたけれど、あの耳の形。わたしが知ってるイヌ耳だ。
ちらりと振り返ったそのイヌ耳黒子とばっちり目が合った。ニヤリ、と小さく生意気に口の端で笑われる。
「あ……!」
フレデリクだ!
潜入? 潜入なのか? 忍者すごい。黒子にまで忍びこめるのか。やべえカッコイイな! 忍者かっこいい。
「何だ?」
怪訝そうにルイに尋ねられた。ヤバッ、バレる。なにか言わなきゃ、と口を開いたときだった。
ざわり、とにわかに一般入り口付近が騒がしくなった。ルイが来た時とはまるで違う。さざめきのように、じわじわと囁き声が話し声に、話し声が驚きの声に、驚きの声が罵倒の声に変化する。
「殿下……?」
「元王太子殿下だ!」
「なぜ、ここに!?」
――オルフェ!
ホントに来ちゃった。ホントに迎えに来てくれたんだ。
屈強な兵士たちが駆けつけて、オルフェらしき人影と、紳士淑女たちとの間に入りこんで騒ぎを鎮めようとしている。じっとことの成り行きを見守っている人たちもいれば、一目散に逃げ出す人もいて、会場はすっかり混乱しきっていた。うう、オルフェの姿が見えないよ。そこにいるんだよね?
来るなら来いって、思ってたけど、こうやって本当に来られちゃうと、すごくドキドキする。すっごくルイの思い通りになりそうな、敵がいっぱいいるところに、なんで来ちゃったんだよ。
ばかなんじゃないの。面倒くさがって、寝袋の中にでも入ってろよ。
でも、オルフェはひとりじゃないんだ。フレデリクがいるんだもんね。こっそり警護してくれるはず。だからそんなに大事には至らないはず。
……大丈夫、だよね?
「……やっと来たっ」
ルイが静かに立ちあがった。わたしのリードを椅子に引っかけ、ステージから降りていく。
え、いーんすか、わたし動けちゃうけど……。今動いたらさすがにバレバレだから、タイミングを見計らうだけにするけども。
ルイが動きだしたことによって、会場はだんだんと緊張感を孕んでいく。ざざざっとルイの前に道が出来た。なんだっけこれ、モーゼの海割り? みたいな感じだ。
しだいに見えてくるオルフェの姿。
はじめに見えたのは、もちろんキラキラと光る金の髪。
遠目だから、表情まではよくわからないけれど、堂々とした立ち方はまさしく俺様王子のそれ。
ルイの服と少しデザインの違う儀礼服と白いマントを身につけている。
たった丸一日姿を見ていないだけなのに、なんだか知らない人を見ているみたいな変な感じがした……。
「兄上、久しぶりっ!」
オルフェよりもずいぶん前で、ルイが立ち止まった。向かいあう二人の王子の姿を、会場じゅうが身動ぎもせずに見守っている。
「……? なんで何も言わないの。ねえねえ、どうして来たの? あの女に何も教えていないんだってね。大事なの? あはは。無意味。無価値だ。無能なのに。おかしいの。兄上らしくないね。ねえ。聞いて。僕ねえ、ペットっていいなーって思ったよ。ねえねえ、兄上もそうなの?」
なんだかすごいことを言っている。うーむ、その誤解、いつまで続くんですかねぇ……。
ルイが楽しそうに話すのを、オルフェは何も言わず見つめているだけだった。
なんか、変だな?
俺様の時間を潰してまで呼ぶなんてとかなんとか、いつもみたいな尊大な口調で言ってもよさそうなのに。どうしちゃったんだろう、オルフェ。
「……チカ」
背後からそっと声を掛けられ、びくーっとした。
え? なんでこの声が後ろから……?
「振り向くな。喋るな。あれに気づかれぬよう、ゆっくりと後ろに下がれ」
おいおい、ルイのことあれ呼ばわりって。
ツッコミ所はあるが、その完璧な命令口調に反抗できない。する気はないけど。
ずりずり、ずりずり。鎖を鳴らさないようゆっくりゆっくりと後退する。あー、ドレスが汚れますわー、これは汚れますわー。うう、職人さんごめんよ。変態コスプレ化してしまった上にまともに着る前に汚れちゃってごめん。
たった数歩ぶんの距離を、ひどく時間を掛けて進み。
「よし」
やっと、背中が何か温かいものに触れた。
すぐ傍で囁いてくるその声は、やっぱり、俺様なあいつの声だった。
「よくやった。顔を見せろ」
くぅ! この命令セリフですよ! なっつかしー! わっしょい! 腹立つけど、嬉しい!
どきどきする胸を押さえ、ちらっと後ろを向いた。
そこには――寝袋野郎がいた。
……寝袋?
なぜ寝袋っ!?
もちろん中身は俺様王子・オルフェだ。オルフェなんだけども。でも寝袋野郎なんだよ。
寝袋野郎は、見目麗しい顔だけを出し、ステージ奥のカーテン? 垂れ幕? の裏に、ごろりと転がっていた。例えるなら木から落ちたまんまの蓑虫状態。すっごく格好悪い。
ルイと偽オルフェが対峙した緊張感のある会場で、ここだけなんか、めちゃくちゃだっせぇ。
なんだこの状況。
なんだろう、この残念な気分。
オルフェに会えた嬉しさ、あったような気がしたんだけど……気のせいだったかな。一気に霧散していって、もうわたしの中に残ってない。
「なんで寝袋なんですかっ」
「幕布と同化する必要があってな。『変装』だ」
「もう変装じゃないですよね、そのままオルフェ様ですよ」
「ばか言え、ギリギリまで顔も袋の中に入れていた」
「意味わかんないですよおおお」
こそこそっと会話し、返ってきた答えに、がっくりと脱力。
ああ、でもなんか……。
「チカ? どうした」
「うう」
「まだあれに気づかれたくないのだ、耐えろ。泣くな」
「だって……だってぇ」
睨まないでよ、この寝袋蓑虫野郎がっ。
ホッとして涙腺緩んだだけじゃない。……なんで寝袋野郎のムカつく顔なんか見て、ホッとするのか自分でもよくわかんないけどさ。
「おまえッ、誰だ!?」
あ、ヤバッ、バレた!?
振り返ってホールの中央を見ると、ルイが偽オルフェに掴みかかったところだった。
「おや、ばれてしまいましたね。お久しぶりでございます。第四王子殿下」
「おまえ……兄上の近衛!」
「いえいえ。今は単なる『元』騎士にすぎません。第四王子殿下におかれましては御機嫌麗しく……いらっしゃらないようですね?」
飄々とした雰囲気の偽オルフェ――もちろん、中身はジャンさんだ。その髪型どうしたんですか、カツラですか? 変装に命掛け過ぎでしょ。
ルイに完全にケンカ売ってるし!
「――このッ、無能がッ! 無能があッ! ああああ! あああああ!」
ルイはヒステリックに頭を振り乱して叫んでいる。マルクさんがルイとジャンさんの間に入り、ルイを抱き込むようにして抑えこんだ。暴れる腕が銀縁メガネに当たり、メガネがどこかへ飛んでいったけれど、マルクさんは動じず、ルイが『王子』に戻るまでぐっと耐えていた。
ど、どーしちゃったの、ルイ……。
「……殿下」
「客を外に出せ。そいつを捕えろ」
「はっ」
やっと落ち着いたのか、ルイがマルクさんから離れ、命令を出した。ルイの天使の声が、しゃがれてガラガラになってしまっていた。余程喉を酷使したんだろう。
マルクさんが兵士に命令を伝え、会場にはざわめきが起きたが、反抗する人はいないみたいだ。
「……今のうちだな」
寝袋野郎が垂れ幕の裏に隠れて脱皮し、キラキライケメンオーラを放つ『王子』になる。慣れた手つきで寝袋を脱ぐ王子って一体なんだろうな……。
オルフェはどこからか刃渡りの長いナイフを取り出し、わたしの首輪をザクリと切り落とした。なにそのナイフこっええ!
こわすぎて、肌に傷がついてないか思わず手を当てて調べてしまった。睨まれた。疑ってごめん。
時間もかからずに人払いが済んだ。会場がルイとジャンさん、マルクさん、兵士たち、使用人たち、そしてわたしとオルフェだけになる。
ジャンさんは兵士に囲まれているのに、変わらずニコニコ笑っている。余裕そう。えっと……ジャンさんって、強いの? 頭いいイメージはあるけど、力が強いイメージはない。ひょろっちくてすごく弱そうだし。
「ねえオルフェ様、ジャンさんが……」
「チカ。俺様の腕の中にいろ。けして目を開けるな。けして何も見るな」
ぐっと腕の中に抱き寄せられて、胸に顔を押しつけられる。ちょ、窒息するって。
そのまま歩きだすオルフェ。ま、待ってよ。わたし、足っ、足にまだ足枷がっ。
「兄上!」
ルイのしゃがれた声が叫んだ。バレたんだ。ど、どうするんだろう。何も見えない。こわい。暗闇のなか、ドクドクとオルフェの心臓が脈打っている音が聞こえる。
「捕えろ!」
オルフェはわたしをすっかり抱えあげたみたいだった。片手で持ちあげるとか、力ありすぎ!
上下に揺さぶられたあと、ふっと一瞬宙に浮く。ちっちゃいフリーフォールみたいな感覚。それが何回も連続してわたしに襲い掛かる。もう何がなんだかわからない。気持ち悪い。こわい。
ぎゅっと目をつぶった。
もともとオルフェに押さえつけられて何にも見えなかったけど、自分の意思で目を閉じたら、強制されて見えない、って状況を忘れられる気がしたんだ。恐怖がいくらか薄らぐような気がしたんだ。……気休めでしかないんだけど。
「――くっ」
ガチャガチャガチャッとモノが倒れて割れる音。軽い衝撃。
ひゅっ、と風を切る音。オルフェが身体をひねったのがわかる。
じゅっと何かが弾けて、ほとばしる音。――そして、びちゃびちゃっと液体の落ちる音。
想像したくないけど、この状況下で想像するなっていうほうが無理ってなもんで。
きっと……、誰かが斬られた。
誰? オルフェは無事なの?
「オルフェ……、無事?」
「ああ」
……そっか、よかったあ。乱闘は終わったのか、オルフェはもう動かないし、他にも音が聞こえない。そろそろ下ろしてもらいたいなあ。なんだか足が宙ぶらりんで頼りないし。
「君。また白か」
「はっ!? ぎゃあああっ!?」
足がすーすーすると思ったら、ドレスのスカートがめくれた状態だったらしい。なんたる不覚ッ! またルイにパンツ見られてたあああ! この怒り、どうしてくれよう。
手足をじたばたさせたわたしを、オルフェは例の麗しいため息をついて床に下ろしてくれた。
ささっとスカートを直したがもう遅い。もうとっくにパンツ大公開してたし、ルイが色までバラしちゃったし。
「また?」
「あはっ? 兄上、気になる?」
「ルイ様に初めて会ったときに、わたしがコケただけですよ。オルフェ様」
「なんで言うのさ。楽しかったのに。つまんない」
「ルイ様が変なこと言うからでしょーがっ! セクハラでしょ!」
オルフェは呆れた目をして、「コケるなら、下がっていろ」と言ってわたしを背に押しやった。ジャンさんとフレデリクがわたしを挟むように立ってくれる。ジャンさんは満面の笑顔、フレデリクは同情の眼差しを向けてくる。うっ、どっちも心に痛い。
周囲には、料理が散乱する床に、兵士と使用人が無力化さればたばたと倒れ伏している。うわ、ジャンさんとフレデリクとオルフェだけでこれこんなになったの? 魔法?
血を流している人間は兵士のなかにも使用人のなかにもいなくて、ほっとする。びちゃっと音がしたのは、もしかしたらスープが床に零れた音だったのかも。ああでも……また料理食べれなかった……。
スープもったいないな、と眺めて。そしてまたドキリとした。
スープ液に、じわりと赤が混じっている。
ぽたりぽたりと落ちた血の跡は、ルイのところまで続いていた。でも、彼のあの見事な儀礼服は一切汚れていない。
マルクさんだ。マルクさんがルイの前に立ち、主人をその背にかばっていた。その左腕から、血が滴っている。いつもの無表情だったから、そんなに深い傷ではないのかな。
「兄上。『それ』を逃がす代わりに、兄上が捕まってよ」
「断る。『これ』は俺様の一部だ。俺様が逃げるなら、『これ』も逃げる。分かりやすいだろう?」
『それ』だの『これ』だの、わたしのことですかねえ!? 一部ってなんですか!?
俺様王子の言うことは違うぜ。
「そうなんだ……。残念。もっと傷つけておけばよかった。そしたら、兄上にも傷をつけられたってことだもんね。それって楽しいね。僕、飼いたいなあ、兄上の一部。ちょうだい?」
「やめておけ、食費が嵩むぞ」
「そうなの? 僕の手からは食べてくれなかったのにね。お腹空いてなかったのかな? 旅ってお腹空くんだろうね」
おい、なんだこの会話。
やめさせて欲しくてジャンさんとフレデリクを見上げるけど、二人は真剣な顔をして、戦闘用の構えを解いていない。少しでも違和感があったら、即動けるんだろう。
わたしにとってはすごく間抜けな会話なんだけど……、そうか、ルイってオルフェの『敵』なんだよね。
オルフェが逃げて、それをルイが追いかけてきて。オルフェは捕まるわけにはいかなくて、だから、『敵』。
「ねえ兄上。逃げてどうするの?」
「王都に戻る」
「僕に捕まったらすぐ戻れるよ?」
「それは俺様に対する侮辱か? それとも、言葉の意味が分からん馬鹿なのか?」
「僕は馬鹿じゃないっ! 僕は王になるんだ」
ピリリ、と空気が緊張するのが分かった。ルイが苛々しているんだ。マルクさんが何か言いたげにしていたけれど、ルイの話に口を挟むことはなかった。
「僕の手で兄上を捕まえて、僕が王になる。大体、おかしかったんだよ。僕が王になれないなんて。兄上しか王になれないなんて、おかしいよ。僕の方が有能だし。違うのは母上が正妃だってことと、年齢だけだもん。年齢は時が経ったら同じになるし、正妃って有能ってことだよね?」
えーっと。たしか、オルフェは第一王子で王太子だけど、ルイは第四王子で正妃が初めて産んだ子だった。
論点としては、『年長者』が継ぐのか、『より高貴な者』が継ぐのか、ってことなんだろうか。クインス王国の慣例では年長者ということになっていたはずだけど……、ルイはそれが気にくわないんだ。
っていうか、なんで『オルフェを捕まえた者が王になります』とかそういうことになってるわけ? ちょっとイカれてない? ルイが勝手に言ってることなんだよね? そうであってほしい。
『オルフェ捕獲選手権、商品は王の座です』みたいなこと、国挙げてやってたらマジでどーにかしてるとしか思えない。「王太子が継げない時のこと考えてませんでした」とかそういうことじゃないよね……まさかね。
「お前は何も見えていないな」
オルフェは小さくため息をついた。国を憂う美貌の王子そのものだ。顔はいいんだよな、顔は。
「お前のような馬鹿に王の座を譲る気はない。お前ばかりじゃない。ユリアムにも、テオにもだ」
「あんな奴ら! 僕と比べないで! 僕の価値が落ちるっ。僕はあんな無能とは違う。絶対王になれる。王になって、兄上を裁くよ。そうだ。兄上は罪を犯したんだし、僕に裁かれなきゃいけないんだよ! ねえ、一緒に王都に行こうよ。ねえ」
「……俺様は無罪になりたいから逃げているわけではない。諸悪の根源を叩くつもりなのだ。俺様の邪魔をするような人間は排除しなければならない」
へー、ただダラダラ逃げてるだけじゃなかったんだ。王の座についたときの環境整備、ってことなのかな。王になってから楽したいだけじゃないよね? あり得る。
「ああ! 僕の母上を殺したのは、兄上の邪魔をしたからなんだね!」
ちょっと待て。なんだって?
危うく聞き逃すところだった。ルイの母親ってことは、正妃殺しってこと!? なんでオルフェがそんなことするわけ!? する理由がないよ。なんでそうなっちゃうの?
「僕には、嘘つかないでよ、兄上。僕は恨んでいない。今の僕があるのは兄上のおかげ。僕は今の僕がすべてだ。兄上に感謝さえしているんだよ。さっき、兄上は罪を否定しなかった。僕の母上を殺して『くれた』のは、兄上なんだよね。ねえ、本当のことを教えて」
「もう話すことはない。感謝をしているというのなら、今回は見逃せ」
ルイは泣きそうな顔で必死に言うけれど、オルフェは取り合わない。
『くれた』……って、どういうことなんだろう。
「嫌だ! 嫌だっ! 僕に命令するな! 僕が決めたことに、口出ししないで! 僕は頑張ってるじゃないか――僕は有能じゃないか! どうして、逃げるなら、『それ』を置いてってよ。なにそれ。なにそれ。なにそれ。ねえ、なんで兄上? 僕を――僕が、が、が」
小間切れに、狂ったように泣き喚く主人を、とうとうマルクさんが押さえこんだ。左腕が血で汚れているから、ギリギリまで堪えていたみたいだったけど、ルイのために覚悟を決めたのだろう。
「……行くぞ」
オルフェは、もう何も言わなかった。わたしとジャンさん、フレデリクを連れ、その場を後にした。
ルイは追いかけてこなかった。